もう一度、この愛に気づいてくれるなら
温かい日差しにエレーヌはエプロンを広げた。
さすがによく見れば刺繍だとわかるが、ちらりとでは、本物の薔薇にも見まがう出来だ。
薔薇には迫力があった。
エレーヌにはもう揺らぎはなかった。シュタイン夫人に告げる。
「私は王宮に帰ります」
「帰る」と言ったのに、シュタイン夫人は何の疑問も浮かべず、笑みを浮かべてエレーヌを見つめてきた。
「エレーヌ、魔物をやっつけたのね?」
エレーヌはうなずいた。
「私は夫に伝えに行かなければなりません。夫の愛をちゃんと受け取ったと。そして、私も夫を愛していると。きっと、夫は今も愛してくれている。もしも、私のことを忘れていても、私は私の愛を夫に伝えに行かなければなりません」
真逆に伝えてしまった想い。自分の口で伝え直さなければ、あの日の二人はあまりに報われない。
「愛」と「憎しみ」を逆に伝えたままでは、悲しすぎる。
しかし、すぐに会いに行くつもりはない。
エレーヌは身ごもっている。騎馬も馬車も赤ん坊に良くないことくらいわかっている。
(雪が溶けたら)
赤ん坊が無事生まれたら。そして、少し大きくなって移動できるようになったら。
シュタイン夫人は穏やかな笑みを浮かべて、エレーヌに向かってうなずいていた。
「ええ、今は赤ちゃんを一番の大事にしましょう」
その夕べ、澄んだ空は美しく桃色に染まっていた。
エレーヌに力強く路面を蹴ってこちらに向かってくるリズミカルなひづめの音が聞こえてきた。それは城に着いたところでとまり、一声いなないた。
(ブラックベリーの声……?!)
エレーヌは立ち上がりバルコニーに出た。
眼下には、黒目黒髪の人がいた。エレーヌに気づいて、じっと見上げている。
(ゲルハルトさま……!)
どうして、ゲルハルトがそこにいるのかわからなかったが、それでも、自分に会いに来てくれたのだろう、と思った。
ゲルハルトはエレーヌに吸い込まれるように見つめたまま、馬を降り、手綱を馬丁に渡した。
「ゲルハルトさま!」
そばに行こうとバルコニーを離れたエレーヌに、ゲルハルトの声が聞こえてきた。
「エレーヌ、待って。そこで待ってて。俺がそこにいく」
ゲルハルトのラクア語はエレーヌには簡単に聞き取れた。その声は、やはり優しく思いやりのあるものだった。
ゲルハルトはおそらくエレーヌが駆けだして転んだりしたらいけないとでも思っているのだ。
エレーヌはもう一度バルコニーに出て、ゲルハルトに手を振った。ゲルハルトはうなずくと、城へと入っていった。
エレーヌは緊張してきた。手で髪を直し、ドレスのしわを手で伸ばす。
シュタイン夫人が侍女らに指図する。
「エレーヌさまに、陛下に会うお支度をして差し上げて」
シュタイン夫人の突然のエレーヌへの敬語に加えて、陛下、との言葉に、侍女たちは目を見張る。
「エレーヌさまは、王妃陛下です。今から国王陛下がいらっしゃいます」
そのときになってエレーヌは、シュタイン夫人がすべてを知っており、そのうえで、エレーヌを見守っていたのだとおぼろげに気づく。すべてがゲルハルトの手のひらの上にあったことまではさすがに気付いていないものの、何か大きなものに守られていたのだと気づいた。
侍女らもキツネにつままれたような顔で、それでも、エレーヌが言いようもない喜びを浮かべているのを見て、鏡台の前に座るエレーヌの髪のほつれをいそいそと直し始めた。
ゲルハルトが部屋に近づいてくる気配があった。
夫人に侍女らが去っていくのと入れ替わりに、ゲルハルトが入ってきた。
(ゲルハルトさま……!)
ゲルハルトはエレーヌを見て目を細めると、満面の笑みを浮かべた。その目には涙が浮かんでいる。
「エレーヌ!」
「ゲ、ゲ、ゲ………」
エレーヌは喉が詰まって声が出なくなった。よたよたと、ゲルハルトに歩みを進める。
そんなエレーヌを見つめたまま、ゲルハルトもまた、声が出なくなったようで、そして、足元までおぼつかなくなったようで、よろよろとエレーヌに近寄ってきた。
「ゲ、ゲ、ゲ、ゲ」
「エ、エレ、エレ……」
二人の再会はどうにも格好が悪かった。
ドアの薄い隙間に頭を縦に並べて、二人の様子を覗いていたゲルハルトの側近らは、手を拳に握り込んでいた。
「がんばれ、ゲルハルトさま」
「ゲルハルトさま、しっかり!」
彼らも涙ぐんでいる。しかし、背後で、シュタイン夫人の大きな咳払いがしたため、側近らが隙間から飛びのけば、夫人によって扉はしっかりと閉じられた。