この想いの名前を僕たちはまだ知らない
3、鳥居の向こう側の世界
私が仏間の畳の上でうたた寝をしてから、どれくらいの時間が過ぎただろうか。
私はサウナのような熱気に包まれながら、ふと目を開いた。
「えっ?暑い。そして薄暗い……」
起きがけに目を見開いて私が見た風景は、先程の茹だるような直射日光に照らされた縁側とは打って変わって薄暗い。
「あ、痛っ!頭打った……」
そして立ち上がろうと手を付き体を起こそうとしたその空間は、膝を曲げたまま身動きを取れないような狭い空間のようだ。
「狭っ。暑っ。え、ここどこ!?私どこかに閉じ込められてるの?」
私は今の自分の置かれた状況を全く把握することのできないまま、両側から木の壁に肩を挟まれて身動きを取れず、しばらく固まった。
そして何とか気合を取り戻し、手探りで出口を探しに行く。
唯一の救いは、体を反転させた時に見えた目の前の壁が木の格子になっていて明かりが中に漏れてくる事くらいだろうか。
私は藁にもすがる思いで明りの差すその壁をゆっくりと前へと押し出した。すると、
ガッタン ギー ……
壁に力をかけると格子から申し訳程度に入って来ていた光が増し、壁の間に縦方向に細い光の筋ができた。
どうやら壁だと思っていたものは壁ではなく扉だったようだ。
私はその希望の光を頼りに更に強く扉に力を入れ、扉を奥へと押し出した。
ギー ギー ギー ガタンッ!
「んっ。開いた!何だ、壁だと思ってたのは扉だったんだ。取り敢えず良かった~。風が気持ちいい。それで、怖いけど外を覗いて……」
私は夢のような夢でないような不思議な感覚の中、勇気を振り絞り目の前に開け放たれた木の扉から頭を突き出した。すると、
「えっ!ここは……?ここは、ど、どこ!?」
私は右手で立ち膝をついた体を支えながら、ビザ丈に巻き上げた制服の紺色のスカートの裾を掴み、箱の下から吹き上げる風を押さえつけた。
そして我を忘れ思わず、みかん色の空に向かい大声で叫んだ。
どうやら閉じ込められていた空間は観音扉で出来た1メートルくらいの社のような外観の場所だったようだ。
今、私の目の前に広がる景色はさっきの夏色の空と打って変わって秋の夕焼け色の空が広がっている。
先程まで五月蝿い程耳を劈いていた蝉の合唱は更に激しさを増している。
箱の外側の世界はまるで遠くて近い異郷の地のような場所だった。
私は開いて乾いてきはじめた口を塞|《ふさ》ごうと唇に力を入れてみた。
すると突然、私の膝の辺りから若い女性の低い声が聞こえてきた。
「……あんた誰ね?何でこんなとこから出て来たん?罰当たりな、お人やね。神さんに怒られる前に早う降りて来りん」
寝起きからの突然の出来事に思考を止めた私の滑稽な姿を見上げながら、女性は呆れたように眉を下げて私に優しく手招きをした。
女の人は黒髪を後ろでお団子に一つで縛り、焼けた小麦色の肌に日焼けして着古した白いシャツ。
継ぎ接ぎだらけの紺色のスラックスによく似た小花柄の裾の絞ったズボン姿をしている。
そして、お供え物だろうか。
見覚えのあるひいおばあちゃんの家のお社にあるキツネの石像の隣には、小さなまだ新しい丸い餅が和紙の上にちょこんと乗せられていた。
心なしか見覚えのある石のキツネは私が知っているキツネよりも新しいように見える。
私は黒曜石のような澄んだ双眼をした彼女の瞳と目が合った瞬間、今の自分の有り様が恥ずかしくなり咄嗟にお社から外へ飛び出して膝をつくと、こう話を切り出した。
「えっと……。はじめまして。私は“田中ミラ”と言います。東京からひいおばあちゃんの葬式に参列する為に手伝いに来てて……。それで……」
今の状況を上手く飲み込めない私は、自分でも何を話していいのかがよく分からなくて手をクルクルと空で回しながら話を続けようとした。
混乱している私を他所にお団子頭の若い姿の女性は、自分の正面に座った私の顔に顔を近づけると、私の瞳をじっと見つめてきた。
鼻先が当たりそうになる距離まで彼女の顔は躊躇せずに近づいて来る。
私は彼女の長いまつ毛が額に当たると、くすぐったくて思わず目を閉じた。
「なんや綺麗……。海みたいな青い瞳じゃ……」
彼女の言葉に驚き、私が目を開けた瞬間。
私の瞳に映った女性は、好奇心に黒い瞳を輝かせ、ニヤリと白い歯を見せて私に詰め寄り、こう言った。
「なんね!あんたのその瞳!!不思議な色やね。太陽の光に当たると海みたいな綺麗な青い色に見えるんね。今、東京ではそんな短いスカートが流行っとるの?だけど、ここいらの田舎でそんな短いスカート履いとったらあかんよ。田舎は何かと物騒じゃき……」
女性は、長い独り言を一息で言い終えると自分の言いたい事を言い終えて満足したかのように笑い、踵を返すと小さなベージュの肩掛け鞄に手をかけた。
「……そ、そうですよね。じゃ、お邪魔しました。私もあんまり留守番をサボってるとパパに怒られるので……」
そう言うと私は彼女と同じく自分の家にいち早く帰る為、彼女の背中を背にお社の扉を開け、中に入ると忙しく扉を締めた。
ガタン ガタン バタン
シーン……
とりあえず中に入った私は、うたた寝をする前と同じ態勢をとり横になってみた。
箱の中は先程と同じような茹だるような暑さだ。
だが、何か変わるような気配は1ミリも感じない。
ガタンッ ガタン ドンッ
「……っ痛。また頭打った~!」
「は!?あんた。何しとるん?そんなとこなんか入ったらあかんよ。そんな罰当たりな事……。あっ!……」
女の人はそう言うと扉を開け、私の右手に握られた|干乾びたお供え物の魚を見て体を固くした。
そして次第に思い詰めたような彼女の顔は、眉が下がり眉間に深いシワが寄っていく。
「……あんた隣村にある軍人さんの所に行く女狩りから逃げて来た娘なんでしょ?だからそんな短い腰巻き姿しとるんでしょう?可哀想に……。だから、こんな狭いところに隠れてたんやね。だから、いつもならあるはずのお餅が今日はなくなっとったんか……」
女性は一人で二人分の会話と妄想を繰り広げた後寸劇を私の目の前で突然、繰り広げはじめた。
そうかと思うと、女性は何かを決めたように大きく頷いて私の手を握り、こう言った。
「あんた、しばらく私の家に来りん。仕事は手伝どうてもらうが、家賃はなしじゃ。食事も3食出したる。家に来たら私の余っているモンペがあげるからあげるわ。今、私の家は、おばあちゃんと二人きりじゃ。おばあちゃんはここらの“地主”じゃけん遠慮はいらんよ。戦争が終わるまで我が家におったらええ」
そう言うと彼女は、お社から頭を出した私の前にさっと手を差し出してきた。
「私の名前は“田中夏菜子”。ミラちゃんだったな?同じ苗字のよしみじゃ。遠慮はいらん。さぁ、日が暮れる前に家に帰ろう」
女性は一息でそう言うと私の手を取り私の短いスカート姿を誰かに見られないように周りを警戒しながら石段を早足で駆け下りていった。
私も彼女に言われるがまま、彼女に続いて石段を駆け下りていく。
彼女との出会いから、どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
私達の偶然と必然の入り混じったようなみかん色の空の下での出会いから、気がつけば辺りは薄墨色の淡い光に包まれた時間へと変わっていた。
田んぼの間に点々と建つ小さな荒屋からは米を炊くような甘い匂いが漂ってくる。
夏菜子ちゃんの家までに通る人通りのない畦道から時折、見える家々の表札の隣には、掌サイズの御札のような紙がしっかりと貼られているのが見えた。
畦道の端にある一軒の小さな掘っ立て小屋の前では白髪混じりの初老の女性が、郵便受けの横に置かれた青い壷に挿された古い花を新しい花へと生け直していた。
「“誉れの…家”?夏菜子ちゃん、あの表札の隣に貼られた御札は何?」
私は先を急ぎながら手を引く夏菜子ちゃんの後ろから、こんなふうに質問をした。
「ん?……あぁ、あれは戦死した英霊さんの家に国から送られるお札や。ここいらでは、あの札は戦死通知と一緒に送られてくるんよ。ひと昔前は金属の札だったみたいだけど……今は紙。日本はどこも物資が不足しとるもんでしょうがない。ミラちゃんは知らんだね。東京にはないんか?」
夏菜子ちゃんの言葉に私は思わず息を呑んだ。
何と返事をしたらいいのか分からない。
時間の流れと共に二人の間に静かな沈黙の空気が、静かに通り過ぎていく。
(「戦争が終わるまで」「戦死」。「英霊」これってやっぱり……
)
「痛い。やっぱり夢じゃない……」
私は夏菜子ちゃんのおばあちゃんの家のある街の大通りに出る途中、自分の頬をつねり、これが夢ではないという事を痛感した。
私は夏菜子の当たり障りのない会話を聞き流しながら社会科見学の時に訪れた“近代戦争資料館”に飾られていたセピア色の写真の人達の顔を思い出した。
今から1番近い戦争は80年くらい前。
終戦日は確か、昭和20年8月15日。
日本はアメリカと戦争をしていて……。
終戦前の1年間からは日本各地に爆弾が落とされるようになり、民間人もたくさん亡くなった……。
「夏菜子ちゃん、今日って何年の何月何日だっけ?」
私は夏菜子ちゃんの汗ばむ手を握り返しながら、今の時代を知る為に勇気を出して質問をした。
「何言っとるの。昭和19年7月18日よ」
夏菜子ちゃんは当たり前のように私の質問に即答をした。
(やっぱりそうだ。昭和19年。これが夢でないならば、私は季節を飛び越えたのではなく、時代を過去に遡ってしまったんだ……。それも1番危険な時代に)
そんな事を考えながら私は夏菜子ちゃんと繋いだ夏菜子ちゃんの固い手を再び握り返した。
そして、私は現実から逃げるように街へと続く裏道を脇目も振らずに走った。
起こった事は仕方がない。
兎に角、今は夏菜子ちゃんしか頼れる人はいない。
最善策は生き延びる事……。
私は彼女の細腕に導かれるようにお社から15分程の所にある立派な門のある庄屋の裏口に辿り着いた。
彼女の家の裏口にある門柱には、先程と同じような大きさで“応徴の家”と書かれた紙が張ってあった。
(夏菜子ちゃん、さっきおばあちゃんと二人暮しだって言ってたけど、お母さんはどうしたのかな?お父さんは戦争で亡くなっているのかな?)
私が門の前で立ち止まり“応徴の家”の紙を見上げながら眉をひそめた。
すると、夏菜子ちゃんは私の背を押し、私を門の中に招き入れてくれた。
そして門の扉を閉めながら、こう言ったのだ。
「ミラちゃん。“応徴の家”っていうのは“今、家族が戦地でお国の為に戦ってます”っていう意味なんよ。だから、そんな顔しなさんな。私のお父ちゃんはそう簡単にはくたばらんよ。何せ前の戦争でも生きて帰って来たんだかんね」
夏菜子ちゃんは小さい声でそう耳打ちすると私の手を引き、建物の脇を急ぎ足で歩き始めた。
(現実をなかなか受け止められない。私は今、夢を見ているのか。それとも本当にタイムスリップして来てしまったのか……)
私は亡くなったひいおばあちゃんが生きた時代を追体験するような古くて新しいの道具達に囲まれながら、夏菜子ちゃんの後を急いで追いかけた。
そして私は現実を受け入れるように小さく息を吸い込んだ。
(スマホもコンビニもない時代。私は一人じゃ何にも出来ないのに生き抜く事ができるだろうか……)
そんな事を考えているうちに私達は、割烹着姿の老婆のいる勝手口の敷居の前に立っていた。
「あぁ、お帰り、夏菜子」
「おばあちゃん、只今帰りました!友達連れてきたんやけど……」
「友達……?ありゃ!?どうしたの?そんな短い腰巻きなんか履いて……。早く、早く中に入りん」
「えっ……!?でも……」
「子どもが何を遠慮しとるんか。夏菜子の友達なんやろ?若い娘が体を冷やしちゃいかん。夏菜子、早うモンペ持って来りん」
「は~い」
夏菜子ちゃんのおばあちゃんと言う人はそう言うと、私の手を引き家の中に引き入れてくれた。
どこかで見たような夏菜子のおばあちゃんの手は、とても厚くて固い温かな手だった。
私はこの人達に受けた恩を生涯忘れない。
この日、行き場のない私を保護してくれた人達の優しさを胸に心の中で私は強くそう思うのだった。
私はサウナのような熱気に包まれながら、ふと目を開いた。
「えっ?暑い。そして薄暗い……」
起きがけに目を見開いて私が見た風景は、先程の茹だるような直射日光に照らされた縁側とは打って変わって薄暗い。
「あ、痛っ!頭打った……」
そして立ち上がろうと手を付き体を起こそうとしたその空間は、膝を曲げたまま身動きを取れないような狭い空間のようだ。
「狭っ。暑っ。え、ここどこ!?私どこかに閉じ込められてるの?」
私は今の自分の置かれた状況を全く把握することのできないまま、両側から木の壁に肩を挟まれて身動きを取れず、しばらく固まった。
そして何とか気合を取り戻し、手探りで出口を探しに行く。
唯一の救いは、体を反転させた時に見えた目の前の壁が木の格子になっていて明かりが中に漏れてくる事くらいだろうか。
私は藁にもすがる思いで明りの差すその壁をゆっくりと前へと押し出した。すると、
ガッタン ギー ……
壁に力をかけると格子から申し訳程度に入って来ていた光が増し、壁の間に縦方向に細い光の筋ができた。
どうやら壁だと思っていたものは壁ではなく扉だったようだ。
私はその希望の光を頼りに更に強く扉に力を入れ、扉を奥へと押し出した。
ギー ギー ギー ガタンッ!
「んっ。開いた!何だ、壁だと思ってたのは扉だったんだ。取り敢えず良かった~。風が気持ちいい。それで、怖いけど外を覗いて……」
私は夢のような夢でないような不思議な感覚の中、勇気を振り絞り目の前に開け放たれた木の扉から頭を突き出した。すると、
「えっ!ここは……?ここは、ど、どこ!?」
私は右手で立ち膝をついた体を支えながら、ビザ丈に巻き上げた制服の紺色のスカートの裾を掴み、箱の下から吹き上げる風を押さえつけた。
そして我を忘れ思わず、みかん色の空に向かい大声で叫んだ。
どうやら閉じ込められていた空間は観音扉で出来た1メートルくらいの社のような外観の場所だったようだ。
今、私の目の前に広がる景色はさっきの夏色の空と打って変わって秋の夕焼け色の空が広がっている。
先程まで五月蝿い程耳を劈いていた蝉の合唱は更に激しさを増している。
箱の外側の世界はまるで遠くて近い異郷の地のような場所だった。
私は開いて乾いてきはじめた口を塞|《ふさ》ごうと唇に力を入れてみた。
すると突然、私の膝の辺りから若い女性の低い声が聞こえてきた。
「……あんた誰ね?何でこんなとこから出て来たん?罰当たりな、お人やね。神さんに怒られる前に早う降りて来りん」
寝起きからの突然の出来事に思考を止めた私の滑稽な姿を見上げながら、女性は呆れたように眉を下げて私に優しく手招きをした。
女の人は黒髪を後ろでお団子に一つで縛り、焼けた小麦色の肌に日焼けして着古した白いシャツ。
継ぎ接ぎだらけの紺色のスラックスによく似た小花柄の裾の絞ったズボン姿をしている。
そして、お供え物だろうか。
見覚えのあるひいおばあちゃんの家のお社にあるキツネの石像の隣には、小さなまだ新しい丸い餅が和紙の上にちょこんと乗せられていた。
心なしか見覚えのある石のキツネは私が知っているキツネよりも新しいように見える。
私は黒曜石のような澄んだ双眼をした彼女の瞳と目が合った瞬間、今の自分の有り様が恥ずかしくなり咄嗟にお社から外へ飛び出して膝をつくと、こう話を切り出した。
「えっと……。はじめまして。私は“田中ミラ”と言います。東京からひいおばあちゃんの葬式に参列する為に手伝いに来てて……。それで……」
今の状況を上手く飲み込めない私は、自分でも何を話していいのかがよく分からなくて手をクルクルと空で回しながら話を続けようとした。
混乱している私を他所にお団子頭の若い姿の女性は、自分の正面に座った私の顔に顔を近づけると、私の瞳をじっと見つめてきた。
鼻先が当たりそうになる距離まで彼女の顔は躊躇せずに近づいて来る。
私は彼女の長いまつ毛が額に当たると、くすぐったくて思わず目を閉じた。
「なんや綺麗……。海みたいな青い瞳じゃ……」
彼女の言葉に驚き、私が目を開けた瞬間。
私の瞳に映った女性は、好奇心に黒い瞳を輝かせ、ニヤリと白い歯を見せて私に詰め寄り、こう言った。
「なんね!あんたのその瞳!!不思議な色やね。太陽の光に当たると海みたいな綺麗な青い色に見えるんね。今、東京ではそんな短いスカートが流行っとるの?だけど、ここいらの田舎でそんな短いスカート履いとったらあかんよ。田舎は何かと物騒じゃき……」
女性は、長い独り言を一息で言い終えると自分の言いたい事を言い終えて満足したかのように笑い、踵を返すと小さなベージュの肩掛け鞄に手をかけた。
「……そ、そうですよね。じゃ、お邪魔しました。私もあんまり留守番をサボってるとパパに怒られるので……」
そう言うと私は彼女と同じく自分の家にいち早く帰る為、彼女の背中を背にお社の扉を開け、中に入ると忙しく扉を締めた。
ガタン ガタン バタン
シーン……
とりあえず中に入った私は、うたた寝をする前と同じ態勢をとり横になってみた。
箱の中は先程と同じような茹だるような暑さだ。
だが、何か変わるような気配は1ミリも感じない。
ガタンッ ガタン ドンッ
「……っ痛。また頭打った~!」
「は!?あんた。何しとるん?そんなとこなんか入ったらあかんよ。そんな罰当たりな事……。あっ!……」
女の人はそう言うと扉を開け、私の右手に握られた|干乾びたお供え物の魚を見て体を固くした。
そして次第に思い詰めたような彼女の顔は、眉が下がり眉間に深いシワが寄っていく。
「……あんた隣村にある軍人さんの所に行く女狩りから逃げて来た娘なんでしょ?だからそんな短い腰巻き姿しとるんでしょう?可哀想に……。だから、こんな狭いところに隠れてたんやね。だから、いつもならあるはずのお餅が今日はなくなっとったんか……」
女性は一人で二人分の会話と妄想を繰り広げた後寸劇を私の目の前で突然、繰り広げはじめた。
そうかと思うと、女性は何かを決めたように大きく頷いて私の手を握り、こう言った。
「あんた、しばらく私の家に来りん。仕事は手伝どうてもらうが、家賃はなしじゃ。食事も3食出したる。家に来たら私の余っているモンペがあげるからあげるわ。今、私の家は、おばあちゃんと二人きりじゃ。おばあちゃんはここらの“地主”じゃけん遠慮はいらんよ。戦争が終わるまで我が家におったらええ」
そう言うと彼女は、お社から頭を出した私の前にさっと手を差し出してきた。
「私の名前は“田中夏菜子”。ミラちゃんだったな?同じ苗字のよしみじゃ。遠慮はいらん。さぁ、日が暮れる前に家に帰ろう」
女性は一息でそう言うと私の手を取り私の短いスカート姿を誰かに見られないように周りを警戒しながら石段を早足で駆け下りていった。
私も彼女に言われるがまま、彼女に続いて石段を駆け下りていく。
彼女との出会いから、どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
私達の偶然と必然の入り混じったようなみかん色の空の下での出会いから、気がつけば辺りは薄墨色の淡い光に包まれた時間へと変わっていた。
田んぼの間に点々と建つ小さな荒屋からは米を炊くような甘い匂いが漂ってくる。
夏菜子ちゃんの家までに通る人通りのない畦道から時折、見える家々の表札の隣には、掌サイズの御札のような紙がしっかりと貼られているのが見えた。
畦道の端にある一軒の小さな掘っ立て小屋の前では白髪混じりの初老の女性が、郵便受けの横に置かれた青い壷に挿された古い花を新しい花へと生け直していた。
「“誉れの…家”?夏菜子ちゃん、あの表札の隣に貼られた御札は何?」
私は先を急ぎながら手を引く夏菜子ちゃんの後ろから、こんなふうに質問をした。
「ん?……あぁ、あれは戦死した英霊さんの家に国から送られるお札や。ここいらでは、あの札は戦死通知と一緒に送られてくるんよ。ひと昔前は金属の札だったみたいだけど……今は紙。日本はどこも物資が不足しとるもんでしょうがない。ミラちゃんは知らんだね。東京にはないんか?」
夏菜子ちゃんの言葉に私は思わず息を呑んだ。
何と返事をしたらいいのか分からない。
時間の流れと共に二人の間に静かな沈黙の空気が、静かに通り過ぎていく。
(「戦争が終わるまで」「戦死」。「英霊」これってやっぱり……
)
「痛い。やっぱり夢じゃない……」
私は夏菜子ちゃんのおばあちゃんの家のある街の大通りに出る途中、自分の頬をつねり、これが夢ではないという事を痛感した。
私は夏菜子の当たり障りのない会話を聞き流しながら社会科見学の時に訪れた“近代戦争資料館”に飾られていたセピア色の写真の人達の顔を思い出した。
今から1番近い戦争は80年くらい前。
終戦日は確か、昭和20年8月15日。
日本はアメリカと戦争をしていて……。
終戦前の1年間からは日本各地に爆弾が落とされるようになり、民間人もたくさん亡くなった……。
「夏菜子ちゃん、今日って何年の何月何日だっけ?」
私は夏菜子ちゃんの汗ばむ手を握り返しながら、今の時代を知る為に勇気を出して質問をした。
「何言っとるの。昭和19年7月18日よ」
夏菜子ちゃんは当たり前のように私の質問に即答をした。
(やっぱりそうだ。昭和19年。これが夢でないならば、私は季節を飛び越えたのではなく、時代を過去に遡ってしまったんだ……。それも1番危険な時代に)
そんな事を考えながら私は夏菜子ちゃんと繋いだ夏菜子ちゃんの固い手を再び握り返した。
そして、私は現実から逃げるように街へと続く裏道を脇目も振らずに走った。
起こった事は仕方がない。
兎に角、今は夏菜子ちゃんしか頼れる人はいない。
最善策は生き延びる事……。
私は彼女の細腕に導かれるようにお社から15分程の所にある立派な門のある庄屋の裏口に辿り着いた。
彼女の家の裏口にある門柱には、先程と同じような大きさで“応徴の家”と書かれた紙が張ってあった。
(夏菜子ちゃん、さっきおばあちゃんと二人暮しだって言ってたけど、お母さんはどうしたのかな?お父さんは戦争で亡くなっているのかな?)
私が門の前で立ち止まり“応徴の家”の紙を見上げながら眉をひそめた。
すると、夏菜子ちゃんは私の背を押し、私を門の中に招き入れてくれた。
そして門の扉を閉めながら、こう言ったのだ。
「ミラちゃん。“応徴の家”っていうのは“今、家族が戦地でお国の為に戦ってます”っていう意味なんよ。だから、そんな顔しなさんな。私のお父ちゃんはそう簡単にはくたばらんよ。何せ前の戦争でも生きて帰って来たんだかんね」
夏菜子ちゃんは小さい声でそう耳打ちすると私の手を引き、建物の脇を急ぎ足で歩き始めた。
(現実をなかなか受け止められない。私は今、夢を見ているのか。それとも本当にタイムスリップして来てしまったのか……)
私は亡くなったひいおばあちゃんが生きた時代を追体験するような古くて新しいの道具達に囲まれながら、夏菜子ちゃんの後を急いで追いかけた。
そして私は現実を受け入れるように小さく息を吸い込んだ。
(スマホもコンビニもない時代。私は一人じゃ何にも出来ないのに生き抜く事ができるだろうか……)
そんな事を考えているうちに私達は、割烹着姿の老婆のいる勝手口の敷居の前に立っていた。
「あぁ、お帰り、夏菜子」
「おばあちゃん、只今帰りました!友達連れてきたんやけど……」
「友達……?ありゃ!?どうしたの?そんな短い腰巻きなんか履いて……。早く、早く中に入りん」
「えっ……!?でも……」
「子どもが何を遠慮しとるんか。夏菜子の友達なんやろ?若い娘が体を冷やしちゃいかん。夏菜子、早うモンペ持って来りん」
「は~い」
夏菜子ちゃんのおばあちゃんと言う人はそう言うと、私の手を引き家の中に引き入れてくれた。
どこかで見たような夏菜子のおばあちゃんの手は、とても厚くて固い温かな手だった。
私はこの人達に受けた恩を生涯忘れない。
この日、行き場のない私を保護してくれた人達の優しさを胸に心の中で私は強くそう思うのだった。