わが心なぐさめかねつ

則子、大宰府へ向かう

 えー、とにかく、その輔経との間に一子為輔(ためすけ)をもうけましたが、やがてその子が元服する頃に輔経が亡くなりますと、御正室との間で遺産をめぐって一悶着をおこすこととなります。すなわち遺産のほとんどを御正室とその嫡男が相続してしまい、則子親子にはほんのお義理程度、これでは則子親子は生活して行くことが出来ませんでした。まあ今で云えば弁護士税理士を立てての遺言がどうしたとか云う、あれですね。裁判沙汰になることもままあるそうですが、この時代にはそんなものはありません。「やらないよ!おまえなんかに」の一言で、それぞれの家の力関係ではなりかねませんでした。則子の実家は佐伯家よりは遥か格下、およそ御正室家に逆らえた義理ではなかったのです。そこで、思い余った則子は一子為輔を都に残して、はるばると九州は大宰府まで旅立つこととなります。えー、話が飛びましたが、則子が乳母として大伴氏に仕えていたのは息子家持が元服するまでの十余年、その後大伴旅人は九州は大宰府に左遷され、則子との縁は切れていたわけです。しかしかかる事情を得まして万止むを得ず、かつての主君大伴旅人を尋ねて行くこととなりました。則子が嫁いでいた佐伯家は嘗て大伴氏の郡司(ぐんじ)を勤めていた謂わば家来、ならば旅人の命令には従うだろうと則子は踏んだわけです。いまはもうこれしかないと腹を括るや、後に残す為輔の当面の暮らしをととのえると、女身ひとつで遥か九州へと落ちてまいりました。さて然るに、都に残した未だ子供に過ぎぬ為輔を思いわずらいながら、また長旅の艱難辛苦にも堪えながら、ようよう九州は大宰府まで来てみれば、思いも寄らない旅人の姿を見せ付けられることとなります。当時愛する妻郎女(いらつめ)を失くし、脚には腫瘍を患い、また自分を都落ちさせた宿敵藤原氏の策謀にも長年思い煩って、往年の覇気をすっかりなくしていた旅人は毎日が酒浸りの為体(ていたらく)。嘗て都で我嫡男家持(やかもち)の乳母(めのと)を勤めてくれた則子との再会を大いに喜びましたが、もはや佐伯家を諌める気力も、力もありませんでした。奢る藤原の前に自らの氏一族の存亡さえ危ぶまれる始末なのです。

                 【九州大宰府天満宮】
< 4 / 25 >

この作品をシェア

pagetop