白薔薇なんて似合わない
平凡平和平穏。
どれもリットラー王国を示すに相応しい言葉である。
大きな争いもなく、王族も貴族も国民も平和を大事にしており、ロマンス小説にあるような泥沼恋愛なんて見たこともない。他国からは『あの国だけ穏やかな時間が流れている。ゆったりと過ごすならリットラー王国をおいて他にはいない』なんて評価を受けるほど。
そこには嫌みも含まれているようだが、平和を愛するリットラー王国の治安は大陸一。産業と農業も盛んだ。最近発表された大陸ランキングの『老後に移住したい国ランキング』『バカンスに過ごしたい国ランキング』で堂々の一位に輝いた。
王都近郊に屋敷を構える我がポミエール公爵家は平穏を保つため、代々優秀な騎士を輩出している。父は公爵家を継ぐまで王宮騎士として働いており、一番上の兄も同じ道を辿る予定だ。二番目の兄と三番目の兄はそれぞれ妻を持ち、騎士として働いている。二人の姉も騎士に嫁いだ。
ならば末の娘である私も騎士の妻になる。兄と姉の流れからみればそうなるだろうと思っていた。父もかなり力を入れて婚約者を探してくれていた。騎士の名家 ブラントン家のご子息とは一つしか歳が変わらない。彼が婚約者になるかもしれないと、お茶会で見かける度に目で追っていた。
一方で、公爵家とはいえ三女ともなればそこまで条件のいい結婚は難しい。伯爵家の次男・三男あたりが妥当である。私は幼い頃から恋愛においてそこまで夢を見たことはない。必ず訪れる婚約者と結婚というものから目を背けるつもりはない。
現実を見た結果、かなりよい相手が選べて公爵令息だと思っていた。けれど父が持ってきた婚約話は伯爵令息でも公爵令息でもなかったのだ。
八年前、私は第一王子 ライラック=リットラー様の王子妃候補者として選ばれた。
あくまで候補。確定ではない。これはリットラー王国に古くから伝わる慣習で、第一王子が十歳の誕生日を迎えると同時に三人の王子妃候補が選ばれることになっているのだ。
選定条件は三つ。王子と近い歳であること・王子妃になるに相応しい家柄であること・学力や容姿など様々な分野において優秀であること。
公爵令嬢が選ばれるのが常だが、大抵は長女か次女。三女までお鉢が回ってこないものである。
だが前回・前々回の選定で問題が生じたらしい。前々回選ばれなかった令嬢の娘が前回の王子妃候補に選ばれてしまったのだ。その令嬢は王子妃になるには至らなかったのだが、前回の選定で当時の国王陛下がかなりの圧力をかけていたことが発覚した。
そこで今後は前回・前々回と妃候補に選ばれた家と、その令嬢と婚姻を結んだ家を弾くこととなった。争いを嫌い、丸く収めようとした結果、よい条件の令嬢が三人も見つからなかったーーと。
なんとも本末転倒である。
そもそも一つ目の条件でかなり絞りすぎなのだ。他国の貴族は王妃様の妊娠に合わせて子作りをすると聞いたことがある。だが我が国ではそんなことはしない。第一王子のプラスマイナス一歳かつ公爵令嬢となると二十人いるかいないか。
色々条件を鑑みた結果、後々選ばれなくともどうにかなりそうな私が選ばれたという訳だ。
入学までの五年、ないし六年間、王子は三人の令嬢と同じだけの時間を過ごさなければならない。一分一秒たりとも狂いなく、平等なだけ。王子と会う時はいつも懐中時計を持った使用人がいて、過ごした時間を正確に書き記しておくのだ。王立学校に通ってからは時計から解放される。ここで各々自由にアピールをし、王子の十八歳の誕生パーティにて王子妃が公に発表される。
ここまでが八年前、第一王子と他の婚約者候補と共に説明されたルールである。
妃候補達には事前に通達があるとは聞いていたが、まさかライラック王子自らやってくるとは思わなかった。
「アンジェリーナ。私と結婚してほしい」
客間に入り、ソファに腰掛けるよりも早く、王子から白薔薇の花束が差し出される。添えられたプロポーズの言葉に頭が真っ白になった。
屋敷に迎えた時から大きな花束は目に入っていたけれど、まさか私に渡すためのものだとは思わなかったのだ。大きく息を吸い、彼の言葉を確認する。
「それは私を王子妃として選んだ、ということでお間違いないですね?」
「ああ。君と共に未来に歩いて行きたい」
右手で花束を受け取り、それで思いっきり王子の左頬を殴った。
初めて聞く音が客間に響く。綺麗に咲いていた花は花弁を散らし、無残に床に落ちていく。まるで彼が言えなかった言葉のように。
「棘、今度はちゃんと抜いてくれたのですね」
「幼い頃、君が泣いていたから」
「ありがとうございます。私、王子のお優しいところが好きですわ。だからずっと見て見ぬふりをしましたの」
今度も私が言いたいことは分かりますよね? と圧をかける。
「……だがロゼッタには好きな男がいる」
「それでもロゼッタ様は妃候補者です。あなたには彼女を選ぶ権利がある。何のためにハザム王子の力を借りたと思っているんですか!」
ライラック王子は愛しのロゼッタ様に会う時間を捻出するため、うり二つの双子の弟 ハザム王子の力を借りた。
もう一人の王子妃候補のマリー様だってライラック王子の恋心には気づいている。二人の王子が見分けのつかないほど似ていたのは幼少期だけ。何度も会えば次第に違いに気づく。
マリー様は違いに気づいてから早々に王子妃の座を諦めた。今は人目を避けるように幼馴染みとの恋を育んでいるのだと教えてくれた。会う度、王子とロゼッタ様の話をしている。
なのに当の本人はアタックする前に諦めて、特定の相手がいない私を選ぼうとしている。
「ハザムには感謝しているが、私には彼女の幸せを潰すことなんて出来ない」
「そう言わず、告白するだけ告白してみたらどうですか? 案外いい返事がもらえるかもしれませんよ」
「彼女は優しいから、断らないだろうな」
左頬を赤く腫らしたまま、悲しげに俯くライラック王子。
だが彼は大きな勘違いをしている。ロゼッタ様は見た目こそ可憐で美しいが、嫌だったらはっきりきっちり嫌だと断るタイプである。加えて計算高く、かなりズバッと意見を伝える。思っているほど弱い女性ではない。そもそもか弱いだけの令嬢が妃候補に選ばれるはずがない。
かつてマリー様が幼馴染みへの恋を諦めようとしていた時、確実に相手の心を掴んで離さない完璧マニュアルを考えたのは他ならぬロゼッタ様である。
『彼の心はすでにマリー様に傾いております。あとは甘えながら押してたまに引くのみ!』
拳を固め、デートの必須アイテム一覧の解説をするロゼッタ様の姿は記憶に焼き付いている。それまで勝手に思い込んでいた彼女のイメージが全て崩れ去った瞬間でもある。
マリー様が幼馴染みと上手くいった後の言葉を私は忘れていない。もちろんマリー様だって。
『私は私の得のために動いただけですから』
赤薔薇のように真っ赤に頬を染め、私達にお友達になってほしいと続けたのである。
可愛い可愛い牽制。私がライラック王子から受け取った白薔薇にあった小さな棘は彼女にはない。愛する人に捧ぐため、一つ一つ丁寧に棘を取ったのだろうと悟った。
とどのつまり、私もマリー様もロゼッタ様の恋心を知っているのだ。
彼女の好きな人は私の目の前でうじうじしている男である。優しすぎるのが玉に瑕だけれど、平和で平穏なこの国の未来の王様に相応しい、我が国の王子様。
「言う前に諦めてたら何も掴めませんよ。断られたらまた来てください。その時はもう少し気の利いた断り文句を用意しておきますから」
「やはり断るのか」
「私、ロマンス小説より推理小説が好きなので」
「なるほど。どうりで私の知る君とハザムから聞く君のイメージが合わない訳だ」
幼い頃、ライラック王子と会う時はいつだってロマンス小説を持っていた。推理小説好きなんて言えば怖がられてしまうと、父が姉に用意させた小道具だった。時間を潰すのにはピッタリで、姉のセレクトは恋愛以外の要素も多かったのでついつい読んでいたけれど。
一番はやはり推理小説だ。死体が転がる殺人事件から日常的な小さな謎を扱うものまで。探偵と呼ばれる存在はいつだって私の心を強く揺さぶった。
ため息を吐きたくなるほど色鮮やかな物語に出会う度、私は王子妃なんてものには向いていないのだと改めて理解する。恋愛小説も確かに面白いけれど、私は推理小説のような刺激がなければ生きていけないのだ。
だからハザム王子がやって来るようになった時、選考から外されたと悟った私は心底ホッとしたのだ。
自分を偽り続けなくてもいいのだと。
恋愛小説を読まなくてもいいのだと。
ライラック王子は紳士的でいい人だが、彼と一緒にいる時は少しだけ空気が薄くなったような気がしてならなかった。だが今は違う。肺いっぱいに綺麗な酸素を吸い込んで、すっきりとした心で言葉を紡ぐことが出来る。
「それで。いつロゼッタ様の元に行くんですか?」
「明日。花束を持って、彼女の元へ行く」
「それなら白薔薇は止めた方がいいですよ」
「……実は庭園の一角に赤薔薇を育てているんだ。庭師が育てたものほど綺麗ではないけれど」
「私の手の中でしおれた白薔薇よりよっぽどいいのではないでしょうか」
ロゼッタ様は涙を流して喜ぶことだろう。だがそれは私の口から告げるべきではない。ライラック王子が自分の目で見て確認することだ。もちろん、私が先ほどしたように花束で殴られる可能性だってある。
すでに王家の馬車が我がポミエール公爵家屋敷に来た情報は広まり始めているはず。一日も空けたらロゼッタ様の耳に入っていても不思議ではない。それでもいち幼馴染みとしては、王子には前を向いていてほしい。
両片思いなんてさっさと結ばれてしまえばいいのだ。慣習とはいえ、何年も待たせる方がどうかしている。
呆れたため息を吐けば、ライラック王子はしょんぼりと肩を落とした。
「アンジェリーナ、色々と悪かったな」
「王家の間違った選択を正すこともまた家臣の務めですから」
「ありがとう。……邪魔したな」
「お気をつけて」
頬を腫らしたライラック王子を玄関まで見送り、自室で読みかけの本を読む。もちろん推理小説だ。密室トリックについて考えている途中だったのだ。本を開き、考察を再開する。
「この草、毒性があるのは根っこだけ。それも乾燥させることによって毒性が薄れていくから……。この壁の素材も気になるな。密室を崩すか、殺した後に密室にするか……。煙突があるのに密室って言えるのかなぁ。うーん」
提示された情報をノートに書き込んで整理する。少し前のページまで戻り、浮かんだ情報が正しいか確認するのも忘れない。否定できる情報と可能性が強くなった情報に印を付けるのも忘れない。
「毒殺の可能性は高いけど、この作者の前作、犯行手段が遅効性の毒殺だったんだよな?」
続けて似たトリックを使うものだろうか。この作者なら同じ毒殺でもかなり捻りを入れてくるはずだ。爪や上唇に毒を塗って、食事のタイミングで自然と毒を摂取する形に持っていくとか……。いや、これは他の本で読んだなと否定する。
「ダメだ、今日はもう頭が働かないわ」
本を閉じ、ベッドにダイブする。
こういう時、いつもなら同じ作者の既存作を読むのだが、あいにく今はどれも手元にはない。ハザム王子に貸し出し中だ。彼はかなりの読書家で、本ならジャンルを問わず何でも読む。王立図書館の本はほとんど読破しており、勧めた本はすぐに読んでくれる。
ライラック王子も本は読むがほとんどが指南書や戦術書。小説はあまり読まず、有名な喜劇などの舞台の原作となりそうなものを好む。観劇好きのロゼッタ様とはこの点でも話が合うようだ。推理小説に出てきた植物を育ててキャッキャしている私とは大違いだ。
「私の趣味って読書とガーデニングでいいのかしら」
考えるのはこの先に待ち構えている結婚のこと。歴代の妃候補達は嫁ぎ先には困らなかったと聞いている。あくまでも嫁ぐ意思があればの話ではあるが。塞ぎ込んでしまう令嬢も多かったようだ。
私には塞ぎ込むなんて選択肢はない。結婚一択だ。修道院なんて入ったら自由に本屋にも行けやしない。本屋行きを止めるような相手との結婚も避けたいところだ。あとは庭の一部を自由に使わせてもらいたい。
一般的な令嬢の趣味である刺繍や編み物も好きだけど、読書では感じられない土の感触や植物の香りもまた私の人生を彩る大切なパーツなのだ。
「はぁ……どこかにいい結婚相手、落ちてないかな」
私の自分勝手な呟きは空気に溶けて消えていく……はずだった。
「アンジェリーナはもう結婚のことを考えているのか」
ドアの向こう側から、この場にいてはいけない人の声がした。慌ててベッドから降り、ドアを開く。
「いきなりドアを開けるな。危ないだろう。屋敷でも女性という自覚を持て」
「そんなことより、なぜハザム王子がここに!? 今は王子妃選考期間内よ」
「それについては心配ない。陛下からの命でここにいる……まぁそれはあくまでもついでだが」
「陛下からの?」
「ライラックが頬を腫らして戻ってきた。本人は問題ないと言っているが、アンジェリーナに不貞を働いてはいないか確認してくるようにとの命を受けた」
「ライラック王子はそういうことする人じゃないことはあなたがよく分かっているでしょうに……」
私の不敬を疑わないでいてくれたのは嬉しい。だがライラック王子は温厚な人だ。剣術の稽古でも優しすぎて攻め込めないところを指摘されるほどには。
幼い頃から一緒に指導を受けてきたハザム王子なら私よりも理解しているはずだ。守ってあげればいいのに、と呆れてしまう。
「ああ、どちらかというとアンジェリーナが不敬を働いたと言われた方が納得できる」
前言撤回。彼はこういう人だ。だが真っ直ぐに本心を言ってくれるところは嫌いではない。私の口からも自然と本当の言葉が溢れる。
「……ライラック王子がふざけたことを言い出したから叩いたのよ。悪いとは思ったけど、普通に説得しても多分通じないから」
「ふざけたこと?」
「求婚されたのよ。ロゼッタ様には好いた相手がいるからって。あれでいて私のことを馬鹿にしている訳じゃないんだからすごいわ」
「あいつ、昔からこういう時だけ妙に疎いんだよなぁ。身代わりを引き受けたのはもう十年以上前なんだけどな」
「薔薇の棘を全部抜いてくるほどの気遣い屋さんなのにねぇ」
「本当に馬鹿だよなぁ」
二人して遠くを見つめる。視線の先に思い描くのはもちろんライラック王子。優しいのにヘタレで、変なところに気を回す阿呆だ。……本当に世話が焼ける。
「でも今度はちゃんとロゼッタ様にプロポーズしに行くみたいだから、ライラック王子の言う通り、問題はないわ。頬の腫れが引かなかったら化粧でも塗って隠してあげて」
「その時はメイドを止めてでもそのまま行かせる。ロゼッタ嬢にも見てもらうといい」
「手厳しいのね」
「アンジェリーナこそ優しすぎるんじゃないか?」
「もしもあのまま逃げようとしたら、襟を引っ捕まえてでもロゼッタ様の元に連れて行ったわよ。でもちゃんと向き合うことにしたみたいだから、あとは見守るだけよ」
「俺が相手だったら構わず尻を蹴ってるくせに」
彼の中での私のイメージはそんなに野蛮なのだろうか。とはいえ何かあったら王子相手だろうと躊躇なく蹴れるのは事実だ。我がポミエール家の娘は幼い頃から護身術を叩き込まれている。回し蹴りくらい余裕だ。ハザム王子が受けてくれるかはまた別問題だが。
学園に入学して以降、もっといえばライラック王子との入れ替わりをしなくてよくなった時期から、ハザム王子は剣術の腕を磨いてきた。それに伴い身長も伸び、身体つきもよくなっている。
服装も煌びやかなものより簡素なものを好むことも合わさり、見た目だけ見れば王子様というよりは騎士である。今だってシャツにスラックスと非常にシンプルな服装で、首元にはうっすらと汗が見える。茶化しつつも急いで様子を見にきてくれたようだ。
「ところで他の用事って何なの?」
「本を返しにきた」
「え、そんなの今度でいいのに」
「作者の新作を読むって言ってたから、こっちも読みたくなるんじゃないかと思って」
彼が持ってきてくれたのは、私が先ほど読んでいた作者の既刊。ちょうど読み返したいと思っていたのだ。ありがたく受け取り、早速犯行手口が記されたページに軽く目を通していく。
「さすがハザム王子。私のことをよく分かってるわね。……女心は分からないくせに」
学園に入学してからのハザム王子はとにかくモテた。今までライラック王子の後ろに隠れてしまっていたが、彼だってかなり優秀だ。将来兄の支えとなる自覚と積み重ねてきた努力がある。
第二王子という立場に加え、頼り甲斐ある見た目も加わった結果、多くの令嬢が惚れたという訳だ。
何度もお誘いを受けては「兄の決定を見るまでは」とのらりくらりとかわしてしまうのだ。ここまではいいが、かわした後に私の元に来るのはやめてほしい。令嬢達からの視線が痛い。「王子妃候補なのにハザム王子まで」とヒシヒシと伝わってくるのだ。
私だって期待したくない。友人だからと安心しているのだろうが、私だって……。このまま友人でいいと諦めているのだからソッとしておいてほしい。
勝手に諦めて私にプロポーズしたライラック王子と、待避所として私を利用するハザム王子。この双子は二人揃って女心が分かっていないのだ。
「女心なんて知っていても意味ないだろう。結局向き合うのは性別ではなく個人だ。実際、付き合いが長いアンジェリーナのことはライラックよりもよく知っているつもりだ。俺ならニコ=スミス原作の観劇なんかには誘わない。二人で王都の薬草園に行く」
「なら今度一緒に行く?」
「ああ。弁当を用意していこう。もちろんたまごサンドは多めに」
「なら私はりんごのパウンドケーキを焼くわ」
楽しみだと笑い合いながらも、実現するはずがないことを理解している。王子妃選考が終わるまで下手な動きはできないし、決まった後はそれぞれが結婚相手を探さなければならない。陛下からの使いや同じ学生だからと理由をつけて二人で会うこともなくなる。
「じゃあ俺は行く。約束、忘れるなよ?」
「ええ」
こんな小さな約束も、きっと生涯忘れることはしない。ライラック王子の替え玉であった彼が私の本を覗き込んだあの日から、私の心は奪われているのだから。
二日後、ライラック王子から手紙が届いた。
ロゼッタ様に思いの丈を打ち明けたこと。受け入れてもらえたこと。次の日にはピンクの薔薇の花束を持ってマリー様の屋敷を訪れたこと。ロゼッタ様とマリー様は王子の頬を見て目を丸くして、けれども最後には笑っていたのだと。
またほぼ同時にロゼッタ様とマリー様から手紙が届いた。長年もだもださせられた仕返しとして、王子妃が発表される日にはそれぞれライラック王子からもらったものと同じ色の薔薇を身につけようというのだ。
私達はライバルではなく友人であることを示す意図と、それぞれがライラック王子に大切にされていたことを示す意図がある。だが一番はやはり、すでに出回ってしまっているライラック王子花束事件の謎解きのため。
候補者全員に花束を贈ったことは知れ渡っており、社交界に混乱を生んでいる。私達が身につけてくれば、ああこのためだったのかと聴衆は納得してくれるはずだ。
私には白薔薇なんて似合わないけれど、大事な二人のためだもの。メイドのベッキーに花を託すことにした。
「今日はこの花を使って、あなたが最高に美しいと思う令嬢に仕上げてちょうだい」
「ずっと嫌がっておられたのに……本当によろしいのですね?」
「派手なのは好きではないけれど、会場中の男性陣の目を引かないといけないから。独り身は私だけだからきっとロゼッタ様も許してくれるわ」
「このベッキーが必ずやお嬢様を傾国の美人に仕上げてみせます」
「そこは繁栄の美人にしてちょうだい。国も相手の家も豊かになってもらわなきゃ」
相手の家を豊かにするだけの能力なんてないけれど、せめてお嫁さんにもらってよかったと思われたい。私だってその人の奥さんになって幸せだと思いながら生涯を終えたいから。
物騒な事件が起きるのは小説の中だけでいい。刺激も欲しいけれど、ずっと隣にあってほしいと望むのは平穏で、やっぱりリットラー王国の国民なのである。
「お嬢様、素敵です」
「メイクってこんなに変わるのね……。こんな格好するのはきっと今日だけだわ」
白薔薇をメインとした清楚系ヘアスタイルに、それに負けないようにいつもよりも少し濃いめの化粧。せめてドレスくらいはと気合いを入れてオーダーした銀糸を大量にあしらったドレス。それに母のお気に入り中のお気に入りである、小ぶりな宝石をふんだんに使ったネックレスを貸してもらった。
正確には押し付けられたの方が正しいが。ネックレスに使用されている宝石にはそれぞれ意味がある。どれも今後の幸せを願ったもので、結婚が決まった際にプレゼントされたのだとか。「これでアンジェリーナも幸せを勝ち取れるはず」と押し付け、代わりに私が使用する予定だったイヤリングを持ち去ってしまったのである。
「何を言っておられるのですか。まだ結婚式がございますでしょう」
「ああ、ロゼッタ様とライラック王子の……。でもそっちは普段通りでいいわよ。主役は二人なんだし」
「もちろんそちらも大事ですが、ベッキーが言っているのはお嬢様の結婚式のことです」
「結婚相手が無事に見つかれば、の話でしょ」
「今日にでも見つかりますよ。ベッキーが保証します」
フンッと胸の張るベッキー。彼女から見てもかなりの自信作なのだろう。
それとも父がすでに結婚相手を見つけてくれているとか? 出会うにしろ、見つけてもらうにしろ、いい人がいいなぁとネックレスを撫でる。
そういえば以前、二番目の姉から聞いた話でも似たようなことがあった。婚約者と喧嘩してしまった直後に夜会に参加した時だったか。あの後どうなったのかは教えてもらえなかった。気づいた時には元の仲良し婚約者に戻っていたし、今でもおしどり夫婦として有名で、いいことがあったのは確かなのだが……。
なんだか無性に気になるが、残念ながら二番目の姉は王都から遠く離れた土地で暮らしている。母はきっと答えなんて教えてくれない。帰ってきたら姉に手紙を送って聞いてみよう。
馬車に乗り、会場に向かう。
先に来ていたマリー様もライラック王子からもらった薔薇を髪に飾っている。幼馴染みの彼の瞳と同じ色のイヤリングをつけている。彼からの贈り物だろうか。今は少し離れたところにいるようだが、彼のつけているネクタイはマリー様と同じ色。幸せオーラ満点である。
私とマリー様が会場に揃ったことで、ようやく周りの貴族も選ばれたのはロゼッタ様なのだと理解する。
「まさか二番目に訪れた家だとは」
「以前からライラック王子のロゼッタ嬢を見る目は優しかったからな」
「ああ、納得だ」
「マリー様は無理よ。二人の仲は引き裂けないわ」
ライラック王子が各家を訪問したことにより、混乱させてしまったが、彼らもまたライラック王子の好意に気づいていたのだ。というかバレバレだ。
混乱の原因は、政治的な思惑があってロゼッタ様を諦めたのかと驚いたから。
なんなら他国の王子が一昨年我が国に訪れた際、ロゼッタ様とライラックを眺めながら意味ありげに頷いていた。あまりにも分かりやすいもので、自国に帰る直前、王子本人からロゼッタ様の好みを聞かれた時もなんとも思わなかったほどだ。
おそらく近日中に友好国からロゼッタ様好みの贈り物が贈られてくることだろう。
壇上に登場した二人に視線を注ぎ、やはりお似合いだと強く頷く。マリー様も同じ。
マリー様の幸せオーラに負けず、満面の笑みで降りてくる二人に声をかける。
「ライラック王子、ロゼッタ様。この度はご婚姻おめでとうございます」
「ロゼッタ様の真っ青なドレス、よくお似合いですわ」
青はライラック王子の瞳の色。ロゼッタ様がずっと憧れていたドレスである。私とマリー様は彼女の思いを知っていた。彼女がどれほど喜んでいるかも簡単に想像できてしまう。
デザインもライラック王子と一緒に決めたのだろう。二人で並んだ時のバランスも取れている。
「アンジェリーナ、マリー。君達のおかげだ」
「ありがとう、二人とも。私はよき友人を持ったものだわ」
頬を軽く撫でる仕草をするライラック王子に、三人とも笑みが溢れた。意味を知らない周りはきょとんとしているけれど、令嬢が王子を叩いたことなど知らなくてもいいのだ。あれは激励のようなものなのだから。
「ええ、ええ。友人として、お二人には私の結婚式に出席していただきますわ。日程が決まったらライラック王子とロゼッタ様、アンジェリーナ様に一番に出すって決めていますの」
「ああ、必ず」
「ピンクの薔薇を持っていこうかしら」
「それなら参加者全員つけるというのもいいかもしれませんわね」
マリー様と一緒に王子をからかいながら見送る。
二人の思いの強さを証明するように、壇上から一番近い場所に陣を取る。いつの間にかマリー様のお相手とハザム王子も隣に来ていた。そして四人で並んで陛下の開会の言葉に続き、愛する二人の宣言を見守る。
数年間に渡る両片思いの末、二人は割れんばかりの拍手に包まれて祝福される。私も祝福の音を奏でた。
その後はお相手探しの時間となる。今回余っているのは私だけ。マリー様のお相手は、今日の夜会が始まる前からあまたの男性陣を牽制してきている。勝ち目はゼロだ。
狙いどころが少なすぎて、過去の候補者とは違い、ほとんどの男性がすでに婚約者を見つけている。だが諦めてはダメだ。近くの使用人から飲み物を受け取り、喉を潤してからその場を離れる。
けれどグラスを持っているのと逆の手を捕まれた。
「アンジェリーナ=ポミエール嬢」
「ハザム王子? なにを」
ハザム王子からかしこまった名前で呼ばれ、目を丸くする。突然のことで驚いていると、彼は私の前で膝を折った。私の右手の中にあったグラスはマリー様に抜き取られ、先ほどまで壇上にいた二人は聴衆に紛れている。
これから何が起きようとしているのか。分からないと首を捻るほど、私は幼い子どもではなかった。
「俺の役目はライラックを支えることだ。王子の役目がある以上、アンジェリーナが背中を見続けたポミエール公爵のような騎士にはなれない。それでもアンジェリーナの騎士でありたいと願う。だから俺の手を取ってほしい」
一緒に薬草園に行こう。
小声でそう付け足され、涙腺は限界を迎えた。
ハザム王子のことはずっと好きだった。けれど同時に騎士の妻にも憧れていた。
仲良しな両親、幸せになっていく姉達と、大事な人を持つ兄達を見て育ったのだ。幼い頃から当たり前のようにそこにある『幸せ』を自分も掴みたかった。だから諦めるべきなのだと。どうせ無理。彼はライラック王子に頼まれたから身代わりになっただけ。私にだけ相手がいないから仲良くしてくれている。ただの友人なのだ。高嶺の王子様よりも、騎士のお嫁さんになった方が何倍も幸せになれると自分に何度も言い聞かせてきた。
薬草園に行く約束だって最初から無理だと諦めていた。なのにハザム王子は叶えるつもりでいてくれたのだ。
不安で友人の方へと視線を向ける。何が起きるか、聞いていたのだろう。四人とも少し前の私みたいに優しい笑みを浮かべている。
壇上に目を向ければ、陛下と王妃様と目が合った。彼らはゆっくりと首を縦に振った。ハザム王子の相手が私でいいと、この手を受け入れていいのだと肯定してくれる。
「ありがと、う。私も、ずっと……あなたの隣にいたかった」
涙を落としながら、途切れ途切れの言葉で精一杯の返事を紡ぐ。
ハザム王子は私の答えなんて初めから分かっていたようだ。立ち上がった時、ほんの少しだけ口元は緩んでいた。けれどもすぐに真面目な顔を作り、私を抱きしめた。
二度目の拍手が会場いっぱいに広がったのだった。
ライラック王子が白薔薇の花束を持って屋敷を訪れた後、ハザム王子が急いでやってきた真の目的は、私の両親から婚姻の承諾をもらうためだったと知るのはもう少しだけ後のこと。
約束通りに薬草園を訪れ、私の焼いてきたりんごのパウンドケーキを頬張るハザム王子が幸せそうに教えてくれるのだ。
どれもリットラー王国を示すに相応しい言葉である。
大きな争いもなく、王族も貴族も国民も平和を大事にしており、ロマンス小説にあるような泥沼恋愛なんて見たこともない。他国からは『あの国だけ穏やかな時間が流れている。ゆったりと過ごすならリットラー王国をおいて他にはいない』なんて評価を受けるほど。
そこには嫌みも含まれているようだが、平和を愛するリットラー王国の治安は大陸一。産業と農業も盛んだ。最近発表された大陸ランキングの『老後に移住したい国ランキング』『バカンスに過ごしたい国ランキング』で堂々の一位に輝いた。
王都近郊に屋敷を構える我がポミエール公爵家は平穏を保つため、代々優秀な騎士を輩出している。父は公爵家を継ぐまで王宮騎士として働いており、一番上の兄も同じ道を辿る予定だ。二番目の兄と三番目の兄はそれぞれ妻を持ち、騎士として働いている。二人の姉も騎士に嫁いだ。
ならば末の娘である私も騎士の妻になる。兄と姉の流れからみればそうなるだろうと思っていた。父もかなり力を入れて婚約者を探してくれていた。騎士の名家 ブラントン家のご子息とは一つしか歳が変わらない。彼が婚約者になるかもしれないと、お茶会で見かける度に目で追っていた。
一方で、公爵家とはいえ三女ともなればそこまで条件のいい結婚は難しい。伯爵家の次男・三男あたりが妥当である。私は幼い頃から恋愛においてそこまで夢を見たことはない。必ず訪れる婚約者と結婚というものから目を背けるつもりはない。
現実を見た結果、かなりよい相手が選べて公爵令息だと思っていた。けれど父が持ってきた婚約話は伯爵令息でも公爵令息でもなかったのだ。
八年前、私は第一王子 ライラック=リットラー様の王子妃候補者として選ばれた。
あくまで候補。確定ではない。これはリットラー王国に古くから伝わる慣習で、第一王子が十歳の誕生日を迎えると同時に三人の王子妃候補が選ばれることになっているのだ。
選定条件は三つ。王子と近い歳であること・王子妃になるに相応しい家柄であること・学力や容姿など様々な分野において優秀であること。
公爵令嬢が選ばれるのが常だが、大抵は長女か次女。三女までお鉢が回ってこないものである。
だが前回・前々回の選定で問題が生じたらしい。前々回選ばれなかった令嬢の娘が前回の王子妃候補に選ばれてしまったのだ。その令嬢は王子妃になるには至らなかったのだが、前回の選定で当時の国王陛下がかなりの圧力をかけていたことが発覚した。
そこで今後は前回・前々回と妃候補に選ばれた家と、その令嬢と婚姻を結んだ家を弾くこととなった。争いを嫌い、丸く収めようとした結果、よい条件の令嬢が三人も見つからなかったーーと。
なんとも本末転倒である。
そもそも一つ目の条件でかなり絞りすぎなのだ。他国の貴族は王妃様の妊娠に合わせて子作りをすると聞いたことがある。だが我が国ではそんなことはしない。第一王子のプラスマイナス一歳かつ公爵令嬢となると二十人いるかいないか。
色々条件を鑑みた結果、後々選ばれなくともどうにかなりそうな私が選ばれたという訳だ。
入学までの五年、ないし六年間、王子は三人の令嬢と同じだけの時間を過ごさなければならない。一分一秒たりとも狂いなく、平等なだけ。王子と会う時はいつも懐中時計を持った使用人がいて、過ごした時間を正確に書き記しておくのだ。王立学校に通ってからは時計から解放される。ここで各々自由にアピールをし、王子の十八歳の誕生パーティにて王子妃が公に発表される。
ここまでが八年前、第一王子と他の婚約者候補と共に説明されたルールである。
妃候補達には事前に通達があるとは聞いていたが、まさかライラック王子自らやってくるとは思わなかった。
「アンジェリーナ。私と結婚してほしい」
客間に入り、ソファに腰掛けるよりも早く、王子から白薔薇の花束が差し出される。添えられたプロポーズの言葉に頭が真っ白になった。
屋敷に迎えた時から大きな花束は目に入っていたけれど、まさか私に渡すためのものだとは思わなかったのだ。大きく息を吸い、彼の言葉を確認する。
「それは私を王子妃として選んだ、ということでお間違いないですね?」
「ああ。君と共に未来に歩いて行きたい」
右手で花束を受け取り、それで思いっきり王子の左頬を殴った。
初めて聞く音が客間に響く。綺麗に咲いていた花は花弁を散らし、無残に床に落ちていく。まるで彼が言えなかった言葉のように。
「棘、今度はちゃんと抜いてくれたのですね」
「幼い頃、君が泣いていたから」
「ありがとうございます。私、王子のお優しいところが好きですわ。だからずっと見て見ぬふりをしましたの」
今度も私が言いたいことは分かりますよね? と圧をかける。
「……だがロゼッタには好きな男がいる」
「それでもロゼッタ様は妃候補者です。あなたには彼女を選ぶ権利がある。何のためにハザム王子の力を借りたと思っているんですか!」
ライラック王子は愛しのロゼッタ様に会う時間を捻出するため、うり二つの双子の弟 ハザム王子の力を借りた。
もう一人の王子妃候補のマリー様だってライラック王子の恋心には気づいている。二人の王子が見分けのつかないほど似ていたのは幼少期だけ。何度も会えば次第に違いに気づく。
マリー様は違いに気づいてから早々に王子妃の座を諦めた。今は人目を避けるように幼馴染みとの恋を育んでいるのだと教えてくれた。会う度、王子とロゼッタ様の話をしている。
なのに当の本人はアタックする前に諦めて、特定の相手がいない私を選ぼうとしている。
「ハザムには感謝しているが、私には彼女の幸せを潰すことなんて出来ない」
「そう言わず、告白するだけ告白してみたらどうですか? 案外いい返事がもらえるかもしれませんよ」
「彼女は優しいから、断らないだろうな」
左頬を赤く腫らしたまま、悲しげに俯くライラック王子。
だが彼は大きな勘違いをしている。ロゼッタ様は見た目こそ可憐で美しいが、嫌だったらはっきりきっちり嫌だと断るタイプである。加えて計算高く、かなりズバッと意見を伝える。思っているほど弱い女性ではない。そもそもか弱いだけの令嬢が妃候補に選ばれるはずがない。
かつてマリー様が幼馴染みへの恋を諦めようとしていた時、確実に相手の心を掴んで離さない完璧マニュアルを考えたのは他ならぬロゼッタ様である。
『彼の心はすでにマリー様に傾いております。あとは甘えながら押してたまに引くのみ!』
拳を固め、デートの必須アイテム一覧の解説をするロゼッタ様の姿は記憶に焼き付いている。それまで勝手に思い込んでいた彼女のイメージが全て崩れ去った瞬間でもある。
マリー様が幼馴染みと上手くいった後の言葉を私は忘れていない。もちろんマリー様だって。
『私は私の得のために動いただけですから』
赤薔薇のように真っ赤に頬を染め、私達にお友達になってほしいと続けたのである。
可愛い可愛い牽制。私がライラック王子から受け取った白薔薇にあった小さな棘は彼女にはない。愛する人に捧ぐため、一つ一つ丁寧に棘を取ったのだろうと悟った。
とどのつまり、私もマリー様もロゼッタ様の恋心を知っているのだ。
彼女の好きな人は私の目の前でうじうじしている男である。優しすぎるのが玉に瑕だけれど、平和で平穏なこの国の未来の王様に相応しい、我が国の王子様。
「言う前に諦めてたら何も掴めませんよ。断られたらまた来てください。その時はもう少し気の利いた断り文句を用意しておきますから」
「やはり断るのか」
「私、ロマンス小説より推理小説が好きなので」
「なるほど。どうりで私の知る君とハザムから聞く君のイメージが合わない訳だ」
幼い頃、ライラック王子と会う時はいつだってロマンス小説を持っていた。推理小説好きなんて言えば怖がられてしまうと、父が姉に用意させた小道具だった。時間を潰すのにはピッタリで、姉のセレクトは恋愛以外の要素も多かったのでついつい読んでいたけれど。
一番はやはり推理小説だ。死体が転がる殺人事件から日常的な小さな謎を扱うものまで。探偵と呼ばれる存在はいつだって私の心を強く揺さぶった。
ため息を吐きたくなるほど色鮮やかな物語に出会う度、私は王子妃なんてものには向いていないのだと改めて理解する。恋愛小説も確かに面白いけれど、私は推理小説のような刺激がなければ生きていけないのだ。
だからハザム王子がやって来るようになった時、選考から外されたと悟った私は心底ホッとしたのだ。
自分を偽り続けなくてもいいのだと。
恋愛小説を読まなくてもいいのだと。
ライラック王子は紳士的でいい人だが、彼と一緒にいる時は少しだけ空気が薄くなったような気がしてならなかった。だが今は違う。肺いっぱいに綺麗な酸素を吸い込んで、すっきりとした心で言葉を紡ぐことが出来る。
「それで。いつロゼッタ様の元に行くんですか?」
「明日。花束を持って、彼女の元へ行く」
「それなら白薔薇は止めた方がいいですよ」
「……実は庭園の一角に赤薔薇を育てているんだ。庭師が育てたものほど綺麗ではないけれど」
「私の手の中でしおれた白薔薇よりよっぽどいいのではないでしょうか」
ロゼッタ様は涙を流して喜ぶことだろう。だがそれは私の口から告げるべきではない。ライラック王子が自分の目で見て確認することだ。もちろん、私が先ほどしたように花束で殴られる可能性だってある。
すでに王家の馬車が我がポミエール公爵家屋敷に来た情報は広まり始めているはず。一日も空けたらロゼッタ様の耳に入っていても不思議ではない。それでもいち幼馴染みとしては、王子には前を向いていてほしい。
両片思いなんてさっさと結ばれてしまえばいいのだ。慣習とはいえ、何年も待たせる方がどうかしている。
呆れたため息を吐けば、ライラック王子はしょんぼりと肩を落とした。
「アンジェリーナ、色々と悪かったな」
「王家の間違った選択を正すこともまた家臣の務めですから」
「ありがとう。……邪魔したな」
「お気をつけて」
頬を腫らしたライラック王子を玄関まで見送り、自室で読みかけの本を読む。もちろん推理小説だ。密室トリックについて考えている途中だったのだ。本を開き、考察を再開する。
「この草、毒性があるのは根っこだけ。それも乾燥させることによって毒性が薄れていくから……。この壁の素材も気になるな。密室を崩すか、殺した後に密室にするか……。煙突があるのに密室って言えるのかなぁ。うーん」
提示された情報をノートに書き込んで整理する。少し前のページまで戻り、浮かんだ情報が正しいか確認するのも忘れない。否定できる情報と可能性が強くなった情報に印を付けるのも忘れない。
「毒殺の可能性は高いけど、この作者の前作、犯行手段が遅効性の毒殺だったんだよな?」
続けて似たトリックを使うものだろうか。この作者なら同じ毒殺でもかなり捻りを入れてくるはずだ。爪や上唇に毒を塗って、食事のタイミングで自然と毒を摂取する形に持っていくとか……。いや、これは他の本で読んだなと否定する。
「ダメだ、今日はもう頭が働かないわ」
本を閉じ、ベッドにダイブする。
こういう時、いつもなら同じ作者の既存作を読むのだが、あいにく今はどれも手元にはない。ハザム王子に貸し出し中だ。彼はかなりの読書家で、本ならジャンルを問わず何でも読む。王立図書館の本はほとんど読破しており、勧めた本はすぐに読んでくれる。
ライラック王子も本は読むがほとんどが指南書や戦術書。小説はあまり読まず、有名な喜劇などの舞台の原作となりそうなものを好む。観劇好きのロゼッタ様とはこの点でも話が合うようだ。推理小説に出てきた植物を育ててキャッキャしている私とは大違いだ。
「私の趣味って読書とガーデニングでいいのかしら」
考えるのはこの先に待ち構えている結婚のこと。歴代の妃候補達は嫁ぎ先には困らなかったと聞いている。あくまでも嫁ぐ意思があればの話ではあるが。塞ぎ込んでしまう令嬢も多かったようだ。
私には塞ぎ込むなんて選択肢はない。結婚一択だ。修道院なんて入ったら自由に本屋にも行けやしない。本屋行きを止めるような相手との結婚も避けたいところだ。あとは庭の一部を自由に使わせてもらいたい。
一般的な令嬢の趣味である刺繍や編み物も好きだけど、読書では感じられない土の感触や植物の香りもまた私の人生を彩る大切なパーツなのだ。
「はぁ……どこかにいい結婚相手、落ちてないかな」
私の自分勝手な呟きは空気に溶けて消えていく……はずだった。
「アンジェリーナはもう結婚のことを考えているのか」
ドアの向こう側から、この場にいてはいけない人の声がした。慌ててベッドから降り、ドアを開く。
「いきなりドアを開けるな。危ないだろう。屋敷でも女性という自覚を持て」
「そんなことより、なぜハザム王子がここに!? 今は王子妃選考期間内よ」
「それについては心配ない。陛下からの命でここにいる……まぁそれはあくまでもついでだが」
「陛下からの?」
「ライラックが頬を腫らして戻ってきた。本人は問題ないと言っているが、アンジェリーナに不貞を働いてはいないか確認してくるようにとの命を受けた」
「ライラック王子はそういうことする人じゃないことはあなたがよく分かっているでしょうに……」
私の不敬を疑わないでいてくれたのは嬉しい。だがライラック王子は温厚な人だ。剣術の稽古でも優しすぎて攻め込めないところを指摘されるほどには。
幼い頃から一緒に指導を受けてきたハザム王子なら私よりも理解しているはずだ。守ってあげればいいのに、と呆れてしまう。
「ああ、どちらかというとアンジェリーナが不敬を働いたと言われた方が納得できる」
前言撤回。彼はこういう人だ。だが真っ直ぐに本心を言ってくれるところは嫌いではない。私の口からも自然と本当の言葉が溢れる。
「……ライラック王子がふざけたことを言い出したから叩いたのよ。悪いとは思ったけど、普通に説得しても多分通じないから」
「ふざけたこと?」
「求婚されたのよ。ロゼッタ様には好いた相手がいるからって。あれでいて私のことを馬鹿にしている訳じゃないんだからすごいわ」
「あいつ、昔からこういう時だけ妙に疎いんだよなぁ。身代わりを引き受けたのはもう十年以上前なんだけどな」
「薔薇の棘を全部抜いてくるほどの気遣い屋さんなのにねぇ」
「本当に馬鹿だよなぁ」
二人して遠くを見つめる。視線の先に思い描くのはもちろんライラック王子。優しいのにヘタレで、変なところに気を回す阿呆だ。……本当に世話が焼ける。
「でも今度はちゃんとロゼッタ様にプロポーズしに行くみたいだから、ライラック王子の言う通り、問題はないわ。頬の腫れが引かなかったら化粧でも塗って隠してあげて」
「その時はメイドを止めてでもそのまま行かせる。ロゼッタ嬢にも見てもらうといい」
「手厳しいのね」
「アンジェリーナこそ優しすぎるんじゃないか?」
「もしもあのまま逃げようとしたら、襟を引っ捕まえてでもロゼッタ様の元に連れて行ったわよ。でもちゃんと向き合うことにしたみたいだから、あとは見守るだけよ」
「俺が相手だったら構わず尻を蹴ってるくせに」
彼の中での私のイメージはそんなに野蛮なのだろうか。とはいえ何かあったら王子相手だろうと躊躇なく蹴れるのは事実だ。我がポミエール家の娘は幼い頃から護身術を叩き込まれている。回し蹴りくらい余裕だ。ハザム王子が受けてくれるかはまた別問題だが。
学園に入学して以降、もっといえばライラック王子との入れ替わりをしなくてよくなった時期から、ハザム王子は剣術の腕を磨いてきた。それに伴い身長も伸び、身体つきもよくなっている。
服装も煌びやかなものより簡素なものを好むことも合わさり、見た目だけ見れば王子様というよりは騎士である。今だってシャツにスラックスと非常にシンプルな服装で、首元にはうっすらと汗が見える。茶化しつつも急いで様子を見にきてくれたようだ。
「ところで他の用事って何なの?」
「本を返しにきた」
「え、そんなの今度でいいのに」
「作者の新作を読むって言ってたから、こっちも読みたくなるんじゃないかと思って」
彼が持ってきてくれたのは、私が先ほど読んでいた作者の既刊。ちょうど読み返したいと思っていたのだ。ありがたく受け取り、早速犯行手口が記されたページに軽く目を通していく。
「さすがハザム王子。私のことをよく分かってるわね。……女心は分からないくせに」
学園に入学してからのハザム王子はとにかくモテた。今までライラック王子の後ろに隠れてしまっていたが、彼だってかなり優秀だ。将来兄の支えとなる自覚と積み重ねてきた努力がある。
第二王子という立場に加え、頼り甲斐ある見た目も加わった結果、多くの令嬢が惚れたという訳だ。
何度もお誘いを受けては「兄の決定を見るまでは」とのらりくらりとかわしてしまうのだ。ここまではいいが、かわした後に私の元に来るのはやめてほしい。令嬢達からの視線が痛い。「王子妃候補なのにハザム王子まで」とヒシヒシと伝わってくるのだ。
私だって期待したくない。友人だからと安心しているのだろうが、私だって……。このまま友人でいいと諦めているのだからソッとしておいてほしい。
勝手に諦めて私にプロポーズしたライラック王子と、待避所として私を利用するハザム王子。この双子は二人揃って女心が分かっていないのだ。
「女心なんて知っていても意味ないだろう。結局向き合うのは性別ではなく個人だ。実際、付き合いが長いアンジェリーナのことはライラックよりもよく知っているつもりだ。俺ならニコ=スミス原作の観劇なんかには誘わない。二人で王都の薬草園に行く」
「なら今度一緒に行く?」
「ああ。弁当を用意していこう。もちろんたまごサンドは多めに」
「なら私はりんごのパウンドケーキを焼くわ」
楽しみだと笑い合いながらも、実現するはずがないことを理解している。王子妃選考が終わるまで下手な動きはできないし、決まった後はそれぞれが結婚相手を探さなければならない。陛下からの使いや同じ学生だからと理由をつけて二人で会うこともなくなる。
「じゃあ俺は行く。約束、忘れるなよ?」
「ええ」
こんな小さな約束も、きっと生涯忘れることはしない。ライラック王子の替え玉であった彼が私の本を覗き込んだあの日から、私の心は奪われているのだから。
二日後、ライラック王子から手紙が届いた。
ロゼッタ様に思いの丈を打ち明けたこと。受け入れてもらえたこと。次の日にはピンクの薔薇の花束を持ってマリー様の屋敷を訪れたこと。ロゼッタ様とマリー様は王子の頬を見て目を丸くして、けれども最後には笑っていたのだと。
またほぼ同時にロゼッタ様とマリー様から手紙が届いた。長年もだもださせられた仕返しとして、王子妃が発表される日にはそれぞれライラック王子からもらったものと同じ色の薔薇を身につけようというのだ。
私達はライバルではなく友人であることを示す意図と、それぞれがライラック王子に大切にされていたことを示す意図がある。だが一番はやはり、すでに出回ってしまっているライラック王子花束事件の謎解きのため。
候補者全員に花束を贈ったことは知れ渡っており、社交界に混乱を生んでいる。私達が身につけてくれば、ああこのためだったのかと聴衆は納得してくれるはずだ。
私には白薔薇なんて似合わないけれど、大事な二人のためだもの。メイドのベッキーに花を託すことにした。
「今日はこの花を使って、あなたが最高に美しいと思う令嬢に仕上げてちょうだい」
「ずっと嫌がっておられたのに……本当によろしいのですね?」
「派手なのは好きではないけれど、会場中の男性陣の目を引かないといけないから。独り身は私だけだからきっとロゼッタ様も許してくれるわ」
「このベッキーが必ずやお嬢様を傾国の美人に仕上げてみせます」
「そこは繁栄の美人にしてちょうだい。国も相手の家も豊かになってもらわなきゃ」
相手の家を豊かにするだけの能力なんてないけれど、せめてお嫁さんにもらってよかったと思われたい。私だってその人の奥さんになって幸せだと思いながら生涯を終えたいから。
物騒な事件が起きるのは小説の中だけでいい。刺激も欲しいけれど、ずっと隣にあってほしいと望むのは平穏で、やっぱりリットラー王国の国民なのである。
「お嬢様、素敵です」
「メイクってこんなに変わるのね……。こんな格好するのはきっと今日だけだわ」
白薔薇をメインとした清楚系ヘアスタイルに、それに負けないようにいつもよりも少し濃いめの化粧。せめてドレスくらいはと気合いを入れてオーダーした銀糸を大量にあしらったドレス。それに母のお気に入り中のお気に入りである、小ぶりな宝石をふんだんに使ったネックレスを貸してもらった。
正確には押し付けられたの方が正しいが。ネックレスに使用されている宝石にはそれぞれ意味がある。どれも今後の幸せを願ったもので、結婚が決まった際にプレゼントされたのだとか。「これでアンジェリーナも幸せを勝ち取れるはず」と押し付け、代わりに私が使用する予定だったイヤリングを持ち去ってしまったのである。
「何を言っておられるのですか。まだ結婚式がございますでしょう」
「ああ、ロゼッタ様とライラック王子の……。でもそっちは普段通りでいいわよ。主役は二人なんだし」
「もちろんそちらも大事ですが、ベッキーが言っているのはお嬢様の結婚式のことです」
「結婚相手が無事に見つかれば、の話でしょ」
「今日にでも見つかりますよ。ベッキーが保証します」
フンッと胸の張るベッキー。彼女から見てもかなりの自信作なのだろう。
それとも父がすでに結婚相手を見つけてくれているとか? 出会うにしろ、見つけてもらうにしろ、いい人がいいなぁとネックレスを撫でる。
そういえば以前、二番目の姉から聞いた話でも似たようなことがあった。婚約者と喧嘩してしまった直後に夜会に参加した時だったか。あの後どうなったのかは教えてもらえなかった。気づいた時には元の仲良し婚約者に戻っていたし、今でもおしどり夫婦として有名で、いいことがあったのは確かなのだが……。
なんだか無性に気になるが、残念ながら二番目の姉は王都から遠く離れた土地で暮らしている。母はきっと答えなんて教えてくれない。帰ってきたら姉に手紙を送って聞いてみよう。
馬車に乗り、会場に向かう。
先に来ていたマリー様もライラック王子からもらった薔薇を髪に飾っている。幼馴染みの彼の瞳と同じ色のイヤリングをつけている。彼からの贈り物だろうか。今は少し離れたところにいるようだが、彼のつけているネクタイはマリー様と同じ色。幸せオーラ満点である。
私とマリー様が会場に揃ったことで、ようやく周りの貴族も選ばれたのはロゼッタ様なのだと理解する。
「まさか二番目に訪れた家だとは」
「以前からライラック王子のロゼッタ嬢を見る目は優しかったからな」
「ああ、納得だ」
「マリー様は無理よ。二人の仲は引き裂けないわ」
ライラック王子が各家を訪問したことにより、混乱させてしまったが、彼らもまたライラック王子の好意に気づいていたのだ。というかバレバレだ。
混乱の原因は、政治的な思惑があってロゼッタ様を諦めたのかと驚いたから。
なんなら他国の王子が一昨年我が国に訪れた際、ロゼッタ様とライラックを眺めながら意味ありげに頷いていた。あまりにも分かりやすいもので、自国に帰る直前、王子本人からロゼッタ様の好みを聞かれた時もなんとも思わなかったほどだ。
おそらく近日中に友好国からロゼッタ様好みの贈り物が贈られてくることだろう。
壇上に登場した二人に視線を注ぎ、やはりお似合いだと強く頷く。マリー様も同じ。
マリー様の幸せオーラに負けず、満面の笑みで降りてくる二人に声をかける。
「ライラック王子、ロゼッタ様。この度はご婚姻おめでとうございます」
「ロゼッタ様の真っ青なドレス、よくお似合いですわ」
青はライラック王子の瞳の色。ロゼッタ様がずっと憧れていたドレスである。私とマリー様は彼女の思いを知っていた。彼女がどれほど喜んでいるかも簡単に想像できてしまう。
デザインもライラック王子と一緒に決めたのだろう。二人で並んだ時のバランスも取れている。
「アンジェリーナ、マリー。君達のおかげだ」
「ありがとう、二人とも。私はよき友人を持ったものだわ」
頬を軽く撫でる仕草をするライラック王子に、三人とも笑みが溢れた。意味を知らない周りはきょとんとしているけれど、令嬢が王子を叩いたことなど知らなくてもいいのだ。あれは激励のようなものなのだから。
「ええ、ええ。友人として、お二人には私の結婚式に出席していただきますわ。日程が決まったらライラック王子とロゼッタ様、アンジェリーナ様に一番に出すって決めていますの」
「ああ、必ず」
「ピンクの薔薇を持っていこうかしら」
「それなら参加者全員つけるというのもいいかもしれませんわね」
マリー様と一緒に王子をからかいながら見送る。
二人の思いの強さを証明するように、壇上から一番近い場所に陣を取る。いつの間にかマリー様のお相手とハザム王子も隣に来ていた。そして四人で並んで陛下の開会の言葉に続き、愛する二人の宣言を見守る。
数年間に渡る両片思いの末、二人は割れんばかりの拍手に包まれて祝福される。私も祝福の音を奏でた。
その後はお相手探しの時間となる。今回余っているのは私だけ。マリー様のお相手は、今日の夜会が始まる前からあまたの男性陣を牽制してきている。勝ち目はゼロだ。
狙いどころが少なすぎて、過去の候補者とは違い、ほとんどの男性がすでに婚約者を見つけている。だが諦めてはダメだ。近くの使用人から飲み物を受け取り、喉を潤してからその場を離れる。
けれどグラスを持っているのと逆の手を捕まれた。
「アンジェリーナ=ポミエール嬢」
「ハザム王子? なにを」
ハザム王子からかしこまった名前で呼ばれ、目を丸くする。突然のことで驚いていると、彼は私の前で膝を折った。私の右手の中にあったグラスはマリー様に抜き取られ、先ほどまで壇上にいた二人は聴衆に紛れている。
これから何が起きようとしているのか。分からないと首を捻るほど、私は幼い子どもではなかった。
「俺の役目はライラックを支えることだ。王子の役目がある以上、アンジェリーナが背中を見続けたポミエール公爵のような騎士にはなれない。それでもアンジェリーナの騎士でありたいと願う。だから俺の手を取ってほしい」
一緒に薬草園に行こう。
小声でそう付け足され、涙腺は限界を迎えた。
ハザム王子のことはずっと好きだった。けれど同時に騎士の妻にも憧れていた。
仲良しな両親、幸せになっていく姉達と、大事な人を持つ兄達を見て育ったのだ。幼い頃から当たり前のようにそこにある『幸せ』を自分も掴みたかった。だから諦めるべきなのだと。どうせ無理。彼はライラック王子に頼まれたから身代わりになっただけ。私にだけ相手がいないから仲良くしてくれている。ただの友人なのだ。高嶺の王子様よりも、騎士のお嫁さんになった方が何倍も幸せになれると自分に何度も言い聞かせてきた。
薬草園に行く約束だって最初から無理だと諦めていた。なのにハザム王子は叶えるつもりでいてくれたのだ。
不安で友人の方へと視線を向ける。何が起きるか、聞いていたのだろう。四人とも少し前の私みたいに優しい笑みを浮かべている。
壇上に目を向ければ、陛下と王妃様と目が合った。彼らはゆっくりと首を縦に振った。ハザム王子の相手が私でいいと、この手を受け入れていいのだと肯定してくれる。
「ありがと、う。私も、ずっと……あなたの隣にいたかった」
涙を落としながら、途切れ途切れの言葉で精一杯の返事を紡ぐ。
ハザム王子は私の答えなんて初めから分かっていたようだ。立ち上がった時、ほんの少しだけ口元は緩んでいた。けれどもすぐに真面目な顔を作り、私を抱きしめた。
二度目の拍手が会場いっぱいに広がったのだった。
ライラック王子が白薔薇の花束を持って屋敷を訪れた後、ハザム王子が急いでやってきた真の目的は、私の両親から婚姻の承諾をもらうためだったと知るのはもう少しだけ後のこと。
約束通りに薬草園を訪れ、私の焼いてきたりんごのパウンドケーキを頬張るハザム王子が幸せそうに教えてくれるのだ。