この想いの名前を僕たちはまだ知らない
1、台風一過
季節外れの台風の強い風が私たち家族の中の悲しみを全部吹き飛ばしていった、あの日。
私は強く照りつける陽射しの下、額に汗をかきながらパパと二人、足場の悪い長い長い一本坂を登っていた。
6月下旬の私の服装は、衣替え前の冬の制服。
それに真新しいローファー。
背中には、制服に不釣り合いなパンパンの紺色の登山用バックを背負っている。
今日は私の父方のひいおばあちゃんのお通夜の日だ。
東京都から名古屋への2泊3日のお泊りとはいえ、14歳の私には何かと入り用で、旅行の際は毎度軽い登山に行くような荷物量になる。
(葬式に参列するからって家に着くまでに正装してなきゃいけないって訳じゃないんだよね。お坊さんが来るまでに着替えるっていう選択肢もあった訳だ。あ~、スニーカー持ってこればよかった……)
私は心の中で長い小さな後悔を呟く。
そして長い長い坂の先にかけられた先の見えない階段の終点を見据え、ため息をついた。
*
私が今、突っ立っているのは長い長い一本坂にかけられた階段のちょうど中盤辺り。
今、ここからは坂の上の高台にある、ひいおばあちゃんの家の生け垣さえ見えない。
ひいおばあちゃんの家はまだまだ先らしい……。
ミーンミンミンミン……
6月生まれのせっかちなセミの声と溢れ出す汗。
それに3日分の荷物を背に私は無言で階段の1段、1段を踏み締めるようにして前へ前へと登っていく。
「あ、暑い……」
終わりの見えない長い階段に心が折れた気がして、私は思わず先を歩くパパの背に向かい半泣き声で、こう問いかけた。
「パパ!私もう、無理!!歩けない。足がガクガクだよ。ひいおばあちゃん家ってまだ着かないの!?」
私の数歩先を軽快な足取りで歩くパパは私の言葉に足を止め、一時振り返ると涼しい顔で私を見下ろし、こう言った。
「ははっ。ミラは軟弱だなぁ。まだ駅からは15分しか歩いてないぞ!ひいおばあちゃん家までは、あと少しだ」
そう言うとパパは右手の人差し指で階段の先を指差した。
「ほら、青い瓦屋根。ひいおばあちゃんの家の生け垣も見えてきたぞ。お前小さい頃は毎年、夏に遊びに来てただろ。さぁ、あと少しだ!頑張れ!!」
パパは早口でそう言い放つとワイシャツの袖で額に湧き出た汗を軽く拭い、また軽快な足取りで階段を登り始めたのだった。
*
「頑張れ!!ミラ。ほら、あと少しだほら、1段、2段。さぁラスト!」
「よいしょ!ふ~。やっと着いた。パパ帰りはケチらずにタクシー使おうね。まぁ、「歩きたい」って言った言い出しっぺの私が言うのも何だけど……。あっ、ひいおばあちゃん家の赤松さん。“やっとかめ”……です」
私は坂を登り切るとひいおばあちゃんの家の赤い郵便ポストの隣に伸びた樹齢70年程の赤松の幹に手を着き、1年ぶりの再開の言葉を囁いた。
「ミラ、お前、いくら“ひいおばあちゃんっ子”だったからってJCが“やっとかめ”って……ババ臭い」
取り出したハンカチで汗を拭く私は、パパの心無い言葉に苛立ちを感じ頬に空気を溜め押し黙った。
だが、私はひいおばあちゃんの話す“名古屋の弁”が大好きだったのでここはあえて口をつぐみ、|今日はパパと言い争いを避けることに決めた。
パパは体だけは私より大きいが、ママがいつも言う口癖の通り“心はいつまで経っても子ども”な大人だ。
幼馴染で結婚したママからすればパパと過ごしてきた時間は、年子の兄妹と然程、変わらない。
ママは機嫌が良い時は“童心を忘れないパパが好きだ”とか何とか言うが、私からすればママがしっかり者だから“童心を捨てられないパパを受け入れる事ができている”のだろう。
パパはママと出会えて本当にラッキーだったと思う。
そんな空気の読めないパパもひいおばあちゃんにとっては大事なたった一人きりの孫だったのだ。
だから、お通夜がある今日だけは言い争いを回避しよう……。
私はそんな事を考えながら屋敷の南側を向きに植えられた低い生け垣の向こうの懐かしい、ひいおばあちゃんとの思い出の詰名古屋の街並みを頬に空気を溜めながら見つめていた。
*
ひいおばあちゃんの家は長い長い一本坂の上の高台ある昭和のはじめに建てられた瑠璃色の三河瓦が特徴的な典型的な古民家だ。
猫の額程の小さな庭には、庭には大きすぎる屋敷神様が祀られている。
その隣には何にも入っていない1メートル四方の四角い空井戸。
高台の南側に建つひいおばあちゃんの家を先頭に高台の北側には、まだ新しい白壁のマンションや西洋風のオシャレな一軒家が所狭しと建ち並んでいる。
「ほら、ミラ。暑かっただろう。外水栓で手を洗っといで。パパは葬儀屋さんが来る前に家の中の掃除をしないとな……」
パパはそう言うとワイシャツの袖で額から吹き出てくる汗を再び拭き、ポケットから古びた真鍮《しんちゅう》製の星型のキーホルダーの付いた鍵を取り出した。
ガラガラ ガラガラ ガタン ガガガ……
「うっ……あ、」
パパは玄関の引き戸を引くと奇妙な声を上げ、ひいおばあちゃんの家の南向き建付けの悪いガラス戸の中へ、手で口を抑えながらトボトボと入っていった。
ミーンミンミンミン……
バシャ バシャ バシャ ……
「……暑っ。陽射しが眩しい。今日、まだ6月じゃん。何でもうセミが鳴いてるの!?」
私はパパに言われた通り外水栓で手を洗うと、ひいおばあちゃんが住んでいた半2階建ての古民家を庭から見上げた。
「それにしても、ひいおばあちゃん何でじいじと街で同居かったのかな?死ぬまでひとり暮らしって……。孤独死、辛すぎる……」
私は、こう言うと柱にゆっくりと体をもたげた。
「先祖がこの辺りの地主だったか何か知らないけど、今じゃこの家以外の坂の上の先祖の土地、全部売っちゃったんだから、駅近の老人ホームで悠々自適な余生が送れただろうに……」
私はそんな小さな独り言を言いながら、坂の上に建つ新築の家の白い風見鶏がクルクルとよく回るのを見上げていた。
「ひいおばあちゃん、周りが家族ばかりでひとり暮らし、寂しくなかったのかな?……」
そんな事を考えながら私は周りを緑の木々に囲まれた古民家に蒼く優しく吹き抜ける6月の風に背を押され、再び家の周りをぐるりと見回した。
ひいおばあちゃんの家は南側と玄関先以外、見渡す限り背の高い木々に囲まれている。
この辺りには、ひいおばあちゃん以外の古民家は見当たらない。
ひいおばあちゃんの家の南側には家には不似合いな大きなお社がある。
そのお社の前には大きな鳥居。
お社は東側の入り口以外、四方を高い木々に覆われている。
私はそんなお社にいるという屋敷神様を、ひいおばあちゃんに連れられて1度だけお参りした事がある。
赤い鳥居の向こうにいる屋敷神様のお社の両脇には耳の角の取れた古びた糸目の石のキツネが2体、向かい合っていたと記憶している。
幼い私は初めてキツネを見た時、キツネのニヒルに笑う顔が怖くて、ひいおばあちゃんの腰あたりに顔を押し付けて泣いた。
だけど、そんな時、私の記憶の中に生きるひいばあちゃんは幼い私の頭をしわくちゃな手で優しく撫ぜてケラケラと笑ったのだ。
そして、しわがれた優しいゆったりとした声で私に、こう言った。
「ミラちゃん、私はね昔。あなたと同じ名前と青い瞳をした女の子の友達がいたんよ……」
そう言うと記憶の中のひいおばあちゃんは再び優しく私の頭を撫ぜた。
(あれ?おっかしいなぁ……。ひいおばちゃんはその後何って言ってたんだっけ?)
−あの日の幼い私は、赤い鳥居の向こう側にひいおばあちゃんとの大切な記憶の欠片を置き忘れてきてしまったようだ。
私は強く照りつける陽射しの下、額に汗をかきながらパパと二人、足場の悪い長い長い一本坂を登っていた。
6月下旬の私の服装は、衣替え前の冬の制服。
それに真新しいローファー。
背中には、制服に不釣り合いなパンパンの紺色の登山用バックを背負っている。
今日は私の父方のひいおばあちゃんのお通夜の日だ。
東京都から名古屋への2泊3日のお泊りとはいえ、14歳の私には何かと入り用で、旅行の際は毎度軽い登山に行くような荷物量になる。
(葬式に参列するからって家に着くまでに正装してなきゃいけないって訳じゃないんだよね。お坊さんが来るまでに着替えるっていう選択肢もあった訳だ。あ~、スニーカー持ってこればよかった……)
私は心の中で長い小さな後悔を呟く。
そして長い長い坂の先にかけられた先の見えない階段の終点を見据え、ため息をついた。
*
私が今、突っ立っているのは長い長い一本坂にかけられた階段のちょうど中盤辺り。
今、ここからは坂の上の高台にある、ひいおばあちゃんの家の生け垣さえ見えない。
ひいおばあちゃんの家はまだまだ先らしい……。
ミーンミンミンミン……
6月生まれのせっかちなセミの声と溢れ出す汗。
それに3日分の荷物を背に私は無言で階段の1段、1段を踏み締めるようにして前へ前へと登っていく。
「あ、暑い……」
終わりの見えない長い階段に心が折れた気がして、私は思わず先を歩くパパの背に向かい半泣き声で、こう問いかけた。
「パパ!私もう、無理!!歩けない。足がガクガクだよ。ひいおばあちゃん家ってまだ着かないの!?」
私の数歩先を軽快な足取りで歩くパパは私の言葉に足を止め、一時振り返ると涼しい顔で私を見下ろし、こう言った。
「ははっ。ミラは軟弱だなぁ。まだ駅からは15分しか歩いてないぞ!ひいおばあちゃん家までは、あと少しだ」
そう言うとパパは右手の人差し指で階段の先を指差した。
「ほら、青い瓦屋根。ひいおばあちゃんの家の生け垣も見えてきたぞ。お前小さい頃は毎年、夏に遊びに来てただろ。さぁ、あと少しだ!頑張れ!!」
パパは早口でそう言い放つとワイシャツの袖で額に湧き出た汗を軽く拭い、また軽快な足取りで階段を登り始めたのだった。
*
「頑張れ!!ミラ。ほら、あと少しだほら、1段、2段。さぁラスト!」
「よいしょ!ふ~。やっと着いた。パパ帰りはケチらずにタクシー使おうね。まぁ、「歩きたい」って言った言い出しっぺの私が言うのも何だけど……。あっ、ひいおばあちゃん家の赤松さん。“やっとかめ”……です」
私は坂を登り切るとひいおばあちゃんの家の赤い郵便ポストの隣に伸びた樹齢70年程の赤松の幹に手を着き、1年ぶりの再開の言葉を囁いた。
「ミラ、お前、いくら“ひいおばあちゃんっ子”だったからってJCが“やっとかめ”って……ババ臭い」
取り出したハンカチで汗を拭く私は、パパの心無い言葉に苛立ちを感じ頬に空気を溜め押し黙った。
だが、私はひいおばあちゃんの話す“名古屋の弁”が大好きだったのでここはあえて口をつぐみ、|今日はパパと言い争いを避けることに決めた。
パパは体だけは私より大きいが、ママがいつも言う口癖の通り“心はいつまで経っても子ども”な大人だ。
幼馴染で結婚したママからすればパパと過ごしてきた時間は、年子の兄妹と然程、変わらない。
ママは機嫌が良い時は“童心を忘れないパパが好きだ”とか何とか言うが、私からすればママがしっかり者だから“童心を捨てられないパパを受け入れる事ができている”のだろう。
パパはママと出会えて本当にラッキーだったと思う。
そんな空気の読めないパパもひいおばあちゃんにとっては大事なたった一人きりの孫だったのだ。
だから、お通夜がある今日だけは言い争いを回避しよう……。
私はそんな事を考えながら屋敷の南側を向きに植えられた低い生け垣の向こうの懐かしい、ひいおばあちゃんとの思い出の詰名古屋の街並みを頬に空気を溜めながら見つめていた。
*
ひいおばあちゃんの家は長い長い一本坂の上の高台ある昭和のはじめに建てられた瑠璃色の三河瓦が特徴的な典型的な古民家だ。
猫の額程の小さな庭には、庭には大きすぎる屋敷神様が祀られている。
その隣には何にも入っていない1メートル四方の四角い空井戸。
高台の南側に建つひいおばあちゃんの家を先頭に高台の北側には、まだ新しい白壁のマンションや西洋風のオシャレな一軒家が所狭しと建ち並んでいる。
「ほら、ミラ。暑かっただろう。外水栓で手を洗っといで。パパは葬儀屋さんが来る前に家の中の掃除をしないとな……」
パパはそう言うとワイシャツの袖で額から吹き出てくる汗を再び拭き、ポケットから古びた真鍮《しんちゅう》製の星型のキーホルダーの付いた鍵を取り出した。
ガラガラ ガラガラ ガタン ガガガ……
「うっ……あ、」
パパは玄関の引き戸を引くと奇妙な声を上げ、ひいおばあちゃんの家の南向き建付けの悪いガラス戸の中へ、手で口を抑えながらトボトボと入っていった。
ミーンミンミンミン……
バシャ バシャ バシャ ……
「……暑っ。陽射しが眩しい。今日、まだ6月じゃん。何でもうセミが鳴いてるの!?」
私はパパに言われた通り外水栓で手を洗うと、ひいおばあちゃんが住んでいた半2階建ての古民家を庭から見上げた。
「それにしても、ひいおばあちゃん何でじいじと街で同居かったのかな?死ぬまでひとり暮らしって……。孤独死、辛すぎる……」
私は、こう言うと柱にゆっくりと体をもたげた。
「先祖がこの辺りの地主だったか何か知らないけど、今じゃこの家以外の坂の上の先祖の土地、全部売っちゃったんだから、駅近の老人ホームで悠々自適な余生が送れただろうに……」
私はそんな小さな独り言を言いながら、坂の上に建つ新築の家の白い風見鶏がクルクルとよく回るのを見上げていた。
「ひいおばあちゃん、周りが家族ばかりでひとり暮らし、寂しくなかったのかな?……」
そんな事を考えながら私は周りを緑の木々に囲まれた古民家に蒼く優しく吹き抜ける6月の風に背を押され、再び家の周りをぐるりと見回した。
ひいおばあちゃんの家は南側と玄関先以外、見渡す限り背の高い木々に囲まれている。
この辺りには、ひいおばあちゃん以外の古民家は見当たらない。
ひいおばあちゃんの家の南側には家には不似合いな大きなお社がある。
そのお社の前には大きな鳥居。
お社は東側の入り口以外、四方を高い木々に覆われている。
私はそんなお社にいるという屋敷神様を、ひいおばあちゃんに連れられて1度だけお参りした事がある。
赤い鳥居の向こうにいる屋敷神様のお社の両脇には耳の角の取れた古びた糸目の石のキツネが2体、向かい合っていたと記憶している。
幼い私は初めてキツネを見た時、キツネのニヒルに笑う顔が怖くて、ひいおばあちゃんの腰あたりに顔を押し付けて泣いた。
だけど、そんな時、私の記憶の中に生きるひいばあちゃんは幼い私の頭をしわくちゃな手で優しく撫ぜてケラケラと笑ったのだ。
そして、しわがれた優しいゆったりとした声で私に、こう言った。
「ミラちゃん、私はね昔。あなたと同じ名前と青い瞳をした女の子の友達がいたんよ……」
そう言うと記憶の中のひいおばあちゃんは再び優しく私の頭を撫ぜた。
(あれ?おっかしいなぁ……。ひいおばちゃんはその後何って言ってたんだっけ?)
−あの日の幼い私は、赤い鳥居の向こう側にひいおばあちゃんとの大切な記憶の欠片を置き忘れてきてしまったようだ。