王太子から婚約破棄されたおてんば公爵令嬢は魔王に溺愛される
②
コーデリアはエミリーたち侍女や護衛兵も連れず、ひとりで別邸のそばの森に入っていた。鳥や虫たちの鳴き声が高らかに響き、葉と葉の隙間からこぼれる太陽の光が緑の絨毯をまばゆく映し出している。鬱蒼と茂る木々も、いまの季節ではとても明るく見えた。
ここはエインズワース公爵家の領地だから安全だと思っていたし、実は剣の心得のある彼女は結構腕っぷしも強い。婚約者のアドルフに言わせるところ、コーデリアは“完璧”らしい。そんなコーデリアに惚れるのだから、「この王国も末である」と父がうれしさ半分嘆いていたことを思い出す。間もなく結婚して王室に閉じ込められてしまうからこそ、コーデリアはいまのうちにひとりの時間を目一杯楽しんでおきたかった。
やがて水の流れが耳に届き始める。泉が近づいてきたところで、愛馬フェルナンデスの様子が変わった。耳をそばだてているようだ。
「フェルナンデス? そばに何かいるの?」
フェルナンデスは緊張しており、その場に止まって前足で土を何度もかいていた。どうやらそう遠くないところに何かがいるらしい。おそらく馬が恐れる獣か何かだろう。
「私がいるから大丈夫よ。あなたはここにいて」
フェルナンデスの手綱を木の枝にくくりつけ、コーデリアは泉に向かって歩き出した。護身用の短剣に手をかけ、そろりと足を忍ばせる。こんな技術もおてんばであるがゆえに周囲に無理に頼んで学んできたことだった。コーデリアは一人娘だったからこそ、人一倍厳しい環境、教育下の中で育てられてきた。だからアドルフいわく“完璧”な人間になるための努力を惜しまなかったのである。無論、刺繍やダンスなど淑女のたしなみもある。
茂みをかき分けて、そっと泉のほうに目を向けた。
小さな滝の下にこんこんと湧き出る湖の端に、白黒の獣がうずくまっている。
「あれは……?」
白い毛皮に血のあとを認め、気づけばコーデリアはガサッと茂みを飛び出していた。
驚いたのは獣のほうだ。びくりと身をすくめ、こちらに向かって牙をむく。紫色の瞳にははっきりと警戒の意思が浮かんでいた。
「大丈夫よ、お願いだから手当をさせて?」
グルルルッと、獣は唸りを上げる。
コーデリアは慎重に獣に近づいていった。
「私の名前はコーデリアよ。ここは私の領地だけれど、あなたは迷子かな?」
にっこりと邪気のない笑みを浮かべると、獣は戸惑ったような顔をする。どうやら言葉がわかるらしい。おそらく魔獣だと、コーデリアはピンと閃いた。
この国には魔族や魔獣が住んでおり、それを統括する魔王も存在する。特別な能力を有する彼らは人間から忌避されており、その強大な力に屈することがないようにするために人間たちは彼らに技術や金品を渡すことでなんとか二種族間の均衡を保ってきていた。
(とてもキレイな瞳……そしてホワイトタイガーのように凜々しくも雄々しい姿……)
思わず見惚れてしまう、魔獣の姿だ。白黒の長い尻尾がゆらゆらと揺れていた。
コーデリアは魔獣の目の前まできて、てきぱきと治療に必要なものを小物入れから出していく。すると魔獣はようやくおとなしくなり、黙ってされるがままとなった。消毒して傷を塞ぐ軟膏を塗り、包帯をした。
「よし、これで大丈夫。怪我をして、ここで休んでいたのね……いったい誰がそんな酷いことを……」
魔獣の傷は見た目ほど深くなかったが、おそらく人との間に争いがあったのは事実だろう。そんな国内の情勢をよくするためにも、コーデリアはアドルフのもとに嫁いだら王太子妃として魔族や魔獣との共存の道を探っていこうと考えている。いまのウィドリントン王国はどちらかというと対立する傾向にあるため、魔王軍との争いが絶えなかったからだ。
覚えず考え込んでいたコーデリアの頬を、ペロリと魔獣が舐めてくる。
「きゃあ、くすぐったい!」
コーデリアはくすくす笑うと、魔獣の白黒の毛をすきやった。
「あなたは……お名前はあるのかしら?」
「――イライジャ、だ」
重低音の声音。
まあ! と、コーデリアは声を上げる。魔獣と意思疎通したのは生まれて初めてだった。なぜなら人間が魔族や魔獣をきらうように、魔族や魔獣も人間をきらう。こうして二種族が一緒にいることが、極めて珍しいのである。
「イライジャ、素敵なお名前ね! それで、あなたいったいどうしてこんなところにいたの?」
「それは明かせぬ。休む場所を求めて、ここに辿りついてしまったとだけ言っておこう」
イライジャは四つ足で立ち上がると、ぶるりと身体を震わせた。
「的確な手当に礼を言う、コーデリア。君の名は覚えておこう」
「もう行くの?」
せっかく魔獣と友達になれそうだったのに……と惜しむコーデリアに、イライジャが獣の顔で苦笑する。二本の鋭い牙がのぞくも、コーデリアは少しも怖くなかった。
「君とはまた会える」
「まあ、本当? でも……」
浮かないコーデリアに、イライジャが心配そうに猫のように身体をすりつけてくる。
今度はコーデリアが苦笑する番だった。
「私、じきに結婚するの。そしたら城に閉じ込められるから、もう外にひとりで出ることもないわ。あなたとも……おそらく二度と会うことはないでしょう」
イライジャは何も言わない。何も言わず、頭をコーデリアの肩にもたれた。
コーデリアはそのふわふわの頭を撫でる。
「自由が、ほしいわ。私は。アドルフ殿下のことはきらいじゃあないけれど、私は私らしく生きていきたい……王太子妃になることで、それは閉ざされてしまうのだけれど」
しばらくぽつぽつと語るコーデリアの話を聞いてから、イライジャはふいっと背を向けて歩き出してしまう。
「イライジャ?」
「さらばだ」
うしろ姿で答えるイライジャに、コーデリアは寂しそうに手を振った。
ここはエインズワース公爵家の領地だから安全だと思っていたし、実は剣の心得のある彼女は結構腕っぷしも強い。婚約者のアドルフに言わせるところ、コーデリアは“完璧”らしい。そんなコーデリアに惚れるのだから、「この王国も末である」と父がうれしさ半分嘆いていたことを思い出す。間もなく結婚して王室に閉じ込められてしまうからこそ、コーデリアはいまのうちにひとりの時間を目一杯楽しんでおきたかった。
やがて水の流れが耳に届き始める。泉が近づいてきたところで、愛馬フェルナンデスの様子が変わった。耳をそばだてているようだ。
「フェルナンデス? そばに何かいるの?」
フェルナンデスは緊張しており、その場に止まって前足で土を何度もかいていた。どうやらそう遠くないところに何かがいるらしい。おそらく馬が恐れる獣か何かだろう。
「私がいるから大丈夫よ。あなたはここにいて」
フェルナンデスの手綱を木の枝にくくりつけ、コーデリアは泉に向かって歩き出した。護身用の短剣に手をかけ、そろりと足を忍ばせる。こんな技術もおてんばであるがゆえに周囲に無理に頼んで学んできたことだった。コーデリアは一人娘だったからこそ、人一倍厳しい環境、教育下の中で育てられてきた。だからアドルフいわく“完璧”な人間になるための努力を惜しまなかったのである。無論、刺繍やダンスなど淑女のたしなみもある。
茂みをかき分けて、そっと泉のほうに目を向けた。
小さな滝の下にこんこんと湧き出る湖の端に、白黒の獣がうずくまっている。
「あれは……?」
白い毛皮に血のあとを認め、気づけばコーデリアはガサッと茂みを飛び出していた。
驚いたのは獣のほうだ。びくりと身をすくめ、こちらに向かって牙をむく。紫色の瞳にははっきりと警戒の意思が浮かんでいた。
「大丈夫よ、お願いだから手当をさせて?」
グルルルッと、獣は唸りを上げる。
コーデリアは慎重に獣に近づいていった。
「私の名前はコーデリアよ。ここは私の領地だけれど、あなたは迷子かな?」
にっこりと邪気のない笑みを浮かべると、獣は戸惑ったような顔をする。どうやら言葉がわかるらしい。おそらく魔獣だと、コーデリアはピンと閃いた。
この国には魔族や魔獣が住んでおり、それを統括する魔王も存在する。特別な能力を有する彼らは人間から忌避されており、その強大な力に屈することがないようにするために人間たちは彼らに技術や金品を渡すことでなんとか二種族間の均衡を保ってきていた。
(とてもキレイな瞳……そしてホワイトタイガーのように凜々しくも雄々しい姿……)
思わず見惚れてしまう、魔獣の姿だ。白黒の長い尻尾がゆらゆらと揺れていた。
コーデリアは魔獣の目の前まできて、てきぱきと治療に必要なものを小物入れから出していく。すると魔獣はようやくおとなしくなり、黙ってされるがままとなった。消毒して傷を塞ぐ軟膏を塗り、包帯をした。
「よし、これで大丈夫。怪我をして、ここで休んでいたのね……いったい誰がそんな酷いことを……」
魔獣の傷は見た目ほど深くなかったが、おそらく人との間に争いがあったのは事実だろう。そんな国内の情勢をよくするためにも、コーデリアはアドルフのもとに嫁いだら王太子妃として魔族や魔獣との共存の道を探っていこうと考えている。いまのウィドリントン王国はどちらかというと対立する傾向にあるため、魔王軍との争いが絶えなかったからだ。
覚えず考え込んでいたコーデリアの頬を、ペロリと魔獣が舐めてくる。
「きゃあ、くすぐったい!」
コーデリアはくすくす笑うと、魔獣の白黒の毛をすきやった。
「あなたは……お名前はあるのかしら?」
「――イライジャ、だ」
重低音の声音。
まあ! と、コーデリアは声を上げる。魔獣と意思疎通したのは生まれて初めてだった。なぜなら人間が魔族や魔獣をきらうように、魔族や魔獣も人間をきらう。こうして二種族が一緒にいることが、極めて珍しいのである。
「イライジャ、素敵なお名前ね! それで、あなたいったいどうしてこんなところにいたの?」
「それは明かせぬ。休む場所を求めて、ここに辿りついてしまったとだけ言っておこう」
イライジャは四つ足で立ち上がると、ぶるりと身体を震わせた。
「的確な手当に礼を言う、コーデリア。君の名は覚えておこう」
「もう行くの?」
せっかく魔獣と友達になれそうだったのに……と惜しむコーデリアに、イライジャが獣の顔で苦笑する。二本の鋭い牙がのぞくも、コーデリアは少しも怖くなかった。
「君とはまた会える」
「まあ、本当? でも……」
浮かないコーデリアに、イライジャが心配そうに猫のように身体をすりつけてくる。
今度はコーデリアが苦笑する番だった。
「私、じきに結婚するの。そしたら城に閉じ込められるから、もう外にひとりで出ることもないわ。あなたとも……おそらく二度と会うことはないでしょう」
イライジャは何も言わない。何も言わず、頭をコーデリアの肩にもたれた。
コーデリアはそのふわふわの頭を撫でる。
「自由が、ほしいわ。私は。アドルフ殿下のことはきらいじゃあないけれど、私は私らしく生きていきたい……王太子妃になることで、それは閉ざされてしまうのだけれど」
しばらくぽつぽつと語るコーデリアの話を聞いてから、イライジャはふいっと背を向けて歩き出してしまう。
「イライジャ?」
「さらばだ」
うしろ姿で答えるイライジャに、コーデリアは寂しそうに手を振った。