お飾りの捨てられ聖女でしたが、記憶喪失を装ったら隣国の騎士団長に溺愛されました

「マリア様!?」
 マリアの侍女であるカローラが素っ頓狂な声をあげて廊下を走っていた。
「どこにいらっしゃるかと思えば、こんなところで何を」
「何って……雑巾掛けを」
 遠慮がちに微笑みながら、手にしていた雑巾を持ち上げたマリアにカローラはさらに驚きの声をあげた。
「そのドレスでですか!?」
 マリアは、この城に来るときに着てきたドレスを身に纏い掃除に勤しんでいた。
「だめです、汚れてしまいます」
「でも、これしか持っていなくて」
「そうでなくとも、このようなことは私たちがしますので」
 いよいよカローラに雑巾を没収されては、マリアは苦笑するしかなかった。
「なんだか、掃除でもしていないと落ち着かないんです」
「もっとほかにすることはあるじゃないですか」
「することと言われても……」
 ここに来てからというもの、外出の許可は出されていなかった。それとなくレオナルドに頼んでみたものの、やんわりと却下をくらっていた。そのため広い屋敷の中でうろうろとするしかなく、健康的に体を動かそうと思えば掃除ぐらいしか思いつかなかったのだ。
「あ、じゃあ畑はありますか? 畑仕事は得意で」
「私がいいなんて言うわけないじゃないですか。それこそレオナルド様はお許しになりませんよ」
「……ですよね」
 レオナルドは、マリアのことを一応は大切にしてくれている。だが、まるで鳥籠で飼われているようにも思えてしまう。衣食住は何一つとして困らないし、むしろ感謝をしているぐらいだ。けれど、尽くされてしまうほど、罪悪感が募ってしまう。
 自分には聖女の力がないということを。
「マリア様? どうかされましたか?」
 カローラの声にはっとして、マリアは顔を上げた。
「いいえ。それより、やりたいことを見つけたんです」
 にやりと笑ったマリアに、カローラはごくりと唾を飲んだ。

 レオナルドの許可がないとわかりません、というカローラをなんとか説得してマリアはお忍びで町に出ていた。
「ああ……レオナルド様にバレてしまったら私はクビです」
 そう怯えるカローラに「大丈夫」と肩を叩く。
「私はそうさせません。カローラは、屋敷から抜け出す私を追いかけて町まで出てきてしまったっていう設定ですから」
 微笑むと、カローラはやれやれではあるものの同じように笑った。
「どうせ出てきてしまったのですから、楽しみましょう」
 賑やかな市場に足を踏み入れると、そこは色とりどりの果物や野菜、香ばしい香りを放つ焼き立てのパンで満ちていた。子供たちの笑い声、威勢のいい商人たちの声が交じり合い、町全体が活気にあふれている。
「これが……町の市場……!」
 マリアは目を輝かせながら、あちらこちらを興味深そうに見て回る。その姿は無邪気で、まるで初めて外の世界を知る子供のようだった。
「マリア様、あまり目立つ行動をしないでください。人混みで目立つと危険です」
 カローラが慌てて声をかけるが、マリアは楽しそうに屋台の果物を見て回り、カローラの声など耳に入らない。
「カローラ、これ見てください。こんなに大きなリンゴがあるんですね。甘そう」
 マリアは屋台のリンゴを指さし、目を輝かせる。その笑顔に、カローラも少しだけ肩の力を抜く。
「確かに……こんな大きなリンゴは見ませんね」
「でしょう? それに、この屋台のパンは、焼きたてみたい」
 眺めているだけで楽しい。
 そのとき、ふとした瞬間に、周囲は別の賑わいを見せた。彼らが羨望するように見つめていた先には立派な装いをした一団が通りを歩いてくるのが見えた。
「騎士団よ!」
 誰かが言った。その声にマリアとカローラは驚く。
「どうしましょう……あそこにレオナルド様がいたら」
 カローラは焦り、マリアの腕を掴んで人混みの中に身を隠す。
「やっぱり隠れないとだめですか?」
「もちろんですよ! 見つかったりでもしたら私は職を失います」
「大袈裟で──……」
 そのとき、マリアの視線の先にはひとりの少女がいた。誰もが騎士団を見つめる中で、少女は俯いていた。
「どうしたんですか?」
 マリアは声をかけながら少女に近づいた。しかし、足元に落ちているものを見て言葉が詰まった。おそらく手作りであろうアップルパイが床でぐちゃぐちゃになっていた。
「……誰かとぶつかって、落としちゃったの。ママに買ってきてって言われてたのに」
 少女の目にはみるみるうちに涙がたまり、そうかと思えば頬に何粒も大きな雫となって落ちていく。たしかにもう食べられるものではない。
「それは悲しいですね。とっても美味しそうなのに。お小遣いを貯めて買いたくなる気持ちがよくわかります」
「でも、もう食べられない……」
 もし聖女の力があれば、このアップルパイを復活させることもできたのだろうか、とマリアはいつだって聖女の力を考えてしまう。
 それでも、ないものはない。だからこそ割り切って、自分にできることをしてきた。
「あの、よかったらお家を教えてもらえませんか?」
「マリア様?」
 カローラは不思議そうに見つめていたが、マリアは微笑むだけだった。
 
 それからのマリアは、少女の家までの道を頭に入れると町で必要なものを買い揃えた。
 久しぶりだからきちんと作れるかは不安だったが、そうでなくとも、マリアは少女の気持ちに応えたかった。
 幸いにも、少女の家でアップルパイを作るだけの器具が揃っていた。それが無理だとしても屋敷に戻ってキッチンを借りるつもりではいたが、そうなるとレオナルドへの説明がややこしくなる。
 そうでなくても、外出を許可されていないわけで、もう一度屋敷を出るのは難しいと思っていたからだ。
「わあ、美味しそう……!」
 出来上がったばかりのアップルパイを前に、少女は目を輝かせた。
「これ、本当にもらっていいの?」
「もちろんです。お店のものとは違いますが、それなりに美味しく焼けたとは思います」
 マリアは自信を持って答える。それを見守ってカローラは、マリアのお人好しで行動力のある姿に関心していた。 しかし、少女は明るい顔から、何かを思い出したように悲しい顔をした。
「どうしたんですか?」
 マリアが声をかけると、少女は言った。少女の母はまだ仕事で戻ってこない。寂しさからくる涙だろうかと思っていると──
「……ごめんなさい。本当は嘘なの」
「え?」
「アップルパイを落としたって話。……本当は、半分なくなったのを誤魔化すために……わざと落として」
 少女の告白に、マリアとカローラは顔を合わせた。
「友達と会って、アップルパイが美味しそうって言われて……あげちゃったの。その子にも食べてもらいたくて。でも、人にあげたって知ったらママに怒られちゃうから……」
「……そうでしたか。いいんですよ、理由はどうであれ、私がアップルパイを作ったのは、あなたのためでしたから」
「私……?」
 少女はマリアを見上げた。
「はい、私のアップルパイを食べてほしかった、それだけです。だから、あなたが悪いと思うことはありません。このアップルパイは、ぜひお母様と一緒に食べてください」
 励ましながら、マリアの心は揺れていた。
 ──嘘は、よくない。その気持ちはとてもよくわかる。

***

 レオナルドはマリアが少女に感謝されている光景を遠くから見守っていた。
「なあ、これっていわゆるストーカーってやつじゃないのか」
 そこにはルカも一緒にいる。
「だって、町中で聖女様見つけて、少女の家まで行くのを見届けて、結果的にアップルパイが焼きあがるまでここで待ってんだぜ? さすがに度が過ぎてるだろう」
「口を慎め」
 不満があるならさっさと戻れとレオナルドは何度か促したが、そうしなかったのはルカだ。おかげでマリアが少女の家から出てくるまで長いこと待っていた。
「でも、あれは人が良すぎるな。落ちたアップルパイを手作りしてやるんだぞ」
「……昔からそういう心の持ち主だからな」
 踏み潰された花を、ほかの花と同じようにしようと土をかけ、太陽を浴びせていたその背中。自分に力がないことを詫びるその姿勢。あれからずいぶんと経つが、彼女自身が変わっていないことが微笑ましい。変わっていたとしても、彼女がそうなるよう選択してきた人生だったのであれば尊重したいと思っていた。
「それより、あの聖女ちゃん、なんか慌てて帰ってたけど大丈夫か」
「……ああ、外に出ないようには伝えていたからな」
「は? なんで」
 信じられないとでも言いたげにルカはレオナルドを見た。
「また婚約を申し込まれても困るだろう」
「……お前、そういうキャラだっけ。なんか、今まで見てこなかった親友の新しい部分を見て、俺ちょっと戸惑ってんだけど」
「そうか」
 だからといって、ずっと屋敷の中に縛っておくつもりもなかった。
 もう少し、彼女の環境が落ち着けば一緒に外に出ればいい。だが、縛り過ぎていたのかもしれない。
 その後、レオナルドはマリアが屋敷に戻ったという報告を聞いてから帰った。
 彼女の部屋をノックすると、ドタバタとした音とともに「はいっ」と慌てたような声が中から聞こえてきた。本でも読んでいたのだろうか。おおかた、手にした本を床に落としたのだろう。
 扉が開くと、昼間見かけた彼女が遠慮がちにレオナルドを見上げた。
「お、おかえりなさいませ」
「ああ。今日はどんなことをして過ごしていたんだ?」
「ええと、本を読んでいました」
「一日中?」
「もちろんです」
 くすりと笑みがこぼれそうになる。ずっと家にいたという設定をどうやら守っているらしい。町で見かけたと言えば、どんな反応を見せるだろうか。
「良ければ話し相手になってくれないか」
 持っていた手土産を持ち上げると、マリアの顔は嬉しそうに綻んだ。
「お酒ですか?」
「飲めるなら一緒にと思ったんだが」
「もちろんです」
 マリアは後ろを振り返ると、「どうぞ」とレオナルドを招いた。
 彼女専用として用意したこの部屋も、それなりに居心地のいい空間になっているらしい。細々としたものではあるが、マリアの私物を見かける。こういった光景をいつか見たいと望んでいた。
「明日は交流会がありますね」
 グラスを用意したマリアはレオナルドにひとつ手渡した。それを受け取りながらレオナルドは「あの退屈な場か」とこぼす。
「お嫌いなんですか?」
「面白くはないからな。ここ最近は特に」
 マリアを見かけなくなってからというもの、行く意味を見いだせずにいた。遠くからでもいい、一目会えるだけで心は満たされていた。
「マリアは明日行きたいのか?」
「……うーん、私も、面白いと思ったことはないのですが」
 眉を下げ、困ったように笑うその横顔は見覚えがある。交流会でもよく見せていた顔だ。
「無理に参加する必要はない」
「ですが、ご挨拶に伺ったほうがいいんですよね? カローラに聞きました」
 明日は陛下も来ると言っていた。もちろん参加したほうがいい。マリアを自分の婚約者としてお披露目する絶好の機会でもあるだろう。
「それなら、一緒に行こう」
「え、ですがレオナルド様は明日、隣国に視察があると……」
「終わったらすぐに向かう。それで良ければだが」
 マリアはレオナルドの言葉を受け、にこりと微笑んだ。
「わかりました。では交流会でお待ちしていますね」
「ああ」
 それから、マリアはようやくグラスに口をつけた。その顔が、ぱっと明るいものに変わる。
「甘い……ジュースのようなお酒ですね」
「好きそうな味だと思ったんだ」
「もしかして、私のための手土産だったんですか……?」
「そうとも言えるな」
 そうとしか言えない。レオナルドはこの酒を飲んでから、いつかマリアに振る舞いたいと思っていた。
「……だが、甘いと言えば」
 レオナルドはマリアの艶のある紅い髪を手にした。
「この髪もまた、ずいぶんと甘い匂いがする」
 マリアの顔は一瞬にして固まった。
「あの、これはですね……アップルパイを、作りまして」
「アップルパイか。美味しくできたのか」
「多分……味を聞くのを忘れていました」
「へえ?」
「あ! いえ、美味しかったです!」
 ころころと表情が変わるその姿が愛おしい。彼女が見えない角度で、そっと口づけを落とす。
 全て知っている。けれど、彼女の声をもっと聞いていたいと思っていた。
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