もう一度、この愛に気づいてくれるなら
その夜、エレーヌはすべてをゲルハルトに明け渡した。

エレーヌは愛おしみのこもる目でゲルハルトを見つめてきた。その目には涙が浮かんでいた。ゲルハルトと同じ思いを抱いているに違いなかった。

ゲルハルトはエレーヌの身も心も手に入れたと信じて疑わなかった。

しかし、しばらくののち、エレーヌの心はゲルハルトの腕からすり抜けていた。

エレーヌの寝室を訪ねると、エレーヌは大粒の涙を目からこぼしてゲルハルトを見つめてきた。

(初夜に戻ったみたいだ)

ゲルハルトは愕然とその涙を見つめた。

その午後、太后カトリーナの訪問があったと知って、カトリーナにもディミーにもハンナにも話を聞いたが、カトリーナはひどいことを言ったわけでも何かしたわけでもなかった。

(エレーヌ、どうしてだ。胸に抱きしめても、あなたの心がどこか遠くにあるように感じてしまう)

ゲルハルトはエレーヌを腕に閉じ込めているにもかかわらず、その心が腕からすり抜けているように感じてならなかった。

(エレーヌはどうして俺に向けて傷ついた顔を見せるんだ)

何かがエレーヌを苦しめていることがわかるも、それが何なのかゲルハルトにはわからなかった。

(まだ、ブルガンを恋しがっているのか)

マリーが王宮に戻ったために、挨拶がてら伺い、マリーに話してみた。

「エレーヌには悩みがあるようなのだ」

「そうね、私もさっき挨拶をしてきたけど、心が晴れない顔つきだったわ」

「もう会ったのか? 勝手に会わないで欲しかった」

ゲルハルトは少し声を荒げた。

「まあ、過保護なのね。私が何かするとでも?」

「エレーヌには傷つきやすいところがある。次からは俺のいるところで会ってくれ」

「まあ、ゲルハルトったら、よっぽどあの子に首ったけなのね」

マリーは呆れたような声を出した。

「妻を大切にしろ、といったのはマリーだ」

マリーの部屋から戻れば、エレーヌはベッドに横になっているとのことだった。

顔色を変えるゲルハルトにハンナが言ってきた。

「さっき、ひどく吐いたんです」

「吐いた?」

「今は落ち着いています」

「医師には診せたのか?」

「はい、熱もなく、他に症状はないので、ストレスか、あるいは」

ハンナはそこで、顔を赤らめて口ごもった。

足早にエレーヌの元へ向かう。

ドアを開けるなりエレーヌがくるりと背を向けたので、エレーヌが起きていることがわかった。

「エレーヌ?」

声をかけても返事はない。覆いかぶさり顔を覗き込んで、ゲルハルトは息を飲んだ。

エレーヌは大粒の涙を流していた。

(エレーヌ、どこか具合が悪いのか?)

抱きしめると、身をよじって逃れようとした。

「いやっ」

ゲルハルトは少なからずショックを受けていた。

エレーヌに拒否されたのは、初夜以来のことだった。

今度はエレーヌはゲルハルトの胸を両手で叩いてきた。怒っているか悲しんでいるように見えた。

ゲルハルトは、ただ、エレーヌを宥めるために抱きしめた。

そのうち、エレーヌは、泣きつかれたのか眠ってしまった。

エレーヌはしばらく眠ったのち、目を覚ました。

目を開けたエレーヌはどこかぼんやりとしていたが、ゲルハルトを見るなり、目に喜びを浮かべた。そして、笑いかけてきた。

(エレーヌ……!)

うっとりとした顔でゲルハルトを見てくるエレーヌをこの上ないほど愛おしく感じた。

(エレーヌ、俺はあなたに何でもしてあげたい)

「ごめんなさい、ゲルハルトさま」

(どうして、謝る?)

ゲルハルトの胸は痛くなった。

謝りながらもエレーヌはゲルハルトに唇を寄せてきた。

情を交わせば、受け入れられているように感じた。

(エレーヌ、あなたも俺を受け入れているはずだ)

だが、泣いて逃げたエレーヌを思い出せば、苦しくなった。エレーヌはゲルハルトを拒めない立場にある。王宮で生きるためにはゲルハルトにすがるしかない。

そのとき、エレーヌが口にしたのは、冷たい言葉だった。

エレーヌはわざわざ帝国語でそれを告げてきた。

「ゲルハルトさま、私はあなたが憎いの」

怒りに苦しみ、そして悲しみに襲われる。ゲルハルトは声を絞り出した。

「エレーヌ、俺はあなたにどう思われようとあなたを愛している」

エレーヌは腕の中でビクッと体を揺らして、そして、言ってきた。

「私はあなたが憎いの……。私が死んでも、あなたが死んでも、わたしはあなたが憎いの……」

ゲルハルトはもうそれ以上、聞いていられなくなって、エレーヌの唇を塞いだ。

(あなたに憎まれようと、あなたは俺の妻だ)



エレーヌが王宮から消えたのは、その翌日のことだった。
< 64 / 107 >

この作品をシェア

pagetop