幸せで飯を食う女×不幸で飯を食う男の1LDK
2章 地獄の同棲生活
「お先に失礼します」

 医局に残って作業をしていた同僚に挨拶をしてから、俺は病院を後にする。

 職員通用口から外に出ると、涼やかに肌を撫でていく夜風が心地良い。
 思わず、頬がほころぶ。
 スマホを見れば、時刻は23時を少し過ぎたぐらいだった。

「夏の夜風ってのは、良いもんだ。これから、自転車が更に気持ち良くなる」

 今は初夏。
 これからドンドンと暑くなっていく。

 昼は地獄だが、早朝と夜にかけては自転車は最高だ。
 風を切るのが、なんと心地良い感触なのだろうか。
 自転車で走る爽快さを感じつつも、自分の汚い行いについては罪悪感を覚えてしまう。

「偽装……か」

 人は己の利害を考え、行動に移してしまう愚かな生き物だと実感する。
 偽装ということは、誰かを騙す為にやっていること。
 それは社会通念上の常識や倫理に反する行為だ。

 少なくとも、川口さんや俺の両親にバレれば非常に不愉快な思いをさせてしまうだろう。
 明確な犯罪ラインは決して超えていない。
 詰まる所、ルームシェアのようなものだから。
 それでも、人から褒められる行為でないのは間違いない。

「互いの両親や同僚が何も言わなくなる……。それまでだ」

 何時までもダラダラと続けはしない。
 お互いの利が確定するまでの一時的なものだ。
 それは川口さん自身も宣言していたから、間違いない。
 得も言われぬ罪悪感も、自ずと消え去るだろう。

 自宅マンションへ到着し、駐輪場へと自転車を停める。
 自室までの階段を上っていると、勤務で肉体が疲労したのをドッと自覚する。

 大腿が重い、足を動かすのにかなり気力を要する。
 だが、後少しだ。
 後少しで休める。
 その思いこそが、キツい階段の上へと俺を突き動かす力になる。

「ふぅ……。あ?」

「あ。……ぇ」

 玄関を開き、靴を脱ごうとすると――横目に半裸の女が目に入った。

 上半身には下着しか着用していないのか、縊れた腹は丸見え。
 下はハーフパンツを履いているから問題ないが、濡れた長い髪をタオルで拭っている。
 半裸女は、唖然とした顔で固まっていた。

 俺も同じだ。

 状況を一つ一つ脳内整理していくが、身体は錆び付いたかのように動かない。

「……タオルで隠してくれていて、良かった」

 偽装同棲している川口雪華さんが、入浴から出て来た場面に遭遇してしまった。
 そう理解した時、思わず口を突いて出た言葉は、大事故に至らなくて良かったという感想だ。

 これが全裸だったりしたら、もう最悪だ。
 お互いに気まずい。
 この状態なら水着姿より、布で覆われている面積は大きいからな。
 問題ないだろう。

「きゃぁあああ!」

 両手で身体を隠すように、川口さんがしゃがみ込んだ。
 悲鳴を上げて。

「へ、変態! スケベ! 覗き魔!」

 なんで俺が忍び込んだ変質者のように扱われているんだ!?
 自分が賃借契約している家に帰ってきただけなのに!
 全く納得がいかんぞ!?

「ふ、ふざけるな! 覗き魔などと蔑まれる覚えはない! 俺は自分の住む家に帰って来ただけだ! むしろ俺の家で半裸のアンタこそが露出狂だろうが!?」

「だ、誰が露出狂よ! 今は私の家でもあるのを忘れたの!?」

「な……なん、だと?」

 偽装同棲というのは、賃借人じゃなくても自分の家であると主張出来るのか!?
 あくまで同居人ではないのか!?

「良いから、出て行って! 良いって言うまで、入ってくるな!」

 その声に弾かれるように、俺は部屋を飛び出す。

「屈してしまった……」

 こんな理不尽な要求に応じてしまうとは……。
 何故、疲れて帰って来て直ぐに追い出されなければならんのだ!?
 クソ……。
 やっと休めると思っていた分、疲労が何倍にも感じる。

 心中で愚痴を言っていると、いよいよ身体に限界が訪れた。
 もう立っているのも辛い。

 ドアを背に座りこんでしまう。
 さすがに尻まで廊下につけるのは、衛生的にもマナーとしても最悪なので堪えたが……。

「どれ程譲歩したとしても、だ。……俺の家でもある、よな?」

 何故、入ることすら許されず表に出されねばならんのだ。

 ハァ~と、大きな溜息を吐いた時――背後から押される力を感じ、廊下へ顔から倒れ込んでしまう。

「……もう、入っても良いわよ」

「……俺の惨状を見て、他に言うことはないのか?」

「あんた、廊下で寝るの?」

 こいつ、張り倒したい。
< 18 / 22 >

この作品をシェア

pagetop