もう一度、この愛に気づいてくれるなら

ゲルハルトはディミーが誤訳をしたことを確信した。それも悪意に満ちた誤訳を。

(最初から俺とエレーヌは引き裂かれていたのだ)

おそらくはひどい引き裂かれ方だったのだろう。

(それでも、俺はあなたを愛したかった。実際に愛した。そして、俺たちは愛し合ったはずだ)

エレーヌの目には、確かにゲルハルトへの情愛が灯っていた。

しかし、それが悪意によって引き裂かれた。

(あなたが苦しんでいることを知っていたのに、苦しみを取り除くことができなかった)

塔の中で育ったエレーヌ、おそらくは希望を抱いてラクアに嫁いできたのに。

(そのはかない希望を心無い言葉で打ち砕かれた)

重なる悪意に、ゲルハルトへの情愛は枯れ、憎み、そして、出て行くしかなかった。

ゲルハルトはエレーヌを、一切の苦しみから遠ざけてやりたかった。

その思いで、完全に自分の保護下において、エレーヌを見守ってきた。

衣裳部屋やチェストに鏡台の中身が変わったのは、男爵令嬢のものから、エレーヌのものに入れ替えたから。

本が好きだと知って、シュタイン城の図書室を整備し、ラクア語に帝国語の本に加えて、ブルガン語の本をたくさん用意した。そのなかには塔に残っていたものと同じ本をしのばせた。

刺繍の手鏡は、ブルガンの老婆がエレーヌの祖母の手によるものとして預けてくれたもので、シュタイン夫人からさりげなく渡してもらった。

見当違いの同情を男爵に抱いたのか、農夫が酔っぱらってシュタイン城の前で叫んだことがあったが、エレーヌは脅かされることもなく、シュタイン城で穏やかにも温かな生活を送ることができていた。

シュタイン夫人らからエレーヌの報告を受けるたびに、ゲルハルトの傷心も癒されていく。

エレーヌが妊娠しているとの報告を受けたときには、さすがにゲルハルトも動揺した。動揺し、決断するには時間がかかったが、エレーヌの気持ちを尊重することにした。産むか産まないかをエレーヌに任せることにした。

(すべて、エレーヌの幸せのために)

そして、エレーヌが産むことを決意したのを知ったとき、ゲルハルトはもっと動揺した。

(子を産むとは、やはりエレーヌには俺への情愛が残っているのではないか)

その情愛にすがることへの欲求は大きかった。しかし、それを押さえつけた。

(エレーヌの涙をもう見たくはない……)

「シュタイン城で穏やかに幸せそうに過ごしている」とのシュタイン夫妻の報告に、ゲルハルトはぐっとこらえた。

(エレーヌの幸せを壊したくない。エレーヌ、どうか、幸せに過ごしてくれ)

そして、また、動揺することが起きた。

エレーヌが「愛する」と「憎む」を間違えて覚えていたとの報告に。

(では、エレーヌを傷つけたのは俺の言葉だった、のか……?)

ゲルハルトは額を手のひらで覆った。

(エレーヌを取り巻く悪意はディミーだけではなかった……)


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