お飾りの捨てられ聖女でしたが、記憶喪失を装ったら隣国の騎士団長に溺愛されました
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この大国には、ルクレース国とモルディアーノ国の二つの国が存在し、長い歴史の中で互いに支え合いながら共存してきた。
特にルクレース国には、聖女の力を宿す女性が生まれるという言い伝えがあり、その存在は国民にとって神聖なものとされている。
近年では、一人の大聖女が長き戦乱の中でその力を発揮し、多くの民を救った末、最後は彼らを守るために命を落とした。その英雄的な行いは今も語り継がれ、人々の心に刻まれている。
だが、その伝説的な物語には、まだ誰も知らない「続き」があった──。
「……ええと、ルイジ様、もう一度言っていただけますか?」
「だから、お前との婚約は白紙に戻すと言ったんだ。とにかくそのカブを置け!」
婚約者であるルイジ・カルローニは、忌々しそうにマリア・フィルテの手元を見た。
彼は我がルクレース国の誇り高き騎士団に所属している。その姿はいつも堂々としており、彼が身にまとう鎧には、幾度も戦場で刻まれた傷跡が光を反射している。
そのご自慢の鎧に泥が付着したことで、どうやら気分を損ねてしまっているらしい。
「カブ……あ、よろしければスープはいかがですか?」
「ふざけるな! この俺がなぜお前が作るド庶民のスープを飲まなければいけないんだ」
婚約してもうすぐ一年。マリアが彼と顔を合わせるのは数回で、会話も数えるほどしか記憶にない。まさか婚約破棄を言い渡すためにわざわざ赴いてくるとはマリアも思いもしなかった。ルイジもまた思っていなかったのだろう、まさかこの重要な話をフォルテ家が所有する小さな土地の一角にあるこれまた小さな畑ですることになるとは。
「まあ、本当にお粗末なところ。ドレスが汚れてしまいますわ」
しかも、新しい婚約者を引き連れて。
「すまない、ビアンカ。君をこんなところに連れてきたくはなかったんだが」
「いいんです。私が無理を言って連れてきてもらったんですから。仮にもルイジ様の婚約者だったんですから、最後ぐらいは挨拶をと思ったんですが」
ルイジには見えない角度で、満足そうにマリアを見るビアンカ。親しい友人だと紹介されたあのときにはすでに恋仲だったのかもしれない。親密そうに顔を近づけていたことを思い出しては納得する。
皮肉にも、ルイジからマリアを訪ねてくるのはこれが初めてのことだったが、最初で最後とはまさにこのことだ。
「お前がいつまでもお飾りの聖女だからいけないんだ」
そもそもこの結婚は、マリアの父が強引に話を持ってきてしまったことが運の尽きだ。もちろんマリアではなくルイジの運だろう。
大聖女であった母を数年前に亡くしてからというもの、父は唯一の我が子であるマリアの縁談に並々ならぬ責任を抱いていた。なんとかして結婚相手を見つけなければ。しかし、いい相手を見つけようと思えばそれなりに娘の付加価値が必要となる。だからといって母が受け継いできた聖女の力がマリアにはなかった。
それゆえにマリアの父は嘘を重ねては様々な場所で縁談をもちかけた。そうして辿り着いたルイジ家で「我が家は大聖女様の力が宿る家系だ」と言ってしまった結果がこれだ。
「お前の母親がすごいと聞き、どんなものかと蓋を開けてみればこのざまだ。日中はほとんど畑で泥まみれになり、聖女らしい活動もしていない」
「……本当に、おっしゃる通りです」
苦笑が浮かぶ。役立ちたいとは思っていても、結局のところマリアにできることといえば野菜を育てることぐらいだった。
「聖女が泥だらけになっているなんて聞いたことがない。もううんざりだ、お前など捨ててやる!」
ルイジは、まるで無価値な物を見下ろすような目でマリアを一瞥しては新しい婚約者であるビアンカと共に歩き去った。
二人が乗り込んだ馬車が、ゆっくりと走り出すのをマリアはしばらく眺めていた。高級感漂う馬車は、軋む音を響かせながら速度を上げていく。すると、その馬車のタイヤが泥の上を通り、地面を巻き上げて大きな泥水が跳ね上がった。
「……最高のお別れだ」
見事に泥まみれになったドレスは、もはや一級品どころかまともな状態とも言えない有様だ。普段から畑仕事をしているため、衣服が汚れることには慣れていたものの、今回ばかりは髪や顔にまで泥が飛び散り、自身でも笑ってしまうほどの惨状だった。
「私には、この格好がお似合いね」
ふう、と息をついて切り替えるように馬車のタイヤで荒らされた道路を綺麗にならしていく。それにしても、これからどうしていくか。お父様が知ればまた嘘をついて婚約の話を持ってきてしまうだろう。さすがにそれでは相手に失礼だ。
「お父様が帰ってきたらすぐにでもお話しないと」
結果としては残念だけれど、また同じようなことが起こってしまえば、フォルテ家の評判にも関わってくるだろう。大丈夫、話せばわかってくれるはず。
「マリア! 新しい縁談話を持ってきたぞ」
家に帰ってきた途端の父の声に、マリアは思わず持っていた食器を落としそうになった。ちょうどカブをじっくり煮込んだスープが出来上がったところだ。
「お父様……聞き間違いでなければ縁談と……?」
「婚約を白紙にされたそうだな。だが心配することはない。ちゃんと次の相手を見つけてきたんだからな」
すでにルイジとの婚約が解消されていると知っていた。そしてその日のうちにはもう次の相手を見つけてくるとは。
「聞いて驚くなよ。相手は──」
「お父様」
マリアは食器を置くと、真っ直ぐと父を見つめた。
「なんだ、そんな真剣な顔をして」
「もう私の婚約相手を探すのに、そこまで奮闘されなくていいんです」
「なにを言ってるんだ。ちゃんと探さないといけないだろう」
「お父様が私に幸せになってもらいたいのはわかります。ですが、嘘をつき、お相手の方を騙してしまうのは人としてよくないことなんです」
マリアは幼い子どもを説教するよう父に言った。
「こんなことを続けていても誰も幸せにはなりません。私がお飾りの聖女だとバレるのは時間の問題なんです」
「だが、お前の母はそれはそれは偉大な力を持っていてな」
「多くの人を救い伝説ともなりましたね。その話はこれまで何万回と聞きました。ですが、私にはその力はありません。私は聖女の力を受け継ぐことはなかったのです」
できることといえば畑仕事と家事ぐらいだ。
マリアの父はがっくりとうなだれるように座り込む。よほど今のが堪えたらしい。嘘をつくことはもちろんよくないが、だからといって娘のためだという気持ちも痛いほど伝わる。
「……お前には苦労をかけたと思っている。お前の母はすごい人だったからこそ、肩身の狭い思いもさせているだろう。それでもお前は自分にはできることはないかと、幼いころから料理のスキルを身に着け、ついには近隣の子どもたちの世話までする始末だ」
「それは……困っている人がいれば手を差し伸べるのは当然ですし」
「昔からお前は人のために動く子だ。虐げられている子を見つければ身体を張って守りに行き、人を探していると聞けばどこへだって一緒になって探すような子。それゆえに父さんは心配なんだ」
父は、マリアの肩にそっと手を置く。
「このまま人のために生きていく人生になるのではないかと。お前にはお前の人生がある。ほかの子どもの面倒を見るのはもちろん善い行いだとは思うが、俺はお前の子どもが見たいんだ」
「そう思っていただけるのは嬉しいですが……」
「お前には聖女の力が宿ると信じている。必要なのは愛だ」
また始まったと、マリアは頭を抱えたくなった。
マリアの母は元々聖女の力を宿していたが、父と出会い、愛を育んだことで聖女の力が強まったという。おとぎ話のような話で、父が年甲斐もなくそれを真剣に語ることが聞いていられなかった。
「お父様、愛が大切なのはわかりました」
「わかってくれたか!?」
「ええ、ですが、お母様の場合は元々聖女の力を持っていたからこそでした──」
「そうかそうか。話が早くて助かるよ。次こそはいいちゃんと愛が育めると思うんだ」
……なんと?
「お父様、今……次こそはと聞こえた気がするのですが」
「ああ、町の居酒屋でいろいろ話していたら、お前に興味を持った人がいたんだよ。家柄も申し分ないし、ほかの女に取られちまうのも時間の問題だったから、じゃあ結婚しちまおうってことになって」
そんな話が本当にあっていいのだろうか。
「でも喜んでいいと思うぞ! なにせ相手は、あのレオナルド・カルディーニ様なんだから」
***
翌朝のマリアはとにかく憂鬱でしかなかった。
馬車の中で一体何度ついたかわからない溜息をこぼす。
ここに来るまでにもいろいろと問題はあったけれど、まさかこんなことになるとは。マリアはもちろん「絶対に会いません」と断固として拒否していたのだけれど。
『マリア、これで最後にする。だから一生のお願いだ! どうか俺の筋書きに合わせてあのお方に会ってきてほしい』
昨夜、いよいよ父に泣きつかれマリアは根負けしてしまった。
父の一生のお願いは今まで何度聞いてきたことだろうか。ここで承諾してしまえばまた同じようなことが起こるに決まっている。そうわかってはいるのに、なぜ「これで最後ですよ」と言ってしまったのか。マリアは自分の答えに心の底から後悔していた。
しかも相手はレオナルド・カルディーニだ。
隣国の住人でありながら、彼は我が国でも英雄として讃えられている。数ある騎士団の中でもその実績は圧倒的で、一夜にして国を滅ぼすと言われていた黒龍をも一人で討伐したという。
そして、彼とは聖女と騎士が集まる交流会で幼少期から顔を合わせることも多かった。
とはいえ言葉をかわしたことは数えるほどしかない。最近では英雄としてもはや祭り上げられていることもあるせいか、見かけても異性に囲まれている。
というわけで、年々接点は少なくなっていたというのに。
「……なんであのお方が婚約を受け入れてくたのか」
最大の謎はそこにあった。これまで数え切れないほど多くの女性から婚約を申し込まれてきたにもかかわらず、彼は二十歳を迎えた今もなお、そのどれ一つとして受け入れたことがないというのだ。
「はあ、お父様がなんて言ったか……知るのが怖い」
詳細を語りたがらなかった父は「とにかくレオナルド様に話を合わせてくれ」としつこく口にした。どちらにせよ、今日はきちんと断るつもりでマリアはレオナルドが用意した迎えの馬車に乗り込んでいた。
馬車の中は静かで、車輪の軋む音と馬の蹄のリズムだけが耳に響く。広い窓から差し込む朝の陽光は心地よかったが、それでもマリアの心の中には重い影が差していた。馬車は街を抜け、徐々に森の中へと入っていく。鬱蒼と茂る木々の間を進むうちに、ふと父の言葉を思い出し、マリアは無意識に小さなため息をついた。
「結婚は……しないといけないのかしら」
聖女の力に愛は必要なのだと父は根拠もなしに言う。だが、こんなことを思ってはいけないのかもしれないが、愛する人と出会わない限りはずっと独り身でもいいと思っていた。無理に結婚したとしても、決して幸せになることはない。自分の父と母のように、離れ離れになったとしても愛し合えるようなそんな人に出会わない限り、結婚はしたくないとマリアは密かに思っていたのだ。
森を抜ける頃には、風景ががらりと変わっていた。木立の陰から抜け出すと、広がるのは異国の光景。なだらかな丘陵地帯に点在する赤瓦の建物や、整然と並ぶ畑が目に入る。空気が少しだけ湿り気を帯び、微かな潮風が頬を撫でた。気付けば隣国、レオナルドの領地に足を踏み入れていたのだ。
「もうすぐです、どうぞご準備を」と御者の声が聞こえ、マリアははっと我に返り、馬車の小窓から顔を出して前方を見やる。
そこには立派な石造りの屋敷が堂々とそびえていた。青空を背に太陽の光を浴びたその姿は、威厳と美しさを兼ね備えている。レオナルドの本拠地だろうか。ここで彼と話をしなければならないと思うと、マリアの心はさらに緊張で固くなった。
馬車が城門を通り抜けると、迎えるように整列した騎士たちが厳粛な表情でマリアを見つめている。彼らの視線に少し気圧されながらも、マリアは小さく頭を下げて馬車から降り立った。
英雄ともなれば、城のようなお屋敷にも住むのね。
レオナルドの住居へと案内されたマリアは、足を踏み入れた瞬間、思わず息を飲んだ。広がる光景に目を奪われ、開いた口が塞がらない。
天井の高いホールには、見上げるような大理石の柱が並び、その表面は彫刻や装飾で彩られている。頭上には繊細な細工が施されたシャンデリアがいくつも吊るされており、煌めく光が床の大理石に反射して眩しいほどだった。床は磨き上げられた黒と白の大理石が幾何学模様を描いており、歩くたびに微かにその音が響く。
そして、その先に今回の主役が座っていた。
「来たか」
低く響く声が部屋に広がる。
レオナルドは大きな椅子に長い脚を持て余すように座っていた。どこか余裕のある姿勢だが、その存在感は圧倒的だった。漆黒の軍服を纏い、装飾は最低限に抑えられているものの、存在がすでに威厳が満ちている。二十歳でこれだけの貫禄が出るものなのか。
目を引くのはその髪と同じ漆黒色の鋭い瞳だ。深い夜のような双眸が、じっとこちらを見据え、その視線には計り知れない洞察力が宿っているかのようだった。どんな些細な動きも見逃さず、すべてを見透かされているような感覚に襲われる。
「……お久しぶりです、レオナルド様」
圧倒されながら、マリアは慌ててドレスの裾を持ち頭を下げた。
調度品も、レオナルドが身につけるものも、全てがマリアには釣り合っていなかった。家にあるもので一番状態のいいドレスを着ていたが、廊下で控えている侍女のほうがよっぽど素材がいい。
そもそも私のことなど覚えているのだろうか。初めましてではないにしても、お久しぶりという言葉は馴れ馴れしかったかもしれない。後悔はしたものの、だからといって黙るわけにもいかない。
「本日はお時間を作っていただきありがとうございます。ですが、レオナルド様には先にお話したいことがございまして」
「ああ、記憶を失って、聖女の力を発動できなくなったのだろう」
ここに来るまでの間、頭の中では何度も復讐してきた。「婚約は白紙に」「父は娘の婚約に焦って暴れているだけで」などと切り出しを考えていたのに、レオナルドから言われた内容にマリアの思考は停止した。
「あの……?」
「すまない、記憶がないのだからそのあたりは把握していないのか。名前と家族だけは覚えていると聞いたが」
……まさか。
マリアはようやく、父が頑なに詳細を語らなかった理由がわかった。娘の聖女の力がないということを、記憶を失ったからだと創作するとは。そして、その嘘をレオナルドは信じているというのが現状だろう。
「しかしあのフォルテ家の娘だ。記憶が戻れば聖女の力も戻るだろう」
「いや、それは……」
「というわけで、婚約を認めていただこう」
誰に言ったのか、レオナルドはマリアの後方にすっと視線を流す。マリアが振り返れば、数人の髭を蓄えた男性たちが部屋から退散していく。
「すまない、少しこちらの事情があってな。まあ、あなたを見たのだから陛下も黙るだろう」
「陛下……?」
「俺の婚約者に相応しいか、下っ端に確かめさせに来ていた。陛下は面倒な男なんだ」
ということは、この婚約はレオナルド家だけではなく、陛下を巻き込んでの大事になっていると……?
状況を理解していくほど、マリアの顔からは血色がなくなっていく。
今更「婚約を白紙にしてください」「父の話は全てデタラメなんです」と言えば、どうなるだろうか。少なくとも父が無事でいられる保証はないだろう。
……話を合わせなければ。
「聖女の力を取り戻すのはどれだけかかっても構わない」
「……ありがとうございます」
取り戻すことが前提でこの屋敷には招かれている。けれど、そもそも私自身に聖女の力がないと知れば、どのような処罰が下されるか。
「では部屋を案内する」
レオナルドは当たり前のように侍女を用意した。
「部屋……ですか?」
「今日からここで住むのだから、案内するのは当然だろう」
当然、なのだろうか。いや、そんなはずはない、と思うのだけど。
「これからはそこにいる者を専属の侍女にしよう」
用が済んだとでも言うように、レオナルドはもうすでにマリアを見てはいなかった。
どう考えても「帰る」という流れではない。
マリアの頭の中は侍女に案内されるその後ろで頭がいっぱいだった。どうやら本当にレオナルドと婚約したらしい。
そんなことを考えている間にも綺麗に整えられた身なりに、ふと自分ではない誰かになったような錯覚を覚える。粗末な服から一転、柔らかな素材のドレスが肌に心地よく触れ、動くたびにわずかに揺れる裾が上品さを際立たせていた。鏡の中に映る自分の姿が、これほどまでに見違えるものだとは思わなかった。
そして、目の前に広がる寝室。まるで夢の中に迷い込んだようだった。
柔らかなレースのカーテンが風に揺れる。天蓋付きのベッドは、厚みのあるマットレスとふかふかな羽毛布団で整えられていた。恐る恐るベッドに腰を下ろしてみると、その感触に驚いた。今まで感じたことのない柔らかさが全身を包み込み、ふわりと吸い込まれるような感覚に、思わず体を横たえた。羽毛布団にくるまると、まるで雲の上にいるような気分になる。
「……なんて、悠長に思ってる場合じゃないか」
嘘をついてまでここにいるということ。それは決して許されるはずもない。だからといって、このまま嘘をつき続けるのも時間の問題だ。
コンコン、と軽いノックが聞こえてマリアは勢いよく起き上がった。
「は、はい」
顔を見せたのは専属の侍女となったマリアと同じ年のカローラだった。彼女はマリアの支度をしているときも楽しそうな顔を見せていたのが印象的だ。
「レオナルド様の伝言です。屋敷に出ることはまだ許可できないが、屋敷の中であれば自由にしてもらって構わない、とのことでした」
外に出ることは許されていないのは少し意外だった。危険が迫るという意味合いだろうか。
「わかりました。では、この屋敷に本が読める部屋はありますか?」
カローラに教えてもらった通りの道順で、マリアはこの屋敷にあると聞いていた書庫へ向かった。重厚な扉を押し開けると、ほの暗い中に整然と並んだ本棚が目に飛び込んでくる。その光景は、思わず息を呑むほど壮観だった。棚の上から下までぎっしりと詰まった本たちは、いかにも歴史と知識の詰まった空間を物語っている。
昔から何かあれば本を読んで解決してきた。料理も、畑も、すべて本の知識で身につけてきた。幼いころに母を亡くしたマリアにとって、本は教師であり、寄り添ってくれる友でもある。この場所なら、答えを見つけられるはずだ。自分にとって居心地の良い空間を見つけたような安堵を覚えながら、マリアは足を踏み入れた。
しかし、書棚の奥へと進むと、ひとつだけ様子が違う場所があった。木製の机に崩れるようにもたれかかる男性の姿――レオナルドだった。
マリアは思わず息を呑んだ。昼間の彼は、鋭い瞳と冷静沈着な態度で人々を従える、堂々たる騎士団長そのものだった。だが、今は違う。微かな明かりに浮かぶその顔は、まるで彫刻のように整っていて、眠っているせいかどこか無防備だ。
彼の長いまつ毛が薄い影を落とし、柔らかく閉じられた唇が穏やかな呼吸をしている。これまでの冷徹な印象が嘘のようだ。
何度か顔を合わせたことはあるのに、彼をこんなにも近くで見るのは初めてだった。
まして寝顔など、拝めるとは。
彼の顔をもっとよく見たくて、静かに足を踏み出す。
机のそばに立つと、彼の静かな寝息が聞こえた。その安らかな表情は、これまで交流会でむすっとつまらなさそうにしていた顔とは違って幼さを感じる。無意識のうちに、手が彼の顔に触れそうになった。
「何をしている」
突然の声に、マリアの心臓が跳ねた。目を閉じていたはずのレオナルドが、目を開け真っ直ぐに見つめていた。
「し、失礼しました……あの、眠られていたのでその……興味が出てしまいまして」
「興味?」
「あの騎士団長様の寝顔はレアではと、つい目に焼き付けておきたくなったと言いますか……」
不純にも程がある。猛省する気持ちで俯いていたが、聞こえてきたのは、はっと吐き出すような笑いだった。
「思ったことを口にする性格らしいな」
「申し訳ございません……大事な睡眠の邪魔をしてしまい」
「構わない。だが、レアか。そんなことは初めて言われた」
さっき会ったときの冷たさは、あまり感じなかった。マリアは恐る恐るレオナルドを見た。
「なんだ」
「あ、いえ……さっきお話したときよりも雰囲気が柔らかくなったように感じて」
「ここは俺とあなただけだからな」
ということは、周囲の目があったからあれだけ怖かったということだろうか。今にも殺されそうな勢いだと思ってはいたけれど。
「着替えたのか」
「え? あ、はい。用意していただいた服に……私にはもったいないものばかりで、今も着ているのが申し訳ないぐらいですけど」
「元の格好もいいが、今もよく似合っている」
マリアは耳を疑った。雰囲気だけではなく、声もどこかしら穏やかさが滲んでいた。恐る恐る「ありがとうございます」と口にしたマリアに、レオナルドは小さくうなずいた。
「ここへは何しに?」
レオナルドの柔らかな視線がマリアを眺めた。
「本をお借りしたかったんです。聖女についていろいろと知れたら……じゃなくて、思い出せたらいいなと思って」
母の話を聞く度に、自分にその力が宿らないことをいつしか劣等感を抱くようになった。気付けば聖女という言葉から離れるような生活をしていたこともあり、あまり詳しくは知らない。
『お前がいつまでもお飾りの聖女だからいけないんだ』
不意にルイジに言われた言葉が脳裏に過った。
私はお飾り。その事実が、予期せぬタイミングでマリアの心を蝕んでいく。もしここでもお飾りだということが知られてしまったら……そう考える度に、自分がいかに平凡でつまらない人間かを思い知らされる。
「何か思い出したのか?」
「え?」
「嫌なものを思い出しているときの顔だ、それは」
この人は、見えないところを見つめることができる人らしい。瞬時に見破られてしまった。
「いや、あの……なんとなく、ふわっと、思い出しそうだったというか。なので、記憶は思い出せないままなんですが」
自分が記憶喪失だという設定をつい忘れてしまいそうになる。
「……そうか。それはいいが」
レオナルドはマリアの手首を掴んで勢いよく自分のほうへと引き寄せた。
「なんとなく男の気配がした。婚約者がいたと聞いたが、その記憶だとしたら、それは面白くないな」
「レ、レオナルド様……?」
やはり見抜かれていた。しかも記憶の気配とはどんな嗅覚をしているのだろうか。それはともかく、マリアはレオナルドとの顔があまりにも近いことに戸惑っていた。
咄嗟に視線を逸らそうとするものの、その瞳に引き寄せられてしまう。深い夜の色を湛えたような瞳は、どこか眠気の残る柔らかさを帯びながらも、じっと彼女を見つめている。
近い……近すぎる!
胸が締め付けられるような感覚が襲い、呼吸が浅くなるのを感じる。彼の顔の細部までがくっきりと見える。まっすぐに伸びた鼻筋、ほんのりと唇が動いた気がして、その瞬間、全身に熱が駆け巡った。
「……顔が赤いな」
レオナルドが挑発するような不敵な笑みを浮かべて言う。まるで、すべてを見透かしているかのような言葉に、マリアは慌てて言い訳を探した。
「えっと……蝋燭のせいです! 明かりがちょっと熱くて」
「蝋燭か。今はついていないようだが」
静かで落ち着いた声が耳元に届き、マリアの体温はさらに上がる。支えられた腰に彼の手の温かさが伝わり、胸の鼓動はさらに速くなった。
「あ、あのっ」
声を裏返しながらも、なんとか体勢を立て直し、彼の腕から逃れようとする。しかし、レオナルドはさらにマリアを自分の腕の中に閉じ込めた。
「……離さない。ようやく、ここまでこれたんだ」
「え?」
呟いたその声。近づく整った顔。視界いっぱいに広がった光景は、すっと横を抜けていった。
レオナルドはマリアの肩にもたれるようにして眠っていた。規則正しい寝息が聞こえている中で、言われた言葉を思い出していた。ようやくここまでこれた──それは一体どういう意味だったのだろう。
***
「聖女様と一夜を明かしたらしいな」
翌朝、レオナルドが迎えの馬車に乗り込むとルカ・コンティが座っていた。朝から憎たらしい男だとレオナルドは溜息をつく。
ウェーブがかった茶色の髪に、健康的な小麦肌。一見、軽薄そうな口調をするが頭はキレる男であり、レオナルドと同じ騎士団に所属していた。
「また勝手に同乗か」
「俺も陛下に呼び出し受けてんだよ。お前が勝手に婚約を決めるから、次は俺を誰かとくっつけさせようと躍起になってるらしいからな。ということは、こうして一緒に乗り込むことになったのはお前のせいでもある」
「責任をすり替えるな。お前はもともと結婚しろと言われていただろう」
「俺はまだまだいろんな女の子たちと楽しみたいんだよ」
遊び人だと言われることも多いルカは、レオナルドと違い、まだまだ結婚する気はないらしい。
そんなことよりも、とルカはずいっとレオナルドに顔を近づけた。
「町では噂になってるぞ、お前が大聖女様の娘と婚約したって」
「へえ」
「反応薄いなあ。まあレオナルドって昔からそんな感じだよな。ただでさえ、あの長年の想い人を見つけたときでさえ俺のほうが喜んだっていうのに」
おい、とレオナルドはルカを睨んだ。
「あ、これってまだ内緒なわけ? いいじゃねえか、婚約者が初恋の人でしたっていうオチ、俺は結構好きよ?」
「面倒だから誰にも喋るな」
「なんて言われてもなあ、あのレオナルド様がここまで純粋だったなんて思わなかったよ。初めて会ったときから恋に落ちてんだもんな」
レオナルドが十歳、マリアが八歳のとき、二人は交流会で出会った。
それまでレオナルドは父に無理やり連れられて交流会に参加させられていたが、マリアはこの日が初めてだった。大聖女である母を持つがゆえに、周囲からは丁重にもてなされていたが、そうされることをまるで拒むように、彼女は庭で一人ぽつんと座っていた。
別に声をかけたわけではない。ただ、大聖女の女だと期待していた分、なんというか、普通の子どもがきたものだと思っていたぐらいだ。しかも娘にはまだ聖女の力が宿っていないという。
マリアはふと、花壇に近づいて座り込んだ。そうして躊躇いもなく土まみれになった花に手を伸ばした。誰かに踏まれたのか、名もわからない花を慈しむように触れている。マリアは大事そうに立て直し、土をかけた。
「私に聖女の力があったらよかったのに、ごめんね」
マリアの切実な声に、初めてレオナルドはマリアという人間に興味を持った。
自分よりも幼い子どもから出てくるような声ではなかった。悲しさ、絶望、後悔、それらが一度に混ざったような複雑な声で、申し訳なさそうに笑うその横顔を見ていたら、目が離せなくなった。
それから、何度か交流会でマリアを見かけるようになったが、マリアは年々、肩身が狭い思いをすることになる。聖女の力が宿らないという事実が、マリアを苦しめていた。
声をかけたかった。しかし、自分が声をかけることで、周囲から目立ってしまっては彼女を守られる自信もない。そんなことをジレンマを抱えていたとき、マリアが交流会に顔を出さなくなった。マリアの母が亡くなったからだ。
それをきっかけにマリアの情報は断ち切られ、いつしか、忘れさられた聖女として、誰にも語られることがなくなった。
「いやあ、しかしあの聖女様が婚約を白紙にされてたなんて噂を聞かなかったら、ずっと行方知れずだったんだもんな」
密かにマリアを探していたある日、マリアがいつの間にか婚約をしていたこと、そして相手側の都合で一方的に白紙にされたという話が耳に入った。白紙にされた理由も「聖女の力が宿らなかった」というだけのものだったらしい。そもそも、相手の男もレオナルドと同じ騎士だったがゆえに、聖女との結婚を周囲が望んだのだろうが、新しい聖女を見つけてはさっさと乗り換えたと聞く。
どれだけマリアをコケにすれば気が済むのかと、一度は剣を抜きかけたことは、ルカだけが知る事実だ。そうでなくとも、あのマリアと婚約を結んでいたという事実でさえ腹立たしいというのに。
レオナルドはすぐにマリアの父とコンタクトを取り、婚約を取り付けた。本人が知らない間にことを進めてしまうことは良くないと理解していたが、それでもマリアがまた自分以外と婚約をする可能性がないとも言えない。幸いにも、マリアの父は喜んで婚約を承諾した。
「ようやく初恋の人を見つけたっていうのに、記憶失ってるって、ハッピーエンドとは言い難いよなあ」
「……お前は本当にペラペラと喋る奴だな」
「今に始まったことじゃないでしょ。でも、記憶喪失か。本当にそうなのか?」
「何が言いたい」
「あの子って俺も交流会で見かけたことはあるけど、聖女の母を持つだけで、あの子自身には聖女としての力はなかったはずだろ。それなのに、聖女の力と記憶喪失が同時に起こるって、なんか出来すぎてるなと思って。レオナルド、お前だってそこに気づかないわけでもないだろ」
ルカと同じように、陛下のお膝元にいるような人間も同じようなことを言った。
だが、そんなことは黙らせてしまえばいいだけの話だ。
「あの大聖女の母を持つ。それだけで価値はあるだろう」
「価値ねえ。無理矢理にでも上を黙らせたお前には頭が上がらないよ」
「記憶のことについては、ほかの人間には言うなよ」
「言わない代わりに、聖女様との濃密な夜の話を聞かせてくれよ」
面倒なことを持ちかけてきた。そうでなくとも、いろいろな手段で聞こうとしていただろうに。
「どうもない。ただ寝て、朝を迎えただけだ」
「えええ? 男女が一つの部屋にいるわけだろう? それで何もなかったなんてありえない」
「お前と一緒にするな」
「あ、もしかして聖女様、あんま顔とか身体がよくなかったとか?」
「……」
「逆か。なんだ、あまりにも綺麗で手を出せなかったわけか」
レオナルドのことをなんでも知ってると豪語するだけはある。顔を見ただけで、何を考えているかさえルカはわかってしまうらしい。
「わかるよ、俺もちらっと聖女様を見に行ったけど、美人なほうだとは思う」
「お前ごときが見るな」
「ひえ、怖い怖い。まさか、あの冷徹で目だけで人を殺せるような騎士団長様が婚約するんだもんな。相手がいなかったわけでもないだろうよ」
「さあな」
「罪深い男だよ。選びたい放題なのに、初恋相手を探し続けるなんて」
いい加減に黙れとレオナルドはルカに視線を送ったが、当の本人はそれを察知しながらもにやにやとした面持ちでレオナルドを見ていた。
「まあ、でも気に入らなかったら次を見つければいいだけだもんな」
「彼女以外と結婚するつもりはない」
「おお、ずいぶんと真面目だな。惚れてる女には優しいんだ」
「くだらない冗談を言う暇があるなら、黙っていろ」
レオナルドの声は低く、しかし確かな威圧感を帯びていた。
ルカはわざとらしく口を閉じ、両手を上げて降参のポーズを取る。
「はいはい、静かにしてますよ。まったく、真剣な男ってのは面倒くさいな」
それでも、ルカの表情には面白がっている様子があった。
レオナルドは馬車の小窓から外を眺めた。
ようやく手にした彼女。記憶を失い、自分のことを忘れていたとしても、それでいい。
「ま、初恋の人が聖女でよかったよ。騎士は聖女としか結婚できないんだから」
大人しくすると約束を交わしたばかりなのに、ルカはすぐに口を開いた。が、レオナルドはそれに対して短く「ああ」と答えただけだった。
生まれたときから騎士になることが定められていた運命。この国の決まりでは、騎士は必ず聖女と結婚し、未来永劫支え合って生きていくことが定められている。
そのため、レオナルドの婚約者候補は全員、選りすぐりの聖女しかいなかった。
だが、興味を示したことは一度だってない。仮に聖女だとすれば、その大聖女の力を宿した母を持つ、あの少女だけが自分の相手でしかない。
そう思ってきたこの人生で、ようやくマリアを見つけた。もう手放したりはしない。
……どんなことがあっても。
特にルクレース国には、聖女の力を宿す女性が生まれるという言い伝えがあり、その存在は国民にとって神聖なものとされている。
近年では、一人の大聖女が長き戦乱の中でその力を発揮し、多くの民を救った末、最後は彼らを守るために命を落とした。その英雄的な行いは今も語り継がれ、人々の心に刻まれている。
だが、その伝説的な物語には、まだ誰も知らない「続き」があった──。
「……ええと、ルイジ様、もう一度言っていただけますか?」
「だから、お前との婚約は白紙に戻すと言ったんだ。とにかくそのカブを置け!」
婚約者であるルイジ・カルローニは、忌々しそうにマリア・フィルテの手元を見た。
彼は我がルクレース国の誇り高き騎士団に所属している。その姿はいつも堂々としており、彼が身にまとう鎧には、幾度も戦場で刻まれた傷跡が光を反射している。
そのご自慢の鎧に泥が付着したことで、どうやら気分を損ねてしまっているらしい。
「カブ……あ、よろしければスープはいかがですか?」
「ふざけるな! この俺がなぜお前が作るド庶民のスープを飲まなければいけないんだ」
婚約してもうすぐ一年。マリアが彼と顔を合わせるのは数回で、会話も数えるほどしか記憶にない。まさか婚約破棄を言い渡すためにわざわざ赴いてくるとはマリアも思いもしなかった。ルイジもまた思っていなかったのだろう、まさかこの重要な話をフォルテ家が所有する小さな土地の一角にあるこれまた小さな畑ですることになるとは。
「まあ、本当にお粗末なところ。ドレスが汚れてしまいますわ」
しかも、新しい婚約者を引き連れて。
「すまない、ビアンカ。君をこんなところに連れてきたくはなかったんだが」
「いいんです。私が無理を言って連れてきてもらったんですから。仮にもルイジ様の婚約者だったんですから、最後ぐらいは挨拶をと思ったんですが」
ルイジには見えない角度で、満足そうにマリアを見るビアンカ。親しい友人だと紹介されたあのときにはすでに恋仲だったのかもしれない。親密そうに顔を近づけていたことを思い出しては納得する。
皮肉にも、ルイジからマリアを訪ねてくるのはこれが初めてのことだったが、最初で最後とはまさにこのことだ。
「お前がいつまでもお飾りの聖女だからいけないんだ」
そもそもこの結婚は、マリアの父が強引に話を持ってきてしまったことが運の尽きだ。もちろんマリアではなくルイジの運だろう。
大聖女であった母を数年前に亡くしてからというもの、父は唯一の我が子であるマリアの縁談に並々ならぬ責任を抱いていた。なんとかして結婚相手を見つけなければ。しかし、いい相手を見つけようと思えばそれなりに娘の付加価値が必要となる。だからといって母が受け継いできた聖女の力がマリアにはなかった。
それゆえにマリアの父は嘘を重ねては様々な場所で縁談をもちかけた。そうして辿り着いたルイジ家で「我が家は大聖女様の力が宿る家系だ」と言ってしまった結果がこれだ。
「お前の母親がすごいと聞き、どんなものかと蓋を開けてみればこのざまだ。日中はほとんど畑で泥まみれになり、聖女らしい活動もしていない」
「……本当に、おっしゃる通りです」
苦笑が浮かぶ。役立ちたいとは思っていても、結局のところマリアにできることといえば野菜を育てることぐらいだった。
「聖女が泥だらけになっているなんて聞いたことがない。もううんざりだ、お前など捨ててやる!」
ルイジは、まるで無価値な物を見下ろすような目でマリアを一瞥しては新しい婚約者であるビアンカと共に歩き去った。
二人が乗り込んだ馬車が、ゆっくりと走り出すのをマリアはしばらく眺めていた。高級感漂う馬車は、軋む音を響かせながら速度を上げていく。すると、その馬車のタイヤが泥の上を通り、地面を巻き上げて大きな泥水が跳ね上がった。
「……最高のお別れだ」
見事に泥まみれになったドレスは、もはや一級品どころかまともな状態とも言えない有様だ。普段から畑仕事をしているため、衣服が汚れることには慣れていたものの、今回ばかりは髪や顔にまで泥が飛び散り、自身でも笑ってしまうほどの惨状だった。
「私には、この格好がお似合いね」
ふう、と息をついて切り替えるように馬車のタイヤで荒らされた道路を綺麗にならしていく。それにしても、これからどうしていくか。お父様が知ればまた嘘をついて婚約の話を持ってきてしまうだろう。さすがにそれでは相手に失礼だ。
「お父様が帰ってきたらすぐにでもお話しないと」
結果としては残念だけれど、また同じようなことが起こってしまえば、フォルテ家の評判にも関わってくるだろう。大丈夫、話せばわかってくれるはず。
「マリア! 新しい縁談話を持ってきたぞ」
家に帰ってきた途端の父の声に、マリアは思わず持っていた食器を落としそうになった。ちょうどカブをじっくり煮込んだスープが出来上がったところだ。
「お父様……聞き間違いでなければ縁談と……?」
「婚約を白紙にされたそうだな。だが心配することはない。ちゃんと次の相手を見つけてきたんだからな」
すでにルイジとの婚約が解消されていると知っていた。そしてその日のうちにはもう次の相手を見つけてくるとは。
「聞いて驚くなよ。相手は──」
「お父様」
マリアは食器を置くと、真っ直ぐと父を見つめた。
「なんだ、そんな真剣な顔をして」
「もう私の婚約相手を探すのに、そこまで奮闘されなくていいんです」
「なにを言ってるんだ。ちゃんと探さないといけないだろう」
「お父様が私に幸せになってもらいたいのはわかります。ですが、嘘をつき、お相手の方を騙してしまうのは人としてよくないことなんです」
マリアは幼い子どもを説教するよう父に言った。
「こんなことを続けていても誰も幸せにはなりません。私がお飾りの聖女だとバレるのは時間の問題なんです」
「だが、お前の母はそれはそれは偉大な力を持っていてな」
「多くの人を救い伝説ともなりましたね。その話はこれまで何万回と聞きました。ですが、私にはその力はありません。私は聖女の力を受け継ぐことはなかったのです」
できることといえば畑仕事と家事ぐらいだ。
マリアの父はがっくりとうなだれるように座り込む。よほど今のが堪えたらしい。嘘をつくことはもちろんよくないが、だからといって娘のためだという気持ちも痛いほど伝わる。
「……お前には苦労をかけたと思っている。お前の母はすごい人だったからこそ、肩身の狭い思いもさせているだろう。それでもお前は自分にはできることはないかと、幼いころから料理のスキルを身に着け、ついには近隣の子どもたちの世話までする始末だ」
「それは……困っている人がいれば手を差し伸べるのは当然ですし」
「昔からお前は人のために動く子だ。虐げられている子を見つければ身体を張って守りに行き、人を探していると聞けばどこへだって一緒になって探すような子。それゆえに父さんは心配なんだ」
父は、マリアの肩にそっと手を置く。
「このまま人のために生きていく人生になるのではないかと。お前にはお前の人生がある。ほかの子どもの面倒を見るのはもちろん善い行いだとは思うが、俺はお前の子どもが見たいんだ」
「そう思っていただけるのは嬉しいですが……」
「お前には聖女の力が宿ると信じている。必要なのは愛だ」
また始まったと、マリアは頭を抱えたくなった。
マリアの母は元々聖女の力を宿していたが、父と出会い、愛を育んだことで聖女の力が強まったという。おとぎ話のような話で、父が年甲斐もなくそれを真剣に語ることが聞いていられなかった。
「お父様、愛が大切なのはわかりました」
「わかってくれたか!?」
「ええ、ですが、お母様の場合は元々聖女の力を持っていたからこそでした──」
「そうかそうか。話が早くて助かるよ。次こそはいいちゃんと愛が育めると思うんだ」
……なんと?
「お父様、今……次こそはと聞こえた気がするのですが」
「ああ、町の居酒屋でいろいろ話していたら、お前に興味を持った人がいたんだよ。家柄も申し分ないし、ほかの女に取られちまうのも時間の問題だったから、じゃあ結婚しちまおうってことになって」
そんな話が本当にあっていいのだろうか。
「でも喜んでいいと思うぞ! なにせ相手は、あのレオナルド・カルディーニ様なんだから」
***
翌朝のマリアはとにかく憂鬱でしかなかった。
馬車の中で一体何度ついたかわからない溜息をこぼす。
ここに来るまでにもいろいろと問題はあったけれど、まさかこんなことになるとは。マリアはもちろん「絶対に会いません」と断固として拒否していたのだけれど。
『マリア、これで最後にする。だから一生のお願いだ! どうか俺の筋書きに合わせてあのお方に会ってきてほしい』
昨夜、いよいよ父に泣きつかれマリアは根負けしてしまった。
父の一生のお願いは今まで何度聞いてきたことだろうか。ここで承諾してしまえばまた同じようなことが起こるに決まっている。そうわかってはいるのに、なぜ「これで最後ですよ」と言ってしまったのか。マリアは自分の答えに心の底から後悔していた。
しかも相手はレオナルド・カルディーニだ。
隣国の住人でありながら、彼は我が国でも英雄として讃えられている。数ある騎士団の中でもその実績は圧倒的で、一夜にして国を滅ぼすと言われていた黒龍をも一人で討伐したという。
そして、彼とは聖女と騎士が集まる交流会で幼少期から顔を合わせることも多かった。
とはいえ言葉をかわしたことは数えるほどしかない。最近では英雄としてもはや祭り上げられていることもあるせいか、見かけても異性に囲まれている。
というわけで、年々接点は少なくなっていたというのに。
「……なんであのお方が婚約を受け入れてくたのか」
最大の謎はそこにあった。これまで数え切れないほど多くの女性から婚約を申し込まれてきたにもかかわらず、彼は二十歳を迎えた今もなお、そのどれ一つとして受け入れたことがないというのだ。
「はあ、お父様がなんて言ったか……知るのが怖い」
詳細を語りたがらなかった父は「とにかくレオナルド様に話を合わせてくれ」としつこく口にした。どちらにせよ、今日はきちんと断るつもりでマリアはレオナルドが用意した迎えの馬車に乗り込んでいた。
馬車の中は静かで、車輪の軋む音と馬の蹄のリズムだけが耳に響く。広い窓から差し込む朝の陽光は心地よかったが、それでもマリアの心の中には重い影が差していた。馬車は街を抜け、徐々に森の中へと入っていく。鬱蒼と茂る木々の間を進むうちに、ふと父の言葉を思い出し、マリアは無意識に小さなため息をついた。
「結婚は……しないといけないのかしら」
聖女の力に愛は必要なのだと父は根拠もなしに言う。だが、こんなことを思ってはいけないのかもしれないが、愛する人と出会わない限りはずっと独り身でもいいと思っていた。無理に結婚したとしても、決して幸せになることはない。自分の父と母のように、離れ離れになったとしても愛し合えるようなそんな人に出会わない限り、結婚はしたくないとマリアは密かに思っていたのだ。
森を抜ける頃には、風景ががらりと変わっていた。木立の陰から抜け出すと、広がるのは異国の光景。なだらかな丘陵地帯に点在する赤瓦の建物や、整然と並ぶ畑が目に入る。空気が少しだけ湿り気を帯び、微かな潮風が頬を撫でた。気付けば隣国、レオナルドの領地に足を踏み入れていたのだ。
「もうすぐです、どうぞご準備を」と御者の声が聞こえ、マリアははっと我に返り、馬車の小窓から顔を出して前方を見やる。
そこには立派な石造りの屋敷が堂々とそびえていた。青空を背に太陽の光を浴びたその姿は、威厳と美しさを兼ね備えている。レオナルドの本拠地だろうか。ここで彼と話をしなければならないと思うと、マリアの心はさらに緊張で固くなった。
馬車が城門を通り抜けると、迎えるように整列した騎士たちが厳粛な表情でマリアを見つめている。彼らの視線に少し気圧されながらも、マリアは小さく頭を下げて馬車から降り立った。
英雄ともなれば、城のようなお屋敷にも住むのね。
レオナルドの住居へと案内されたマリアは、足を踏み入れた瞬間、思わず息を飲んだ。広がる光景に目を奪われ、開いた口が塞がらない。
天井の高いホールには、見上げるような大理石の柱が並び、その表面は彫刻や装飾で彩られている。頭上には繊細な細工が施されたシャンデリアがいくつも吊るされており、煌めく光が床の大理石に反射して眩しいほどだった。床は磨き上げられた黒と白の大理石が幾何学模様を描いており、歩くたびに微かにその音が響く。
そして、その先に今回の主役が座っていた。
「来たか」
低く響く声が部屋に広がる。
レオナルドは大きな椅子に長い脚を持て余すように座っていた。どこか余裕のある姿勢だが、その存在感は圧倒的だった。漆黒の軍服を纏い、装飾は最低限に抑えられているものの、存在がすでに威厳が満ちている。二十歳でこれだけの貫禄が出るものなのか。
目を引くのはその髪と同じ漆黒色の鋭い瞳だ。深い夜のような双眸が、じっとこちらを見据え、その視線には計り知れない洞察力が宿っているかのようだった。どんな些細な動きも見逃さず、すべてを見透かされているような感覚に襲われる。
「……お久しぶりです、レオナルド様」
圧倒されながら、マリアは慌ててドレスの裾を持ち頭を下げた。
調度品も、レオナルドが身につけるものも、全てがマリアには釣り合っていなかった。家にあるもので一番状態のいいドレスを着ていたが、廊下で控えている侍女のほうがよっぽど素材がいい。
そもそも私のことなど覚えているのだろうか。初めましてではないにしても、お久しぶりという言葉は馴れ馴れしかったかもしれない。後悔はしたものの、だからといって黙るわけにもいかない。
「本日はお時間を作っていただきありがとうございます。ですが、レオナルド様には先にお話したいことがございまして」
「ああ、記憶を失って、聖女の力を発動できなくなったのだろう」
ここに来るまでの間、頭の中では何度も復讐してきた。「婚約は白紙に」「父は娘の婚約に焦って暴れているだけで」などと切り出しを考えていたのに、レオナルドから言われた内容にマリアの思考は停止した。
「あの……?」
「すまない、記憶がないのだからそのあたりは把握していないのか。名前と家族だけは覚えていると聞いたが」
……まさか。
マリアはようやく、父が頑なに詳細を語らなかった理由がわかった。娘の聖女の力がないということを、記憶を失ったからだと創作するとは。そして、その嘘をレオナルドは信じているというのが現状だろう。
「しかしあのフォルテ家の娘だ。記憶が戻れば聖女の力も戻るだろう」
「いや、それは……」
「というわけで、婚約を認めていただこう」
誰に言ったのか、レオナルドはマリアの後方にすっと視線を流す。マリアが振り返れば、数人の髭を蓄えた男性たちが部屋から退散していく。
「すまない、少しこちらの事情があってな。まあ、あなたを見たのだから陛下も黙るだろう」
「陛下……?」
「俺の婚約者に相応しいか、下っ端に確かめさせに来ていた。陛下は面倒な男なんだ」
ということは、この婚約はレオナルド家だけではなく、陛下を巻き込んでの大事になっていると……?
状況を理解していくほど、マリアの顔からは血色がなくなっていく。
今更「婚約を白紙にしてください」「父の話は全てデタラメなんです」と言えば、どうなるだろうか。少なくとも父が無事でいられる保証はないだろう。
……話を合わせなければ。
「聖女の力を取り戻すのはどれだけかかっても構わない」
「……ありがとうございます」
取り戻すことが前提でこの屋敷には招かれている。けれど、そもそも私自身に聖女の力がないと知れば、どのような処罰が下されるか。
「では部屋を案内する」
レオナルドは当たり前のように侍女を用意した。
「部屋……ですか?」
「今日からここで住むのだから、案内するのは当然だろう」
当然、なのだろうか。いや、そんなはずはない、と思うのだけど。
「これからはそこにいる者を専属の侍女にしよう」
用が済んだとでも言うように、レオナルドはもうすでにマリアを見てはいなかった。
どう考えても「帰る」という流れではない。
マリアの頭の中は侍女に案内されるその後ろで頭がいっぱいだった。どうやら本当にレオナルドと婚約したらしい。
そんなことを考えている間にも綺麗に整えられた身なりに、ふと自分ではない誰かになったような錯覚を覚える。粗末な服から一転、柔らかな素材のドレスが肌に心地よく触れ、動くたびにわずかに揺れる裾が上品さを際立たせていた。鏡の中に映る自分の姿が、これほどまでに見違えるものだとは思わなかった。
そして、目の前に広がる寝室。まるで夢の中に迷い込んだようだった。
柔らかなレースのカーテンが風に揺れる。天蓋付きのベッドは、厚みのあるマットレスとふかふかな羽毛布団で整えられていた。恐る恐るベッドに腰を下ろしてみると、その感触に驚いた。今まで感じたことのない柔らかさが全身を包み込み、ふわりと吸い込まれるような感覚に、思わず体を横たえた。羽毛布団にくるまると、まるで雲の上にいるような気分になる。
「……なんて、悠長に思ってる場合じゃないか」
嘘をついてまでここにいるということ。それは決して許されるはずもない。だからといって、このまま嘘をつき続けるのも時間の問題だ。
コンコン、と軽いノックが聞こえてマリアは勢いよく起き上がった。
「は、はい」
顔を見せたのは専属の侍女となったマリアと同じ年のカローラだった。彼女はマリアの支度をしているときも楽しそうな顔を見せていたのが印象的だ。
「レオナルド様の伝言です。屋敷に出ることはまだ許可できないが、屋敷の中であれば自由にしてもらって構わない、とのことでした」
外に出ることは許されていないのは少し意外だった。危険が迫るという意味合いだろうか。
「わかりました。では、この屋敷に本が読める部屋はありますか?」
カローラに教えてもらった通りの道順で、マリアはこの屋敷にあると聞いていた書庫へ向かった。重厚な扉を押し開けると、ほの暗い中に整然と並んだ本棚が目に飛び込んでくる。その光景は、思わず息を呑むほど壮観だった。棚の上から下までぎっしりと詰まった本たちは、いかにも歴史と知識の詰まった空間を物語っている。
昔から何かあれば本を読んで解決してきた。料理も、畑も、すべて本の知識で身につけてきた。幼いころに母を亡くしたマリアにとって、本は教師であり、寄り添ってくれる友でもある。この場所なら、答えを見つけられるはずだ。自分にとって居心地の良い空間を見つけたような安堵を覚えながら、マリアは足を踏み入れた。
しかし、書棚の奥へと進むと、ひとつだけ様子が違う場所があった。木製の机に崩れるようにもたれかかる男性の姿――レオナルドだった。
マリアは思わず息を呑んだ。昼間の彼は、鋭い瞳と冷静沈着な態度で人々を従える、堂々たる騎士団長そのものだった。だが、今は違う。微かな明かりに浮かぶその顔は、まるで彫刻のように整っていて、眠っているせいかどこか無防備だ。
彼の長いまつ毛が薄い影を落とし、柔らかく閉じられた唇が穏やかな呼吸をしている。これまでの冷徹な印象が嘘のようだ。
何度か顔を合わせたことはあるのに、彼をこんなにも近くで見るのは初めてだった。
まして寝顔など、拝めるとは。
彼の顔をもっとよく見たくて、静かに足を踏み出す。
机のそばに立つと、彼の静かな寝息が聞こえた。その安らかな表情は、これまで交流会でむすっとつまらなさそうにしていた顔とは違って幼さを感じる。無意識のうちに、手が彼の顔に触れそうになった。
「何をしている」
突然の声に、マリアの心臓が跳ねた。目を閉じていたはずのレオナルドが、目を開け真っ直ぐに見つめていた。
「し、失礼しました……あの、眠られていたのでその……興味が出てしまいまして」
「興味?」
「あの騎士団長様の寝顔はレアではと、つい目に焼き付けておきたくなったと言いますか……」
不純にも程がある。猛省する気持ちで俯いていたが、聞こえてきたのは、はっと吐き出すような笑いだった。
「思ったことを口にする性格らしいな」
「申し訳ございません……大事な睡眠の邪魔をしてしまい」
「構わない。だが、レアか。そんなことは初めて言われた」
さっき会ったときの冷たさは、あまり感じなかった。マリアは恐る恐るレオナルドを見た。
「なんだ」
「あ、いえ……さっきお話したときよりも雰囲気が柔らかくなったように感じて」
「ここは俺とあなただけだからな」
ということは、周囲の目があったからあれだけ怖かったということだろうか。今にも殺されそうな勢いだと思ってはいたけれど。
「着替えたのか」
「え? あ、はい。用意していただいた服に……私にはもったいないものばかりで、今も着ているのが申し訳ないぐらいですけど」
「元の格好もいいが、今もよく似合っている」
マリアは耳を疑った。雰囲気だけではなく、声もどこかしら穏やかさが滲んでいた。恐る恐る「ありがとうございます」と口にしたマリアに、レオナルドは小さくうなずいた。
「ここへは何しに?」
レオナルドの柔らかな視線がマリアを眺めた。
「本をお借りしたかったんです。聖女についていろいろと知れたら……じゃなくて、思い出せたらいいなと思って」
母の話を聞く度に、自分にその力が宿らないことをいつしか劣等感を抱くようになった。気付けば聖女という言葉から離れるような生活をしていたこともあり、あまり詳しくは知らない。
『お前がいつまでもお飾りの聖女だからいけないんだ』
不意にルイジに言われた言葉が脳裏に過った。
私はお飾り。その事実が、予期せぬタイミングでマリアの心を蝕んでいく。もしここでもお飾りだということが知られてしまったら……そう考える度に、自分がいかに平凡でつまらない人間かを思い知らされる。
「何か思い出したのか?」
「え?」
「嫌なものを思い出しているときの顔だ、それは」
この人は、見えないところを見つめることができる人らしい。瞬時に見破られてしまった。
「いや、あの……なんとなく、ふわっと、思い出しそうだったというか。なので、記憶は思い出せないままなんですが」
自分が記憶喪失だという設定をつい忘れてしまいそうになる。
「……そうか。それはいいが」
レオナルドはマリアの手首を掴んで勢いよく自分のほうへと引き寄せた。
「なんとなく男の気配がした。婚約者がいたと聞いたが、その記憶だとしたら、それは面白くないな」
「レ、レオナルド様……?」
やはり見抜かれていた。しかも記憶の気配とはどんな嗅覚をしているのだろうか。それはともかく、マリアはレオナルドとの顔があまりにも近いことに戸惑っていた。
咄嗟に視線を逸らそうとするものの、その瞳に引き寄せられてしまう。深い夜の色を湛えたような瞳は、どこか眠気の残る柔らかさを帯びながらも、じっと彼女を見つめている。
近い……近すぎる!
胸が締め付けられるような感覚が襲い、呼吸が浅くなるのを感じる。彼の顔の細部までがくっきりと見える。まっすぐに伸びた鼻筋、ほんのりと唇が動いた気がして、その瞬間、全身に熱が駆け巡った。
「……顔が赤いな」
レオナルドが挑発するような不敵な笑みを浮かべて言う。まるで、すべてを見透かしているかのような言葉に、マリアは慌てて言い訳を探した。
「えっと……蝋燭のせいです! 明かりがちょっと熱くて」
「蝋燭か。今はついていないようだが」
静かで落ち着いた声が耳元に届き、マリアの体温はさらに上がる。支えられた腰に彼の手の温かさが伝わり、胸の鼓動はさらに速くなった。
「あ、あのっ」
声を裏返しながらも、なんとか体勢を立て直し、彼の腕から逃れようとする。しかし、レオナルドはさらにマリアを自分の腕の中に閉じ込めた。
「……離さない。ようやく、ここまでこれたんだ」
「え?」
呟いたその声。近づく整った顔。視界いっぱいに広がった光景は、すっと横を抜けていった。
レオナルドはマリアの肩にもたれるようにして眠っていた。規則正しい寝息が聞こえている中で、言われた言葉を思い出していた。ようやくここまでこれた──それは一体どういう意味だったのだろう。
***
「聖女様と一夜を明かしたらしいな」
翌朝、レオナルドが迎えの馬車に乗り込むとルカ・コンティが座っていた。朝から憎たらしい男だとレオナルドは溜息をつく。
ウェーブがかった茶色の髪に、健康的な小麦肌。一見、軽薄そうな口調をするが頭はキレる男であり、レオナルドと同じ騎士団に所属していた。
「また勝手に同乗か」
「俺も陛下に呼び出し受けてんだよ。お前が勝手に婚約を決めるから、次は俺を誰かとくっつけさせようと躍起になってるらしいからな。ということは、こうして一緒に乗り込むことになったのはお前のせいでもある」
「責任をすり替えるな。お前はもともと結婚しろと言われていただろう」
「俺はまだまだいろんな女の子たちと楽しみたいんだよ」
遊び人だと言われることも多いルカは、レオナルドと違い、まだまだ結婚する気はないらしい。
そんなことよりも、とルカはずいっとレオナルドに顔を近づけた。
「町では噂になってるぞ、お前が大聖女様の娘と婚約したって」
「へえ」
「反応薄いなあ。まあレオナルドって昔からそんな感じだよな。ただでさえ、あの長年の想い人を見つけたときでさえ俺のほうが喜んだっていうのに」
おい、とレオナルドはルカを睨んだ。
「あ、これってまだ内緒なわけ? いいじゃねえか、婚約者が初恋の人でしたっていうオチ、俺は結構好きよ?」
「面倒だから誰にも喋るな」
「なんて言われてもなあ、あのレオナルド様がここまで純粋だったなんて思わなかったよ。初めて会ったときから恋に落ちてんだもんな」
レオナルドが十歳、マリアが八歳のとき、二人は交流会で出会った。
それまでレオナルドは父に無理やり連れられて交流会に参加させられていたが、マリアはこの日が初めてだった。大聖女である母を持つがゆえに、周囲からは丁重にもてなされていたが、そうされることをまるで拒むように、彼女は庭で一人ぽつんと座っていた。
別に声をかけたわけではない。ただ、大聖女の女だと期待していた分、なんというか、普通の子どもがきたものだと思っていたぐらいだ。しかも娘にはまだ聖女の力が宿っていないという。
マリアはふと、花壇に近づいて座り込んだ。そうして躊躇いもなく土まみれになった花に手を伸ばした。誰かに踏まれたのか、名もわからない花を慈しむように触れている。マリアは大事そうに立て直し、土をかけた。
「私に聖女の力があったらよかったのに、ごめんね」
マリアの切実な声に、初めてレオナルドはマリアという人間に興味を持った。
自分よりも幼い子どもから出てくるような声ではなかった。悲しさ、絶望、後悔、それらが一度に混ざったような複雑な声で、申し訳なさそうに笑うその横顔を見ていたら、目が離せなくなった。
それから、何度か交流会でマリアを見かけるようになったが、マリアは年々、肩身が狭い思いをすることになる。聖女の力が宿らないという事実が、マリアを苦しめていた。
声をかけたかった。しかし、自分が声をかけることで、周囲から目立ってしまっては彼女を守られる自信もない。そんなことをジレンマを抱えていたとき、マリアが交流会に顔を出さなくなった。マリアの母が亡くなったからだ。
それをきっかけにマリアの情報は断ち切られ、いつしか、忘れさられた聖女として、誰にも語られることがなくなった。
「いやあ、しかしあの聖女様が婚約を白紙にされてたなんて噂を聞かなかったら、ずっと行方知れずだったんだもんな」
密かにマリアを探していたある日、マリアがいつの間にか婚約をしていたこと、そして相手側の都合で一方的に白紙にされたという話が耳に入った。白紙にされた理由も「聖女の力が宿らなかった」というだけのものだったらしい。そもそも、相手の男もレオナルドと同じ騎士だったがゆえに、聖女との結婚を周囲が望んだのだろうが、新しい聖女を見つけてはさっさと乗り換えたと聞く。
どれだけマリアをコケにすれば気が済むのかと、一度は剣を抜きかけたことは、ルカだけが知る事実だ。そうでなくとも、あのマリアと婚約を結んでいたという事実でさえ腹立たしいというのに。
レオナルドはすぐにマリアの父とコンタクトを取り、婚約を取り付けた。本人が知らない間にことを進めてしまうことは良くないと理解していたが、それでもマリアがまた自分以外と婚約をする可能性がないとも言えない。幸いにも、マリアの父は喜んで婚約を承諾した。
「ようやく初恋の人を見つけたっていうのに、記憶失ってるって、ハッピーエンドとは言い難いよなあ」
「……お前は本当にペラペラと喋る奴だな」
「今に始まったことじゃないでしょ。でも、記憶喪失か。本当にそうなのか?」
「何が言いたい」
「あの子って俺も交流会で見かけたことはあるけど、聖女の母を持つだけで、あの子自身には聖女としての力はなかったはずだろ。それなのに、聖女の力と記憶喪失が同時に起こるって、なんか出来すぎてるなと思って。レオナルド、お前だってそこに気づかないわけでもないだろ」
ルカと同じように、陛下のお膝元にいるような人間も同じようなことを言った。
だが、そんなことは黙らせてしまえばいいだけの話だ。
「あの大聖女の母を持つ。それだけで価値はあるだろう」
「価値ねえ。無理矢理にでも上を黙らせたお前には頭が上がらないよ」
「記憶のことについては、ほかの人間には言うなよ」
「言わない代わりに、聖女様との濃密な夜の話を聞かせてくれよ」
面倒なことを持ちかけてきた。そうでなくとも、いろいろな手段で聞こうとしていただろうに。
「どうもない。ただ寝て、朝を迎えただけだ」
「えええ? 男女が一つの部屋にいるわけだろう? それで何もなかったなんてありえない」
「お前と一緒にするな」
「あ、もしかして聖女様、あんま顔とか身体がよくなかったとか?」
「……」
「逆か。なんだ、あまりにも綺麗で手を出せなかったわけか」
レオナルドのことをなんでも知ってると豪語するだけはある。顔を見ただけで、何を考えているかさえルカはわかってしまうらしい。
「わかるよ、俺もちらっと聖女様を見に行ったけど、美人なほうだとは思う」
「お前ごときが見るな」
「ひえ、怖い怖い。まさか、あの冷徹で目だけで人を殺せるような騎士団長様が婚約するんだもんな。相手がいなかったわけでもないだろうよ」
「さあな」
「罪深い男だよ。選びたい放題なのに、初恋相手を探し続けるなんて」
いい加減に黙れとレオナルドはルカに視線を送ったが、当の本人はそれを察知しながらもにやにやとした面持ちでレオナルドを見ていた。
「まあ、でも気に入らなかったら次を見つければいいだけだもんな」
「彼女以外と結婚するつもりはない」
「おお、ずいぶんと真面目だな。惚れてる女には優しいんだ」
「くだらない冗談を言う暇があるなら、黙っていろ」
レオナルドの声は低く、しかし確かな威圧感を帯びていた。
ルカはわざとらしく口を閉じ、両手を上げて降参のポーズを取る。
「はいはい、静かにしてますよ。まったく、真剣な男ってのは面倒くさいな」
それでも、ルカの表情には面白がっている様子があった。
レオナルドは馬車の小窓から外を眺めた。
ようやく手にした彼女。記憶を失い、自分のことを忘れていたとしても、それでいい。
「ま、初恋の人が聖女でよかったよ。騎士は聖女としか結婚できないんだから」
大人しくすると約束を交わしたばかりなのに、ルカはすぐに口を開いた。が、レオナルドはそれに対して短く「ああ」と答えただけだった。
生まれたときから騎士になることが定められていた運命。この国の決まりでは、騎士は必ず聖女と結婚し、未来永劫支え合って生きていくことが定められている。
そのため、レオナルドの婚約者候補は全員、選りすぐりの聖女しかいなかった。
だが、興味を示したことは一度だってない。仮に聖女だとすれば、その大聖女の力を宿した母を持つ、あの少女だけが自分の相手でしかない。
そう思ってきたこの人生で、ようやくマリアを見つけた。もう手放したりはしない。
……どんなことがあっても。