死にたがり令嬢の新しい人生
「クラウディア、と言ったな。お前何者だ。服装から勝手に平民かと思ったが、話し方が平民とそれとは違う。食事をしている時の所作も綺麗だった。ヴィクトールが公爵家だとすぐに言い当て、貴族の情報は一通り入っていると言っていたな」
「…隠しておくつもりはありませんでしたが…私はクラウディア・ヘルベルトと申します」
「…ヘルベルト伯爵家の令嬢か。だが見覚えが…長女か」
「はい、引きこもりで妹にきつくあたる悪女とは私のことですよ」
クラウディアが鼻で笑うとランドルフが反応に困ったのが分かった。不思議なことに散々無礼な態度を取って許されたせいか、ランドルフに対しては取り繕うという気が起きなかった。
「私が社交界でどう言われているかはよく知ってますよ、妹が嬉々として教えてくれますからね。あの子は私と違ってドレスも宝石も自由に買えて舞踏会にも好きに出れますから」
「…ヘルベルト家の長女はデビュタント以来社交界に顔を出さず、婚約者が何故か夜会で妹のエスコートをしていると噂になっているが」
「義母が必要最低限の外出以外禁止しているので。それに婚約者も私より妹の方が好きみたいですからね、妊娠させるくらいですから相当ですよ」
突然の爆弾発言にランドルフが目を瞠った。興が乗ってきたクラウディアは構わず続ける。
「一応私が伯爵家の跡継ぎだったんですけどね。父は妹を後継にしたがったんですが、大の勉強嫌いで仕方なく。まあ父は私に実権を渡すつもりはなくずっと面倒な仕事を押し付ける気だったのでしょうが。それでも…いつか認めてもらえると信じていたんですよ、それもさっき全部無くしましたけど」
「…妹を婚約者が妊娠させたんだな」
ランドルフもさっきのクラウディアの荒れていた理由に察しがついたのか痛ましげな表情を見せた。
「ええ、父は妹と婚約者の不貞を責めもせず喜び、子供が出来たのだからと跡取りの座を妹に変えて私は妹の補佐に着くように、と。先程も言いましたが妹は勉強が嫌いなので、面倒なことは全て私がやるようにと命じました」
「それは…飼い殺しにするということか」
ランドルフの額に青筋が浮かぶ。確かランドルフは謹厳実直な性格だと有名で、そんな彼からしたら父と妹、そして婚約者の所業は許し難いのだろう。クラウディアは怒る気すら失せてしまったから赤の他人が怒っているのを見ると、なんだか嬉しいと感じてしまう。
「それで私、今まで死に物狂いで努力してきたのが馬鹿らしくなって唯一自分を慈しんでくれた母に会いに行って…あの人達への当てつけで死のうとしました」
あの人達、という声には抑えきれない憎悪が滲んでいた。無意思に歯を食いしばり膝の上で重ねられた手をギュゥと握る。クラウディアの脳裏には母が死んでからの地獄のような10年が蘇る。
家に寄りつかない父、弱っていく母、母の葬式に来た伯父の嬉しそうな顔、喪が明ける前に義母と一歳違いの妹を連れてくる父、離れに追いやられ母の形見の宝石やドレスも全て妹に奪われ、少しでも反抗すると暴力を振るわれる、使用人すらクラウディアを見下し碌に世話をせず、食事にも嫌がらせで虫を入れられる、父の伝手で出来た婚約者はクラウディアを疎み、妹とばかり交流し仕事を丸投げ、父も伯爵としての仕事をクラウディアに押し付ける…。
クラウディアはいつしか理不尽に罵倒されようと暴力を振るわれようと、母から貰ったナイフを身につけ「いつでも殺せる」と思い込むことで心の安定を図るようになっていった。思い込むだけで実行には移さない。妹や義母を傷つける素振りを見せようものならクラウディアは徹底的に痛めつけられ、殺されていただろう。父のことだ、病死ということにしてクラウディアの死を隠蔽するに決まっている。寧ろ嫌っていた母によく似たクラウディアが死んだら喜ぶ姿が目に浮かぶ。
「けど、私が死んだところであの人たちの心が痛むことは絶対ない…だから止めてくださってありがとうございました」
思い留まったのだ、と再び頭を下げて礼を言うと、顔を上げ真っ直ぐにランドルフの目を見た。
「これ以上ご迷惑をかけるわけにらいきませんので、明日にでもここを出て行きます」
「待て、出て行って行く当てはあるのか」
焦ったようにランドルフが尋ねてくる。行く当ては無い。伯爵家には帰りたく無いし、母の生家の侯爵家に頼ろうものなら殺され兼ねない。妹と同じく愛人の子だった母は父の寵愛を笠に着て現侯爵である伯父を散々虐めたとクラウディアに懺悔したことがある。だから自分に何かあっても決して助けてはくれない、と。祖父が亡くなると報復するかのように後妻に入った祖母を領地の治療院に押し込み、母を資金援助と銘打って厄介払いのようにヘルベルト伯爵家に嫁がせ、葬式で嬉しそうに笑っていた伯父。そんな伯父に頼ることは絶対に出来ない。
クラウディアは強がって無理矢理笑う。
「当てはありませんけど…碌な扱いを受けてなかったおかげで掃除は人並みに出来るので…何処かで雇ってくれたら、良いのですが…」
「ならここに入れば良いだろう」
「…はい?」
ランドルフの言葉の意味が一種理解出来ずキョトンとした顔で聞き返してしまう。クラウディアは真剣な顔のランドルフの意図を読み取り、こう言った。
「…ここで雇っていただけるということでしょうか?お気遣いはありがたいのですが、私の腕前なんて素人に毛が生えた程度。とても副団長様の邸で働くレベルに達しておりません。寧ろ足を引っ張り邸の品位を下げます」
リナの働きを見ても、どの動作一つ取ってもスマートだった。あのレベルを求められると分かっていると軽々しく誘いを受けることは躊躇われるのだ。しかしランドルフは顰め面で小さく息を吐いた。
「違う…確かに今のでは伝わらないな…はっきり言おう。クラウディア・ヘルベルト、俺と婚約しろ」
「はい⁈」
斜め上なことを言われ思わず声を荒げてしまうも、ランドルフはそんなクラウディアを見ても平然としている。
「…冗談を言う雰囲気ではなかったと思いますが」
「冗談じゃない、本気だ」
「天下のヴィクトール公爵子息様が名ばかりな伯爵令嬢と婚約?メリットどころかデメリットしかありません。もしかして同情されましたか?」
同情することが悪いこととは言わないがクラウディアは身の上を憐れまれているようで、好きではなかった。常に邸の使用人、時々妹に向けられていた感情だから殊更忌避するのかもしれない。
「同情?まあ多少はしているが、それだけでこんなことは言わない。俺にとって都合が良いから提案しているし、お前にとっても良い話のはずだが?なんの後ろ盾もない若い女が市井でやっていくのは想像以上に大変だぞ。それに伯爵家だってお前を探すだろう。頭の良くない妹と婚約者のために必要な存在だ。捕まったら今度こそ飼い殺しの生活かもな」
ランドルフは目を背けていた現実を突き向けてくる。冷遇されていたとはいえ伯爵令嬢、寝るところはあったし一応食事も与えられていたので本当の意味での苦労を味わったわけではない。ほぼ邸に軟禁されていたから世間知らず。そんな人間が市井で暮らしていけるかと問えば答えは否、だ。それに父だってこき使える奴隷であるクラウディアをみすみす逃してくれるとも思えない。今頃血眼になって探しているだろうし、捕まれば死ぬ寸前まで甚振られた上に監禁生活一直線だ。想像しただけでゾッとする。
「お前1人では伯爵家に対抗出来ないが、俺の婚約者になれば話は別だ。婚約者を邸に留めても不自然ではないし、身の安全と暮らしは保証する。俺は社交を殆どしないからパーティーや夜会には避けられないものにだけ出席してくれれば良い。邸に引きこもってようが、何をしようが自由だ」
ランドルフは勝ち誇った顔で提案してくる。聞けば聞くほどクラウディアにとってメリットしかない話だ。しかし、簡単に飛びつくほどクラウディアは馬鹿ではない。警戒心に満ちた目でランドルフを睨む。
「私にメリットはあるようですが、ランドルフ様にはデメリットしかないように思えます」
「こう見えて俺は女に人気があるらしい。結婚する気がないのに毎日釣書は届くし、職場でも縁談を持ちかけられてうんざりしているし、付き纏う女も後を絶たない。婚約者がいるだけで心労が減るんだ」
つまり縁談除けの婚約者が欲しいというわけか。こう見えても何もランドルフは見目麗しく、少々態度が偉そうだが家柄も良いので狙ってる令嬢が列を成しているのだろう。口調と表情から普段の苦労が察せられる。
「事情は分かりましたが、私が社交の場で何と言われているかご存知でしょう?」
「あんな根も葉もない噂を払拭するのは簡単だ。両親も結婚しないと言い張っていた俺に婚約者が出来ることを歓迎する。それに…」
ランドルフが意地の悪い笑みを浮かべる。
「…隠しておくつもりはありませんでしたが…私はクラウディア・ヘルベルトと申します」
「…ヘルベルト伯爵家の令嬢か。だが見覚えが…長女か」
「はい、引きこもりで妹にきつくあたる悪女とは私のことですよ」
クラウディアが鼻で笑うとランドルフが反応に困ったのが分かった。不思議なことに散々無礼な態度を取って許されたせいか、ランドルフに対しては取り繕うという気が起きなかった。
「私が社交界でどう言われているかはよく知ってますよ、妹が嬉々として教えてくれますからね。あの子は私と違ってドレスも宝石も自由に買えて舞踏会にも好きに出れますから」
「…ヘルベルト家の長女はデビュタント以来社交界に顔を出さず、婚約者が何故か夜会で妹のエスコートをしていると噂になっているが」
「義母が必要最低限の外出以外禁止しているので。それに婚約者も私より妹の方が好きみたいですからね、妊娠させるくらいですから相当ですよ」
突然の爆弾発言にランドルフが目を瞠った。興が乗ってきたクラウディアは構わず続ける。
「一応私が伯爵家の跡継ぎだったんですけどね。父は妹を後継にしたがったんですが、大の勉強嫌いで仕方なく。まあ父は私に実権を渡すつもりはなくずっと面倒な仕事を押し付ける気だったのでしょうが。それでも…いつか認めてもらえると信じていたんですよ、それもさっき全部無くしましたけど」
「…妹を婚約者が妊娠させたんだな」
ランドルフもさっきのクラウディアの荒れていた理由に察しがついたのか痛ましげな表情を見せた。
「ええ、父は妹と婚約者の不貞を責めもせず喜び、子供が出来たのだからと跡取りの座を妹に変えて私は妹の補佐に着くように、と。先程も言いましたが妹は勉強が嫌いなので、面倒なことは全て私がやるようにと命じました」
「それは…飼い殺しにするということか」
ランドルフの額に青筋が浮かぶ。確かランドルフは謹厳実直な性格だと有名で、そんな彼からしたら父と妹、そして婚約者の所業は許し難いのだろう。クラウディアは怒る気すら失せてしまったから赤の他人が怒っているのを見ると、なんだか嬉しいと感じてしまう。
「それで私、今まで死に物狂いで努力してきたのが馬鹿らしくなって唯一自分を慈しんでくれた母に会いに行って…あの人達への当てつけで死のうとしました」
あの人達、という声には抑えきれない憎悪が滲んでいた。無意思に歯を食いしばり膝の上で重ねられた手をギュゥと握る。クラウディアの脳裏には母が死んでからの地獄のような10年が蘇る。
家に寄りつかない父、弱っていく母、母の葬式に来た伯父の嬉しそうな顔、喪が明ける前に義母と一歳違いの妹を連れてくる父、離れに追いやられ母の形見の宝石やドレスも全て妹に奪われ、少しでも反抗すると暴力を振るわれる、使用人すらクラウディアを見下し碌に世話をせず、食事にも嫌がらせで虫を入れられる、父の伝手で出来た婚約者はクラウディアを疎み、妹とばかり交流し仕事を丸投げ、父も伯爵としての仕事をクラウディアに押し付ける…。
クラウディアはいつしか理不尽に罵倒されようと暴力を振るわれようと、母から貰ったナイフを身につけ「いつでも殺せる」と思い込むことで心の安定を図るようになっていった。思い込むだけで実行には移さない。妹や義母を傷つける素振りを見せようものならクラウディアは徹底的に痛めつけられ、殺されていただろう。父のことだ、病死ということにしてクラウディアの死を隠蔽するに決まっている。寧ろ嫌っていた母によく似たクラウディアが死んだら喜ぶ姿が目に浮かぶ。
「けど、私が死んだところであの人たちの心が痛むことは絶対ない…だから止めてくださってありがとうございました」
思い留まったのだ、と再び頭を下げて礼を言うと、顔を上げ真っ直ぐにランドルフの目を見た。
「これ以上ご迷惑をかけるわけにらいきませんので、明日にでもここを出て行きます」
「待て、出て行って行く当てはあるのか」
焦ったようにランドルフが尋ねてくる。行く当ては無い。伯爵家には帰りたく無いし、母の生家の侯爵家に頼ろうものなら殺され兼ねない。妹と同じく愛人の子だった母は父の寵愛を笠に着て現侯爵である伯父を散々虐めたとクラウディアに懺悔したことがある。だから自分に何かあっても決して助けてはくれない、と。祖父が亡くなると報復するかのように後妻に入った祖母を領地の治療院に押し込み、母を資金援助と銘打って厄介払いのようにヘルベルト伯爵家に嫁がせ、葬式で嬉しそうに笑っていた伯父。そんな伯父に頼ることは絶対に出来ない。
クラウディアは強がって無理矢理笑う。
「当てはありませんけど…碌な扱いを受けてなかったおかげで掃除は人並みに出来るので…何処かで雇ってくれたら、良いのですが…」
「ならここに入れば良いだろう」
「…はい?」
ランドルフの言葉の意味が一種理解出来ずキョトンとした顔で聞き返してしまう。クラウディアは真剣な顔のランドルフの意図を読み取り、こう言った。
「…ここで雇っていただけるということでしょうか?お気遣いはありがたいのですが、私の腕前なんて素人に毛が生えた程度。とても副団長様の邸で働くレベルに達しておりません。寧ろ足を引っ張り邸の品位を下げます」
リナの働きを見ても、どの動作一つ取ってもスマートだった。あのレベルを求められると分かっていると軽々しく誘いを受けることは躊躇われるのだ。しかしランドルフは顰め面で小さく息を吐いた。
「違う…確かに今のでは伝わらないな…はっきり言おう。クラウディア・ヘルベルト、俺と婚約しろ」
「はい⁈」
斜め上なことを言われ思わず声を荒げてしまうも、ランドルフはそんなクラウディアを見ても平然としている。
「…冗談を言う雰囲気ではなかったと思いますが」
「冗談じゃない、本気だ」
「天下のヴィクトール公爵子息様が名ばかりな伯爵令嬢と婚約?メリットどころかデメリットしかありません。もしかして同情されましたか?」
同情することが悪いこととは言わないがクラウディアは身の上を憐れまれているようで、好きではなかった。常に邸の使用人、時々妹に向けられていた感情だから殊更忌避するのかもしれない。
「同情?まあ多少はしているが、それだけでこんなことは言わない。俺にとって都合が良いから提案しているし、お前にとっても良い話のはずだが?なんの後ろ盾もない若い女が市井でやっていくのは想像以上に大変だぞ。それに伯爵家だってお前を探すだろう。頭の良くない妹と婚約者のために必要な存在だ。捕まったら今度こそ飼い殺しの生活かもな」
ランドルフは目を背けていた現実を突き向けてくる。冷遇されていたとはいえ伯爵令嬢、寝るところはあったし一応食事も与えられていたので本当の意味での苦労を味わったわけではない。ほぼ邸に軟禁されていたから世間知らず。そんな人間が市井で暮らしていけるかと問えば答えは否、だ。それに父だってこき使える奴隷であるクラウディアをみすみす逃してくれるとも思えない。今頃血眼になって探しているだろうし、捕まれば死ぬ寸前まで甚振られた上に監禁生活一直線だ。想像しただけでゾッとする。
「お前1人では伯爵家に対抗出来ないが、俺の婚約者になれば話は別だ。婚約者を邸に留めても不自然ではないし、身の安全と暮らしは保証する。俺は社交を殆どしないからパーティーや夜会には避けられないものにだけ出席してくれれば良い。邸に引きこもってようが、何をしようが自由だ」
ランドルフは勝ち誇った顔で提案してくる。聞けば聞くほどクラウディアにとってメリットしかない話だ。しかし、簡単に飛びつくほどクラウディアは馬鹿ではない。警戒心に満ちた目でランドルフを睨む。
「私にメリットはあるようですが、ランドルフ様にはデメリットしかないように思えます」
「こう見えて俺は女に人気があるらしい。結婚する気がないのに毎日釣書は届くし、職場でも縁談を持ちかけられてうんざりしているし、付き纏う女も後を絶たない。婚約者がいるだけで心労が減るんだ」
つまり縁談除けの婚約者が欲しいというわけか。こう見えても何もランドルフは見目麗しく、少々態度が偉そうだが家柄も良いので狙ってる令嬢が列を成しているのだろう。口調と表情から普段の苦労が察せられる。
「事情は分かりましたが、私が社交の場で何と言われているかご存知でしょう?」
「あんな根も葉もない噂を払拭するのは簡単だ。両親も結婚しないと言い張っていた俺に婚約者が出来ることを歓迎する。それに…」
ランドルフが意地の悪い笑みを浮かべる。