この想いの名前を僕たちはまだ知らない
5、コンニャクと和紙
「ミラちゃん、今日からお前さん、この建物の中で働いてもらうかんね。なぁ、昨日話していた通り、この学校は西洋風の立派な校舎じゃろ。安心しんしゃい、ここの人達は皆、良い人達だかんね」
翌朝。夏菜子ちゃんは現代ともそんなに違わない木造2階建ての校舎の中を案内してくれた。
そして最後に階段を登ってすぐ突き当たりにある2階のとある教室の前で立ち止まると、誇らしげに胸を張ると私に、こう言った。
「ミラちゃん。ここが私らの戦場。秘密兵器を造っとる工場や!」
*
昨晩、私と夏菜子ちゃんは制服の自慢話の後、二人とも眠むることなく朝までガールズトークを繰り広げた。
夏菜子ちゃんの話では夏菜子ちゃんは今、父方のおばあちゃんの家に“疎開”で来ているらしい。
元住んでいた家は今、借家に出していて出身は三河という名前の場所。
そこは海沿いの漁師町らしかった。
お父さんとお母さんは恋愛結婚。
一人っ子のお母さんの所へこちらも一人っ子のお父さんは、おばあちゃんからの勘当覚悟で婿養子に行ったらしかった。
だが、母方の相次ぐ身内の不幸で夏菜子ちゃんはお母さんと死に別れた。
それで去年、ここに疎開してきたらしい……。
私も簡単な身の上は話したのだけれど、夏菜子ちゃんの中では今でも私は“身売りされそうになったかわいそうな女の子”という設定にてなっているようだ。
夏菜子ちゃんの説得のおかげで私は、夏菜子ちゃんのおばあちゃんに畑に面した夏菜子ちゃんの隣の部屋を快く貸してもらえることになった。
そして居候の私は戦争が終わるその日まで。
朝はおばあちゃんの商いを手伝う傍ら、学徒勤労動員の一員として疎開先から10分程の女子校で“勤労奉仕”をすることになったのだった。
そう昨晩、私は元の世界に帰るチャンスを掴む為、この世界で生き延びる、という覚悟を決めたのだった。
*
今日は勤労奉仕、初出勤の日。
空は曇り空。
太陽の光に当たると瞳が青色に変わってしまう私にとっては、室内の目張りされた薄暗い場所での勤労奉仕は有難い話だった。
“勤労奉仕”とは、10代くらいの若者が学校で勉強する代わりに戦争で兵隊さんの使う武器や衣類を作る事を言うらしい。
この時代初等科までは、主に勤労奉仕の合間に、読み書き、国史、地理、体育それに修身という教科を学ぶ。
初等科にも勤労奉仕はあり、最近は校庭を畑にした場所で農作業をして、学校にいる大半の時間を過ごしている姿をよく見るようだ。
この時代に勿論、給食はない……。
*
夏菜子ちゃんの通っている女学校は初等科、中等科、高等科があるエレベーター式の女学校らしい。
初等科から高等科まで、全部合わせて500人くらいの児童・生徒が在籍しているようだが、高等科の生徒は今現在、半分くらいしか学校に通っていない。
もう半分の生徒は、街の方の企業での勤労奉仕に駆り出されているそうだ。
最近は女学校でも“疎開”する人が多くなり、人手が足らず私が入るクラスでは半分がこの女学校の生徒ではなく“国民学校出身者”が勤労奉仕に来ているらしかった。
ガラ ガラ ガラ……
「まだ、早いから誰も教室に来てないね。まぁ、ええわ。ミラちゃん、これが私らの勤労奉仕や!!」
夏菜子ちゃんはそう言うと部屋の中央に置かれた机の前でめい一杯に手を広げた。
「何だか色々とすごいね……。私の想像以上……」
私は昨晩、夜通し夏菜子ちゃんから大まかな作業内容は聞いていた。
和紙を5枚、糊で貼り合わせる単純作業。
だだそれだけという話だった。
だが、実際は思っていた以上に重労働のようだ。
教室の中は粘り気のある長芋と雨上がりの土の入り混じったような臭いが充満していて外の空気に比べ、どっしりと重い。
そして窓には目張りがされ、4つの机が横に1列にくっつけられている。
教室に入ると、全ての机の上に裾だけ白い灰色のまだらな布が掛けられていた。
多分、布は机が汚れないようにテーブルクロスの代わりになる物なんだろうけど……。
教室の臭いを嗅いだだけなのに、この鈍い頭痛。
どうやら今、私は今晩辺り悪夢にうなされるフラグが立ったらしい。
(こんな所で1日過ごすとか地獄過ぎる……)
そうこう考えている間に教室の入口に私と同じくらいの年頃の女の子達が、紺色のモンペに白いシャツ。
それにお揃いの鉢巻をして黄色い声をあげながらぞろぞろと集まってきた。
皆、腕にお揃いの腕章を付けている。
昨晩、夏菜子ちゃんのおばあちゃんが旧友である女学校の女先生に私の事を話してくれたおかげで、私は難なく学校に出入りできるようになっていた。
だが、共学出身の私には夏菜子ちゃんから聞いた女子校の独特の雰囲気に慣れることが出来るのか、不安もある。
トンッ!
「おはよう!聞いたか、夏菜子さん。昨日の米兵の話!!」
「おはよう!ハナちゃん」
私達が教室の端で突っ立っているとは、小柄な三つ編みの女の子が夏菜子ちゃんの隣に立ち、朝から元気よく挨拶を交わしてきた。
そして女の子は、教室の1番後ろの右端の机の前に置かれたイスに座って話を続ける。
私の存在は今は眼中にないような話しぶりだ。
「今朝聞いた、女学校組の話ではな。昨日の昼過ぎ、名古屋の真ん中に偵察に来たアメリカの飛行機が学校の裏山ん中に落っこちたんだと。そんでな。昨晩、2人の若い金髪のアメリカ兵が血だらけで隣村の憲兵さんにしょっぴかれて行くのを稽古から帰る途中に千代さんが見たそうじゃ……」
女の子はそう言うと、学校に来る途中に仲の良い女学生から聞いたばかりだという話を、さも自分が見聞きしてきたかのように身振り手振りを加えて大袈裟に語った。
「墜落した爆撃機は3機。3機じゃと。じゃとしたらまだ、この辺の山ん中に米兵が隠れてとるかもしれんな。爆撃機は3機だからな。1人操縦士が足らん。おそがいなぁ……。米兵っていうのは背が高くて天狗みたいに鼻が長くて肌が白いんじゃろ?ん……?」
女の子はうわさ話を早口で全て話し終えると先程の恐ろしい米兵の話など忘れてしまったかのように、頬を紅くして好奇心に満ちた目で私の方を見た。
「夏菜子さん!誰かね。その子!!」
女の子は、しばらく私の紺の手ぬぐいを巻いた頭から足先まで舐めるようにして見ていた。
そんな女の子に夏菜子ちゃんは笑って、こう言った。
「やっと気づいたかね。あんね、ハナちゃん。この子は田中ミラちゃん。私の遠い遠い親戚の娘や。ほら、右耳の所。おんなじ所に黒子がある。これが親戚の証拠じゃ。昨日、東京から疎開してきたんよ。ここいらじゃ、まだ知り合いもいないから仲良くしてな」
そう言うと夏菜子ちゃんは私の背を押し、ハナちゃんの前に私を突き出した。
黒子は昨日、夏菜子ちゃんと内湯に入った時に偶然見つけたものだ。
私は鳥居の向こう側の世界では、その黒子の事をピアスシールをする時に浮き出るので疎ましく思っていた。
なのでコンシーラーでいつも消していたのだが今、はじめて体のいい言い訳に使えた黒子の存在に感謝をした。
「よ、よろしくお願いします……」
「はい、よろしく。あんたいくつね?私は14!」
ハナちゃんは、そう言うと私の隣に立ち、少し背伸びをした。
「私も14です」
「そうね。じゃぁ、敬語はなしじゃ。ミラちゃんは東京の子かね?尾張の訛りがないじゃ。東京の女学校通ってたんか?」
「女学校?私は今、中学生だよ」
「中学?中学かね。中等科じゃのうて?女が中学なんて聞いたこともないな。じゃぁ、お金持ちの家の子じゃ。どおりで日焼けしとらん訳じゃ。私は国民学校の初等部しか出とらんよ。勤労奉仕じゃなきゃこんな金持ちのお嬢様の通う校舎には入れんのよ。まぁ、あっちの島の簪を差した団体さんは、この学校に通っとるお嬢様方なんやけんど……」
ハナちゃんは早口でそう説明すると、入り口から来た何かから逃げるように急いで机の下にさっと隠れた。
カツッ カツッ カツッ
夏菜子ちゃんの影からブーツの踵を鳴らし近づいてくる人型の気配がする。
私が振り向こうとした瞬間、気配の主は威圧的な口調で自ら口火を切ってきた。
「あなた見ない顔ね?最近、疎開して来た人か?」
赤い派手な生地に百合柄のモンペ姿。
それに艶のある黒髪を一つにまとめ、赤珊瑚《あかさんご》の簪をした頭。
そして私より少し背の高い細身の女性は、私の前に立つと腰に手を当て更に威圧的な目つきで品定めするように私に質問を切り出してきた。
「あっ……。はい!私、田中ミラと言います。今は夏菜子さんの家に居候……じゃなくて、疎開させて頂いています。東京の湊中学2年生。図書委員です。部活は水泳を……」
恐る恐る詰まりながら話す私に対し、女性は初め私を見下すように見ていた。
だが、私が“中学”と言うワードを出した辺りから明らかに目の色を変えて私の体を上から下へと舐め回すように見始めた。そして、
「東京!中学!?そ、そうね……。夏菜子さんの親戚……。じゃ、私からの餞別よ。友達になる子は選んだ方が良いわ。訛りの多い子らは頭が悪くて匂いも臭くて敵わないわよ。友達はきちんと選ばんとね。フフッ。それじゃ、ごきげんよう」
女性はそう言うと机の下に隠れた小さな頭を見て目を細め、睨みつけると女学校出身の少女達の待つ古巣へと帰っていった。
「……な、何なの?あの人!?」
私は女性が背を向けると小さな声でハナちゃんは、こう呟いた。
「ミラちゃん。あん人は、もう行ったかね。あ~。おそがかった。私、千代さん、苦手じゃ。すらっとして顔も美人じゃけど、自分が師範学校に通ってたから言うて国民学校出の私らの事いつも馬鹿にしてくるんよ。いつも話す時は命令口調じゃ……」
そう言い終えるとハナちゃんはカサカサの厚くなった両掌を私に見せて、こう言った。
「でもな、ミラちゃん。この前、国民学校出の私らがな、ここの女学校生さんらを抑えて勤労奉仕でな1等賞取ったんよ。そしたらな、ここの先生が賞状くれたん。今度見せたげるわ。あんたも賞状貰えるよう頑張りんよ!!」
ハナちゃんはそう言うと私の手を取り、私を黄色い和紙と独特の粘り気のある灰色の液体の置かれた教壇の前まで連れて行った。
教壇の前は曇の日だから、だろうか。
目張りをされたガラス窓の教室は、日の光が届かず何となく薄暗い。
「ミラちゃん。これが私らの仕事じゃ。こうやってな、5枚の和紙をこの糊で隙間なく貼り付けるんじゃ。糊は厚すぎても薄すぎてもいかん」
ハナちゃんはそう言うと液体を自分の作業所まで運んで行き、ボロボロの刷毛で少し掬うと、2枚の和紙を器用に重ねていった。
「ねぇ……ハナちゃん。この糊は何で出来ているの?」
私は不思議な臭いする灰色の液体の器を手に取り、ハナちゃんの横顔に顔を近づけ、話しかけた。
するとハナちゃんは骨が見えそうな程薄くなった右手の人差し指に液体を取り、黄ばんだ歯を見せ笑うと当たり前の事ように、こう言った。
「ん?これか。これは、コンニャク芋じゃ。米は兵隊さんのご飯じゃき、今はコンニャク芋で糊を作っとる。最近では東京でもコンニャクは食べられんじゃろ?」
ハナちゃんはそう言うと自分の場所だと言う教室の1番前の席の隣を快く空け、私が作業に慣れるまで根気強く貼り方のコツ教えてくれた。
空気が入らないように2枚の和紙を素早くコンニャク糊で貼りつける。
糊は薄すぎでも厚すぎてもいけない。
そして同じ作業を繰り返し5枚の和紙を貼り合わせたら、空いている所に置いてしっかりと乾かす……。
(な~んだ。思っていたよりも簡単そう……)
私は第一印象、ハナちゃんの手際の良い作業を隣で見ながらそう思っていた。
「じゃ、ミラちゃんもやってみて」
「うん!」
私はハナちゃんの隣にイスを持っていきハナちゃんに言われた通りに和紙を貼り付けようとした。だが、
「ミラちゃん糊つけすぎじゃ。それに……ここは薄すぎる。満遍なく均一に貼り付けんと。いや、じゃからな……」
この日の午前。
私はこの単純作業を午前中1セットも完成させられなかった。
*
初夏の冷房器具のない狭い教室での単純作業は、文字通り過酷なものだった。
キメの細かい黄ばんだ和紙が、手汗を何度も吸い取り、汗を吸い取った瞬間から乾いていった。
そして指先の感覚が麻痺するまで和紙を貼り合わせるという作業は、続いた。
なぜ、教室の窓ガラスに薄い和紙を貼るのか。
なぜ、こんなに蒸し暑いのに、誰も窓を開けようと言わないのか。
なぜ、和紙を何枚も貼り付けるのがお国の為になるのか……。
私は何も分からないまま私の午前中の作業を終えることになった。
勤労奉仕は、基本的に朝7時から夕方4時頃まで。
季節によって多少前後するらしい。
(夏菜子ちゃんがここを“戦場”って言った意味がわかる気がする……)
この世界では、暑さに負け水筒の水を飲むのも厠に行くのも壁際で睨みをきかせてくる軍服の男性の許可がいるようだった。
私は初めは囚人になった気がして緊張し、手が思う様に動かせなかった。
しかし、午前中の作業も終盤に差し掛かり作業が段々と慣れてくると、この厳しすぎる単純作業に嫌気が差してきた。
こんなことをしても私には1円も入らない。
それに気づいてしまったからだ。
*
女学校の校舎には、14歳から18歳くらいまでの少女達が“国民学校出”も“女学校の生徒”も同じようにそれぞれ与えられた仕事を淡々と熟しているようだった。
そしてそれは、それぞれが分業制。
主な仕事は和紙を貼りける作業らしいが、他の教室では弾丸を入れる袋を作ったり、落下傘の紐を切ったりしている人もいると聞いた。
この“勤労奉仕”の仕事内容にに文句を言う生徒など一人もいない。
この子達は今という時代を必死に生きているんだ。
額に汗をかき、必死に自分に与えられた仕事と向き合ってある彼女たちを見ていると、親に養われて反抗してばかりいた自分が急に恥ずかしくなってきた。
*
昼の休憩時間。
私は夏菜子ちゃんと夏菜子のおばちゃんがむすんでくれた麦飯を食べた。
その時間、ハナちゃんは近くの川に行くとか何かで休憩時間が終わるまで戻って来なかった。
夏菜子ちゃんと私は女学校の女の子達が集まっている体育館の隣の階段で昼食を並んで食べた。
ここは大木の木陰になっていて涼しい。
「ミラちゃんもう、食べないの?」
「うん。ごめんね。今、食欲がない……」
夏菜子ちゃんは平気みたいだけど、私はコンニャクの独特の粘っこい匂いにまだ慣れなくて食欲をなくし、麦飯を半分残し項垂れていた。
帰ったら残した麦飯はお茶漬けにしてくれるそうだ。
夏菜子ちゃんは私達がいる教室とは違う別の棟で千代さんと同じ作業をしているらしい。
午前中の作業を終えた夏菜子ちゃんからの身体からはコンニャクと汗の混じった複雑な匂いがした。
*
夏菜子ちゃんの話では年上の女の子達の多くは女学校に併設されている室内プールに集められて“和紙を丸く張り合わせる作業”をしているらしい。
その接着剤の匂いは私達が使うコンニャクの粘り気のある臭いよりも強烈な酸性の臭いだった。
夏菜子ちゃんの話では、この学校では人の出入りはあるが大体100人くらいの若い女性が毎日、働いているそうだ。
(14歳から18歳って遊びたい盛りなのに……。休日返上して8時間以上も重労働。ひいおばあちゃんの時代の人達って大変だったんだなぁ……)
カーン カーン カーン
そんなこんな考えているうちに昼休憩の終わりを知らせる節が青い空の下に無情にも鳴り響いた。
「さぁ、午後もがんばるぞ!!」
夏菜子ちゃんはそう言い残すと室内プールの方へ急いで駆けていってしまった。
*
ハナちゃんは私が皆より一足先に教室へと戻ると一人、黙々と和紙を貼り合わせる今日の自分のノルマを熟していた。
「ハナちゃん。お昼食べるの早いね。ごめんね。私、足手まといになってて……」
「気にすることないよ。それより憲兵さんが来る前に作業始めた方がええ」
ハナちゃんはそう言いながらコンニャク糊を指につけ、和紙を素早く且つ丁寧に貼り合わせていった。
その姿はまるで何かの伝統工芸の職人さながらである。
「ねぇ、これ何作っているの?」
「……」
「えっと、ごめんなさい……」
私は教室に漂う熱気と気だるさ。
それに二人きりの沈黙の時間に耐えかね、会話を切り出したが失敗だったようだ。
グ ギュルル……
ハナちゃんのお腹から力ない悲鳴が教室に木霊する。
お腹が小さくなる度に顔を紅くするハナちゃんは、私の質問を聞いても言葉を返してはくれない。
「ごめんなさい……」
「……あんたさんが謝ることないね。私も何を作っとるか、そんなもん知らん。だけど、これはお国に必要なもんだ!!」
ハナちゃんはそう言うとまた固くなった指先にコンニャク糊を付け、空気が入らないように手早く和紙を貼り合わせていった。
私もハナちゃんに迷惑をかけないように時間な許す限り、掌が赤く擦り切れるまで和紙を次々に貼り合わせていった。
そんな中ハナちゃんは午後の作業中、お腹が鳴るたびに何度も自分のお腹を叩いて音を止めていた。
ハナちゃんだけじゃない。
教室のあちらこちらに国民学校出身の女の子の中には、痩せた子や青い顔をした子達がたくさんいた。
(川に行っていたのは空腹を紛らわせる為に水を飲みに行っていたのかも……)
私はその日、作業が終わるまでハナちゃんの継ぎ接ぎだらけのモンペを横目で見ながら、あること、ないことを悶々と考えてしまっていた。
*
「ふぅ~。やっと解放された」
私は勤労奉仕終了のベルの後。
汗だくになった白シャツの下から生暖かい空気を入れ、灰色の空を見上げると外の新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
(スマホもクーラーもない。これはやっぱり、ひいばあちゃんが生きていた時代と同じだなぁ……。景色はキレイだけど……何か物足りない時代……)
私はふと、学校から見える青い山を見上げながら鳥居の向こう側の世界に残してきた家族の事を思い出した。
(ママ達元気かな?パパ、連絡もなしに家を開けた事怒ってるよね。ジイジとバアバは葬儀には来るって言ってたけど足、大丈夫かな?とくにひいおばあちゃんの息子のジイジは一人っ子で頑固で口うるさいからパパとケンカしないように私が見張ってる必要があると思っていたんだけど……)
私はみかん色の空を飛び違う烏の下。
夏菜子ちゃんと二人で昨日、彼女と出会ったあの鳥居を目指し小山の山頂を目指し山道を登り始めた。
夏菜子ちゃんは勤労奉仕の後、あのお社にお参りする事を日課としているらしい。
「夏菜子ちゃんは何であのお社に行くの?」
私は山登りの途中、ふと湧いた疑問を夏菜子ちゃんに投げかけてみた。
すると夏菜子ちゃんは、
「ふふっ。ミラちゃん。あのお社にはな、古くからキツネの神様がいらっしゃるんよ。神様はな、100回お祈りに来たらな、一生で1回だけ願いを叶えてくれるらしいんよ」
そう言うと夏菜子ちゃんは西の方角を見て眩しそうに目を細め手で太陽の光を遮って話を続けた。
「私はな。キツネの神様に“戦争のない世の中を作ってください”って毎日お願いしとるん」
夏菜子ちゃんはそう言うと少し歩調を緩め昨日、花を差し替えていた家の門を少し高いところから見下ろした。
「戦争のない世界?」
「うん。戦争のない世界」
舗装されていない小石だらけの山道をスタスタ登る夏菜子ちゃんの後を追う私の足にはめられた草履から出た小指は、歩く度に小石が当たり少し痛い。
女学校の人たちの中には千代さんのようにブーツのような靴を履いている子も稀にいたがこの時代は皆、大抵は草履だそうだ。
(本当に原始的な時代……)
一瞬そう思ったが、でも今はそんな事、私にはどうでもいい事だった。
また、あの鳥居に行ける機会に恵まれた。
今日は戻れるかも。
私はそんな淡い期待を持ちながら急ぎ足で山を這うようにして登っていった。
田舎の生暖かい夏の夕べりの風は、ほのかに甘い優しい香りを運んで来る。
そしてその風が運んでくる空気は、今日は“何時もと違う日になるよ”そんな暗示をしているよう不思議な甘い香りを纏っていた。
翌朝。夏菜子ちゃんは現代ともそんなに違わない木造2階建ての校舎の中を案内してくれた。
そして最後に階段を登ってすぐ突き当たりにある2階のとある教室の前で立ち止まると、誇らしげに胸を張ると私に、こう言った。
「ミラちゃん。ここが私らの戦場。秘密兵器を造っとる工場や!」
*
昨晩、私と夏菜子ちゃんは制服の自慢話の後、二人とも眠むることなく朝までガールズトークを繰り広げた。
夏菜子ちゃんの話では夏菜子ちゃんは今、父方のおばあちゃんの家に“疎開”で来ているらしい。
元住んでいた家は今、借家に出していて出身は三河という名前の場所。
そこは海沿いの漁師町らしかった。
お父さんとお母さんは恋愛結婚。
一人っ子のお母さんの所へこちらも一人っ子のお父さんは、おばあちゃんからの勘当覚悟で婿養子に行ったらしかった。
だが、母方の相次ぐ身内の不幸で夏菜子ちゃんはお母さんと死に別れた。
それで去年、ここに疎開してきたらしい……。
私も簡単な身の上は話したのだけれど、夏菜子ちゃんの中では今でも私は“身売りされそうになったかわいそうな女の子”という設定にてなっているようだ。
夏菜子ちゃんの説得のおかげで私は、夏菜子ちゃんのおばあちゃんに畑に面した夏菜子ちゃんの隣の部屋を快く貸してもらえることになった。
そして居候の私は戦争が終わるその日まで。
朝はおばあちゃんの商いを手伝う傍ら、学徒勤労動員の一員として疎開先から10分程の女子校で“勤労奉仕”をすることになったのだった。
そう昨晩、私は元の世界に帰るチャンスを掴む為、この世界で生き延びる、という覚悟を決めたのだった。
*
今日は勤労奉仕、初出勤の日。
空は曇り空。
太陽の光に当たると瞳が青色に変わってしまう私にとっては、室内の目張りされた薄暗い場所での勤労奉仕は有難い話だった。
“勤労奉仕”とは、10代くらいの若者が学校で勉強する代わりに戦争で兵隊さんの使う武器や衣類を作る事を言うらしい。
この時代初等科までは、主に勤労奉仕の合間に、読み書き、国史、地理、体育それに修身という教科を学ぶ。
初等科にも勤労奉仕はあり、最近は校庭を畑にした場所で農作業をして、学校にいる大半の時間を過ごしている姿をよく見るようだ。
この時代に勿論、給食はない……。
*
夏菜子ちゃんの通っている女学校は初等科、中等科、高等科があるエレベーター式の女学校らしい。
初等科から高等科まで、全部合わせて500人くらいの児童・生徒が在籍しているようだが、高等科の生徒は今現在、半分くらいしか学校に通っていない。
もう半分の生徒は、街の方の企業での勤労奉仕に駆り出されているそうだ。
最近は女学校でも“疎開”する人が多くなり、人手が足らず私が入るクラスでは半分がこの女学校の生徒ではなく“国民学校出身者”が勤労奉仕に来ているらしかった。
ガラ ガラ ガラ……
「まだ、早いから誰も教室に来てないね。まぁ、ええわ。ミラちゃん、これが私らの勤労奉仕や!!」
夏菜子ちゃんはそう言うと部屋の中央に置かれた机の前でめい一杯に手を広げた。
「何だか色々とすごいね……。私の想像以上……」
私は昨晩、夜通し夏菜子ちゃんから大まかな作業内容は聞いていた。
和紙を5枚、糊で貼り合わせる単純作業。
だだそれだけという話だった。
だが、実際は思っていた以上に重労働のようだ。
教室の中は粘り気のある長芋と雨上がりの土の入り混じったような臭いが充満していて外の空気に比べ、どっしりと重い。
そして窓には目張りがされ、4つの机が横に1列にくっつけられている。
教室に入ると、全ての机の上に裾だけ白い灰色のまだらな布が掛けられていた。
多分、布は机が汚れないようにテーブルクロスの代わりになる物なんだろうけど……。
教室の臭いを嗅いだだけなのに、この鈍い頭痛。
どうやら今、私は今晩辺り悪夢にうなされるフラグが立ったらしい。
(こんな所で1日過ごすとか地獄過ぎる……)
そうこう考えている間に教室の入口に私と同じくらいの年頃の女の子達が、紺色のモンペに白いシャツ。
それにお揃いの鉢巻をして黄色い声をあげながらぞろぞろと集まってきた。
皆、腕にお揃いの腕章を付けている。
昨晩、夏菜子ちゃんのおばあちゃんが旧友である女学校の女先生に私の事を話してくれたおかげで、私は難なく学校に出入りできるようになっていた。
だが、共学出身の私には夏菜子ちゃんから聞いた女子校の独特の雰囲気に慣れることが出来るのか、不安もある。
トンッ!
「おはよう!聞いたか、夏菜子さん。昨日の米兵の話!!」
「おはよう!ハナちゃん」
私達が教室の端で突っ立っているとは、小柄な三つ編みの女の子が夏菜子ちゃんの隣に立ち、朝から元気よく挨拶を交わしてきた。
そして女の子は、教室の1番後ろの右端の机の前に置かれたイスに座って話を続ける。
私の存在は今は眼中にないような話しぶりだ。
「今朝聞いた、女学校組の話ではな。昨日の昼過ぎ、名古屋の真ん中に偵察に来たアメリカの飛行機が学校の裏山ん中に落っこちたんだと。そんでな。昨晩、2人の若い金髪のアメリカ兵が血だらけで隣村の憲兵さんにしょっぴかれて行くのを稽古から帰る途中に千代さんが見たそうじゃ……」
女の子はそう言うと、学校に来る途中に仲の良い女学生から聞いたばかりだという話を、さも自分が見聞きしてきたかのように身振り手振りを加えて大袈裟に語った。
「墜落した爆撃機は3機。3機じゃと。じゃとしたらまだ、この辺の山ん中に米兵が隠れてとるかもしれんな。爆撃機は3機だからな。1人操縦士が足らん。おそがいなぁ……。米兵っていうのは背が高くて天狗みたいに鼻が長くて肌が白いんじゃろ?ん……?」
女の子はうわさ話を早口で全て話し終えると先程の恐ろしい米兵の話など忘れてしまったかのように、頬を紅くして好奇心に満ちた目で私の方を見た。
「夏菜子さん!誰かね。その子!!」
女の子は、しばらく私の紺の手ぬぐいを巻いた頭から足先まで舐めるようにして見ていた。
そんな女の子に夏菜子ちゃんは笑って、こう言った。
「やっと気づいたかね。あんね、ハナちゃん。この子は田中ミラちゃん。私の遠い遠い親戚の娘や。ほら、右耳の所。おんなじ所に黒子がある。これが親戚の証拠じゃ。昨日、東京から疎開してきたんよ。ここいらじゃ、まだ知り合いもいないから仲良くしてな」
そう言うと夏菜子ちゃんは私の背を押し、ハナちゃんの前に私を突き出した。
黒子は昨日、夏菜子ちゃんと内湯に入った時に偶然見つけたものだ。
私は鳥居の向こう側の世界では、その黒子の事をピアスシールをする時に浮き出るので疎ましく思っていた。
なのでコンシーラーでいつも消していたのだが今、はじめて体のいい言い訳に使えた黒子の存在に感謝をした。
「よ、よろしくお願いします……」
「はい、よろしく。あんたいくつね?私は14!」
ハナちゃんは、そう言うと私の隣に立ち、少し背伸びをした。
「私も14です」
「そうね。じゃぁ、敬語はなしじゃ。ミラちゃんは東京の子かね?尾張の訛りがないじゃ。東京の女学校通ってたんか?」
「女学校?私は今、中学生だよ」
「中学?中学かね。中等科じゃのうて?女が中学なんて聞いたこともないな。じゃぁ、お金持ちの家の子じゃ。どおりで日焼けしとらん訳じゃ。私は国民学校の初等部しか出とらんよ。勤労奉仕じゃなきゃこんな金持ちのお嬢様の通う校舎には入れんのよ。まぁ、あっちの島の簪を差した団体さんは、この学校に通っとるお嬢様方なんやけんど……」
ハナちゃんは早口でそう説明すると、入り口から来た何かから逃げるように急いで机の下にさっと隠れた。
カツッ カツッ カツッ
夏菜子ちゃんの影からブーツの踵を鳴らし近づいてくる人型の気配がする。
私が振り向こうとした瞬間、気配の主は威圧的な口調で自ら口火を切ってきた。
「あなた見ない顔ね?最近、疎開して来た人か?」
赤い派手な生地に百合柄のモンペ姿。
それに艶のある黒髪を一つにまとめ、赤珊瑚《あかさんご》の簪をした頭。
そして私より少し背の高い細身の女性は、私の前に立つと腰に手を当て更に威圧的な目つきで品定めするように私に質問を切り出してきた。
「あっ……。はい!私、田中ミラと言います。今は夏菜子さんの家に居候……じゃなくて、疎開させて頂いています。東京の湊中学2年生。図書委員です。部活は水泳を……」
恐る恐る詰まりながら話す私に対し、女性は初め私を見下すように見ていた。
だが、私が“中学”と言うワードを出した辺りから明らかに目の色を変えて私の体を上から下へと舐め回すように見始めた。そして、
「東京!中学!?そ、そうね……。夏菜子さんの親戚……。じゃ、私からの餞別よ。友達になる子は選んだ方が良いわ。訛りの多い子らは頭が悪くて匂いも臭くて敵わないわよ。友達はきちんと選ばんとね。フフッ。それじゃ、ごきげんよう」
女性はそう言うと机の下に隠れた小さな頭を見て目を細め、睨みつけると女学校出身の少女達の待つ古巣へと帰っていった。
「……な、何なの?あの人!?」
私は女性が背を向けると小さな声でハナちゃんは、こう呟いた。
「ミラちゃん。あん人は、もう行ったかね。あ~。おそがかった。私、千代さん、苦手じゃ。すらっとして顔も美人じゃけど、自分が師範学校に通ってたから言うて国民学校出の私らの事いつも馬鹿にしてくるんよ。いつも話す時は命令口調じゃ……」
そう言い終えるとハナちゃんはカサカサの厚くなった両掌を私に見せて、こう言った。
「でもな、ミラちゃん。この前、国民学校出の私らがな、ここの女学校生さんらを抑えて勤労奉仕でな1等賞取ったんよ。そしたらな、ここの先生が賞状くれたん。今度見せたげるわ。あんたも賞状貰えるよう頑張りんよ!!」
ハナちゃんはそう言うと私の手を取り、私を黄色い和紙と独特の粘り気のある灰色の液体の置かれた教壇の前まで連れて行った。
教壇の前は曇の日だから、だろうか。
目張りをされたガラス窓の教室は、日の光が届かず何となく薄暗い。
「ミラちゃん。これが私らの仕事じゃ。こうやってな、5枚の和紙をこの糊で隙間なく貼り付けるんじゃ。糊は厚すぎても薄すぎてもいかん」
ハナちゃんはそう言うと液体を自分の作業所まで運んで行き、ボロボロの刷毛で少し掬うと、2枚の和紙を器用に重ねていった。
「ねぇ……ハナちゃん。この糊は何で出来ているの?」
私は不思議な臭いする灰色の液体の器を手に取り、ハナちゃんの横顔に顔を近づけ、話しかけた。
するとハナちゃんは骨が見えそうな程薄くなった右手の人差し指に液体を取り、黄ばんだ歯を見せ笑うと当たり前の事ように、こう言った。
「ん?これか。これは、コンニャク芋じゃ。米は兵隊さんのご飯じゃき、今はコンニャク芋で糊を作っとる。最近では東京でもコンニャクは食べられんじゃろ?」
ハナちゃんはそう言うと自分の場所だと言う教室の1番前の席の隣を快く空け、私が作業に慣れるまで根気強く貼り方のコツ教えてくれた。
空気が入らないように2枚の和紙を素早くコンニャク糊で貼りつける。
糊は薄すぎでも厚すぎてもいけない。
そして同じ作業を繰り返し5枚の和紙を貼り合わせたら、空いている所に置いてしっかりと乾かす……。
(な~んだ。思っていたよりも簡単そう……)
私は第一印象、ハナちゃんの手際の良い作業を隣で見ながらそう思っていた。
「じゃ、ミラちゃんもやってみて」
「うん!」
私はハナちゃんの隣にイスを持っていきハナちゃんに言われた通りに和紙を貼り付けようとした。だが、
「ミラちゃん糊つけすぎじゃ。それに……ここは薄すぎる。満遍なく均一に貼り付けんと。いや、じゃからな……」
この日の午前。
私はこの単純作業を午前中1セットも完成させられなかった。
*
初夏の冷房器具のない狭い教室での単純作業は、文字通り過酷なものだった。
キメの細かい黄ばんだ和紙が、手汗を何度も吸い取り、汗を吸い取った瞬間から乾いていった。
そして指先の感覚が麻痺するまで和紙を貼り合わせるという作業は、続いた。
なぜ、教室の窓ガラスに薄い和紙を貼るのか。
なぜ、こんなに蒸し暑いのに、誰も窓を開けようと言わないのか。
なぜ、和紙を何枚も貼り付けるのがお国の為になるのか……。
私は何も分からないまま私の午前中の作業を終えることになった。
勤労奉仕は、基本的に朝7時から夕方4時頃まで。
季節によって多少前後するらしい。
(夏菜子ちゃんがここを“戦場”って言った意味がわかる気がする……)
この世界では、暑さに負け水筒の水を飲むのも厠に行くのも壁際で睨みをきかせてくる軍服の男性の許可がいるようだった。
私は初めは囚人になった気がして緊張し、手が思う様に動かせなかった。
しかし、午前中の作業も終盤に差し掛かり作業が段々と慣れてくると、この厳しすぎる単純作業に嫌気が差してきた。
こんなことをしても私には1円も入らない。
それに気づいてしまったからだ。
*
女学校の校舎には、14歳から18歳くらいまでの少女達が“国民学校出”も“女学校の生徒”も同じようにそれぞれ与えられた仕事を淡々と熟しているようだった。
そしてそれは、それぞれが分業制。
主な仕事は和紙を貼りける作業らしいが、他の教室では弾丸を入れる袋を作ったり、落下傘の紐を切ったりしている人もいると聞いた。
この“勤労奉仕”の仕事内容にに文句を言う生徒など一人もいない。
この子達は今という時代を必死に生きているんだ。
額に汗をかき、必死に自分に与えられた仕事と向き合ってある彼女たちを見ていると、親に養われて反抗してばかりいた自分が急に恥ずかしくなってきた。
*
昼の休憩時間。
私は夏菜子ちゃんと夏菜子のおばちゃんがむすんでくれた麦飯を食べた。
その時間、ハナちゃんは近くの川に行くとか何かで休憩時間が終わるまで戻って来なかった。
夏菜子ちゃんと私は女学校の女の子達が集まっている体育館の隣の階段で昼食を並んで食べた。
ここは大木の木陰になっていて涼しい。
「ミラちゃんもう、食べないの?」
「うん。ごめんね。今、食欲がない……」
夏菜子ちゃんは平気みたいだけど、私はコンニャクの独特の粘っこい匂いにまだ慣れなくて食欲をなくし、麦飯を半分残し項垂れていた。
帰ったら残した麦飯はお茶漬けにしてくれるそうだ。
夏菜子ちゃんは私達がいる教室とは違う別の棟で千代さんと同じ作業をしているらしい。
午前中の作業を終えた夏菜子ちゃんからの身体からはコンニャクと汗の混じった複雑な匂いがした。
*
夏菜子ちゃんの話では年上の女の子達の多くは女学校に併設されている室内プールに集められて“和紙を丸く張り合わせる作業”をしているらしい。
その接着剤の匂いは私達が使うコンニャクの粘り気のある臭いよりも強烈な酸性の臭いだった。
夏菜子ちゃんの話では、この学校では人の出入りはあるが大体100人くらいの若い女性が毎日、働いているそうだ。
(14歳から18歳って遊びたい盛りなのに……。休日返上して8時間以上も重労働。ひいおばあちゃんの時代の人達って大変だったんだなぁ……)
カーン カーン カーン
そんなこんな考えているうちに昼休憩の終わりを知らせる節が青い空の下に無情にも鳴り響いた。
「さぁ、午後もがんばるぞ!!」
夏菜子ちゃんはそう言い残すと室内プールの方へ急いで駆けていってしまった。
*
ハナちゃんは私が皆より一足先に教室へと戻ると一人、黙々と和紙を貼り合わせる今日の自分のノルマを熟していた。
「ハナちゃん。お昼食べるの早いね。ごめんね。私、足手まといになってて……」
「気にすることないよ。それより憲兵さんが来る前に作業始めた方がええ」
ハナちゃんはそう言いながらコンニャク糊を指につけ、和紙を素早く且つ丁寧に貼り合わせていった。
その姿はまるで何かの伝統工芸の職人さながらである。
「ねぇ、これ何作っているの?」
「……」
「えっと、ごめんなさい……」
私は教室に漂う熱気と気だるさ。
それに二人きりの沈黙の時間に耐えかね、会話を切り出したが失敗だったようだ。
グ ギュルル……
ハナちゃんのお腹から力ない悲鳴が教室に木霊する。
お腹が小さくなる度に顔を紅くするハナちゃんは、私の質問を聞いても言葉を返してはくれない。
「ごめんなさい……」
「……あんたさんが謝ることないね。私も何を作っとるか、そんなもん知らん。だけど、これはお国に必要なもんだ!!」
ハナちゃんはそう言うとまた固くなった指先にコンニャク糊を付け、空気が入らないように手早く和紙を貼り合わせていった。
私もハナちゃんに迷惑をかけないように時間な許す限り、掌が赤く擦り切れるまで和紙を次々に貼り合わせていった。
そんな中ハナちゃんは午後の作業中、お腹が鳴るたびに何度も自分のお腹を叩いて音を止めていた。
ハナちゃんだけじゃない。
教室のあちらこちらに国民学校出身の女の子の中には、痩せた子や青い顔をした子達がたくさんいた。
(川に行っていたのは空腹を紛らわせる為に水を飲みに行っていたのかも……)
私はその日、作業が終わるまでハナちゃんの継ぎ接ぎだらけのモンペを横目で見ながら、あること、ないことを悶々と考えてしまっていた。
*
「ふぅ~。やっと解放された」
私は勤労奉仕終了のベルの後。
汗だくになった白シャツの下から生暖かい空気を入れ、灰色の空を見上げると外の新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
(スマホもクーラーもない。これはやっぱり、ひいばあちゃんが生きていた時代と同じだなぁ……。景色はキレイだけど……何か物足りない時代……)
私はふと、学校から見える青い山を見上げながら鳥居の向こう側の世界に残してきた家族の事を思い出した。
(ママ達元気かな?パパ、連絡もなしに家を開けた事怒ってるよね。ジイジとバアバは葬儀には来るって言ってたけど足、大丈夫かな?とくにひいおばあちゃんの息子のジイジは一人っ子で頑固で口うるさいからパパとケンカしないように私が見張ってる必要があると思っていたんだけど……)
私はみかん色の空を飛び違う烏の下。
夏菜子ちゃんと二人で昨日、彼女と出会ったあの鳥居を目指し小山の山頂を目指し山道を登り始めた。
夏菜子ちゃんは勤労奉仕の後、あのお社にお参りする事を日課としているらしい。
「夏菜子ちゃんは何であのお社に行くの?」
私は山登りの途中、ふと湧いた疑問を夏菜子ちゃんに投げかけてみた。
すると夏菜子ちゃんは、
「ふふっ。ミラちゃん。あのお社にはな、古くからキツネの神様がいらっしゃるんよ。神様はな、100回お祈りに来たらな、一生で1回だけ願いを叶えてくれるらしいんよ」
そう言うと夏菜子ちゃんは西の方角を見て眩しそうに目を細め手で太陽の光を遮って話を続けた。
「私はな。キツネの神様に“戦争のない世の中を作ってください”って毎日お願いしとるん」
夏菜子ちゃんはそう言うと少し歩調を緩め昨日、花を差し替えていた家の門を少し高いところから見下ろした。
「戦争のない世界?」
「うん。戦争のない世界」
舗装されていない小石だらけの山道をスタスタ登る夏菜子ちゃんの後を追う私の足にはめられた草履から出た小指は、歩く度に小石が当たり少し痛い。
女学校の人たちの中には千代さんのようにブーツのような靴を履いている子も稀にいたがこの時代は皆、大抵は草履だそうだ。
(本当に原始的な時代……)
一瞬そう思ったが、でも今はそんな事、私にはどうでもいい事だった。
また、あの鳥居に行ける機会に恵まれた。
今日は戻れるかも。
私はそんな淡い期待を持ちながら急ぎ足で山を這うようにして登っていった。
田舎の生暖かい夏の夕べりの風は、ほのかに甘い優しい香りを運んで来る。
そしてその風が運んでくる空気は、今日は“何時もと違う日になるよ”そんな暗示をしているよう不思議な甘い香りを纏っていた。