もう一度、この愛に気づいてくれるなら
それは王宮の外れにある崩れかけた塔だった。古えには王宮として使われていたが、今は忘れ去られてひっそりと存在している。
「エレーヌさまは、母親とここに住んでおりました。生まれてよりずっと」
塔の中に入れば、階段は二つあるが、一方は崩れ落ちていた。屋根も崩れており、塔の半分は野ざらしだ。
入り口には、かまどらしきものがあり、辺りには据えた臭いが立ち込めている。
階段を上がれば、居住スペースらしきものがあったが、床の半分はやはり崩れ落ちている。
「こんなところに?」
あまりにわびしい住まいに、ゲルハルトは胸を突かれた。そこは到底住めたものではないはずだが、人が住んでいた跡が残っている。
隅っこに暮らしていたらしく、壁際に粗末な寝台が一つあり、棚にはこまごまとしたものが残っていた。
「母親は今はどこに?」
一人の老婆が呼ばれた。
老婆のブルガン語を宰相が帝国語に訳す。
母親は二年前に塔を出た、と言う。
「どうしてだ、どうして母親は、エレーヌを置いて出たのだ? どうしてエレーヌをたった一人にしたのだ?」
「母親は病気だったそうです。塔の中で死ねば虫が湧くと考えたのでしょう。エレーヌさまにはお母さまの遺体を捨てることなどできなかったでしょうから」
ゲルハルトは胸が詰まって何も言えなくなった。エレーヌのつらさと母親のつらさが胸に迫り、苦しくなった。
当時のエレーヌはまだ15。そんな子どもを置いていくしかなかった母親と置いていかれたエレーヌのことを考えると憐れでならなくなった。
「それからもずっと一人でここに?」
「エレーヌさまは、お母さまにずっと塔にいるようにと教えられていました」
「どうしてだ」
そこで、ゲルハルトはブルガン王妃の様子を思い出した。エレーヌの名に顔が険しくなった王妃。
「ブルガン王妃か?」
しかし、宰相は何も答えなかった。いくら婿とはいえ、王家の家庭事情を、そうやすやすとは口にできないのだろう。
(可哀想に、エレーヌ。こんなところに一人で)
ゲルハルトは棚から古い本を手に取った。ボロボロで崩れそうだ。宰相が老婆を訳す。
「エレーヌさまは本が好きで、ときおり、この老婆に本を頼んでいたと。しかし、老婆に用意できるのはこんな本しかなく」
(老婆のせいではない、ブルガン王のせいだ。王がもう少し、気にかけてあげていれば)
エレーヌがラクアに来たとき、不健康そうに見えたのは、長い馬車旅のせいではなく、17年間もこんな塔に閉じ込められて住んでいたからだ。
(ひどい父親だ。一度でも情けをかけた女性とその娘を、こんなところに住まわせ続けるなんて。衣服だってこんなに粗末で)
棚には、つぎはぎの衣服が二枚しかなかった。サイズから一つは母親のもので、一つはエレーヌのものだろう。替えの衣服が一枚あるだけの生活だったようだ。
エレーヌが母親の衣服を自分のサイズに直さなかったのは、帰ってくるのを待っていたのではないか、と思えば憐憫が湧いてしようがなかった。
ベッドには兎の毛皮をつないだものがあった。
冬はこれでは寒くてたまらなかっただろう。おそらく一つの寝台で母子は肩寄せあって寝たのだろう。しかし、それも二年前までで、そこから、エレーヌは一人きりで。
(エレーヌ……! あまりに可哀想だ……!)
棚には刺繍を施された布もあった。
「エレーヌさまは刺繍を、食べ物や本と交換していたそうです」
刺繍のほとんどが花や果物の図柄なのに、一枚だけ、母親と娘と思われる二人が寄り添っている図柄があった。とても温かなものだった。
(母親を想って刺していたのか……、どれだけ寂しかったことだろう……)
ゲルハルトの胸が詰まった。
それでも、二年の間、一人で生き延びたのだ。天から見ている母親は、さぞかし、エレーヌを誇らしく思うことだろう。そして、エレーヌを育てた自身をも誇りに思っているだろう。
(可哀想に、エレーヌ……、だが、立派だ、母親もエレーヌも立派だ......)
ゲルハルトの頬に涙が伝うのを見て、宰相は恐縮した顔で目を逸らした。
老婆はエレーヌの母親の顛末も知っていた。
老婆の案内で、エレーヌの母親の葬られた共同墓地に向かった。
ゲルハルトは途中の花屋で花を買い、花を捧げて弔った。
(母御よ、エレーヌを育ててくれて、ありがとう)
老婆は、身振り手振りでゲルハルトに何かを言ってきたが、宰相は一向に訳そうとしなかった。下賎な者の言葉を国王の耳に入れるのは良くないと思ったのかもしれなかった。
ゲルハルトは自分の連れてきた通訳に訳させれば、エレーヌの現状について訊いてきたらしかった。老婆は老婆でエレーヌを案じていたらしい。
おそらく、老婆は老婆なりに心を砕いてエレーヌの面倒を見てきたのだろう。それも、自分で出来る限りの親切心を発揮して。老婆にしてもとても粗末な身なりだ。
「エレーヌは………」
ゲルハルトは言葉に詰まった。
エレーヌの現状を訊かれるのはゲルハルトにはとても苦しいことだった。
「エレーヌはラクアで息災にしている、幸せにしている、と言ってくれ」
ゲルハルトはそう言うしかできなかった。老婆はそれを聞くとほっとしたような顔をして、微かに唇の端を上げただけだったが、満足な答えを得たことがわかった。
ゲルハルトの胸はキリキリと痛んだ。
(幸せなどと……。俺は幸せにすることができなかった……、俺はエレーヌを幸せにすることが、できなかった………)
ゲルハルトはブルガン王宮を去ることにした。
(エレーヌ、どうか、この先、あなたに幸せが満ちていますように………)
ゲルハルトは異国の夏空を見上げた。
ラクアの軍勢は石畳に轟音を残してブルガンを去っていった。
「エレーヌさまは、母親とここに住んでおりました。生まれてよりずっと」
塔の中に入れば、階段は二つあるが、一方は崩れ落ちていた。屋根も崩れており、塔の半分は野ざらしだ。
入り口には、かまどらしきものがあり、辺りには据えた臭いが立ち込めている。
階段を上がれば、居住スペースらしきものがあったが、床の半分はやはり崩れ落ちている。
「こんなところに?」
あまりにわびしい住まいに、ゲルハルトは胸を突かれた。そこは到底住めたものではないはずだが、人が住んでいた跡が残っている。
隅っこに暮らしていたらしく、壁際に粗末な寝台が一つあり、棚にはこまごまとしたものが残っていた。
「母親は今はどこに?」
一人の老婆が呼ばれた。
老婆のブルガン語を宰相が帝国語に訳す。
母親は二年前に塔を出た、と言う。
「どうしてだ、どうして母親は、エレーヌを置いて出たのだ? どうしてエレーヌをたった一人にしたのだ?」
「母親は病気だったそうです。塔の中で死ねば虫が湧くと考えたのでしょう。エレーヌさまにはお母さまの遺体を捨てることなどできなかったでしょうから」
ゲルハルトは胸が詰まって何も言えなくなった。エレーヌのつらさと母親のつらさが胸に迫り、苦しくなった。
当時のエレーヌはまだ15。そんな子どもを置いていくしかなかった母親と置いていかれたエレーヌのことを考えると憐れでならなくなった。
「それからもずっと一人でここに?」
「エレーヌさまは、お母さまにずっと塔にいるようにと教えられていました」
「どうしてだ」
そこで、ゲルハルトはブルガン王妃の様子を思い出した。エレーヌの名に顔が険しくなった王妃。
「ブルガン王妃か?」
しかし、宰相は何も答えなかった。いくら婿とはいえ、王家の家庭事情を、そうやすやすとは口にできないのだろう。
(可哀想に、エレーヌ。こんなところに一人で)
ゲルハルトは棚から古い本を手に取った。ボロボロで崩れそうだ。宰相が老婆を訳す。
「エレーヌさまは本が好きで、ときおり、この老婆に本を頼んでいたと。しかし、老婆に用意できるのはこんな本しかなく」
(老婆のせいではない、ブルガン王のせいだ。王がもう少し、気にかけてあげていれば)
エレーヌがラクアに来たとき、不健康そうに見えたのは、長い馬車旅のせいではなく、17年間もこんな塔に閉じ込められて住んでいたからだ。
(ひどい父親だ。一度でも情けをかけた女性とその娘を、こんなところに住まわせ続けるなんて。衣服だってこんなに粗末で)
棚には、つぎはぎの衣服が二枚しかなかった。サイズから一つは母親のもので、一つはエレーヌのものだろう。替えの衣服が一枚あるだけの生活だったようだ。
エレーヌが母親の衣服を自分のサイズに直さなかったのは、帰ってくるのを待っていたのではないか、と思えば憐憫が湧いてしようがなかった。
ベッドには兎の毛皮をつないだものがあった。
冬はこれでは寒くてたまらなかっただろう。おそらく一つの寝台で母子は肩寄せあって寝たのだろう。しかし、それも二年前までで、そこから、エレーヌは一人きりで。
(エレーヌ……! あまりに可哀想だ……!)
棚には刺繍を施された布もあった。
「エレーヌさまは刺繍を、食べ物や本と交換していたそうです」
刺繍のほとんどが花や果物の図柄なのに、一枚だけ、母親と娘と思われる二人が寄り添っている図柄があった。とても温かなものだった。
(母親を想って刺していたのか……、どれだけ寂しかったことだろう……)
ゲルハルトの胸が詰まった。
それでも、二年の間、一人で生き延びたのだ。天から見ている母親は、さぞかし、エレーヌを誇らしく思うことだろう。そして、エレーヌを育てた自身をも誇りに思っているだろう。
(可哀想に、エレーヌ……、だが、立派だ、母親もエレーヌも立派だ......)
ゲルハルトの頬に涙が伝うのを見て、宰相は恐縮した顔で目を逸らした。
老婆はエレーヌの母親の顛末も知っていた。
老婆の案内で、エレーヌの母親の葬られた共同墓地に向かった。
ゲルハルトは途中の花屋で花を買い、花を捧げて弔った。
(母御よ、エレーヌを育ててくれて、ありがとう)
老婆は、身振り手振りでゲルハルトに何かを言ってきたが、宰相は一向に訳そうとしなかった。下賎な者の言葉を国王の耳に入れるのは良くないと思ったのかもしれなかった。
ゲルハルトは自分の連れてきた通訳に訳させれば、エレーヌの現状について訊いてきたらしかった。老婆は老婆でエレーヌを案じていたらしい。
おそらく、老婆は老婆なりに心を砕いてエレーヌの面倒を見てきたのだろう。それも、自分で出来る限りの親切心を発揮して。老婆にしてもとても粗末な身なりだ。
「エレーヌは………」
ゲルハルトは言葉に詰まった。
エレーヌの現状を訊かれるのはゲルハルトにはとても苦しいことだった。
「エレーヌはラクアで息災にしている、幸せにしている、と言ってくれ」
ゲルハルトはそう言うしかできなかった。老婆はそれを聞くとほっとしたような顔をして、微かに唇の端を上げただけだったが、満足な答えを得たことがわかった。
ゲルハルトの胸はキリキリと痛んだ。
(幸せなどと……。俺は幸せにすることができなかった……、俺はエレーヌを幸せにすることが、できなかった………)
ゲルハルトはブルガン王宮を去ることにした。
(エレーヌ、どうか、この先、あなたに幸せが満ちていますように………)
ゲルハルトは異国の夏空を見上げた。
ラクアの軍勢は石畳に轟音を残してブルガンを去っていった。