もう一度、この愛に気づいてくれるなら
穏やかで幸福な日々
その日、エレーヌは、朝食を摂ろうとして、吐き気を覚えて、少しも喉に入らなかった。それまでも胸のむかつきを覚えていたが、その日は強かった。
刺繍をしにやってきた夫人は、侍女から聞いているらしく、心配げに訊いてきた。
「エレーヌ、気分はどう?」
「今は、すっかり、いいですわ」
エレーヌの吐き気はやんでいた。
刺繍を楽しんだあと、夫人は言ってきた。
「そうだわ、今日は、乗馬をやめて、お茶を楽しみましょう。良い茶葉が手に入ったの」
シュタイン城の南面には庭園があった。広くはないが、色とりどりの花をバルコニーから眺められるようになっていた。
エレーヌの前に、お茶とケーキが出された。ケーキは焼き立てで、湯気が立っていた。上に乗ったバターが溶けている。
ミルクとバターの匂いに、エレーヌは、急に吐き気を感じた。今朝よりもひどかった。
(何だか吐きそうだわ)
「そのケーキはね、初めて子牛を生んだ雌牛のミルクを……」
シュタイン夫人が言いかけたが、エレーヌはそれどころではなくなった。
(だめ、吐いてしまいそう)
エレーヌはナプキンを手に取った。夫人から顔を背ける。
「うっ」
何とか吐くのを抑えるも、込み上げる吐き気は収まらなかった。
「エレーヌ、大丈夫?」
夫人が立ち上がってエレーヌの元まで来た。
(どうしよう、体調を崩してしまったわ)
「エレーヌ、具合が悪いなら、部屋で休んでいましょう」
シュタイン夫人がそう言ってくれたので、エレーヌは部屋で横になることにした。横になればぐっすりと眠ってしまった。
目が覚めれば、医師が呼ばれていた。
医師はエレーヌの体を診ると出て行った。夫人は医師と話していたが、エレーヌに説明してくることはなかった。
(私、病気になってしまったのかしら。説明できないくらい重い病気に)
晩餐でも粗相をしてはいけないと、エレーヌは、部屋で食事を摂ることにした。やはり、食べ物を目の前にすれば、吐き気が起きる。
そんなことが食事のたびに起きた。
それから午前はいつも通り刺繍をして過ごすが、午後からは、乗馬の代わりに庭園の散歩をして過ごすようになった。エレーヌの体調を気遣ってくれているらしく、夕食は、部屋にやってきた夫人とともに摂るようになった。
不安を感じながら、それでも穏やかに、刺繍や散歩をしながら過ごしたのち、夫人が言ってきた。
医師の診察から三日後のことだった。
「エレーヌ、あなた、お腹に赤ちゃんがいるのよ」
エレーヌの部屋でソファに座って向き合いながら、シュタイン夫人は言ってきた。
「赤ちゃん………?」
やっとエレーヌは体調不良が悪阻なのだと気づいた。シュタイン夫人はそれを察知して、医師に診せる前から、乗馬を止めたのだ。
(赤ちゃんが、ここに………)
抱き人形を抱いたハンナが浮かんだ。次に幸せそうなマリー、その背後に立つゲルハルトが浮かんだ。
(私とゲルハルトさまのお子………)
ブルガンの古の血を受け継ぐ子であり、ラクア国王ゲルハルトの子。カトリーナの望んだ世継ぎ。
エレーヌは何も考えられなくなって、お腹に手を当てて、うつむいた。
シュタイン夫人は、言ってきた。
「あなたはどうしたいか、自分で決めないといけません。赤ちゃんを産むか、産まないか。これは赤ちゃんを産まないでも済む、お薬です」
そう言ってテーブルに、小瓶を置いた。シュタイン夫人は、どこか突き放すような声だった。
(赤ちゃんを産まないで済む薬………?)
エレーヌはそれを毒か何かのように感じた。
(夫妻は迷惑に感じているのかしら……)
エレーヌのそんな考えを見抜いたのか、シュタイン夫人は言ってきた。
「エレーヌ、私たちに迷惑がかかるなんてことを考えてはいけないのよ。あなたは命の恩人ですもの。お子が産まれるのは私たちの喜びよ。でも、あなたの子どもで、あなたが産むのだから、あなたが決めるのです。もしも、望まぬ妊娠をしたのであれば」
夫人は、エレーヌには夫がいるとは思ってもおらず、エレーヌの意志に反して妊娠した子どもだと思っているのかもしれなかった。
だから、妊娠から解放するための薬を用意してから、エレーヌに妊娠を告げたのだ。エレーヌはそう思った。
「わ、私には夫がいたのです。これは夫との子どもです」
(ゲルハルトさまのお子……)
だんだんとゲルハルトと過ごした日々が遠くなるも、ここにはまぎれもなくゲルハルトと交わした愛の証がある。
エレーヌは妊娠への驚きと怖れ、それに形容できない想いが胸に込み上げて、涙が出てきた。
夫人はエレーヌの手を握ってきた。
「つらい思いをしたのね………?」
「わ、わかりません……」
思えば王宮ではつらかったように思う。つらくて幸せで、でも、幸せだからつらかった。すべてゲルハルトを愛したから起きたこと。愛と苦しみとが交互に起きていた。
シュタイン城では、とても心穏やかに過ごしている。エレーヌから嵐は去った。
「では、薬をお飲みなさい。今の時期なら何ら体に負担はないわ。そして、つらいことをすべて忘れてしまうのよ」
そう言われてもエレーヌにはゲルハルトのことは忘れようもない。
エレーヌは返事をしないまま黙っていれば、シュタイン夫人は励ますように言ってきた。
「よく考えて、あなたが思うようにすればいいの」
次に悪阻が起きたとき、エレーヌはこれが妊娠のせいで起きているとの自覚を強く持った。
(やはり、ここにゲルハルトさまのお子がいるんだわ……)
エレーヌはお腹に手を当てた。
(私はこの子のために命拾いしたんだわ)
エレーヌは生かされている、と感じた。
シュタイン夫妻には迷惑をかけるかもしれなかったが、いや、迷惑をかけてでも産む、エレーヌはそう決意していた。
シュタイン夫人に薬を返すと、シュタイン夫人は黙って受け取った。
シュタイン夫人は、どこか畏れを抱いた目をエレーヌに向けてきた。じっと観察するようにエレーヌを見つめ、唇の端を吊り上げた。
刺繍をしにやってきた夫人は、侍女から聞いているらしく、心配げに訊いてきた。
「エレーヌ、気分はどう?」
「今は、すっかり、いいですわ」
エレーヌの吐き気はやんでいた。
刺繍を楽しんだあと、夫人は言ってきた。
「そうだわ、今日は、乗馬をやめて、お茶を楽しみましょう。良い茶葉が手に入ったの」
シュタイン城の南面には庭園があった。広くはないが、色とりどりの花をバルコニーから眺められるようになっていた。
エレーヌの前に、お茶とケーキが出された。ケーキは焼き立てで、湯気が立っていた。上に乗ったバターが溶けている。
ミルクとバターの匂いに、エレーヌは、急に吐き気を感じた。今朝よりもひどかった。
(何だか吐きそうだわ)
「そのケーキはね、初めて子牛を生んだ雌牛のミルクを……」
シュタイン夫人が言いかけたが、エレーヌはそれどころではなくなった。
(だめ、吐いてしまいそう)
エレーヌはナプキンを手に取った。夫人から顔を背ける。
「うっ」
何とか吐くのを抑えるも、込み上げる吐き気は収まらなかった。
「エレーヌ、大丈夫?」
夫人が立ち上がってエレーヌの元まで来た。
(どうしよう、体調を崩してしまったわ)
「エレーヌ、具合が悪いなら、部屋で休んでいましょう」
シュタイン夫人がそう言ってくれたので、エレーヌは部屋で横になることにした。横になればぐっすりと眠ってしまった。
目が覚めれば、医師が呼ばれていた。
医師はエレーヌの体を診ると出て行った。夫人は医師と話していたが、エレーヌに説明してくることはなかった。
(私、病気になってしまったのかしら。説明できないくらい重い病気に)
晩餐でも粗相をしてはいけないと、エレーヌは、部屋で食事を摂ることにした。やはり、食べ物を目の前にすれば、吐き気が起きる。
そんなことが食事のたびに起きた。
それから午前はいつも通り刺繍をして過ごすが、午後からは、乗馬の代わりに庭園の散歩をして過ごすようになった。エレーヌの体調を気遣ってくれているらしく、夕食は、部屋にやってきた夫人とともに摂るようになった。
不安を感じながら、それでも穏やかに、刺繍や散歩をしながら過ごしたのち、夫人が言ってきた。
医師の診察から三日後のことだった。
「エレーヌ、あなた、お腹に赤ちゃんがいるのよ」
エレーヌの部屋でソファに座って向き合いながら、シュタイン夫人は言ってきた。
「赤ちゃん………?」
やっとエレーヌは体調不良が悪阻なのだと気づいた。シュタイン夫人はそれを察知して、医師に診せる前から、乗馬を止めたのだ。
(赤ちゃんが、ここに………)
抱き人形を抱いたハンナが浮かんだ。次に幸せそうなマリー、その背後に立つゲルハルトが浮かんだ。
(私とゲルハルトさまのお子………)
ブルガンの古の血を受け継ぐ子であり、ラクア国王ゲルハルトの子。カトリーナの望んだ世継ぎ。
エレーヌは何も考えられなくなって、お腹に手を当てて、うつむいた。
シュタイン夫人は、言ってきた。
「あなたはどうしたいか、自分で決めないといけません。赤ちゃんを産むか、産まないか。これは赤ちゃんを産まないでも済む、お薬です」
そう言ってテーブルに、小瓶を置いた。シュタイン夫人は、どこか突き放すような声だった。
(赤ちゃんを産まないで済む薬………?)
エレーヌはそれを毒か何かのように感じた。
(夫妻は迷惑に感じているのかしら……)
エレーヌのそんな考えを見抜いたのか、シュタイン夫人は言ってきた。
「エレーヌ、私たちに迷惑がかかるなんてことを考えてはいけないのよ。あなたは命の恩人ですもの。お子が産まれるのは私たちの喜びよ。でも、あなたの子どもで、あなたが産むのだから、あなたが決めるのです。もしも、望まぬ妊娠をしたのであれば」
夫人は、エレーヌには夫がいるとは思ってもおらず、エレーヌの意志に反して妊娠した子どもだと思っているのかもしれなかった。
だから、妊娠から解放するための薬を用意してから、エレーヌに妊娠を告げたのだ。エレーヌはそう思った。
「わ、私には夫がいたのです。これは夫との子どもです」
(ゲルハルトさまのお子……)
だんだんとゲルハルトと過ごした日々が遠くなるも、ここにはまぎれもなくゲルハルトと交わした愛の証がある。
エレーヌは妊娠への驚きと怖れ、それに形容できない想いが胸に込み上げて、涙が出てきた。
夫人はエレーヌの手を握ってきた。
「つらい思いをしたのね………?」
「わ、わかりません……」
思えば王宮ではつらかったように思う。つらくて幸せで、でも、幸せだからつらかった。すべてゲルハルトを愛したから起きたこと。愛と苦しみとが交互に起きていた。
シュタイン城では、とても心穏やかに過ごしている。エレーヌから嵐は去った。
「では、薬をお飲みなさい。今の時期なら何ら体に負担はないわ。そして、つらいことをすべて忘れてしまうのよ」
そう言われてもエレーヌにはゲルハルトのことは忘れようもない。
エレーヌは返事をしないまま黙っていれば、シュタイン夫人は励ますように言ってきた。
「よく考えて、あなたが思うようにすればいいの」
次に悪阻が起きたとき、エレーヌはこれが妊娠のせいで起きているとの自覚を強く持った。
(やはり、ここにゲルハルトさまのお子がいるんだわ……)
エレーヌはお腹に手を当てた。
(私はこの子のために命拾いしたんだわ)
エレーヌは生かされている、と感じた。
シュタイン夫妻には迷惑をかけるかもしれなかったが、いや、迷惑をかけてでも産む、エレーヌはそう決意していた。
シュタイン夫人に薬を返すと、シュタイン夫人は黙って受け取った。
シュタイン夫人は、どこか畏れを抱いた目をエレーヌに向けてきた。じっと観察するようにエレーヌを見つめ、唇の端を吊り上げた。