この想いの名前を僕たちはまだ知らない
6、青い瞳
「ミラちゃん。早う。早う。そんなにゆっくりと登っとると日が暮れちゃうよ」
「待って。夏菜子ちゃん……。私、運動音痴なの。鉄棒で逆上がりもできないし、跳び箱も全く飛べない。こんな険しい山登りは私には無理だよ……」
私は夏菜子ちゃんの後に続き山を登りながら、夏菜子ちゃんの急かす声に対して、こう返事した。
「ってかお社までの石段の数、昨日よりも増えてない?……」
タイムスリップ2日目の夕方。
勤労奉仕終了後。
私と夏菜子ちゃんは二人、夏菜子ちゃんのおばあちゃんが昨晩編んでくれた草鞋を履き、昨日私がタイムスリップして来たお社を目指し小山を登っていた。
「なんね。ミラちゃん。石段が昨日、今日で増える訳なかろう?ほら、お社まで後ほんの少しよ。頑張りん」
私は軽快な足取りで前を登る夏菜子ちゃんの背を目で追いながら、彼女に十数歩遅れ、石段を1段1段ゆっくりと噛みしめるように登っていった。
体力測定万年C判定の私には、この階段を登りきることはかなり厳しい。
もちろんこの時代の石段には手摺はない。
足を踏み外したら下に真っ逆さま。
一貫の終わりだ。
(こんな事は今日限りにしたい。今日こそ帰れるといいなぁ……)
私はそんな淡い期待を抱えながら震える右膝を庇い、無言でひたすらに石段という名ばかりの獣道を登っていくことになったのだった。
*
お社に行く道は、男坂と女坂とがある。
真っ直ぐ伸びた石段を敷いた男坂は歩く距離は短いが、山道を蛇行していく女坂に比べ傾斜が激しい。
今は小山の8合目。
全体重が膝にのしかかる拷問のような重みを脚に感じながら私は上を見上げた。
立ち止まり、ふと下界に見た街の景色は夏色の濃い緑に包まれている。
そしてこの場所は太陽が傾いたこの時間は、夏なのに仄かに涼しい風が吹き上げてきた。
一瞬の癒やし。
山頂にそびえ立つ赤い鳥居をチラつかせるお社のある山頂は、街を見下ろすようにして何とも厳かな空気に包まれて見える。
遠くに見える“名古屋の街”だという黒い建物の塊は、所々灰色の煙を吐き出している。
遠目からは灰色の靄に包まれた街は、何だか悲壮感が漂っているように私の瞳に映った。
(最近、アメリカ軍が毎日偵察に来ているらしいから、あそこに明日、爆弾が落ちるかもしれない。それなのに逃げることを選択しない人達はどんな事を考えているのだろう?逃げたくても逃げられないのだとしたら……)
そんなことを考えると私の胸は小さく軋んだ。
(私に親切にしてくれた、この時代の人達がみんな戦争を生き延びる事ができるようにお社に着いたらキツネ様にお祈りをしよう……)
そんなことを考えながら、私は山頂から私にエールを送る夏菜子ちゃんの元まで最後の力を振り絞り、急ぎ登りきることにした。
*
この後も9合目までは順調だった私もラストスパートに差し掛かると、無言で下に見える女学校の小さな畑と頂上に立っている夏菜子ちゃんを交互に見ながら登るのが精一杯になっていた。
そしてラストスパート。
頂上に立つ夏菜子ちゃんが「ここからの景色が街で1番綺麗よ」と言った辺りから私は周りの景色など見る余裕など1ミリもなくなった。
山頂の特有の涼しい空気とは反対に石段を登るたび、私の額からは湯気のような汗が吹き出してくる。そして、
「と、到着……?」
「よし、着いた。ミラちゃん。よく頑張ったね。ほら、見てみ。今日はみかん色の空と私の街が綺麗に見えるよ。本当に綺麗だね……」
夏菜子ちゃんはそう言うとすぐに踵を返して膝をつき、お社の前で柏を2回打つとキツネ様に深くお辞儀をした。
そして手早くお社の近くの石の花瓶に水筒の水を入れ、しなびた野菊の花を新しく持ってきた紫色の小さな野草へと挿し変えた。
お社の両脇にいるキツネ様は今日も昨日と同じで、相も変わらずニヒルな笑いを浮かべて私を見下していた。
この時間、こんな辺鄙な場所に私達以外の人影はない。
パン パン
「さぁ、帰ろうか。もうすぐ日も沈むからね……」
夏菜子ちゃんは短いお祈りをすると私の方を振り返り下山する為、石段に足をかけた。しかし、次の瞬間……
ガサガサ ガサガサ……
「きゃっ!」
私が夏菜子ちゃんの隙をつき、キツネの神様のお社の扉に手を掛けていたその時。
私の後ろにいるはずの夏菜子ちゃんが藪の方を見て小さく悲鳴をあげたのだ。
「夏菜子ちゃん!?どうしたの?」
私は石のよう固まった夏菜子ちゃんの後ろから恐る恐る、石段の横にある大きな藪の方をじっと覗きこんだ。
「あ、青い瞳だった。はじめてミラちゃんに会った時と同じ青色の瞳……」
夏菜子ちゃんはそう言い残すと藪の中へ私を置いて一目散に走って行った。
「え!?ちょっと待って!夏菜子ちゃん……。キツネ神様、私未来に帰り……。あ、ちょと。夏菜子ちゃん待ってよ!」
私もキツネの神様に適当に柏を打ち、お参りをした後。
急いで夏菜子ちゃんの後を追った。
ガサ ガサ ガサ……
夏菜子ちゃんを追って入った藪の中はクモの巣や小枝が突き出ていて思うように前へは進めない。
ガサ ガサ ガサ……
そんな中でも夏菜子ちゃんは前を見据え無我夢中というように林の中へとズンズン突き進んで行った。
「夏菜子ちゃん。ちょっと。待って、待ってよ!夏菜子ちゃん……」
私は必死に彼女の背を見失わないように走り続けた。そして、
「ミラちゃん、見て!アレ!!」
突然、拓けた場所にある四角い井戸の前で夏菜子ちゃんは走るのを止め、足を止めた。
辿り着いたのは回り回ってお社の隣にある空井戸の前だった。
ひいおばあちゃんの家にあるのと同じ形の四角い空井戸だ。
「待って!夏菜子ちゃん。早いよ……。そんな走っても追いつかな、い?」
私がやっとのことで追いついた夏菜子ちゃんの横顔は、さっき悲鳴を上げた時と同じように開いた口に手を当て、少し上の方を見上げながら固まっていた。
「夏菜子ちゃん!大丈夫!?」
私は夏菜子ちゃんに近づき、彼女の目線の先を追ってみると彼女の目の前には泥だらけの迷彩色の軍服を着た背の高い若い男性が木の側に立っているのだと、分かった。
彫りの深い顔。
白い肌。
日本人ではない。
そして、すぐに彼は諦めたように大木の影から太陽の下へとゆっくりと出てきた。
私達はその瞬間、彼が私と同じ青い瞳。
そして金色の髪を持つ青年だと分かった。
(外国の人だ。どこの国の人だろう?)
私がそんなことを口出さずに一人、考えていると、背の高い男性のお腹のグルグルと苦しげに鳴る音が辺りに鳴り響いた。
ギュルルルル……
男性は私達が彼を見ていたからだろうか。
彼はお腹が鳴ると少し恥ずかしそうに身をかがめ後ろを向いた。
「……」
「……ミラちゃん、今日、お昼に食べれんかった麦飯あるかね?」
「えっ?」
夏菜子ちゃんは射るような目で男性を見つめたまま目を離さず、そう言うと私の鞄に手を伸ばしてきた。
「あ、あるよ……」
私は昨日、今日とは違う夏菜子ちゃんの真剣な表情に物怖じし、思わず半分かけの麦飯の入った包みを差し出した。
「ありがとう。これ、この異人さんにあげてくれんかね。彼、今お腹空いとるみたい……」
夏菜子ちゃんはそう言うと、私の返事も聞かず彼の前に麦飯の入った包みを突き出した。
優しい言葉とは裏腹に彼女の手は恐怖で汗ばみ、小刻みに揺れている。
困惑する男性に夏菜子ちゃんは、麦飯を“異人さん”と呼んだ男性のお腹の前に再度、突き出しこう言った。
「ほれ、水とおむすび。おむすび半分やけど……。お腹空いとるんでしょ?食べりん」
夏菜子ちゃんはそう言うと青い瞳の男性に少しずつ、にじり寄っていった。
男性は夏菜子ちゃんの言葉が分からないようだ。
首を傾げ不安そうに夏菜子ちゃんの突き出した食べ物を見下ろしている。
「早う!」
バサッ
夏菜子ちゃんのあまりの威圧的な言い方に男性は夏菜子ちゃんから食べ物を受け取った。
だが、男性は手渡されたおにぎりと水筒に目を落とし、どうしていいか分からないようで、しばらく夏菜子ちゃんと同じように固まっていた。
「早う食べりん!」
夏菜子ちゃんは、言葉の分からないであろう男性に向かい少し怒ったような顔をして催促をした。
「……」
「……」
二人の間に生暖かい沈黙の時間が流れていく。
短い合間であったが二人の作り出していた微妙な空気に耐えられず、私は思わず間に入り取り、とりえず英語で通訳をしてみることにした。
「え~っと。This is a rice ball and water.Please eat these.Do you understand English?(おにぎりと水です。食べてください。私の言ってること分かりますか?)」
私はまずは簡単な英語で通訳を始めた。
「……ミラちゃん。えっ!何!?」
「……What!?」
そして私は初めての通訳の後。
二人から同時に射るような視線を向けられ恐怖で、彼らと同じように固まった。
(二人とも怖い……。でもWhat?か。じゃぁ、やっぱり彼はアメリカ人だ。じゃあ、どうにか会話はできるかも……)
ぐ~ ぎゅるる……
「……Th、Thank you!」
彼は私と夏菜子ちゃんにそれぞれ、頭を下げると天を見上げた。
そして胸の前で十字を切ると地面に直に胡座《あぐら》をかき、半分かけのおむすびを一口で平らげた。
私の半分かけのおにぎりはあっという間に彼のお腹の中へと消えていった。
「……」
「……」
「……」
そしてまた、三人の間に短い沈黙の時が流れる。
その沈黙のせきを切るように夏菜子ちゃんは男性の前に座り込むと、彼の瞳をじっと覗き込んだ。
私の時と同じだ。
「本当に綺麗な瞳。ブルーや。私の生まれ故郷の三河の海や空みたいじゃ。え~っと。異人さん。私達は明日も同じ時間に来ます。じゃぁ、また……」
夏菜子ちゃんは、そう言うと自分の分の水筒を地面に置いて元来た男坂の方へ帰って行こうとした。
「夏菜子ちゃん、待って!私、帰りは女坂が、いいんだけど!えっと、異人さん。……I'll come again tomorrow.(私達は明日また来ます)」
先を急ぐ夏菜子ちゃんは、名前も知らない私と同じ青い瞳を持つ異国の男性を藪の中に置き去りにしていった。
そしてあの日、私は汗ばむ夏菜子ちゃんの背を無我夢中で追いかけ家に帰る事になったのだった。
*
夏菜子ちゃんはその日の帰路。
私が何を話しかけても口を聞いてくれなかった。
怒っているのか。
それとも何か言いたい事を我慢しているのか。
それは私には分からない。
だけど、彼女のその時の横顔は戦争で青春をどこかに置き忘れてしまった女の子が青春を取り戻した、そんな幸せそうな乙女の顔をしていた気がした。
「待って。夏菜子ちゃん……。私、運動音痴なの。鉄棒で逆上がりもできないし、跳び箱も全く飛べない。こんな険しい山登りは私には無理だよ……」
私は夏菜子ちゃんの後に続き山を登りながら、夏菜子ちゃんの急かす声に対して、こう返事した。
「ってかお社までの石段の数、昨日よりも増えてない?……」
タイムスリップ2日目の夕方。
勤労奉仕終了後。
私と夏菜子ちゃんは二人、夏菜子ちゃんのおばあちゃんが昨晩編んでくれた草鞋を履き、昨日私がタイムスリップして来たお社を目指し小山を登っていた。
「なんね。ミラちゃん。石段が昨日、今日で増える訳なかろう?ほら、お社まで後ほんの少しよ。頑張りん」
私は軽快な足取りで前を登る夏菜子ちゃんの背を目で追いながら、彼女に十数歩遅れ、石段を1段1段ゆっくりと噛みしめるように登っていった。
体力測定万年C判定の私には、この階段を登りきることはかなり厳しい。
もちろんこの時代の石段には手摺はない。
足を踏み外したら下に真っ逆さま。
一貫の終わりだ。
(こんな事は今日限りにしたい。今日こそ帰れるといいなぁ……)
私はそんな淡い期待を抱えながら震える右膝を庇い、無言でひたすらに石段という名ばかりの獣道を登っていくことになったのだった。
*
お社に行く道は、男坂と女坂とがある。
真っ直ぐ伸びた石段を敷いた男坂は歩く距離は短いが、山道を蛇行していく女坂に比べ傾斜が激しい。
今は小山の8合目。
全体重が膝にのしかかる拷問のような重みを脚に感じながら私は上を見上げた。
立ち止まり、ふと下界に見た街の景色は夏色の濃い緑に包まれている。
そしてこの場所は太陽が傾いたこの時間は、夏なのに仄かに涼しい風が吹き上げてきた。
一瞬の癒やし。
山頂にそびえ立つ赤い鳥居をチラつかせるお社のある山頂は、街を見下ろすようにして何とも厳かな空気に包まれて見える。
遠くに見える“名古屋の街”だという黒い建物の塊は、所々灰色の煙を吐き出している。
遠目からは灰色の靄に包まれた街は、何だか悲壮感が漂っているように私の瞳に映った。
(最近、アメリカ軍が毎日偵察に来ているらしいから、あそこに明日、爆弾が落ちるかもしれない。それなのに逃げることを選択しない人達はどんな事を考えているのだろう?逃げたくても逃げられないのだとしたら……)
そんなことを考えると私の胸は小さく軋んだ。
(私に親切にしてくれた、この時代の人達がみんな戦争を生き延びる事ができるようにお社に着いたらキツネ様にお祈りをしよう……)
そんなことを考えながら、私は山頂から私にエールを送る夏菜子ちゃんの元まで最後の力を振り絞り、急ぎ登りきることにした。
*
この後も9合目までは順調だった私もラストスパートに差し掛かると、無言で下に見える女学校の小さな畑と頂上に立っている夏菜子ちゃんを交互に見ながら登るのが精一杯になっていた。
そしてラストスパート。
頂上に立つ夏菜子ちゃんが「ここからの景色が街で1番綺麗よ」と言った辺りから私は周りの景色など見る余裕など1ミリもなくなった。
山頂の特有の涼しい空気とは反対に石段を登るたび、私の額からは湯気のような汗が吹き出してくる。そして、
「と、到着……?」
「よし、着いた。ミラちゃん。よく頑張ったね。ほら、見てみ。今日はみかん色の空と私の街が綺麗に見えるよ。本当に綺麗だね……」
夏菜子ちゃんはそう言うとすぐに踵を返して膝をつき、お社の前で柏を2回打つとキツネ様に深くお辞儀をした。
そして手早くお社の近くの石の花瓶に水筒の水を入れ、しなびた野菊の花を新しく持ってきた紫色の小さな野草へと挿し変えた。
お社の両脇にいるキツネ様は今日も昨日と同じで、相も変わらずニヒルな笑いを浮かべて私を見下していた。
この時間、こんな辺鄙な場所に私達以外の人影はない。
パン パン
「さぁ、帰ろうか。もうすぐ日も沈むからね……」
夏菜子ちゃんは短いお祈りをすると私の方を振り返り下山する為、石段に足をかけた。しかし、次の瞬間……
ガサガサ ガサガサ……
「きゃっ!」
私が夏菜子ちゃんの隙をつき、キツネの神様のお社の扉に手を掛けていたその時。
私の後ろにいるはずの夏菜子ちゃんが藪の方を見て小さく悲鳴をあげたのだ。
「夏菜子ちゃん!?どうしたの?」
私は石のよう固まった夏菜子ちゃんの後ろから恐る恐る、石段の横にある大きな藪の方をじっと覗きこんだ。
「あ、青い瞳だった。はじめてミラちゃんに会った時と同じ青色の瞳……」
夏菜子ちゃんはそう言い残すと藪の中へ私を置いて一目散に走って行った。
「え!?ちょっと待って!夏菜子ちゃん……。キツネ神様、私未来に帰り……。あ、ちょと。夏菜子ちゃん待ってよ!」
私もキツネの神様に適当に柏を打ち、お参りをした後。
急いで夏菜子ちゃんの後を追った。
ガサ ガサ ガサ……
夏菜子ちゃんを追って入った藪の中はクモの巣や小枝が突き出ていて思うように前へは進めない。
ガサ ガサ ガサ……
そんな中でも夏菜子ちゃんは前を見据え無我夢中というように林の中へとズンズン突き進んで行った。
「夏菜子ちゃん。ちょっと。待って、待ってよ!夏菜子ちゃん……」
私は必死に彼女の背を見失わないように走り続けた。そして、
「ミラちゃん、見て!アレ!!」
突然、拓けた場所にある四角い井戸の前で夏菜子ちゃんは走るのを止め、足を止めた。
辿り着いたのは回り回ってお社の隣にある空井戸の前だった。
ひいおばあちゃんの家にあるのと同じ形の四角い空井戸だ。
「待って!夏菜子ちゃん。早いよ……。そんな走っても追いつかな、い?」
私がやっとのことで追いついた夏菜子ちゃんの横顔は、さっき悲鳴を上げた時と同じように開いた口に手を当て、少し上の方を見上げながら固まっていた。
「夏菜子ちゃん!大丈夫!?」
私は夏菜子ちゃんに近づき、彼女の目線の先を追ってみると彼女の目の前には泥だらけの迷彩色の軍服を着た背の高い若い男性が木の側に立っているのだと、分かった。
彫りの深い顔。
白い肌。
日本人ではない。
そして、すぐに彼は諦めたように大木の影から太陽の下へとゆっくりと出てきた。
私達はその瞬間、彼が私と同じ青い瞳。
そして金色の髪を持つ青年だと分かった。
(外国の人だ。どこの国の人だろう?)
私がそんなことを口出さずに一人、考えていると、背の高い男性のお腹のグルグルと苦しげに鳴る音が辺りに鳴り響いた。
ギュルルルル……
男性は私達が彼を見ていたからだろうか。
彼はお腹が鳴ると少し恥ずかしそうに身をかがめ後ろを向いた。
「……」
「……ミラちゃん、今日、お昼に食べれんかった麦飯あるかね?」
「えっ?」
夏菜子ちゃんは射るような目で男性を見つめたまま目を離さず、そう言うと私の鞄に手を伸ばしてきた。
「あ、あるよ……」
私は昨日、今日とは違う夏菜子ちゃんの真剣な表情に物怖じし、思わず半分かけの麦飯の入った包みを差し出した。
「ありがとう。これ、この異人さんにあげてくれんかね。彼、今お腹空いとるみたい……」
夏菜子ちゃんはそう言うと、私の返事も聞かず彼の前に麦飯の入った包みを突き出した。
優しい言葉とは裏腹に彼女の手は恐怖で汗ばみ、小刻みに揺れている。
困惑する男性に夏菜子ちゃんは、麦飯を“異人さん”と呼んだ男性のお腹の前に再度、突き出しこう言った。
「ほれ、水とおむすび。おむすび半分やけど……。お腹空いとるんでしょ?食べりん」
夏菜子ちゃんはそう言うと青い瞳の男性に少しずつ、にじり寄っていった。
男性は夏菜子ちゃんの言葉が分からないようだ。
首を傾げ不安そうに夏菜子ちゃんの突き出した食べ物を見下ろしている。
「早う!」
バサッ
夏菜子ちゃんのあまりの威圧的な言い方に男性は夏菜子ちゃんから食べ物を受け取った。
だが、男性は手渡されたおにぎりと水筒に目を落とし、どうしていいか分からないようで、しばらく夏菜子ちゃんと同じように固まっていた。
「早う食べりん!」
夏菜子ちゃんは、言葉の分からないであろう男性に向かい少し怒ったような顔をして催促をした。
「……」
「……」
二人の間に生暖かい沈黙の時間が流れていく。
短い合間であったが二人の作り出していた微妙な空気に耐えられず、私は思わず間に入り取り、とりえず英語で通訳をしてみることにした。
「え~っと。This is a rice ball and water.Please eat these.Do you understand English?(おにぎりと水です。食べてください。私の言ってること分かりますか?)」
私はまずは簡単な英語で通訳を始めた。
「……ミラちゃん。えっ!何!?」
「……What!?」
そして私は初めての通訳の後。
二人から同時に射るような視線を向けられ恐怖で、彼らと同じように固まった。
(二人とも怖い……。でもWhat?か。じゃぁ、やっぱり彼はアメリカ人だ。じゃあ、どうにか会話はできるかも……)
ぐ~ ぎゅるる……
「……Th、Thank you!」
彼は私と夏菜子ちゃんにそれぞれ、頭を下げると天を見上げた。
そして胸の前で十字を切ると地面に直に胡座《あぐら》をかき、半分かけのおむすびを一口で平らげた。
私の半分かけのおにぎりはあっという間に彼のお腹の中へと消えていった。
「……」
「……」
「……」
そしてまた、三人の間に短い沈黙の時が流れる。
その沈黙のせきを切るように夏菜子ちゃんは男性の前に座り込むと、彼の瞳をじっと覗き込んだ。
私の時と同じだ。
「本当に綺麗な瞳。ブルーや。私の生まれ故郷の三河の海や空みたいじゃ。え~っと。異人さん。私達は明日も同じ時間に来ます。じゃぁ、また……」
夏菜子ちゃんは、そう言うと自分の分の水筒を地面に置いて元来た男坂の方へ帰って行こうとした。
「夏菜子ちゃん、待って!私、帰りは女坂が、いいんだけど!えっと、異人さん。……I'll come again tomorrow.(私達は明日また来ます)」
先を急ぐ夏菜子ちゃんは、名前も知らない私と同じ青い瞳を持つ異国の男性を藪の中に置き去りにしていった。
そしてあの日、私は汗ばむ夏菜子ちゃんの背を無我夢中で追いかけ家に帰る事になったのだった。
*
夏菜子ちゃんはその日の帰路。
私が何を話しかけても口を聞いてくれなかった。
怒っているのか。
それとも何か言いたい事を我慢しているのか。
それは私には分からない。
だけど、彼女のその時の横顔は戦争で青春をどこかに置き忘れてしまった女の子が青春を取り戻した、そんな幸せそうな乙女の顔をしていた気がした。