もう一度、この愛に気づいてくれるなら
薔薇と魔物
シュタイン城では、収穫を終え、冬支度を整える季節となった。
エレーヌたちは、日差しの当たる温かい場所にカーペットを敷いて、その上に座り、めいめい別の縫い物をしていた。
エレーヌはシュタイン夫人からのリボン刺繍の頼まれものを終えて、赤ん坊の衣類を縫っていたし、侍女らは薔薇の刺繍の手習いを、夫人はリボン刺繍に挑戦していた。
エレーヌのお腹は少しずつ大きくなっている。エレーヌは子に会えるのを待つ幸せな日々を過ごしている。
その頃にはもうエレーヌはラクア語も帝国語も、日常会話なら困らなかった。ブルガン語はほとんど口にしなくなっている。
侍女らも帝国語を学んでいるために、会話には帝国語とラクア語が飛び交っている。
一生懸命に手習いをしている侍女にエレーヌは訊いてみた。
「あなたたちの好きな人はどんな人なの?」
侍女らが恋をしているのは一目瞭然だった。
自分のことを訊かれるのを避けて、侍女らの個人的な話には踏み込んでは来なかったエレーヌだが、その頃には話してもいいような気分になっていた。
侍女らは真っ赤な顔になってうつむいてしまった。年頃はエレーヌと同じでも、未婚の彼女たちはずっと《うぶ》らしい。
一人の侍女がか細い声で言う。
「幼馴染みです。騎士団に入ってしまって、遠くの寄宿舎に行ったから、なかなか会えないんですけど。でも、次に会ったときには」
侍女はもじもじとした。幼馴染からの愛の告白を待っているのだろう。
もう一人も真っ赤になって言う。
「私は婚約者です。家同士の取り決めだけど、私は彼のことが大好きで。彼も同じ気持ちでいてくれたらとは思ってるんですけど」
愛する人を思いながら刺繍を刺す二人の姿に、いつの日かの自分が重なった。刺繍のハンカチはとうとう、ゲルハルトに渡すことができなかった。
「ちゃんと恋が叶うといいわね」
「薔薇の刺繍のおまじないには、元になった伝承があるのよ」
シュタイン夫人が何やら芝居めいた声で言ってきた。
「むかしむかし、魔物が一人の青年をさらっていきました。青年の婚約者が、青年を返すように頼めば、魔物は『美しい薔薇をエプロンいっぱいに摘んでくれば、返してやろう』と、言いました。季節は冬で、薔薇など一本も咲いていません」
「まあ! 意地悪な魔物なのね」
「魔物は人の心をもてあそぶのを楽しんでいるの」
夫人は続ける。
「しかし、婚約者は、エプロンにいっぱいの薔薇を集めてきました。魔物は、しぶしぶ婚約者に青年を返しました。本物の薔薇に見えたものは、実は細やかな刺繍で出来た薔薇だったのです。婚約者の《愛》が魔物に勝ったのです」
《愛》のところで、エレーヌは、首を傾げた。
帝国語のそれは、エレーヌには、《憎しみ》に聞こえた。
「夫人、どうして、《憎しみ》なんでしょうか?」
「婚約者は必死で本物に見える薔薇を刺したからよ。婚約者を深く愛するがゆえに」
「愛する、とは……」
エレーヌは久しぶりにブルガン語を用いて訊いた。
「《愛する》とは、憎む、でしょう?」
今度は夫人が首を傾げた。
「いいえ、《愛する》は、愛する、という意味よ」
エレーヌは手に持っていた縫い針を膝に落とした。そして、口を両手で抑えた。
(私は、《憎む》と《愛する》を逆に教えられていたの………?)
エレーヌは動揺した。
(そんな……、そんなひどいことが………)
「エレーヌ、何かあって?」
「いえ、いえ……、ただ、私はひどい思い違いをしていたみたいで……」
「思い違い?」
「ええ、帝国語の、愛する、と、憎む、とを反対に思っていたのですわ……」
エレーヌの顔は泣きそうに引きつっていた。