【Guilty secret】
 沙耶が危惧していた国井との関係を追及されることもなかった。たった一度だけの国井との過ちを不倫だと疑われるのは心外だし、何より同僚に国井との関係を知られたくなかった。

 大半の社員の聴取が済んで、他社からの電話攻勢も鎮まってきた。国井のデスクを少しだけ調べた後に警察もいなくなり、通常業務に戻りつつある社会部のフロアで沙耶はパソコンを睨み付ける。

やりかけのコラムを書いていても沙耶の頭を占めるのは10年前の未解決殺人事件のこと。これからどうするか、答えはひとつだった。

「西崎さん。国井副編集長のお通夜、明日になったみたい」

 昼休みが近くなった頃に同僚女性から国井の通夜日程が書かれたメモが回ってきた。国井に世話になった部下としては、通夜への参列は常識だ。

通夜の日程を手帳に書き込んだ時に少しだけ、目元が潤んだのは多分気のせい。

 国井は沙耶を社会部に抜擢してジャーナリストのイロハを叩き込んでくれた上司。そして一度だけ夜を共にした男。ただそれだけだ。

 大丈夫。悲しくない。
あの男が死んだとしても自分は何も失っていないのだから。

通夜ともなれば国井の妻とも顔を合わせる。きっとただの部下として、型通りの挨拶ができる。

 昼休みに手洗いに立った沙耶はトイレの個室に鍵をかけた瞬間に泣き崩れた。誰にも知られないように、誰にも気付かれないように声を圧し殺して涙を流す。

どうして涙が出るのか沙耶にもわからない。理屈ではなく泣きたい気分だった。それだけだ。

国井を愛してはいない。あれは愛のない一夜だった。でもあの夜、あの瞬間だけは、幻の恋人のような二人だった。

 彼が沙耶に目をかけてくれたのも事実だ。そこに多少の下心があったとしても、国井のおかげで沙耶の今の立場がある。

 大丈夫。今泣いておけば明日の通夜で彼の妻の前で泣くことはない。
大丈夫。これ以上の涙はもう流さない。

彼女は何も失っていないのだから。

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