幸せで飯を食う女×不幸で飯を食う男の1LDK
「何か、転科前に質問はありますか? 或いは、データに表れていない些細な気付きや病状変化でも、気軽にどうぞ」
「い、いえ……。毎度、丁寧過ぎるぐらい丁寧に説明して頂いてますので……。大丈夫です」
「そうですか、それは良かった」
「先生は本当に、几帳面《きちょうめん》過ぎるぐらいに丁寧で……。あのお金は、本当に感謝のつもりだったんですが……」
まだ言うか。
金とは、様々な意味で重いんだ。
人生で稼げる額の目安は、概ね決まっていると言うのに。
たとえこの患者の主張が事実だとしても、正当な診療報酬だけでなく、このような無駄遣いをしたがる気性は好ましくない。
「お気持ちだけで結構です。私はやるべき当たり前のことをしただけです。人の不幸で飯を喰わせてもらっている仕事として、ね」
「……人の不幸で、飯を?」
「そうです。医者っていうのは、病気やケガで不幸になる人が居なければ不要な仕事です。そして、それは有史以来供給の絶えない不幸だ。これだけ医学や科学技術が進歩して、日夜研究業務に励んでいようと、人が不幸になる歴史に終止符《しゅうしふ》を打てないでいる。つまり、医者とは人の不幸で飯を喰い続けて行く仕事なんですよ」
「それは……。少し、自虐され過ぎでは? 私は、先生に命を救われました」
「そう、それです」
「え?」
「不幸の中でも、最悪の不幸よりは少しマシだ。そう患者さんに思ってもらえたのなら、充分です。袖の下なんて渡されたら、不幸な人に余計な不幸を追加してしまう。そんなプライドのないルール違反者に、私はなりたくないんです」
「あ……。そう言う、ことですか。……先ほどは、本当に失礼しました」
「いえ。それでは、もう二度と私に遭わないことを、お祈りしています」
「……え? そこは、また会いましょうでは?」
「救急科で働く私に会うということは、緊急事態に遭遇するのと同義だ。そうならないことを、お祈りしていますよ」
「……先生は、偏屈《へんくつ》ですね」
「よく言われます」
「それに、不器用ですよね。冷たいと、人に誤解を与えそう」
「それでも、俺は正しいことを伝えるのみです。……それでは、どうかお大事に」
頭を下げる患者に背を向け、俺は集中治療室から出てスタッフステーションへと向かう。
スタッフステーションに入り、椅子へ腰掛け大きく息を吐く。
経済観念が低いのか、それとも地獄の沙汰も金次第という言葉を、昨今の病院実態が崩せていないのか……。
封筒の厚みから、札が10枚以上はあっただろう。
全く、面白くない……。
金はもっと計画的かつ、利害を考え適切に使うべきだ。
今の患者の様子や処置内容を医師記録へと記入し、転科先へと送る診療情報提供書《しんりょうじょうほうていきょうしょ》には詳細なデータと合わせて記入して行く。
「南先生。ここは僕が代わるから、医局に行ってきな?」
先輩医師がスタッフステーションへとやって来て、そう声をかけてきた。
「医局に?」
「うん。教授が呼んでいたから」
「……そうですか」
俺は書きかけの診療情報提供書を下書き保存し、席を立つ。
スタッフステーションに残されたリーダーナースにも「医局に行って来ます。何かあれば、ブルートゥースで」と院内用のスマホをかざして見せる。
忙しなくも頷いたのを確認してから、俺は完全に病棟を離れる。
昨今はPHSが使えなくなった代わりに、スマホが支給された。
スマホの電波が医療機器の誤作動を起こすというのは、もはや都市伝説だ。
便利なことにブルートゥースで繋がったスマホは救急科病棟や医局などのグループへ、音声や映像をライブで共有出来る。
慣れるまでに時間はかかったが……。
これまで以上に、迅速に多部署や多人数と情報共有や対応を可能にしている。
1秒を重んじる救急科では重宝するアイテムだ。
そうこう考えているうちに、医局へと着いた。
ドアを開けると、パソコンに向かいながら作業をする医師が山と見える。
……あの先生、何日帰ってないんだろうな。
前に医局へ戻った時にもいたし、昨日も同じ服装だった気がする。
まぁ、医者にはよくあることだ。
36時間連続の勤務。
そして勤務が終わっても仮眠を取ってから、自宅に帰らず研究を進める人がゴロゴロと居る。
……俺もその1人な訳だが。
「教授、お待たせしました」
鼻の下に立派な髭をたくわえた教授に声をかける。
机に置いてある文献を見る限り、先日共同で発表した研究内容を論文化する話だろう。
先日、教授の院内アドレスへと論文の初稿《しょこう》を送ったのだ。
部署責任者であり、厳しくも鋭い教授へは、研究内容のチェックや指導をお願いしている。
論文に目を通したから、修正指導をしたいと呼びだしたのだろう。
「おお、南先生。悪いね。私もこの後、病棟に行くからその時でも良いかなとは思ったんだが……。急患や急変で半日会えなくなると、困るからね」
「ええ。大丈夫です。俺もそこは理解していますから」
救急科とは、ハッキリ言ってそう言う場所だ。
急患が来て外来担当が足りなければ、病棟からも家からも駆り出される。
病棟配置人数が足りなければ、呼び出されるのが当然だ。
顔を合わせられる時に顔を合わせ、情報共有や分担などを話し合っておくに越したことはないのだ。
「そうか。それで、南先生が引用したこの文献の妥当性に関してなんだが……」
「はい」
それから数分、問答をしながら修正をして行く内容のご指導を受けた。
「それで、話は変わるのだが……」
「教授、なんでしょう?」
「私の姪《めい》っ子で、まだ未婚の――」
「――結構です」
「い、いえ……。毎度、丁寧過ぎるぐらい丁寧に説明して頂いてますので……。大丈夫です」
「そうですか、それは良かった」
「先生は本当に、几帳面《きちょうめん》過ぎるぐらいに丁寧で……。あのお金は、本当に感謝のつもりだったんですが……」
まだ言うか。
金とは、様々な意味で重いんだ。
人生で稼げる額の目安は、概ね決まっていると言うのに。
たとえこの患者の主張が事実だとしても、正当な診療報酬だけでなく、このような無駄遣いをしたがる気性は好ましくない。
「お気持ちだけで結構です。私はやるべき当たり前のことをしただけです。人の不幸で飯を喰わせてもらっている仕事として、ね」
「……人の不幸で、飯を?」
「そうです。医者っていうのは、病気やケガで不幸になる人が居なければ不要な仕事です。そして、それは有史以来供給の絶えない不幸だ。これだけ医学や科学技術が進歩して、日夜研究業務に励んでいようと、人が不幸になる歴史に終止符《しゅうしふ》を打てないでいる。つまり、医者とは人の不幸で飯を喰い続けて行く仕事なんですよ」
「それは……。少し、自虐され過ぎでは? 私は、先生に命を救われました」
「そう、それです」
「え?」
「不幸の中でも、最悪の不幸よりは少しマシだ。そう患者さんに思ってもらえたのなら、充分です。袖の下なんて渡されたら、不幸な人に余計な不幸を追加してしまう。そんなプライドのないルール違反者に、私はなりたくないんです」
「あ……。そう言う、ことですか。……先ほどは、本当に失礼しました」
「いえ。それでは、もう二度と私に遭わないことを、お祈りしています」
「……え? そこは、また会いましょうでは?」
「救急科で働く私に会うということは、緊急事態に遭遇するのと同義だ。そうならないことを、お祈りしていますよ」
「……先生は、偏屈《へんくつ》ですね」
「よく言われます」
「それに、不器用ですよね。冷たいと、人に誤解を与えそう」
「それでも、俺は正しいことを伝えるのみです。……それでは、どうかお大事に」
頭を下げる患者に背を向け、俺は集中治療室から出てスタッフステーションへと向かう。
スタッフステーションに入り、椅子へ腰掛け大きく息を吐く。
経済観念が低いのか、それとも地獄の沙汰も金次第という言葉を、昨今の病院実態が崩せていないのか……。
封筒の厚みから、札が10枚以上はあっただろう。
全く、面白くない……。
金はもっと計画的かつ、利害を考え適切に使うべきだ。
今の患者の様子や処置内容を医師記録へと記入し、転科先へと送る診療情報提供書《しんりょうじょうほうていきょうしょ》には詳細なデータと合わせて記入して行く。
「南先生。ここは僕が代わるから、医局に行ってきな?」
先輩医師がスタッフステーションへとやって来て、そう声をかけてきた。
「医局に?」
「うん。教授が呼んでいたから」
「……そうですか」
俺は書きかけの診療情報提供書を下書き保存し、席を立つ。
スタッフステーションに残されたリーダーナースにも「医局に行って来ます。何かあれば、ブルートゥースで」と院内用のスマホをかざして見せる。
忙しなくも頷いたのを確認してから、俺は完全に病棟を離れる。
昨今はPHSが使えなくなった代わりに、スマホが支給された。
スマホの電波が医療機器の誤作動を起こすというのは、もはや都市伝説だ。
便利なことにブルートゥースで繋がったスマホは救急科病棟や医局などのグループへ、音声や映像をライブで共有出来る。
慣れるまでに時間はかかったが……。
これまで以上に、迅速に多部署や多人数と情報共有や対応を可能にしている。
1秒を重んじる救急科では重宝するアイテムだ。
そうこう考えているうちに、医局へと着いた。
ドアを開けると、パソコンに向かいながら作業をする医師が山と見える。
……あの先生、何日帰ってないんだろうな。
前に医局へ戻った時にもいたし、昨日も同じ服装だった気がする。
まぁ、医者にはよくあることだ。
36時間連続の勤務。
そして勤務が終わっても仮眠を取ってから、自宅に帰らず研究を進める人がゴロゴロと居る。
……俺もその1人な訳だが。
「教授、お待たせしました」
鼻の下に立派な髭をたくわえた教授に声をかける。
机に置いてある文献を見る限り、先日共同で発表した研究内容を論文化する話だろう。
先日、教授の院内アドレスへと論文の初稿《しょこう》を送ったのだ。
部署責任者であり、厳しくも鋭い教授へは、研究内容のチェックや指導をお願いしている。
論文に目を通したから、修正指導をしたいと呼びだしたのだろう。
「おお、南先生。悪いね。私もこの後、病棟に行くからその時でも良いかなとは思ったんだが……。急患や急変で半日会えなくなると、困るからね」
「ええ。大丈夫です。俺もそこは理解していますから」
救急科とは、ハッキリ言ってそう言う場所だ。
急患が来て外来担当が足りなければ、病棟からも家からも駆り出される。
病棟配置人数が足りなければ、呼び出されるのが当然だ。
顔を合わせられる時に顔を合わせ、情報共有や分担などを話し合っておくに越したことはないのだ。
「そうか。それで、南先生が引用したこの文献の妥当性に関してなんだが……」
「はい」
それから数分、問答をしながら修正をして行く内容のご指導を受けた。
「それで、話は変わるのだが……」
「教授、なんでしょう?」
「私の姪《めい》っ子で、まだ未婚の――」
「――結構です」