この想いの名前を僕たちはまだ知らない
2、留守番
ギーギー……
「ミラ。手を洗ったら、こっちに来て掃除手伝ってくれんかね」
ワイシャツの袖をまくった喪服姿のパパは縁側で涼む私の背に突然、こう声を掛けてきた。
それと同時に主がいなくなった古民家の木製の雨戸を力任せに戸袋へと押しこむ嫌な音が辺りに響き渡る。
ギーギー ギーギー ガタンッ
「はぁ~」
私はパパとの無駄な口論を避ける為“了解”の溜息をつくと、すぐに重い腰を上げ、ひいおばあちゃんの家の玄関続きの土間へと入っていった。
すると数日間、主のいなかった家の中は絶妙にガビ臭く、土間続きの台所からは腐りかけたタマネギが異臭を発していた。
「っう……」
しかめっ面で腐りかけのタマネギを見上げる私にパパは竹箒をさっと手渡し、私を嗜めるように、こう言い放った。
「ひいおばあちゃんに最期の奉公だ。世話になった分、しっかり働きなさい」
そう言うとパパは私に背を向け“松下電器”と書かれた赤い掃除機を使い、仏間を畳の目に沿って丁寧に掃除機をかけ始めた。
*
あの日はとにかく暑い日だった。
私もパパと言い争いになるのを避ける為、パパに習い無言で猫の額ほどしかない土間から玄関へと土埃を外に軽く掃いていった。
そんな私の後ろを通り抜け、腐った野菜達は庭の北側にあるコンポストの中にパパが全部、放り込んでいく。
私もパパも普段は大して運動もしていないからか。
それとも家の中が蒸し暑いからか、分からない。
だが、あの日は動くたびに体中から汗が吹き出てきて止まらないそんな1日だった。
掃除の後、私達が希望を持って開けたまだ新しい冷蔵庫には飲料水が2本だけ入っていた。
私達はそのペットボトルの水を一気に飲み干すと縁側に座り、名古屋の街並みを見下ろしながら台風の吹き戻しの風に身を委ね小休憩をとることにした。
*
「……ねぇ、パパ。“台風の吹き戻しの風”って案外、生暖かいんだね。エアコンはつけないの?」
「……」
私は普段あまり話さないパパと二人っきりの沈黙に耐えかね、勇気を持って、そう話を切り出した。
するとパパは眉間にシワを寄せ、しばらく考え込んだ後に何か思い出したように、こう返事をした。
「エアコン?そんなもん、この家のは1年も前に壊れたきりだ!!」
そう言うとパパは不機嫌そうに胡座をかいた膝に肘を乗せ、私を見据えるとニヒルに笑った。
「は?エアコン壊れてるの!?じゃぁ、ひいおばあちゃん去年の猛暑どうしてたの?去年の夏は10年に1度の猛暑だってニュースで言ってたよね?」
「10年に1度。100年に1度……。何か毎年言ってるよなぁ……」
私はあまりにもパパの無関心で他人行儀な言い方に苛立ちを覚え、思わず理性を忘れ強く反論をした。
「ひいおばあちゃん、もう超後期高齢者だよ。それなのに、冷房もない家に一人で暮らせって……」
私は手に滲み出る汗を握り締めながらパパを横目で睨みつけた。
「……俺は知らん。それに「今年は10年に1度の猛暑」とかは毎年言っとるじゃないか。ひいおばあちゃんが言うには「ここは山の上だからそんなに暑くない」って、おじいちゃんが手配した業者をがんとして受け入れなかったんだと。まぁ、年寄りになると体温調節が難しいらしいからな。だから庭で熱中症で倒れてそのまま……」
パパはそう言うと小さく鼻をすすった。そして、
「最近、昔と比べて暑くなる時期が早くなってきたからな。“地球温暖化”だからしょうがないけどな。6月なのに連日こう暑くちゃなぁ……。あ、そうだ。坊さんが来る前に扇風機は出さんといかなんな。坊さんもいい歳だが、まだひいおばあちゃんとこに行くのは早いでな……」
そう言うとパパは骨董品の掃除機の電源を抜きいた。
そして私に泣き顔を見られないようにわざと忙しそうな手振りをして縁側の向こうの納戸の中へと消えていった。
*
私はパパの「エアコンが壊れた」と言う言葉に半信半疑で縁側から振り返り、家の天井をぐるりと見回した。
パパの言う通り、この家には“仏間”にエアコンが1台あるだけだ。
家の周りも歩いて見て回ったが、古民家には西側に錆びついたエアコンの室外機が1台しか見当たらなかった。
仏間のエアコンは私が知る限り、唯一のエアコンだ。
なので、エアコンが壊れた話が本当ならば扇風機以外、今この家に冷房器具がないという話は嘘でもないらしかった。
(今夜、パパやおじいちゃんと同じ部屋で寝るのは嫌だなぁ。かと言って2階は暑そうだし……)
私はそんなことを考えながらエアコンの生存を確認する為、重い腰を上げサウナのような家の中へと入っていくことにした。
*
ひいおばあちゃんの家は戦後すぐに建てられた昭和中期の古民家だ。
木造家屋の外壁は杉の木があてられ、屋根には瑠璃色の三河瓦。
家の中で所々軋む杉板をはり合わせた長い廊下は1階の全ての部屋と繫がっている。
西端のひいおばあちゃんの部屋はもとより土間と廊下以外、この家の全ての部屋は畳張りだ。
私はひいおばあちゃんとの思い出を1つ1つ噛み締めながら狭い廊下を通り、ひいおばあちゃんの寝室に着くと寝室の扉をゆっくりと開けた。
*
ガチン ガチャン ガチャン……
「あぁ、やっぱりダメかぁ……」
私はサウナのようになった懐かしいひいおばあちゃんの匂いのする部屋の窓を開け放ち、換気をしながら仏間のエアコンの動作を確認してみた。
この家の唯一のエアコンは、昭和製。
紐を引っ張り、エンジンをかける仕組みなのだが、今ここにあるエアコンからは羽を回す機械音はするものの、風が吹き出る様子はまるでない。
仏間に微かだが、ひいおばあちゃんの服と同じナフタリンの甘い匂いが漂い始める。
懐かしい優しい匂いだ。
エアコン復活の希望を捨てた私は、仏壇の前に置かれた背の低い本棚があるのを見つけ、足を止めた。
本棚の中を覗くと棚の中には、ひいおばあちゃんの住む日本家屋には不似合いな英語で書かれた絵本が背の高い順に綺麗に並べられていた。
私が夏休みに数週間、泊まりに来た時にひいおばあちゃんが読んでくれた本達だ。
本棚には絵本が5冊程あったが、そのどれもが何万回も読まれたようにページの端が擦り切れてしまっている。
ひいおばあちゃんは私が幼い頃、私に早期英語教育なるものを施そうとかなり熱心だったとママから聞いたことがある。
私は夏休み、大好きなひいおばあちゃんの膝の上に座り、時間を見つけてはカナコトの英語で絵本を読んでもらっていた。
絵本だから絵を見るだけで英語の意味が分からなくても子どもの頃の私は、十分に楽しむことができた。
少し大きくなると幼い私もひいおばあちゃんの英語を真似して何度も絵本を自分で読もうとした。
だが、英語の基礎を知らない私にはワンフレーズ覚える事も至難の業だった。
(私。いつもこの部屋で泣いて、ひいおばあちゃんを困らしていたっけ……)
私はそんなことを考えながらひいおばあちゃんのお気に入りだった本を手に取った。
ひいおばあちゃんとの思い出と言えば、なんと言ってもクリスマス。
冬には会えないひいおばあちゃんは毎年、クリスマスに英語の可愛らしい絵本をサンタさんのふりをして送ってくれた。
今でもその本のどれもが私の宝物だ。
そんなひいおばあちゃんの努力の末、私は去年、地元の中学校の夏の交換留学生に選ばれ、ニュージーランドへ1か月程ショートスティに行ってきた。
留学中のホームスティ先の人達はみんな優しくてホストファミリーとは本当の家族のように親しく話す事ができた。
私は今、英語が大好きなのは私が大好きだったひいおばあちゃんが英語が好きだったからでもある。
「ひいおばあちゃん、去年は留学してて遊びに来られなくてごめんね。でも、お別れも言わずに行くなんてひどいよ……」
私は白馬の絵の描いたひいおばあちゃんお気に入りの絵本を胸に抱きしめ仏壇を見上げると、ひいおばあちゃんの陽だまりのような笑顔を思い出し、静かに涙をこぼした。
仏壇には一昨年出掛けた動物園の観覧車の前で私とひいおばあちゃんが一緒に写っている写真が飾られている。
(ひいおばあちゃんが無事に天国に行けますように……)
私は制服の袖で涙を拭うと写真のひいおばあちゃんに手を合わせた。
そして、白馬の絵本を開くと仏様の前でひいおばあちゃんの教えてくれたカタカナ英語で読み聞かせをしてみる事にした。
*
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
私はサウナのように蒸し暑くなった仏間に続きの廊下に座り、壁に体を委ねながら1人、答えのない問答を繰り返していた。
「……あれ?んー。やっぱりおかしい。何でひいおばあちゃんは小さい頃から私に英語の本ばかり読み聞かせたんだろう?」
私はひいおばあちゃんの顔を思い出しながら日本の昔話を「あまり好きではない」と言っていた、ひいおばあちゃんの話に疑問を持っていた。
「グローバル社会に適応出来るように?こんな田舎でスマホもエアコンもないような生活をしている人がグローバル化とか考えるのかな?……」
ひとりごとのはずなのに誰かに答えを言って欲しい、そんな風に考える欲深な自分を抑え込みながら私は更に思案を深めていった。
「あ!分かった!!私の瞳が太陽の光で黒から青に変わっちゃうから、気にしないようにって気遣ってくれてたのかな?外国では「私と同じような青い瞳の人もたくさんいるよ」って。それとも……私の瞳が青く変わる理由をひいおばあちゃんだけは知っていた……?」
私は仏間から見える青い紅葉を見ながら写真の中のひいおばあちゃんに振り返りざまに、こう問いかけた。
もちろん返事はない。
私は太陽の光に反射すると黒から青に変わる不思議な瞳を持って生まれた。
遺伝なのか、それとも突然変異なのかは家族の誰もが分からないらしい。
「死人に口なし、だよね」
私は虚しさを心から払いのけるように本棚まで歩き、薄く積もった埃を優しく床に叩き落としてみた。
サラサラサラ……
「ん?な、何?この粘り気のある独特の臭い……」
埃が床に落ちた瞬間。
不思議な事に本棚からは微かに、ひいおばあちゃんの嫌いだったコンニャクのような臭いが漂ってきたのだった。
*
Wi-Fiの飛んでいないこの家で私は今しがたパパに留守を預かった。
ひいおばあちゃんの家には2階に客間が2間。
1階には、ひいおばあちゃんの寝室とトイレとお勝手あとは納戸。
そして家の中で1番広い15畳の仏間がある。
暇を持て余した私はガラス張りの廊下から、再び仏間に入ると仏壇の右上にある欄間の飾られた白黒の先祖の遺影を見上げながら正座をしてみた。
(……えっと、1番左端のあの人は確か江戸生まれのひいおばあちゃんのおばあちゃん。その隣はひいおばあちゃんのお母ちゃん。で、その隣はひいおばあちゃんのお父さんだったよね。で、右の二人の写真はまだ若いなぁ。30代くらい?そして……あれ?な、ない!?)
私はこの遺影に違和感を覚え思わず、右端の男性の横にある黄ばんだ壁紙の横で目を留めた。
(おかしい。私の“ひいおじいちゃん”って人の写真がない……?何で……?戦時中だったから?いや、でも、もしかしたら……)
私はあるはずの写真がないと分かった瞬間、私の中の遺伝子はある1つの直感を感じとっていた。
だが、その直感は余りにも現実離れしていて“日本を出た事が無い”と話していた、ひいおばあちゃんの話からは想像できない可笑しな妄想だった。
もし、ひいおじいちゃんの家系に他の国の人の血が流れていたら……。
私の青く色変わりする瞳を持って生まれた理由も説明がつく。
(でも、そんな筈はない、よね?ひいおばあちゃん……)
私は顔も知らない、ひいおばあちゃんの旦那さんだった人に想いを馳せながら、手にした白い馬の描かれた絵本の1ページを開いてみた。
その絵本の中で1番擦り切れていたページには金色の髪に青い瞳をした軍服姿の男性が描かれていたのだった。
*
「暑い……。ホント暑い。そして葬儀までやる事無さ過ぎて……ホント眠い。パパは買い出しに街まで行っちゃったし。ノリで留守を預かったけど少し寝ちゃおうかな……」
私は家に残された唯一の冷房器具、扇風機を仏間に寝っ転がりながら点けると、畳の上に寝転び法事用の座布団を枕に目を瞑った。
生暖かい風が頬を撫ぜては外へと通り過ぎていく。
「扇風機、もっと、がんばれー」
私はあまりの気だるさに扇風機に無意味なエールを送った。
仏間から見える空井戸《からいど》の近くには、狂い咲きの桔梗が2輪寄り添うようにして風に揺れている。
「ひいおばあちゃん……」
チャリン……
あの日、私は生暖かい風の下。
真鍮製のキーホルダーを抱きしめながら静かに優しい眠りへと誘われていったのだった。
「ミラ。手を洗ったら、こっちに来て掃除手伝ってくれんかね」
ワイシャツの袖をまくった喪服姿のパパは縁側で涼む私の背に突然、こう声を掛けてきた。
それと同時に主がいなくなった古民家の木製の雨戸を力任せに戸袋へと押しこむ嫌な音が辺りに響き渡る。
ギーギー ギーギー ガタンッ
「はぁ~」
私はパパとの無駄な口論を避ける為“了解”の溜息をつくと、すぐに重い腰を上げ、ひいおばあちゃんの家の玄関続きの土間へと入っていった。
すると数日間、主のいなかった家の中は絶妙にガビ臭く、土間続きの台所からは腐りかけたタマネギが異臭を発していた。
「っう……」
しかめっ面で腐りかけのタマネギを見上げる私にパパは竹箒をさっと手渡し、私を嗜めるように、こう言い放った。
「ひいおばあちゃんに最期の奉公だ。世話になった分、しっかり働きなさい」
そう言うとパパは私に背を向け“松下電器”と書かれた赤い掃除機を使い、仏間を畳の目に沿って丁寧に掃除機をかけ始めた。
*
あの日はとにかく暑い日だった。
私もパパと言い争いになるのを避ける為、パパに習い無言で猫の額ほどしかない土間から玄関へと土埃を外に軽く掃いていった。
そんな私の後ろを通り抜け、腐った野菜達は庭の北側にあるコンポストの中にパパが全部、放り込んでいく。
私もパパも普段は大して運動もしていないからか。
それとも家の中が蒸し暑いからか、分からない。
だが、あの日は動くたびに体中から汗が吹き出てきて止まらないそんな1日だった。
掃除の後、私達が希望を持って開けたまだ新しい冷蔵庫には飲料水が2本だけ入っていた。
私達はそのペットボトルの水を一気に飲み干すと縁側に座り、名古屋の街並みを見下ろしながら台風の吹き戻しの風に身を委ね小休憩をとることにした。
*
「……ねぇ、パパ。“台風の吹き戻しの風”って案外、生暖かいんだね。エアコンはつけないの?」
「……」
私は普段あまり話さないパパと二人っきりの沈黙に耐えかね、勇気を持って、そう話を切り出した。
するとパパは眉間にシワを寄せ、しばらく考え込んだ後に何か思い出したように、こう返事をした。
「エアコン?そんなもん、この家のは1年も前に壊れたきりだ!!」
そう言うとパパは不機嫌そうに胡座をかいた膝に肘を乗せ、私を見据えるとニヒルに笑った。
「は?エアコン壊れてるの!?じゃぁ、ひいおばあちゃん去年の猛暑どうしてたの?去年の夏は10年に1度の猛暑だってニュースで言ってたよね?」
「10年に1度。100年に1度……。何か毎年言ってるよなぁ……」
私はあまりにもパパの無関心で他人行儀な言い方に苛立ちを覚え、思わず理性を忘れ強く反論をした。
「ひいおばあちゃん、もう超後期高齢者だよ。それなのに、冷房もない家に一人で暮らせって……」
私は手に滲み出る汗を握り締めながらパパを横目で睨みつけた。
「……俺は知らん。それに「今年は10年に1度の猛暑」とかは毎年言っとるじゃないか。ひいおばあちゃんが言うには「ここは山の上だからそんなに暑くない」って、おじいちゃんが手配した業者をがんとして受け入れなかったんだと。まぁ、年寄りになると体温調節が難しいらしいからな。だから庭で熱中症で倒れてそのまま……」
パパはそう言うと小さく鼻をすすった。そして、
「最近、昔と比べて暑くなる時期が早くなってきたからな。“地球温暖化”だからしょうがないけどな。6月なのに連日こう暑くちゃなぁ……。あ、そうだ。坊さんが来る前に扇風機は出さんといかなんな。坊さんもいい歳だが、まだひいおばあちゃんとこに行くのは早いでな……」
そう言うとパパは骨董品の掃除機の電源を抜きいた。
そして私に泣き顔を見られないようにわざと忙しそうな手振りをして縁側の向こうの納戸の中へと消えていった。
*
私はパパの「エアコンが壊れた」と言う言葉に半信半疑で縁側から振り返り、家の天井をぐるりと見回した。
パパの言う通り、この家には“仏間”にエアコンが1台あるだけだ。
家の周りも歩いて見て回ったが、古民家には西側に錆びついたエアコンの室外機が1台しか見当たらなかった。
仏間のエアコンは私が知る限り、唯一のエアコンだ。
なので、エアコンが壊れた話が本当ならば扇風機以外、今この家に冷房器具がないという話は嘘でもないらしかった。
(今夜、パパやおじいちゃんと同じ部屋で寝るのは嫌だなぁ。かと言って2階は暑そうだし……)
私はそんなことを考えながらエアコンの生存を確認する為、重い腰を上げサウナのような家の中へと入っていくことにした。
*
ひいおばあちゃんの家は戦後すぐに建てられた昭和中期の古民家だ。
木造家屋の外壁は杉の木があてられ、屋根には瑠璃色の三河瓦。
家の中で所々軋む杉板をはり合わせた長い廊下は1階の全ての部屋と繫がっている。
西端のひいおばあちゃんの部屋はもとより土間と廊下以外、この家の全ての部屋は畳張りだ。
私はひいおばあちゃんとの思い出を1つ1つ噛み締めながら狭い廊下を通り、ひいおばあちゃんの寝室に着くと寝室の扉をゆっくりと開けた。
*
ガチン ガチャン ガチャン……
「あぁ、やっぱりダメかぁ……」
私はサウナのようになった懐かしいひいおばあちゃんの匂いのする部屋の窓を開け放ち、換気をしながら仏間のエアコンの動作を確認してみた。
この家の唯一のエアコンは、昭和製。
紐を引っ張り、エンジンをかける仕組みなのだが、今ここにあるエアコンからは羽を回す機械音はするものの、風が吹き出る様子はまるでない。
仏間に微かだが、ひいおばあちゃんの服と同じナフタリンの甘い匂いが漂い始める。
懐かしい優しい匂いだ。
エアコン復活の希望を捨てた私は、仏壇の前に置かれた背の低い本棚があるのを見つけ、足を止めた。
本棚の中を覗くと棚の中には、ひいおばあちゃんの住む日本家屋には不似合いな英語で書かれた絵本が背の高い順に綺麗に並べられていた。
私が夏休みに数週間、泊まりに来た時にひいおばあちゃんが読んでくれた本達だ。
本棚には絵本が5冊程あったが、そのどれもが何万回も読まれたようにページの端が擦り切れてしまっている。
ひいおばあちゃんは私が幼い頃、私に早期英語教育なるものを施そうとかなり熱心だったとママから聞いたことがある。
私は夏休み、大好きなひいおばあちゃんの膝の上に座り、時間を見つけてはカナコトの英語で絵本を読んでもらっていた。
絵本だから絵を見るだけで英語の意味が分からなくても子どもの頃の私は、十分に楽しむことができた。
少し大きくなると幼い私もひいおばあちゃんの英語を真似して何度も絵本を自分で読もうとした。
だが、英語の基礎を知らない私にはワンフレーズ覚える事も至難の業だった。
(私。いつもこの部屋で泣いて、ひいおばあちゃんを困らしていたっけ……)
私はそんなことを考えながらひいおばあちゃんのお気に入りだった本を手に取った。
ひいおばあちゃんとの思い出と言えば、なんと言ってもクリスマス。
冬には会えないひいおばあちゃんは毎年、クリスマスに英語の可愛らしい絵本をサンタさんのふりをして送ってくれた。
今でもその本のどれもが私の宝物だ。
そんなひいおばあちゃんの努力の末、私は去年、地元の中学校の夏の交換留学生に選ばれ、ニュージーランドへ1か月程ショートスティに行ってきた。
留学中のホームスティ先の人達はみんな優しくてホストファミリーとは本当の家族のように親しく話す事ができた。
私は今、英語が大好きなのは私が大好きだったひいおばあちゃんが英語が好きだったからでもある。
「ひいおばあちゃん、去年は留学してて遊びに来られなくてごめんね。でも、お別れも言わずに行くなんてひどいよ……」
私は白馬の絵の描いたひいおばあちゃんお気に入りの絵本を胸に抱きしめ仏壇を見上げると、ひいおばあちゃんの陽だまりのような笑顔を思い出し、静かに涙をこぼした。
仏壇には一昨年出掛けた動物園の観覧車の前で私とひいおばあちゃんが一緒に写っている写真が飾られている。
(ひいおばあちゃんが無事に天国に行けますように……)
私は制服の袖で涙を拭うと写真のひいおばあちゃんに手を合わせた。
そして、白馬の絵本を開くと仏様の前でひいおばあちゃんの教えてくれたカタカナ英語で読み聞かせをしてみる事にした。
*
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
私はサウナのように蒸し暑くなった仏間に続きの廊下に座り、壁に体を委ねながら1人、答えのない問答を繰り返していた。
「……あれ?んー。やっぱりおかしい。何でひいおばあちゃんは小さい頃から私に英語の本ばかり読み聞かせたんだろう?」
私はひいおばあちゃんの顔を思い出しながら日本の昔話を「あまり好きではない」と言っていた、ひいおばあちゃんの話に疑問を持っていた。
「グローバル社会に適応出来るように?こんな田舎でスマホもエアコンもないような生活をしている人がグローバル化とか考えるのかな?……」
ひとりごとのはずなのに誰かに答えを言って欲しい、そんな風に考える欲深な自分を抑え込みながら私は更に思案を深めていった。
「あ!分かった!!私の瞳が太陽の光で黒から青に変わっちゃうから、気にしないようにって気遣ってくれてたのかな?外国では「私と同じような青い瞳の人もたくさんいるよ」って。それとも……私の瞳が青く変わる理由をひいおばあちゃんだけは知っていた……?」
私は仏間から見える青い紅葉を見ながら写真の中のひいおばあちゃんに振り返りざまに、こう問いかけた。
もちろん返事はない。
私は太陽の光に反射すると黒から青に変わる不思議な瞳を持って生まれた。
遺伝なのか、それとも突然変異なのかは家族の誰もが分からないらしい。
「死人に口なし、だよね」
私は虚しさを心から払いのけるように本棚まで歩き、薄く積もった埃を優しく床に叩き落としてみた。
サラサラサラ……
「ん?な、何?この粘り気のある独特の臭い……」
埃が床に落ちた瞬間。
不思議な事に本棚からは微かに、ひいおばあちゃんの嫌いだったコンニャクのような臭いが漂ってきたのだった。
*
Wi-Fiの飛んでいないこの家で私は今しがたパパに留守を預かった。
ひいおばあちゃんの家には2階に客間が2間。
1階には、ひいおばあちゃんの寝室とトイレとお勝手あとは納戸。
そして家の中で1番広い15畳の仏間がある。
暇を持て余した私はガラス張りの廊下から、再び仏間に入ると仏壇の右上にある欄間の飾られた白黒の先祖の遺影を見上げながら正座をしてみた。
(……えっと、1番左端のあの人は確か江戸生まれのひいおばあちゃんのおばあちゃん。その隣はひいおばあちゃんのお母ちゃん。で、その隣はひいおばあちゃんのお父さんだったよね。で、右の二人の写真はまだ若いなぁ。30代くらい?そして……あれ?な、ない!?)
私はこの遺影に違和感を覚え思わず、右端の男性の横にある黄ばんだ壁紙の横で目を留めた。
(おかしい。私の“ひいおじいちゃん”って人の写真がない……?何で……?戦時中だったから?いや、でも、もしかしたら……)
私はあるはずの写真がないと分かった瞬間、私の中の遺伝子はある1つの直感を感じとっていた。
だが、その直感は余りにも現実離れしていて“日本を出た事が無い”と話していた、ひいおばあちゃんの話からは想像できない可笑しな妄想だった。
もし、ひいおじいちゃんの家系に他の国の人の血が流れていたら……。
私の青く色変わりする瞳を持って生まれた理由も説明がつく。
(でも、そんな筈はない、よね?ひいおばあちゃん……)
私は顔も知らない、ひいおばあちゃんの旦那さんだった人に想いを馳せながら、手にした白い馬の描かれた絵本の1ページを開いてみた。
その絵本の中で1番擦り切れていたページには金色の髪に青い瞳をした軍服姿の男性が描かれていたのだった。
*
「暑い……。ホント暑い。そして葬儀までやる事無さ過ぎて……ホント眠い。パパは買い出しに街まで行っちゃったし。ノリで留守を預かったけど少し寝ちゃおうかな……」
私は家に残された唯一の冷房器具、扇風機を仏間に寝っ転がりながら点けると、畳の上に寝転び法事用の座布団を枕に目を瞑った。
生暖かい風が頬を撫ぜては外へと通り過ぎていく。
「扇風機、もっと、がんばれー」
私はあまりの気だるさに扇風機に無意味なエールを送った。
仏間から見える空井戸《からいど》の近くには、狂い咲きの桔梗が2輪寄り添うようにして風に揺れている。
「ひいおばあちゃん……」
チャリン……
あの日、私は生暖かい風の下。
真鍮製のキーホルダーを抱きしめながら静かに優しい眠りへと誘われていったのだった。