わが心なぐさめかねつ

は、母上…お懐かしゅう…

はからずも思はずも、ひとすじの涙が則子のほおを伝って流れ落ちます。こらえてもこらえてもこらえ切れぬひとすじの涙、それこそが則子の為介に対する何よりの想いを明かしていました。がしかし、それを隠すように袖口でぬぐいつつ、そのかわりに、いまは石上家家令にまでなってくれた、艱難辛苦の末の我が子の晴れ姿を祝すような、はればれとした笑顔を浮かべては柄杓をば為介に捧げるのでありました。ところが、その肝心の為介の足が凍りついたように動きません。母のもとへと進み出ません。眼前の則子の涙にいち早く気づき、深く胸を打たれていた高嗣が忌々しげに為介をふり返ります。ついにこらえ切れず老いの細身をかくしゃく気にふるわすと為介のうしろへと廻ってその背をば押すのでありました。尋常ならぬその光景を見つめる村長始め一同は静まり返り言葉もありません。はたや為介のふるまいやいかに、その心根やいかに…。
「あ…いや、随従の身でいかがかと…ハハハ、思わず足が止まりました」と言い訳しつつ一歩、二歩と母のもとへとこわ張った足を進める為介。その混乱錯綜した心の中をついに制した言葉がありました。その言葉が母のみ前に我が身を膝間づかせます。
「は、母上…お懐かしゅう…」とつぶやいては両の膝を地面に着きます。しかしそれを見た則子はあわてて「これを」と云って傍らの村長に柄杓を渡し、為介のもとへと駆け寄ります。
「こ、これはご家令様、おつまづきを。どうぞ、お立ち下さい。土などはらいますゆえ…」などと云っては為介のもとに屈まり小声で、
「これ、為介、立ちやれ。一同の眼がある。今は名乗りますまいぞえ」と諭しつつ為介を立たせます。いそいそし気に土をはらいながら「ほほほ、いかがなされましたか、おつまづきなど…」などと云い繕いつつ往年の才女ぶりを則子がここで発揮いたします。
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