もう一度、この愛に気づいてくれるなら
軽い朝食の後、着替え終わったところへ、シュタイン夫人が入ってきた。
「エレーヌ、おはよう。気分はどう?」
「ええ、とてもいいですわ。あの、何から何までありがとうございます」
エレーヌに侍女までつけてくれている。それに、部屋着も靴も何もかも、使わせてもらっている。おそらくはこの部屋の主のものを。
エレーヌは赤色のワンピースを着ていたが、それもナイトドレス同様、少々サイズが大きかった。
衣裳部屋を覗かせてもらえば、そこにには、ドレスに靴に小物類が、昨日まで使われていたかのように良い状態で並べられていた。
やはり、この部屋は、令嬢のものに違いなかった。
鏡台やキャビネットの引き出しの中も、令嬢のものであふれている。
結んだあとのあるリボン、毛が一本残っている櫛、インクの付いたままのペン。そのインクは乾いてさほど時間が経っていないように見えた。
「あの、この部屋は、どなたの部屋ですか? 私が使ってもいいのでしょうか」
誰かの部屋を黙って使っているようで、エレーヌは心苦しかった。
シュタイン夫人は、一瞬、気まずそうな顔をしたが、すぐに、にこやかな顔を向けてきた。
「え、ええ。養女が、この部屋を使っていたのよ。でも、今は、いないから、あなたの自由に使ってちょうだい」
エレーヌはこの部屋の北向きの壁に、小ぶりな肖像画を見つけており、そこに描かれた赤毛の令嬢が養女なのだろうと思った。櫛に残っていたのは赤毛だし、ドレスも小物も赤毛を引き立てるような鮮やかな色味のものが多かった。
(荷物を全部置いていなくなるなんて、養女さんに何かあったのかしら)
気にはなったが、シュタイン夫人が答えにくそうにしていたために、エレーヌにはもうそれ以上訊くことができなくなった。
シュタイン夫人は侍女に持たせたかごを指した。
「今日は、刺繍道具を持ってきたのよ。侍女たちにも刺繍を教えてくださいな」
二人の侍女たちはどちらも、エレーヌとそう変わらない年頃に見えた。
ソファに座って、刺繍を楽しむことになった。
シュタイン夫人の刺繍の腕は良かった。
しかし、エレーヌの腕はさらに良く、シュタイン城に伝わる薔薇の図柄を難なく刺せば、シュタイン夫人も侍女らも歓声を上げた。
「素晴らしいわ! あなた、これで食べていけるわ!」
「エレーヌさま、####、すごい」
「####」
実際、刺繍で食べてきたエレーヌには、令嬢の嗜み程度では済まないだけの技量があった。
侍女同士がラクア語で何やら楽しそうに話している。ところどころしかわからないエレーヌに、シュタイン夫人は訳してきた。
「この地には、エプロンにいっぱいの薔薇を刺繍することができれば、恋が叶うというおまじないがあるのよ。でも、本物と見まがうほどの美しい薔薇じゃないと駄目なの。エレーヌなら、きっと恋が叶うだけの薔薇が刺せる、と言っているわ」
ゲルハルトの元を去ってきたばかりのエレーヌには、恋の成就など考えようもないことだった。
「私にはもう恋など要らないものです。でも、薔薇の刺繍なら、いくつでも刺してきましたから、侍女たちに教えて差し上げることはできますわ」
年若い侍女らは、いつも賑やかだったハンナに重なり、エレーヌの鼻の奥がツンとした。
(礼も言えなかったわ。どうか元気にしていてね、ハンナ)