もう一度、この愛に気づいてくれるなら
(私は愛していると告げてくるゲルハルトさまに、憎いと言っていたの………?)
エレーヌは、その事実に愕然としていた。
(そんな愚かしい間違いが起きていたなんて)
あまりのことに、しばし呆然とする。
(でも、マリーさまは? ゲルハルトさまにはマリーさまがいたわ)
エレーヌの頭は混乱してうまく働かない。
エレーヌはひたすら刺繍を刺し続けた。刺繍の合間に散歩をし、それからまた刺繍をする。
(わからない、もうわたしにはわからない。ゲルハルトさまは私を愛してくれていたの?)
そもそも、生まれも育ちも違い、性別も違う、そんな人の気持ちなど、わかるはずもない。特にエレーヌのような孤独な育ちには。
それで、言葉に頼ってしまったのかもしれなかった。
――塔の外には魔物がいっぱいいるの。
幼い頃の母親の言葉。
エレーヌはまるで自分も魔物に出会ってしまったように感じた。人の心をもてあそんで楽しむ魔物に。
エレーヌは、それからも、刺繍を続けた。
刺繍をすれば心は安らぎ、気持ちは落ち着いた。
いつも刺繍がエレーヌを支えてくれた。寂しいときも、つらいときも、苦しいときも、刺繍があったから、やりすごせた。
朝、エレーヌが刺繍を刺していると、侍女を連れて部屋に入ってきたシュタイン夫人が顔をほころばせた。
「まあ、エレーヌ、誰かが薔薇を届けたのね。まだ薔薇が咲いていたのね」
もう暖炉には火が入れられている。だから薔薇などどこにも咲いていないはずなのに。
夫人はエレーヌの膝の上の薔薇を、すくおうとして、手を滑らせた。
「まあ、刺繍だったのね!」
大げさな夫人の仕草に、エレーヌは笑った。
(いつだって刺繍が私を助けてくれた。刺繍は私の支えだった)
「私、魔物をやっつけなければならないんです。そして、夫を取り戻さなくてはならないんです」
エレーヌは冗談めかして言った。
エレーヌが侍女らの前で夫について口を開いたのはそのときが初めてだった。侍女らが待ち構えたように訊いてきた。
「まあ! エレーヌさま、では、旦那さまは生きてらっしゃるのですね」
「ええ、この子の父親は生きているわ」
侍女らは勢い込んでエレーヌを取り囲んだ。これまで、訊くのもはばかれていたエレーヌの夫について、エレーヌ自身が口を開こうとしているのだ。
侍女らは伯爵夫妻の恩人は、おそらく夫とは悲恋に終わったのだと思っていた。亡くなったのだろうとも思っていたが、そうではなかったらしい。
「どんな人なんですか?」
「とても優しい人よ。優しくて残酷な……」
そう言いかけてエレーヌはやめた。本当に残酷だったのだろうか。
ゲルハルトはいつだって優しいだけだったのではないか。
「いろんなものを食べさせてくれたの。マカロン、オムレツ、ドーナツ、……」
「それは好きになりますねえ。私、ここに来て初めてマカロン食べましたけど、もう、飛び上がって食べましたわ。両親にも持ち帰ったくらいですわ」
「あとは海に連れて行ってくれたり、花冠を作ってくれたり」
「まあ、素敵な旦那さまですわ。私の彼なんて、くれるのはセミの抜け殻だったり、ヘビの抜け殻だったり」
もう一人の侍女が言う。
「でも、そんなあなたは彼に魂を抜かれて抜け殻なのよね」
「うん、そう。だって、幼馴染の彼、可愛いんですもの」
恋の話に花が咲く。
それからは、刺繍の時間は、侍女らと想い人の話ばかりすることになった。
初雪の降った日だった。
エレーヌの薔薇はエプロン一面に咲いていた。
魔物はエレーヌの心の中でやっつけることができた。
侍女らと話をするうちに、ゲルハルトと過ごした日々にたくさんの愛を受けたことがひとつひとつ胸に迫ってきた。
ゲルハルトがどれだけエレーヌを愛してくれたか、どれだけ慈しんでくれたか、どれだけ優しく大きな愛で包んでくれたか。
言葉に囚われ過ぎていた。否、ゲルハルトは最初から、片言のブルガン語で「スキ、タイセツ」と伝えていたではないか。
そして、優しい眼差しで、慈しむ手で、愛を伝えていた。
エレーヌのかたくなな心が、それを拒み、愚かしくも愛から目を逸らした。
(ゲルハルトさまは、私を心から愛してくれていた。最初からずっと、ずっと、ずっと、大きな愛で包んでくれていた)
エレーヌはゲルハルトの幸せを望んで王宮を出たが、ゲルハルトの大きな愛に報いることこそがエレーヌのすべきことだったのではないか、そう思えてならなくなった。
(私、王宮に戻らないと。そして、ゲルハルトさまに会わないと。愛を伝えに行かないと)
そんなエレーヌを、シュタイン夫人がいつも注意深く観察していることにエレーヌは気づかなかった。
シュタイン城は、シュタイン伯爵の領地ではなかった。
シュタイン伯爵は伯爵ではないし、伯爵夫妻は、夫婦ですらなかった。
シュタイン城にはもともと男爵が住んでいた。
ある日、男爵は、突然、城を出なければいけなくなった。
赤毛の令嬢も、荷物を残して、そのまま城を追われた。
それは巧妙に仕組まれた虚構だった。エレーヌは虚構の現実に囲われていた。
エレーヌは、その事実に愕然としていた。
(そんな愚かしい間違いが起きていたなんて)
あまりのことに、しばし呆然とする。
(でも、マリーさまは? ゲルハルトさまにはマリーさまがいたわ)
エレーヌの頭は混乱してうまく働かない。
エレーヌはひたすら刺繍を刺し続けた。刺繍の合間に散歩をし、それからまた刺繍をする。
(わからない、もうわたしにはわからない。ゲルハルトさまは私を愛してくれていたの?)
そもそも、生まれも育ちも違い、性別も違う、そんな人の気持ちなど、わかるはずもない。特にエレーヌのような孤独な育ちには。
それで、言葉に頼ってしまったのかもしれなかった。
――塔の外には魔物がいっぱいいるの。
幼い頃の母親の言葉。
エレーヌはまるで自分も魔物に出会ってしまったように感じた。人の心をもてあそんで楽しむ魔物に。
エレーヌは、それからも、刺繍を続けた。
刺繍をすれば心は安らぎ、気持ちは落ち着いた。
いつも刺繍がエレーヌを支えてくれた。寂しいときも、つらいときも、苦しいときも、刺繍があったから、やりすごせた。
朝、エレーヌが刺繍を刺していると、侍女を連れて部屋に入ってきたシュタイン夫人が顔をほころばせた。
「まあ、エレーヌ、誰かが薔薇を届けたのね。まだ薔薇が咲いていたのね」
もう暖炉には火が入れられている。だから薔薇などどこにも咲いていないはずなのに。
夫人はエレーヌの膝の上の薔薇を、すくおうとして、手を滑らせた。
「まあ、刺繍だったのね!」
大げさな夫人の仕草に、エレーヌは笑った。
(いつだって刺繍が私を助けてくれた。刺繍は私の支えだった)
「私、魔物をやっつけなければならないんです。そして、夫を取り戻さなくてはならないんです」
エレーヌは冗談めかして言った。
エレーヌが侍女らの前で夫について口を開いたのはそのときが初めてだった。侍女らが待ち構えたように訊いてきた。
「まあ! エレーヌさま、では、旦那さまは生きてらっしゃるのですね」
「ええ、この子の父親は生きているわ」
侍女らは勢い込んでエレーヌを取り囲んだ。これまで、訊くのもはばかれていたエレーヌの夫について、エレーヌ自身が口を開こうとしているのだ。
侍女らは伯爵夫妻の恩人は、おそらく夫とは悲恋に終わったのだと思っていた。亡くなったのだろうとも思っていたが、そうではなかったらしい。
「どんな人なんですか?」
「とても優しい人よ。優しくて残酷な……」
そう言いかけてエレーヌはやめた。本当に残酷だったのだろうか。
ゲルハルトはいつだって優しいだけだったのではないか。
「いろんなものを食べさせてくれたの。マカロン、オムレツ、ドーナツ、……」
「それは好きになりますねえ。私、ここに来て初めてマカロン食べましたけど、もう、飛び上がって食べましたわ。両親にも持ち帰ったくらいですわ」
「あとは海に連れて行ってくれたり、花冠を作ってくれたり」
「まあ、素敵な旦那さまですわ。私の彼なんて、くれるのはセミの抜け殻だったり、ヘビの抜け殻だったり」
もう一人の侍女が言う。
「でも、そんなあなたは彼に魂を抜かれて抜け殻なのよね」
「うん、そう。だって、幼馴染の彼、可愛いんですもの」
恋の話に花が咲く。
それからは、刺繍の時間は、侍女らと想い人の話ばかりすることになった。
初雪の降った日だった。
エレーヌの薔薇はエプロン一面に咲いていた。
魔物はエレーヌの心の中でやっつけることができた。
侍女らと話をするうちに、ゲルハルトと過ごした日々にたくさんの愛を受けたことがひとつひとつ胸に迫ってきた。
ゲルハルトがどれだけエレーヌを愛してくれたか、どれだけ慈しんでくれたか、どれだけ優しく大きな愛で包んでくれたか。
言葉に囚われ過ぎていた。否、ゲルハルトは最初から、片言のブルガン語で「スキ、タイセツ」と伝えていたではないか。
そして、優しい眼差しで、慈しむ手で、愛を伝えていた。
エレーヌのかたくなな心が、それを拒み、愚かしくも愛から目を逸らした。
(ゲルハルトさまは、私を心から愛してくれていた。最初からずっと、ずっと、ずっと、大きな愛で包んでくれていた)
エレーヌはゲルハルトの幸せを望んで王宮を出たが、ゲルハルトの大きな愛に報いることこそがエレーヌのすべきことだったのではないか、そう思えてならなくなった。
(私、王宮に戻らないと。そして、ゲルハルトさまに会わないと。愛を伝えに行かないと)
そんなエレーヌを、シュタイン夫人がいつも注意深く観察していることにエレーヌは気づかなかった。
シュタイン城は、シュタイン伯爵の領地ではなかった。
シュタイン伯爵は伯爵ではないし、伯爵夫妻は、夫婦ですらなかった。
シュタイン城にはもともと男爵が住んでいた。
ある日、男爵は、突然、城を出なければいけなくなった。
赤毛の令嬢も、荷物を残して、そのまま城を追われた。
それは巧妙に仕組まれた虚構だった。エレーヌは虚構の現実に囲われていた。