底辺令嬢はエリート魔法師に甘やかされる

よみがえる記憶

「まだ、ラメルにたくさん話したいことがあったのに……」

 シャルロットは暗闇の中を一人彷徨(さまよ)っていた。前後左右上下、どこを見ても同じ暗闇。ここがどこなのかもわからない。
 さっきまでは確かに目の前にラメルがいて、私の差し出したハンカチで恥ずかしそうに涙を拭っていたのに。

「ケーキもまだ来てなかったし……」

 誰かに後ろから肩を叩かれ、そちらを向こうとしたところで急にここへ()()したのだ。

(そう。たぶんこれは()()。場所を強制的に移動させられたことはわかるのだけれど)

 どこを見ても暗闇しかないので、ここがどこなのか見当もつかない。

「大丈夫。私もこの間までの私じゃないもの。きっとなんとかできるわ」

 自分を奮い立たせるように、シャルロットはポジティブな言葉を発し続けた。そうしないと、恐怖に発狂してしまいそうだったから。
 
 本音を言えば、不安だし怖くて仕方ない。周りに何があるのかもわからないから、一歩たりとも動けない状況なのだから。
 
 思えば、この暗闇はシャルロットの人生そのもののようだ。シャルロットはティアーズ公爵家における自分の立場を理解して以来、常に暗闇の中を歩いているようなものだった。助けを求めようにも、どこに手を差し出せばいいのかもわからない。すべて自分で判断して、暗闇からの出口を探すしかなかった。

 ただ、じっとその場に佇んで周りの気配を探っていたら、目の前に一匹の猫が現れた。灰色のふわふわの毛を纏っていて、垂れた両耳が可愛らしい。全体的に丸々としたフォルムのその猫は、金色の瞳をしていた。

(ふふ。ラメルみたいね)

『あなたの目、この子とそっくり』

 一瞬、シャルロットの脳裏に、言った記憶のないセリフが幼い頃の自分の声で再生された。

「あとちょっとで何か……掴めそう」

 これは私が失くしていた記憶かもしれない。そう思ったシャルロットは、丁寧に記憶を手繰り寄せるように、そしてピンポイントで掘り起こすように自分の声を追いかけた。

 そのとき、目の前にいた可愛らしい猫が特徴的な声で鳴き、それとともに幼い男の子の声も呼び起こされた。

『“シャル”って呼んでるみたいに鳴くんだね』

(思い出した。この子は)

 目の前に現れた子は、昔、シャルロットが家の者に内緒で仲良くしていたら、居着いてしまった猫だった。

(ああ。そうだ……)

 シャルロットは、なぜかティアーズ公爵家の庭に迷い込んできたこの猫と彼女の“自由時間”に偶然出会った。
 シャルロットは屋敷の中で、食事をするときに厨房に行くことだけは許されていたので、その“自由時間”を使ってお菓子作りを習ったり、少しだけ庭を散歩させてもらったりしていた。その日も食事を終えて誰にも見つからないよう庭を散歩していると、自分のほうを見つめる視線を感じたのだ。それが“グレイ”だった。
 一度姿を見かけてからは、シャルロットが現れる時間になるとそばに寄ってくるようになった。“グレイ”と名付けたのは自分の食事を分け与えようと決めた日。グレイは毎日毎食、厨房で摂る食事はいつも一人きりだったシャルロットにとって、初めて食事の時間をシェアする存在だった。

(そうだわ。グレイと一緒におやつを食べているときに、ちょうどティアーズ公爵家を訪れていたラメルに会ったのだった)

『その猫、きみの?』
『あなただあれ?』
『ぼくはラメル。きみは?』
『シャルロット。……この子は、グレイっていうの。私のお友達よ』
『そっか……。可愛いね』
 
 グレイの記憶をたどっていると、ラメルと初めて会ったときの会話が思い出された。

(私にはなんの情報も知らされなかったから、ラメルが誰で、何のためにティアーズ公爵家へ来ていたのかも当時は知らなかったのよね)

 そうでなければ、ラメルとこんなふうに会話ができていたはずがない。当時ラメルは、シャルロットの妹・サンドラとの縁談が持ち上がっていたためにティアーズ公爵家を訪れていたのだから。

 初めて会った日以降も、月に何度か会う機会があった。その度にシャルロットとラメルとグレイは交流を深めていった。

(けれど……私は、グレイのこともラメルのことも忘れてしまった……)

 それが起こったのはグレイと秘密の交流を初めて一年たつ頃だった。こともあろうに、サンドラにグレイの存在がバレてしまったのだ。しかし、それは――。

(私が大切にしていたリボンを、グレイが取り戻してくれようとしたせいだった)

『これを、きみに』
 
 恥ずかしそうにしながらも、シャルロットの瞳をしっかりと見つめるラメルが手渡したのは、青色のリボンだった。贅沢品を一切買い与えられていなかったシャルロットには、ものの価値など見ただけでわかりはしなかった。しかし、とても綺麗な青色をしたリボンは、触った生地の感触からも高価なものなのではないかと推察するのに十分なほど高貴さが溢れていた。ラメルとシャルロットが着ている服の違いからも、その推測は間違っていないように思えた。
 
『素敵! でも、私には似合わないかも……』

 その頃にはラメルへの恋心は自覚していたので、贈り物が嬉しくないはずはなかった。けれど、自分には過ぎた贅沢に思えて、シャルロットは素直に受け取れなかった。
 
『これをお店で見つけたとき、シャルの顔が浮かんだんだ』

 熱をはらんだ声色でそう言って、ラメルはシャルロットの手に青色のリボンを握らせた。

『絶対に似合うから、受け取って』
『ありがとう……』

 好きな男の子からそんなふうに言われては、断りきれなかった。シャルロットはそのとき受け取った青色のリボンを宝物として大切にしていたが、ある日それがサンドラの目についてしまい、奪われる結果となってしまった。

(大切な宝物だったのだから、しまっておけばよかったのに。それを髪に飾っているところをラメルに見てほしいと欲を出してしまったばかりに……)

 大切な青いリボンはサンドラに奪われ、『捨てておいて』と侍女の手に渡された。その瞬間――。

『きゃっ! なに……』

 どこから入ってきたのか、グレイが現れ、青色のリボンを侍女の手から奪って逃走した。

『その汚い猫を捕まえて! 殺してしまいなさい!』
『やめて! ねぇサンドラ、そんな酷いことしないで』
『うるさいわね! 誰に向かって言ってるのよ!』

 その頃からすでに人を使い慣れていたサンドラは、自分に泣いてすがるシャルロットを冷たい目で見下ろして命令した。
 
『ものわかりの悪いお姉様に(しつけ)を』
『かしこまりました』

 シャルロットはそれから三日三晩、(しつけ)と称して死なない程度に(むち)打ちを受けたあと、一ヵ月もの間、地下牢に閉じ込められた。その間、鞭打ちの怪我が原因の発熱で何日も寝込み、全快したときにはラメルとグレイの記憶はすっかり失っていた。

(ここへ()()()()()()()おかげで全部思い出せたわ)

 シャルロットは突如として訪れた暗闇の世界に感謝した。宝物というべき記憶を取り戻すことができたのだから――。
 そして、シャルロットがこの大切な記憶をここで取り戻せたのには理由がある。

(おそらくここは『死の悪夢』の中)

 『死の悪夢』とは、その魔法をかけられた人物が生涯の中で最も辛かった記憶を揺り起こし、増幅させ、精神が壊れて死を迎えるまでその世界から抜け出せなくなるという魔法である。

(大丈夫。ラメルのおかげでこの記憶は辛いだけのものではなくなったから)

 シャルロットが猫になり、ラメルのそばで日々を過ごすことがなければ、シャルロットの命はここで尽きてしまっていたかもしれない。

(サンドラに感謝しないと)

 全方位に渡る暗闇の中、取り戻した記憶の宝物を胸に、シャルロットは目を閉じる。

「大丈夫。推測が正しければ、ここにいるのは私の魂だけのはず。身体はきっと、ラメルが保護してくれているわ」

 ラメルがシャルロットの帰りを待っている。

(またあの広いベッドに私だけを寝かせて、その横でハラハラと涙を流しているかもしれないわね)

 きっとそうに違いない。
 だから、早く戻ってラメルを安心させてあげなくては――。シャルロットは両手をぎゅっと組み合わせ、ラメルの魔力反応を探した。

(私も、ラメルの魔力をしっかり覚えているわ。今まで忘れていてごめんなさい。すぐに戻るからね――!)

 ラメルの魔力は海のようだった。一見冷たい感触なのだが、触れてみると温かく、穏やかで何もかもを包み込むように大きな……

(見つけた……!)

 不思議と、シャルロットの全身をかつてないほどの魔力巡るのを感じた。今ならいける、とシャルロットは確信を持って転移の魔法を発動した。

(ラメルのそばに……!)

 暗闇の中で、まばゆい光が弾けた。
 光が残像を残しながら収束したとき、そこにあったシャルロットの姿はすでに消えたあとだった。
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