わが心なぐさめかねつ

ああ、旨し!こよなし!

それに軽くうなずいて則子が「少弐様、わたくしめのあなた様への感謝と、真心を込めましてこの水を奉りたく、老醜をもかえりみず御前へと進み出ました。どうかお口汚しのほどを…」と改めて口上を申し上げます。その則子を敬服の目で見やりつつ高嗣は柄杓をば受け取りますと一気にこれを飲み干します。
「ああ、うまし!こよなし!‘旅人をはぐくむ’味こそする。これ、為介!こよなき‘母’のみ心とも思う、この御一献を、そなたもいただきやれ」と為介の名をばはっきりと云って互いが母子(おやこ)であることを明言して見せます…えー、中途して恐縮ですが「‘旅人をはぐくむ味’こそする」という高嗣のセリフは同時代の和歌で、‘旅人の宿せる野に霜ふらば我が子はぐくめ天(あめ)の鶴群(たづむら)」なる、子を思う母の気持ちを歌った名歌があるのです。意訳すれば‘ああ、鶴となって我が子のもとに舞い降りて行き、翼で覆って暖めてあげたい、霜から守ってあげたい’となりましょうか。子を慈しむ、せつないまでの母の名歌ではあります。これを知っている高嗣の和歌への薀蓄が知れようというものです。同時にわたくしのそれも…えー、ともかく、則子の前で為介の名を、また為介の前で母という言葉をはっきりと云い、互いが母子(おやこ)であることを明言してみせる高嗣。家持からの言伝をまったく顧みない、則子・為介への老婆心とも思えるほどのそのはからいに則子は深く感謝しつつ、手水舎よりいま一献の水をば柄杓に取って、我が子為介へとささげるのでありました。折りしも、いずこより来たりしものか一羽のほととぎすが樫の大木に来、とまりまして、その当て字のごとく「帰るにしかず、帰るに如かず」とでも云っているような、切なげな声で鳴き出しました。誰が誰に向って「帰ったほうがよい」すなわち「帰って来て」と云っているのでしょうか。我が身の男であることを、またすでに元服の身であることを恥じて口には出さなかったものの、全身で自分にそう云っていたかつての、幼き日の為介の姿が、そのたよりなげな顔が、この時則子の脳裏にありありとよみがえりました。
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