幸せで飯を食う女×不幸で飯を食う男の1LDK
「なんだと、貴様!」

「平均寿命で考えれば、どう考えてもアナタより雪華さんの方が長生きです! 父という世話人が居なくなった後、雪華さんは常識も知らず、収入に見合った生活も出来ずに破滅してゆく! そんなのは自由なんかじゃない! 親の自己満足で愛でている無責任な愛だ! いや、愛なんて呼称するのも烏滸がましい。自分だけ満足すれば言い、責任逃れの差別だ! 雛鳥を巣立たせる気もない、無茶苦茶な親鳥だ!」

 ぐぬっと呻り何かを言い返したいのか、唇をわななかせながら息を切らせている。

 そしてどうなるのか気になったのか、お袋さん。
 そして雪華さんが――玄関先に出て来ていた。
 胸の前で手をギュッと握り見守ってくれていた。

「……最初は、不倶戴天の敵だと思っていました。でも、あの狭い1LDKで共生するうちに互いの考えにも一理あると学べた」

 先ほどまでのように怒鳴り合いではない。
 落ち着いたトーンで語る。
 どうすれば説得が出来るのか、理論立てて、ゆっくりと。

「仕事もプライベートも充実したまま、常識ある範囲で、日々楽しいと思える生活をさせてあげたい。足りない所を補い、支え合いたい。お互いにそう思えるよう、考え実践させて欲しいんです。私に至らない所があれば明確に教えてください。最大限の尽力をします。娘さんと一緒に居させてください」

「……貴様が開業して成功する保証はない。独立がどれ程に大変かも分かっていない、雇われのくせに。独立拡大路線が失敗した時、残るのは多額の借金だけだ! 若造が大口を叩くな!」

「だからこそ私は、節約で自己資金を貯めているんです。勝算をより確実へ近づける為に。金だけじゃない。下げたくない頭を下げ、媚びを売って成功への根回しだってしてきました。それでも失敗したなら、いくらでもやり直せる。少なくともそう出来るように日々寝る間を惜しんで準備をしています」

「減らず口を……! 医者ってのは、どいつもこいつも口先が上手いんだな! ワシを重病人のように脅して金を毟る町医者と、貴様は同じだ!」

「口先だけではありません。これを見てください」

 手提げ鞄の中から、今日の為に夜通し準備していた書類を取り出し、親父さんへ両手で手渡す。
 親父さんは、受け取りもしない。
 唯、見下ろすように俺が差し出した書類を睨めつける。

「なんだ、その分厚い紙の束は?」

「医者は研究を始める時、研究計画書を作成して実現可能性まで他の医者に説明し、承認を得るんですよ。この書類は私たち2人が生活し続けた時に生じる利益、不利益。予測される困難な可能性とその対処法を、先人が築き上げてきたデータや統計から導きだしたものです」

「……な、なに?」

「ここに開業が成功した時の収益とライフプラン。失敗した時のリカバリープランも載せてあります! 考えなしに同棲を続けさせてくれと申し上げている訳ではありません!」

「下らん、貴様の口車になど乗らんわ! こんな小難しく書かれた紙切れなんぞ、実に下らん! 夫婦生活というのは、予想外の連続だ。このようなものは、机上の空論に過ぎん! 大切なのは、その場その場の困難を互いに乗り越える想いだ! 医者はこんなもので説得出来ようと、ワシを説得出来ると思うな!」

 この脳筋頑固親父、人が賢明に考えて造った書類を――読みもせずに破り捨てやがった!?
 それは人として超えてはならない一線だろう!?
 これだから理屈の通じないヤツは……。

 だが落ち着け、冷静になれ。
 俺がここに来た目的を忘れるな。
 理論も通じない相手、ならば――掛け値なしの本心で、ぶつかるしかない!

「俺は娘さんを愛している! もしもの時も、最悪の不幸に付き合わせないよう、いざと言う時に巣立って生活できるように、厳しい優しさも伝えてきた! だから、娘さんとこれからも一緒に居させてください! 一緒に暮らしたい、初めてそう思える人だったんです!」

「あの昭平さんが、感情論で……」

「もういい! ワシの軽トラに載れ! 街に捨ててきてやる!」

 片手で胸を押さえたたままの親父さんは、辛抱出来なくなったのか――俺のスーツの襟を掴み、引きずり始める。

 なんて力だ。
 180センチメートル以上ある俺を、引きずるとは。
 だが意地でもここを離れてたまるものか!

 先に住居侵入したのはアンタだからな。
 俺は帰れと言われても、絶対に立ち上がらん!

「説得が出来るまで、俺はここを離れません!」

「抵抗するな! 早く立て!」

 顔を真っ赤にして怒鳴りつけていた親父さんが――急にガクッと膝を折り、地面に倒れ伏した。

「――ぅ……ぐぅッ!?」

「お義父さん? どうしました、胸が痛むんですか!?」

「き、貴様に父と呼ばれる、覚えは……。ぐぅ、ぁあ……」

 慌てて縋り付くと、呻きながらも――しゃくり上げるような呼吸が呼吸音が聞こえた。

「――いかん! 死戦期呼吸だ! お袋さん、直ぐに救急車を! 雪華さんはAEDを持って来てくれ!」

 ここまでの身体症状からも、急性心筋梗塞の可能性が高い。
 だとすれば、時間との勝負だ! 

 俺はすかさず胸骨圧迫を開始しながら、そう指示を飛ばす。
 既に親父さんの意識はない。

 狼狽しながらも、お袋さんが涙目に屋内へ駆けて行くのが見えた。
 救急車の手配へ走ったのだろう。
 問題は、雪華さんの方だ。

「何をしている!? 早くしろ!」

「え、AEDがどこにあるのかなんて、分からないわよ!」

「俺の鞄からスマホを出せ! 日本全国AEDマップと書かれたアプリが入っている!」

「え、わ、分かったわ。……こ、これ?」

「そうだ! 一番近い所に向かって、直ぐに持って来い! 車でも良い!」

「う、うん!」

 足をもつれさせながらも、雪華さんも行動へと移った。
 俺はその間、適切な救命処置が出来るよう全力で胸骨圧迫を行う。

 雪華さんが向けたスマホには、9時24分と表示されていた。

 心停止が起きてから現在1分程度の経過。
 通報から救急が現場到着するまでには、9分前後かかると言われている。
 つまり、10分以上は俺1人で胸骨圧迫を続けなければいけない。

 汗が髪先から滴り、飛び散る。
 ――だが疲労したなんて言ってられない。
 心臓の血流を胸骨圧迫で補助しなければ、致死率は飛躍的に上がる。
 後遺症率もだ!

 心筋梗塞は突然死もあり得る。
 だが不幸中の幸いか、まだ生きている。
 病院に運び込まれても5から10パーセントは亡くなる重い病。

 だがAEDを使用すれば生存率は跳ね上がる。AED不使用での生存率が8.1パーセントに対し、AEDを使用すれば32.1パーセントだ!
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