この想いの名前を僕たちはまだ知らない
10、西洋風の髪型
私が右足首を捻挫をした次の日。
その日から夏菜子ちゃんは一人でリアムの所へ水とおむすびを届けに行くことになった。
夏菜子ちゃんはリアムに少しでも元気でいてもらう為、自分の分の弁当も持っていってるらしい。
夏菜子ちゃんは私と出会った頃よりも少し痩せてきた。
夏菜子ちゃんの不自然な痩せ方は、夏菜子ちゃんのおばあちゃんが「夏菜子は最近よく弁当を食べるのに痩せちょる……」と心配している程だ。
足を捻挫した私は、また以前“勤労奉仕”をしていた教室へと戻された。
勤労奉仕は、よほどの理由がないと長期間の病欠は認められないシステムらしい。
戦場でもないのに体調を崩した女性や子どもまでが終日働かなければいけないような時代。
戦時中は、内地も戦場もいつ、どんな時も安息日はない。
*
夏菜子ちゃんに英会話を教えて3ヶ月半程が過ぎた、ある真新しい綿入れを着込んだ寒い夜。
夏菜子ちゃんは今日も頬を紅らめて夏菜子ちゃんのおばあちゃん特製の湯たんぽを抱えながら、リアムの話をしていた。
今日は夏菜子ちゃんが初めてリアムに一人で会いに行った日だ。
夏菜子ちゃんの話では、今日、私がいなくてもリアムと覚えたての拙い英語。
それに簡単なジェスチャー。
時には地面に絵を描いたりしてどうにか意思疎通をしたらしい。
言葉の意味が分からなくてもどかしい時も多々あったが、帰って来た時に私に英単語の意味を尋ね、その都度彼女はしっかりと英単語の意味を覚えていった。
かなりの熱の入れようだ。
英語の上達もかなり早い。
まぁ、分からない単語を聞く事で私に会話の内容が筒抜けな訳なのだが……。
リアムは以前、私と話す時は妹に接するように話していた。
だが、夏菜子ちゃんと話す時は髪を掻きあげたり、さり気なく夏菜子ちゃんの隣に座り手を握ったりなんかもしていた。
初めはリアムの積極的なアプローチに戸惑っていた夏菜子ちゃんも数日が過ぎれば、リアムと同じようにスキンシップをとるようになっていた。
あの時の通訳の私は、かえってお邪魔虫。
自分もそう思っていた時折、ジャストタイミングで私は捻挫をした。
夏菜子ちゃんの幸せそうな笑顔を見ていると“この怪我は神様の思し召し”。
“怪我の功名”とも思えるようになってきた。
わたしは遂に自分の怪我を体のいい言い訳をして二人っきりの甘い時間を作ってあげることに成功したのだ。
私はいつの頃からか“私の初恋”よりも
“リアムと夏菜子ちゃんの恋愛”を応援したいと思うようになってきていた。
だが、今は戦時中。
私の方は捻挫は早く治さなければ逃げ遅れ、足手まといになる。
(早く直さないと……)
そんなことを考えながら私は今日も夏菜子ちゃんの恋バナを聞きながら、足首に軟膏を塗り、マッサージを始めた。
*
今日、夏菜子ちゃんがリアムと話した事。
それは昨日、私が捻挫した事が主だった話になってしまったらしい。
リアムはその話を聞いた時、眉を下げとても悲しい顔をしたそうだ。
「そうそう。これリアムから「Get well soon」だって……。Get well soon……お見舞いの事かね?」
そう話すと夏菜子ちゃんは、リアムから受け取ったという真鍮製の星型のバッチを私に手渡した。
それは初めてリアムに会った時、彼が持っていた帽子についていたバッジだった。
バッチは軍人にとって、とても大切な物ではないだろうか?
それをお見舞いだからと言ってリアムが大好きな夏菜子ちゃんなら、いざ知らず妹分の私が貰っては申し訳ない。
そんな気持ちを振り払いたい一心で私は差し出されたバッチを夏菜子ちゃんの手に握らせると、こう話を切り出した。
「「thank you」ってリアムに伝えて。そして、その飾りは夏菜子ちゃんが貰って。その方がリアムも喜ぶと思う……」
私は自分の心の中から出てきた素直な気持ちを声として外に出すと心の中の靄が晴れ、なんだかスッキリし気分になった。
「えっ!?でも……。こんな素敵なもの受け取れん!!だってリアムはミラちゃんにって……」
夏菜子ちゃんはそう言うと再び私の前にバッチを突き出した。
「いいの。いいの。リアムも妹分の私なんかより夏菜子ちゃんが勲章を持っていてくれた方が幸せだと思う」
「いや、でも、リアムが……」
「これは夏菜子ちゃんが……」
「でも、リアムは……」
夏菜子ちゃんはその後も何度も私に強引にバッチを手渡そうとしてきた。
だが私の心は決まっていた。
あのバッチは夏菜子ちゃんの所にあるべきものだ。
何となくそんな気がしていた。
夏菜子ちゃんは長い問答の末、私が絶対に受け取らない事を悟ると優しい「ありがとう」を言い桐の簞笥の制服の間にバッチを挟み、閉まった。
そして、そんな今日の夏菜子ちゃんの後ろ姿はいつもより少し大人びた印象を私に与えた。
そして私はある変化に気がついた。
「ねぇ?夏菜子ちゃん髪型変えたの?可愛いね♡」
私は夏菜子ちゃんがいつも1つにまとめ上げていただけの黒髪が、今日は細い三つ編みがいくつも編み込まれているのを変わっているのを見つけた。
パタンッ
夏菜子ちゃんは簞笥を締めると左手で髪を触り振り向きざまに照れくさそうに、こう返事をした。
「あぁ…。これ?これね今日、リアムが結ってくれたんよ。アメリカでは流行っとる髪型だって言ってた。多分……。でな、リアムは日本に来るまで妹のマリアちゃんの髪を毎朝、結っていたらしいわ。上手いやろ?」
夏菜子ちゃんはそう言うと胸元から鏡を取り出そうとした。すると、
パサッ……
夏菜子ちゃんの胸ポケットから1枚の写真がハラハラと床に舞い落ちた。
私はその写真を見ると思わず口を抑え固まった。そして、
「夏菜子ちゃん、それ……」
私は夏菜子ちゃんが慌てて拾った、まだ新しいセピア色の写真を指差した。
「……。あぁ、これ?これな。リアムが今日私にくれたんよ。いつものお礼だって。何かなリアム最近、熱っぽくてな。ほら、日中はずっと苔の生えた井戸の中やろ。最近寒くなって来たから家に来るように言うたんだけど、私やミラに迷惑かかるから言うて動いてくれんと……」
夏菜子ちゃんはそう言うと一筋の青い涙を流し、うずくまった。
「夏菜子ちゃん……」
私は夏菜子ちゃんの背をさすりながら白い息を吐き、自分の気持ちを落ち着けた。
(夏菜子ちゃんが好きになったリアムが自分の遺品を整理する事で、自分の死の覚悟を決め始めている!?)
私はリアムが死んだ姿を想像した。
そして夏菜子ちゃんが泣き崩れる姿を……。
その時、私は心から願った。
キツネの神様。お願いです。私が元の世界に帰れなくても構いません。だから……だから、史実よりも早く早く戦争が終わりますように……と。
あの日、私は泣き崩れる夏菜子ちゃんを部屋に置き去りにして、家の縁側に立つとリアムの隠れている山に向かい手を合わせる事しかできなかったのだった。
*
あの日から夏菜子ちゃんは毎日のように髪型を変えて女学校へ通うようになった。
リアムの件があるからだろうか。
夏菜子ちゃんは、私にリアムの病状の悪化を隠すように努めて明るく振う舞うようになっていった。
そんな彼女の後ろ姿は私の瞳に痛々しく映る。
「夏菜子さん。今日もかわいい髪型ね」
「ふふ。ありがとう。また、お昼休みに結い方、聞いとくれん」
梅柄のモンペを履いた中学生くらいのおさげの女の子は、夏菜子ちゃんが教室に入ってくると、私を押し退けて一目散に彼女に走り寄って来た。
「夏菜子さん。ありがとうね。でも……私ね、昨日教わった髪型が好きなんよ。朝起きたら解けてしまって……」
そう言うと女の子は、アメピンとゴムを手に夏菜子ちゃんの前で項垂れた。
「そうね。昨日の髪型わね。緩い2つの3つ編みを後ろで1つに縛ってなクルクルと上に巻き上げて……。そんでな、コレで留めとくんよ。こんな風に、と。できた。うん。可愛い!」
「「いいなぁ~」」
女の子の髪型が西洋風に結上がると教室からは感嘆の黄色い声があがった。
「なぁ、夏菜子さん。お昼にちょこっと私も今日の夏菜子さんと同じ髪型に結って、なぁ~」
「夏菜子さん。また新しい髪型考えたら教えてくれんね」
「夏菜子さん。あんな……」
夏菜子ちゃんの右隣にいた丸眼鏡の女の子がそう言って甘えた声を出すと、夏菜子ちゃんの周りには人がゾロゾロと人が集まってきた。
そして、女の子達は一斉に夏菜子ちゃんに話しかける。
コンニャクの臭いの充満した気だるい空気の教室は、“勤労奉仕の場”から“華やかな女の園”へと時間を巻き戻していくように、教室の中に一筋の太陽の光が差し込んだ。
だが、幸せは束の間。
すぐに聞き慣れた高い音が教室に続く廊下に鋭く響き渡った。
カツッ カツッ カツッ
廊下にブーツの踵が木の板を穿つ音が響き渡る。そして、
「はい、はい。おしゃべりはそこまで!!」
その甲高い声の主である千代さんは教室に入ると、女の子達の騒ぐ声を鶴の一声で静止した。
そして、いつもと変わらない鋭い声で点呼を取り始める。
点呼をとる時に一点を見つめたままのその目は、夏菜子ちゃんの結われた髪を睨みつけているようにも見えた。
「千代さんは、夏菜子さんが人気者になるのが面白くないんじゃろ……」
ハナちゃんは後ろの席の私の方を振り返りそう言うと、今日も鼻息を荒くして「はじめ」を合図に、今日も誰よりも手早く和紙を張り合わせていった。
*
夏菜子ちゃんは次の日もその次の日も西洋風のオシャレな髪型で学校にやって来た。
そして今日もみんなはお昼休憩の時。
夏菜子ちゃんから新しい髪型の結い方を教わっていた。
この時間、みんなは夏菜子ちゃんに新しい髪型を教わる事が楽しみになっているようだ。
次の日もまた次の日も……。
夏菜子ちゃんの周りには女学校の女の子達でいつも、いっぱいだった。
ギリッ
そんな夏菜子ちゃんを尻目に千代さんはいつも以上に不機嫌になっていった。
“触らぬ千代に祟りなし”なんて暴言も出たくらい、彼女は以前よりも孤立を深めていった。そして、
その日の終業後。
「ミラちゃん、今日も先帰っといて。私、お社にお参りしてから帰るから」
「うん。分かった」
松葉杖をついた私は勤労奉仕が終わった夏菜子ちゃんに、そう言うと私達は学校の門の前でいつものように別れた。
夏菜子ちゃんの胸の風呂敷には女学生が髪を結んでくれたお礼だと言ってくれた食べ物や薬が大事そうに抱えられている。
あの捻挫事件から3週間。
私は松葉杖を使い、足を引きずりながらもどうにか1人で学校に通学できるようになっていた。
「……ミラさん。ごきげんよう」
後からそんな声が聞こえたかと思うと私の前を急ぎ足で千代さんが走り抜けいった。
「ごきげんよう……?」
私は千代さんの家とは反対側に走っていく小さくなる千代さんの背中を夕焼け色の空下、静かに見守っていた。
「千代さん、何を急いでるんだろ?」
私はその日、そんな事を考えながら正門で待ち合わせをしていたハナちゃんと共に家路に着いたのだった。
その日から夏菜子ちゃんは一人でリアムの所へ水とおむすびを届けに行くことになった。
夏菜子ちゃんはリアムに少しでも元気でいてもらう為、自分の分の弁当も持っていってるらしい。
夏菜子ちゃんは私と出会った頃よりも少し痩せてきた。
夏菜子ちゃんの不自然な痩せ方は、夏菜子ちゃんのおばあちゃんが「夏菜子は最近よく弁当を食べるのに痩せちょる……」と心配している程だ。
足を捻挫した私は、また以前“勤労奉仕”をしていた教室へと戻された。
勤労奉仕は、よほどの理由がないと長期間の病欠は認められないシステムらしい。
戦場でもないのに体調を崩した女性や子どもまでが終日働かなければいけないような時代。
戦時中は、内地も戦場もいつ、どんな時も安息日はない。
*
夏菜子ちゃんに英会話を教えて3ヶ月半程が過ぎた、ある真新しい綿入れを着込んだ寒い夜。
夏菜子ちゃんは今日も頬を紅らめて夏菜子ちゃんのおばあちゃん特製の湯たんぽを抱えながら、リアムの話をしていた。
今日は夏菜子ちゃんが初めてリアムに一人で会いに行った日だ。
夏菜子ちゃんの話では、今日、私がいなくてもリアムと覚えたての拙い英語。
それに簡単なジェスチャー。
時には地面に絵を描いたりしてどうにか意思疎通をしたらしい。
言葉の意味が分からなくてもどかしい時も多々あったが、帰って来た時に私に英単語の意味を尋ね、その都度彼女はしっかりと英単語の意味を覚えていった。
かなりの熱の入れようだ。
英語の上達もかなり早い。
まぁ、分からない単語を聞く事で私に会話の内容が筒抜けな訳なのだが……。
リアムは以前、私と話す時は妹に接するように話していた。
だが、夏菜子ちゃんと話す時は髪を掻きあげたり、さり気なく夏菜子ちゃんの隣に座り手を握ったりなんかもしていた。
初めはリアムの積極的なアプローチに戸惑っていた夏菜子ちゃんも数日が過ぎれば、リアムと同じようにスキンシップをとるようになっていた。
あの時の通訳の私は、かえってお邪魔虫。
自分もそう思っていた時折、ジャストタイミングで私は捻挫をした。
夏菜子ちゃんの幸せそうな笑顔を見ていると“この怪我は神様の思し召し”。
“怪我の功名”とも思えるようになってきた。
わたしは遂に自分の怪我を体のいい言い訳をして二人っきりの甘い時間を作ってあげることに成功したのだ。
私はいつの頃からか“私の初恋”よりも
“リアムと夏菜子ちゃんの恋愛”を応援したいと思うようになってきていた。
だが、今は戦時中。
私の方は捻挫は早く治さなければ逃げ遅れ、足手まといになる。
(早く直さないと……)
そんなことを考えながら私は今日も夏菜子ちゃんの恋バナを聞きながら、足首に軟膏を塗り、マッサージを始めた。
*
今日、夏菜子ちゃんがリアムと話した事。
それは昨日、私が捻挫した事が主だった話になってしまったらしい。
リアムはその話を聞いた時、眉を下げとても悲しい顔をしたそうだ。
「そうそう。これリアムから「Get well soon」だって……。Get well soon……お見舞いの事かね?」
そう話すと夏菜子ちゃんは、リアムから受け取ったという真鍮製の星型のバッチを私に手渡した。
それは初めてリアムに会った時、彼が持っていた帽子についていたバッジだった。
バッチは軍人にとって、とても大切な物ではないだろうか?
それをお見舞いだからと言ってリアムが大好きな夏菜子ちゃんなら、いざ知らず妹分の私が貰っては申し訳ない。
そんな気持ちを振り払いたい一心で私は差し出されたバッチを夏菜子ちゃんの手に握らせると、こう話を切り出した。
「「thank you」ってリアムに伝えて。そして、その飾りは夏菜子ちゃんが貰って。その方がリアムも喜ぶと思う……」
私は自分の心の中から出てきた素直な気持ちを声として外に出すと心の中の靄が晴れ、なんだかスッキリし気分になった。
「えっ!?でも……。こんな素敵なもの受け取れん!!だってリアムはミラちゃんにって……」
夏菜子ちゃんはそう言うと再び私の前にバッチを突き出した。
「いいの。いいの。リアムも妹分の私なんかより夏菜子ちゃんが勲章を持っていてくれた方が幸せだと思う」
「いや、でも、リアムが……」
「これは夏菜子ちゃんが……」
「でも、リアムは……」
夏菜子ちゃんはその後も何度も私に強引にバッチを手渡そうとしてきた。
だが私の心は決まっていた。
あのバッチは夏菜子ちゃんの所にあるべきものだ。
何となくそんな気がしていた。
夏菜子ちゃんは長い問答の末、私が絶対に受け取らない事を悟ると優しい「ありがとう」を言い桐の簞笥の制服の間にバッチを挟み、閉まった。
そして、そんな今日の夏菜子ちゃんの後ろ姿はいつもより少し大人びた印象を私に与えた。
そして私はある変化に気がついた。
「ねぇ?夏菜子ちゃん髪型変えたの?可愛いね♡」
私は夏菜子ちゃんがいつも1つにまとめ上げていただけの黒髪が、今日は細い三つ編みがいくつも編み込まれているのを変わっているのを見つけた。
パタンッ
夏菜子ちゃんは簞笥を締めると左手で髪を触り振り向きざまに照れくさそうに、こう返事をした。
「あぁ…。これ?これね今日、リアムが結ってくれたんよ。アメリカでは流行っとる髪型だって言ってた。多分……。でな、リアムは日本に来るまで妹のマリアちゃんの髪を毎朝、結っていたらしいわ。上手いやろ?」
夏菜子ちゃんはそう言うと胸元から鏡を取り出そうとした。すると、
パサッ……
夏菜子ちゃんの胸ポケットから1枚の写真がハラハラと床に舞い落ちた。
私はその写真を見ると思わず口を抑え固まった。そして、
「夏菜子ちゃん、それ……」
私は夏菜子ちゃんが慌てて拾った、まだ新しいセピア色の写真を指差した。
「……。あぁ、これ?これな。リアムが今日私にくれたんよ。いつものお礼だって。何かなリアム最近、熱っぽくてな。ほら、日中はずっと苔の生えた井戸の中やろ。最近寒くなって来たから家に来るように言うたんだけど、私やミラに迷惑かかるから言うて動いてくれんと……」
夏菜子ちゃんはそう言うと一筋の青い涙を流し、うずくまった。
「夏菜子ちゃん……」
私は夏菜子ちゃんの背をさすりながら白い息を吐き、自分の気持ちを落ち着けた。
(夏菜子ちゃんが好きになったリアムが自分の遺品を整理する事で、自分の死の覚悟を決め始めている!?)
私はリアムが死んだ姿を想像した。
そして夏菜子ちゃんが泣き崩れる姿を……。
その時、私は心から願った。
キツネの神様。お願いです。私が元の世界に帰れなくても構いません。だから……だから、史実よりも早く早く戦争が終わりますように……と。
あの日、私は泣き崩れる夏菜子ちゃんを部屋に置き去りにして、家の縁側に立つとリアムの隠れている山に向かい手を合わせる事しかできなかったのだった。
*
あの日から夏菜子ちゃんは毎日のように髪型を変えて女学校へ通うようになった。
リアムの件があるからだろうか。
夏菜子ちゃんは、私にリアムの病状の悪化を隠すように努めて明るく振う舞うようになっていった。
そんな彼女の後ろ姿は私の瞳に痛々しく映る。
「夏菜子さん。今日もかわいい髪型ね」
「ふふ。ありがとう。また、お昼休みに結い方、聞いとくれん」
梅柄のモンペを履いた中学生くらいのおさげの女の子は、夏菜子ちゃんが教室に入ってくると、私を押し退けて一目散に彼女に走り寄って来た。
「夏菜子さん。ありがとうね。でも……私ね、昨日教わった髪型が好きなんよ。朝起きたら解けてしまって……」
そう言うと女の子は、アメピンとゴムを手に夏菜子ちゃんの前で項垂れた。
「そうね。昨日の髪型わね。緩い2つの3つ編みを後ろで1つに縛ってなクルクルと上に巻き上げて……。そんでな、コレで留めとくんよ。こんな風に、と。できた。うん。可愛い!」
「「いいなぁ~」」
女の子の髪型が西洋風に結上がると教室からは感嘆の黄色い声があがった。
「なぁ、夏菜子さん。お昼にちょこっと私も今日の夏菜子さんと同じ髪型に結って、なぁ~」
「夏菜子さん。また新しい髪型考えたら教えてくれんね」
「夏菜子さん。あんな……」
夏菜子ちゃんの右隣にいた丸眼鏡の女の子がそう言って甘えた声を出すと、夏菜子ちゃんの周りには人がゾロゾロと人が集まってきた。
そして、女の子達は一斉に夏菜子ちゃんに話しかける。
コンニャクの臭いの充満した気だるい空気の教室は、“勤労奉仕の場”から“華やかな女の園”へと時間を巻き戻していくように、教室の中に一筋の太陽の光が差し込んだ。
だが、幸せは束の間。
すぐに聞き慣れた高い音が教室に続く廊下に鋭く響き渡った。
カツッ カツッ カツッ
廊下にブーツの踵が木の板を穿つ音が響き渡る。そして、
「はい、はい。おしゃべりはそこまで!!」
その甲高い声の主である千代さんは教室に入ると、女の子達の騒ぐ声を鶴の一声で静止した。
そして、いつもと変わらない鋭い声で点呼を取り始める。
点呼をとる時に一点を見つめたままのその目は、夏菜子ちゃんの結われた髪を睨みつけているようにも見えた。
「千代さんは、夏菜子さんが人気者になるのが面白くないんじゃろ……」
ハナちゃんは後ろの席の私の方を振り返りそう言うと、今日も鼻息を荒くして「はじめ」を合図に、今日も誰よりも手早く和紙を張り合わせていった。
*
夏菜子ちゃんは次の日もその次の日も西洋風のオシャレな髪型で学校にやって来た。
そして今日もみんなはお昼休憩の時。
夏菜子ちゃんから新しい髪型の結い方を教わっていた。
この時間、みんなは夏菜子ちゃんに新しい髪型を教わる事が楽しみになっているようだ。
次の日もまた次の日も……。
夏菜子ちゃんの周りには女学校の女の子達でいつも、いっぱいだった。
ギリッ
そんな夏菜子ちゃんを尻目に千代さんはいつも以上に不機嫌になっていった。
“触らぬ千代に祟りなし”なんて暴言も出たくらい、彼女は以前よりも孤立を深めていった。そして、
その日の終業後。
「ミラちゃん、今日も先帰っといて。私、お社にお参りしてから帰るから」
「うん。分かった」
松葉杖をついた私は勤労奉仕が終わった夏菜子ちゃんに、そう言うと私達は学校の門の前でいつものように別れた。
夏菜子ちゃんの胸の風呂敷には女学生が髪を結んでくれたお礼だと言ってくれた食べ物や薬が大事そうに抱えられている。
あの捻挫事件から3週間。
私は松葉杖を使い、足を引きずりながらもどうにか1人で学校に通学できるようになっていた。
「……ミラさん。ごきげんよう」
後からそんな声が聞こえたかと思うと私の前を急ぎ足で千代さんが走り抜けいった。
「ごきげんよう……?」
私は千代さんの家とは反対側に走っていく小さくなる千代さんの背中を夕焼け色の空下、静かに見守っていた。
「千代さん、何を急いでるんだろ?」
私はその日、そんな事を考えながら正門で待ち合わせをしていたハナちゃんと共に家路に着いたのだった。