「妖精の国」のおとぎ話
ティティが目を覚ましてから数時間後、レイは“妖精の家”の隠し部屋にいた。
(まさか俺がリヒトに時間稼ぎを頼むとはな)
綺麗にセッティングしていたはずのテーブルと椅子は乱されている。結婚式以来誰も入っていないはずなので、誰のせいでそうなっているかに気づき、レイは大きく息を吐き出した。それからセッティングを直し始める。床もところどころに不自然な傷が増えていて、どうも乱雑に歩き回ったらしいことも知れた。
(リヒトが面白いと言うだけはある)
基本的に色んなことをソツなくこなせるせいか、リヒトは普通や平均を好まない傾向はある。それだけに猫を被っているだのという評価も含めて、フィフィーという存在に更に強い興味を抱いた。
胸元に隠し持っていた結婚式の時の花を手に取る。フィフィーは式の最後にレイを突き飛ばした。ああいうところが素なのだろう。
元々、レイは王族に戻るつもりはなかった。というよりは、王族だということを知らなかったため、母親と二人ずっと変わらず貧乏な暮らしをしていくのが自分の人生だと思っていた。
それが高齢になった王が位を譲るために庶子の自分の存在を明らかにし、迎えを寄越すまでは王都など夢物語の地名くらいにしか信じていなかった。
だが、母親がやたらと礼儀作法や教養を教え込むのに熱心だった理由がハッキリし、また誇らしげに自分を突き出した母親を見て居場所がここでないことも悟った。
父親に文句を言うのも悪くないな、と軽い気持ちで王城へ行き、結局帰る場所もないのだからと王位を継ぐことにした。
(結局俺は何一つ今まで自分で選ばずにここに来たのか)
今だって、流れに沿って軽い思い付きで起こした行動が波乱を呼んでいる。
指輪一つで大騒ぎして馬鹿らしい、と思わないでもない。でも、そのおかげでフィフィーの命は消えかかっていると妖精の長は言った。
『人間と妖精の間に子を為せぬ、というのは偽りだ。王よ。あなたはそれを世界に示してしまった。妖精は今ある力を用いて変化させることはできるが、生み出す力はない。それを持つのは人間と妖精の間に生まれた子のみ。そんな伝承が実は人間の世界の古い文献にはあるのだ。これから多くの人間がその事実を探し、真実に気づくだろう。あなたはそれごと秘密を暴いてしまった。多くの者はその力を欲し、“花嫁”を攫おうとするだろう』
非難するでもなく、会った瞬間から静かな瞳で滔滔と語った長は威厳に満ちていた。
『本来であれば、ただの妖精を“花嫁”として送り出すつもりだった我が方にも責任はある。まさか“花嫁”がそんなに怯えて身代わりになるとは思わなかった。だから一度だけ見逃そう。あの子の力は、自身の人間としての命を削り、新たなものを作り出す力。少しであれば自力で回復するが、花を生み出すほどあの子は死に向かっていく。それだけは忘れないように』
なんて勝手な言い分だ、と思わないでもない。だが、それを責められた義理ではないことも分かっている。
そもそも、“花嫁”が怯えるほど人間は妖精に恐れられているのに、身代わりを申し出たあの娘はなんて勇気に満ちているのだ、とレイは感心してしまった。
『皆、自分の子のようにあの子を愛しているのだ。あの子が望めばすぐにでもお返しいただきたいが』
『それを判断するのはあの娘、ということか』
『さよう』
選ばれる自信などない。長に返すべきだと、今は心が揺らぐ。
(だが、俺の隣を歩いてくれる者がいるなら)
また思考が元の位置へ戻りそうになり、頭を振ってレイは部屋の戸締りを確認してからイスの下の微かに持ち上がった床板を外す。一枚ずつ細く長く分かれているように見えるそれは正方形にまとまって取れて来た。
そこにできた穴を通り、レイは自室を目指す。
物置小屋やら城の見取り図にある不自然な空白地帯を繋げると、どうしてか王の寝室と小屋は繋がっていたのだ。ちゃんと上り下り出来るように通路にはハシゴも用意されていた。
(王は本気で妖精の長を“妖精の家”に囲うつもりだったのかもしれん)
数日前には批判した王と同じ心境になっているとは情けない。
音を立てないよう足早に進み、最後のハシゴをのぼる。上から賑やかな声が聞こえる。これは、たぶんリヒトと“花嫁”の声だ。
『お上手ですよ。もっと体をこちらに預けて』
『で、でも私初めてで上手くできなくて』
『誰にでも初めてはあるものです。心配しないで』
楽しそうな声が不愉快だ。拳を作り、勢いをつけて殴るようにして天板を外す。
「やあ、お帰り。レイ」
見せつけるようにリヒトは体を密着させ、優雅にステップを踏む。“花嫁”はリードされることでどうにかダンスの形を保っている風だが、筋は悪くなさそうだ。
(そうではなく!)
恥ずかし気にする様子に見惚れていたレイは我に返り、リヒトから“花嫁”を強引に奪う。腕の中に閉じ込めると花嫁の頬が更に赤くなった。
「どうして他人の寝室でダンスの練習をしてるんだ!」
「それは、フィフィーさんが少しでも出来ることからお后様教育を受けたいと」
「だったら、お前の部屋でやれ!」
「じゃあ、行きましょうか、フィフィーさん」
「いややっぱり許さん! 俺の部屋にいたということは俺に用事があったのだろう? お前の方が邪魔だ、とっとと去れ!」
自分の上空での応報を聞き、ティティは苦笑いを漏らす。知らないうちに王の腕に力が籠もり、だいぶ苦しくなり始めているが、言って良いものかどうか。
ティティの悩んでいる間も言い合いは続き、とうとう投げつける言葉がなくなったらしいレイは肩で息をする。リヒトはすっきりしたと言わんばかりの顔で美しい所作でドアへ向かう。
「フィフィーさん、この石頭、これでもあなたのことを気に入ってるんです。大事にしてあげてくださいね」
「だ、いじにって……」
レイの腕の中でティティはもぞもぞと居心地悪そうに動く。それにどう言葉を掛けるか考えているうちにリヒトは去って行った。
沈黙が二人の間に落ちる。
(心臓に悪いわ)
二人きりになるのは結婚式以来だ。ティティが見上げると、いかにも機嫌の悪そうな表情しか見えない。眼光も結婚式のときより数倍鋭く感じられる。
「あの、王」
「レイだ」
「れ、レイ、あの」
「お前は自ら買って出てフィフィーの身代わりになったらいいな。妖精の長に聞いた」
「そう……」
「お前の名前は?」
「ティティ」
「ティティ……」
吐息交じりに囁かれた自分の名は、なんだか恋人に呼ばれているみたいで落ち着かない。
(たかが名前じゃないの! それに、伝えなきゃいけないことがあって待ってたんだもの。今言わなくていつ言うの!)
自らを鼓舞し、ティティはレイの瞳を捉えた。
「お話をしたいんだけど」
「そこで構わない」
「私が気になるの!」
「俺は気にしない。とっとと話せ」
ムキになってしまったようで、レイは更に腕に力を籠めて来る。足で脛を蹴ると、一瞬だけ力が緩まったので腕から逃れティティは距離を取った。
「まず、騙しててごめんなさい」
「事情は長から聞いた。気にするな」
「あと、その……あなた、好きな人はいるの?」
「は?」
「愛してる人よ! 片想いでもいいわ。誰か好きになってくれる人でも、愛してくれる人でもいいんだけど」
もうこうなればヤケだ。
結婚式の日は驚くことだらけだった。恋人のように抱き締められたのも口づけされそうになったのも初めてで、大混乱だ。今だって、それは尾を引いている。
「何が、言いたい」
「結婚式のとき、あなた寂しそうな顔してたじゃない! 誰か、その、そういう人がいたけどなくしたのかと思って」
レイは目を瞬かせた。
「随分俺のことを見てるんだな」
「見たくて見たんじゃないわ! ただ、求婚したこと後悔してないかなと思って」
意気地なし! と心の中で叫びながらレイの返答を待つ。瞬きさえせず、レイはじっと食い入るようにティティを見つめた。
「思ってない。むしろ、お前はどうなんだ」
瞳に吸い込まれそうな感覚に囚われた頃、ぷいとレイが顔を背けた。
「俺はお前を危険な状況に巻き込んだ張本人だ。恨んでも仕方ないと思うが」
「そう? でも、あなたが直接刃物を向けて私の命を危険に曝してるわけじゃないでしょう? 恨むことなんて」
「今はそうでも、これから先そう思うかもしれない」
独り言のようなささやきは、二人きりの部屋では遮られることなくティティの耳に届く。
そっと手を伸ばして頬に触れると、一度びくりとしてからレイは手を受け入れた。
「まるであなた、馬さんみたいよ。最初触れたら、そういう反応されたもの。あなた、怖がりなのね」
「そんなこと」
「ないの? まあ、どっちでもいいの。このまま聞いてくれる?」
ティティの手に躊躇いがちにレイが触れる。大きな手の触れ方は酷く繊細だ。
(やっぱり)
ティティは恥ずかしさを堪えて、精一杯微笑んだ。
「私ね、妖精としては落ちこぼれなの。花も咲かせられないし、色だってつけられない。でも、あなたのそばにいたいの。結婚式の日言ったことは、本心だったから」
好き、の意味はまだ芽吹いたばかりで上手く伝えられない。でも、今この人を一人にしたら一人になってしまう、と思った。
(それは嫌)
「あんまり話したことのない私にそんなこと言われたら困るわよね。でも、この求婚をなかったことにできないなら、私、あなたのことを知って、ちゃんとあなたの隣に立てる存在になりたいと思ったの。それだけは伝えておきたくて」
レイの瞳の表面が揺れている。瞳に映ったロウソクの明かりは頼りなげでいて、部屋の一角を明るく照らすだけの力があった。
(私もこうなれるかしら)
手を下ろし、力の抜けた腕から逃れようとすると腰に回して隙間もないほど体を寄り添わされる。
「俺も、あの日言ったことは本心だった。軽率だったとは思う。でも取り消せない。お前のことも、急な時に手や足が出ることくらいしか知らない。だけど、今のお前の言葉が本心なら、その、フリじゃなくて……してもいいだろうか」
ふっとティティは笑った。笑いの波は一回笑ったくらいでは収まらず、しばらく一緒にレイも波に揺られる。
「何がおかしいんだ!」
「ごめんなさい。嬉しかっただけなの」
ティティは先ほどまで触れていた頬に軽く口づけた。妖精同士でも感謝でこういったキスはする。
でも、こんなにドキドキしたことは一度もない。
背伸びしてバランスを崩しかかった体は、レイに支えられている。なんだか暑い。
「どうせするなら、そっちじゃなくて」
ティティを腕一本で支え、自由にした方の手で顎を捉える。
あの日のように顔を近づけ、今日は止めることなく唇を合わせた。けれど、掠めるようにすぐにそれは離れていく。
「おい、赤いぞ」
「あなたこそ、赤いじゃない」
「いや。お前の方が」
「あなた耳まで真っ赤じゃない! 私は顔だけ!」
二人何を張り合っているんだろう。
どちらからともなく笑い合う。
「問題はこれからだが、俺たちならきっと上手くやって行ける。だからリヒトじゃなくて俺を頼れ。なんとか、するから」
「ありがとう」
ティティは明日からの生活に思いを馳せた。
まずはレイを知ることからだ。
窓の外では、そんな二人を祝福するように、月と星々がやわらかな輝きを放っていた。