幸せで飯を食う女×不幸で飯を食う男の1LDK
「あのね……。私に抱きついてるように見えるかもだけど、実際には盾にして隠れたでしょ?」

「す、済まん。だが、俺は身長が高いんだ。ほんの直ぐ上を巨大生物が通過する恐怖が……。そもそも、なんだここは?」

「海中トンネルよ。心配しなくても、ガラスで覆われてるんだから襲われないわ」

「そ、そうは分かっていても――ま、マンタァアアア!? お、おい、今マンタが通ったぞ!? 見たか!?」

 再び頭上へ襲い来る別の怪物に驚愕し、また川口さんにしがみついてしまう。

「マンタでビビるとか……。本当に水族館へ来るの初めてなんだ……」

「おま……。マンタをバカにしているのか!? 世界中のダイバーが一目見たいと、憧れている存在だぞ!? 謝れ!」

「ここは自然の海じゃなくて、水族館よ。何時でも100パーセント会えるの。もし、この水族館でダイバーだけがマンタを見られなければ謝るわよ」

 なんて夢のないヤツだ。
 だが、そうか……。
 慣れて来ると、目の前でこれ程大きな生物が優雅に泳ぎ回る姿は、正に圧巻の一言だな……。
 成る程、コーヒーに1100円払うより、良い体験が出来ている気がする。
 これは楽しいぞ!

「そろそろ、進みましょうか」

「まだ他にも展示水槽があるのか?」

「まだ始まったばかりじゃない。一杯あるわよ?」

 俺の問いへ子供のように無邪気な笑顔を向け、川口さんは答える。

 まだ他にも一杯ある、だと?
 だが、これが最大の目玉だったはずだ。
 余り期待値を高めて、ガッカリしても困る。

 期待せず、川口さんの誘導に従い進んでいく。

「な、なんだ……。この癒やし空間は」

 時が止まっているのか?
 いや、ゆったりと流れている。

 暗い室内に、水槽内を照らすLED照明。
 そして水槽の中で、水流に流されていくクラゲ。
 ふよん、ふよんと泳ぐクラゲ。
 何故だ……。
 知識として、クラゲという存在はよく知っていた。
 だが毒への処置だったり、文面によるものが大半だ。

「クラゲ、可愛いし癒やされるわね」

「俺は……この桃源郷へと辿り着く為に、今まで頑張って来たのかもしれん」

「ちょっと、あんた目がやばいわよ!? トロンって、溶けそう!」

「なんという、癒やしなんだ……。病院の当直室で、是非とも飼いたい」

「クラゲの飼育って難しいらしいわよ?……あんた、よっぽど疲れてたのね」

 水槽にへばりつく俺の背を、川口さんはソッと撫でてくれた。
 俺は猫じゃないのだが……。
 ああ、展示されているクラゲを見ていれば、医者としての一刻を争う現場の喧噪も忘れてしまえる。

「ほら、行くわよ。あんたをここに長居させたら、マズい目をしているわ」

 引きずられるように、クラゲコーナーを後にする。

 名残惜しいが……。
 言われると、その通りかもしれない。
 なんだか無性に泣きそうになっていたし。
 長居すれば、動けなくなっていたかもしれない。

 その時、館内アナウンスが流れた。

「イルカショー、だと?」

「良いタイミングね! 見に行きましょう! 私、イルカ大好きなの!」

「ハンッ。クラゲの癒やしに勝てる訳がない。だが折角金を払ったんだ。見世物があるというなら、見に行くか」

「……もう、あんたの憎まれ口も可愛く思えてきたわ。どうせこの後の展開も読めているし」

 ふん、言っていろ。
 確かにここまでの俺は、年甲斐もなく展示物の思惑に乗せられてしまった。
 それは認める。
 だが、何時までもそう上手くいくと思うなよ――。

「――見ろ! なんだ、アレは!? 賢い、賢過ぎるぞ、イルカ! ああ、2匹同時、一糸乱れぬ統率されたジャンプだと!? 芸術点満点だ!」

「……もう、私は突っ込まないわよ?」

「空中から降り注ぐ水の舞、そしてプール中央を彩る光! 調教師が飛び込むと、必ずイルカが背に乗せたり、鼻で運ぶ! 色彩豊かな光の下をイルカが芸をするなんて……。なんて幻想的で美しいんだ! これ程可愛く、賢い生物が居たとは!?」

「お願いだから、水に濡れたいとか言って飛び出さないでね? 大人しくしててね?」

 ギュッと腕を組まれ、阻まれる。
 何故、俺の考えていることが分かったのだ? 

 司会をしているお姉さんが、いよいよ最後だと告げてくる。
 音楽が一層の盛り上がりを見せ、中央の水面に浮かぶ青紫の光が色濃くなる。
 会場のライトも暗くなったのか。
 これは東京という室内プールならではの演出だな!

「ぅおおお!? ジャンプした! し、飼育員を鼻に乗せて、垂直にジャンプしたぞ!? 3……いや、4メートルは跳んだぞ!?」

「もう……。折角凄いと感動しても、自分以上にはしゃいでいる人が隣に居ると、ちょっと冷静になるわね。……あなた、こんな子供っぽくて可愛い一面もあったのね」

 苦笑する川口さんが少し気になりつつも、俺はこちらへ向けて手を振るイルカに手を振り返すのが忙しい。
 後にしてくれ!

 そうしてイルカたちも去って行ってしまった。
 時刻的にも、そろそろ病院へ向かわねばならない時間だ。
 ……俺たちも、帰るとするか。

「仕方がない……。帰るとするか」

「ええ、そうね。……色々と、楽しかったわ」

 ああ、本当に。
 俺は何も理解していなかった。
 こんなにも楽しい場所が、品川にあったとは……。
 知らなかったな、品川にこんな景色があるなんて。

 俺は帰路につきながら、今日という1日を振り返っていた。
 東京なんか、全て把握しようとさえ思わないゴミゴミと乱雑な場所だ。
 なんでもある場所だとは、常々思っていた。

 学会などで駅へ入れば、普段俺が見ている暗く不幸な世界とは別だ。
 空腹と味に飢えている俺を誘惑する美味そうな食い物が、そこかしこのショーケースに所狭しと並び、誘惑して来やがる。
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