この想いの名前を僕たちはまだ知らない
9、ハプニング
タイムスリップしてから早いもので3ヶ月が経った。
あの日は小春日和だった。
山の季節も少しずつ黄色やオレンジ色に染まりはじめ、秋が深くなる季節がやって来た。
リアムと初めて会った夏のあの日から私と夏菜子ちゃんは毎日、二人でリアムに会いにお社へと出向いていた。
街は山頂の木の葉でも早いものだと半分程落ち、街のイチョウやサクラの葉は黄色から茶色に変わり、大通りには茶色の絨毯が、まばらに敷きつめたられている。
地球温暖化がまだ進んでいないこの時代の日本は、秋の足音が聞こえるのも早いらしい。
私と夏菜子ちゃんは日の出より少し前。
おばあちゃんが朝食の準備を始める頃。
いつもより少し早起きをして竹箒を片手に“向こう三軒両隣”の落ち葉を拾い集める事が日課となっていた。
私が今、暮している場所は恐らく私のひいおばあちゃんが現代に住んでいた街だ。
時代は太平洋戦争の真っ只中。
現代でひいおばあちゃんの家がある場所は見覚えのある風景から、おそらくお社と空井戸がある辺りだと推測される。
そしてもし、史実どおりであれば約10ヶ月後に戦争は終わる。
この土地で若い頃のひいおばあちゃんに出会えるかも、と淡い期待を持って女学校の中を散策した事もあったが、私はひいおばあちゃんの名前を知らない。
田中という名字の子は15人程いるのだが、ひいおばあちゃんが婿養子をとったのか。
それとも私の知らない“田中”という苗字の男性と結婚して苗字が変わったのか。
それとも、ひいおばあちゃんは、この頃“疎開”してこの辺りにはいないのか。
それさえも今の私には分からないのだった……。
(パパにひいおばあちゃんの名前、旧姓も含め聞いておけばよかった……)
そんなことを考えなが私は今日も落ち葉拾いに精《せい》を出すのだった。
*
そして今日。
勤労奉仕の合間。
私は夏菜子ちゃんとハナちゃんと3人で昼休憩の時間に近くの川で魚を採っていた。
「やった!夏菜子ちゃん桶貸して。また魚、採れた!!」
「ミラちゃん。すごい!もう、一人でも上手く魚が採れるようになったね。ほら、今日は大漁!今夜は1人2匹は食べられるよ」
夏菜子ちゃんはそう言うと魚を入れた竹籠を持ち上げ、笑った。
そう、今日は秋も深くなった川の水の水面が冷たい日。
なのに今日は、いつも以上に水面の近くに魚が来ていたので、私でも簡単に魚を取ることができたのだ。
タイムスリップ前までの私は、暗いスマホの画面ばかり見て一時の娯楽に満足してばかりの、積み重ねのない毎日を過ごしていた。
そんな狭い世界しか知らない現代っ子の私には、この時代は以前では想像出来なかったような四季折々の豊かな自然が肌で生きる喜びを教えてくれる。
そんな時代だ。
秋や冬の川の水は、現代の冬の朝1番に水道をひねった時に出てくる水道水よりもはるかに冷たい。
だが、この水の冷たさが川魚の身が引き締め、美味しい食べ物の季節が到来した証拠でもあるらしい。
籠の中には採りたての20匹くらいの大小様々な魚がピチャピチャと音を立てて跳ねていた。
私は魚を採る方法を覚えても魚の名前は、まだ数種しか知らない。
「い~っぱい採れたね。魚は今日も塩焼きで食べるの?」
私は夏菜子ちゃんの背中を見ながら訪ねた。
「ん~。魚の種類によるけんね。こんまい魚は佃煮にしたりするし……。あっ、ドジョウは蒲焼きにしよ。蒲焼きにしたら持ち運びも……リーンに……」
「夏菜子ちゃん。今はまずいよ。ハナちゃんに聞かれたら私達“非国民”って言われちゃうよ。それに“リーン”って……。リアムの事?夏菜子ちゃんリアムの事をリーンって呼んでるの?」
私は夏菜子ちゃんの側に行き、夏菜子ちゃんにだけに聞こえるように小さく耳打ちをした。
「うん?そうよ。彼がそう呼んでって言っとった」
夏菜子ちゃんはそう言うと少し照れくさそうに髪を耳に掛け、私に背を向け再び魚を採り始めた。
ハナちゃんは川の川上にいて私達の声など聞くよりも魚を採ることに夢中らしい。
私達よりも遥かに手際よく魚を次々と籠へと入れていく。
「ふ~ん。因みに夏菜子ちゃんは好きなタイプはどんな人なの?」
私は好奇心に背を押され、夏菜子ちゃんの隣に縄張りを替え質問を重ねた。
「タイプ?タイプって何ね?」
「どんな人と結婚したいかって事!」
私がそう言うと夏菜子ちゃんは耳まで紅くして私から顔を逸すと、ぼそぼそと小さな声を出し、こう言った。
「んー……。そうやね……」
最近の夏菜子ちゃんの英会話は目を見張るほどのスピードで上達している。
私がたまに考え事をしている時でも、二人は私を介さずに何とか会話(?)してるなんてこともあるくらいだ。
「そうねぇ……。私の旦那さんになる人は背が高くて、優しくて、手が大きくて」
「うん。うん」
私は大袈裟に夏菜子ちゃんの話に相づちを打っていく。
理想の相手はリアムだと知っていたがここは、あえて知らないふりをする。
「それに……私の事を大切にしてくれる人……かな?でも、今の時代、この辺に生まれた女は親の決めた人と結婚すると決まっとるからね。東京じゃ自由恋愛で結婚できるらしいが、この辺じゃ無理な話だね……」
夏菜子ちゃんはそう言うと再び頬を真っ赤にしてリアムの隠れている山の方を見た。
私は夏菜子ちゃんのアンニュイな表情を横目に自分の胸に小波が起こるのを感じた。
(あぁ、やっぱり夏菜子ちゃんもリアムの事が好きなんだ……)
「もうすぐに雪の季節やね。戦争、神風が吹いて早く終わるといいね……。リーンも最近、風邪気味やろ?昨日も咳しとったし、精のつくもん食べさせたあげたいわ……」
夏菜子ちゃんはリアムの隠れている山を再び見上げると、いつもの口癖をポツリと呟いた。
「そうだね……」
私は夏菜子ちゃんと同じく山を見上げ、胸の前に当てた右手をきゅっと結ぶ。
カーン カーン カーン
昼休憩の終わりを告げる木槌の音が風に乗り私達の前を通り過ぎていった。
「今日は大量じゃ!みんなにも帰りに別けてやろ!!」
ハナちゃんは川から元気よく飛び出ると赤くなった足を素早く手ぬぐいで拭きとると、魚を仕掛けに入れ、勤労奉仕の作業を再開する為に校舎へと走っていった。
「ハナちゃん元気やな。さぁ、私らも急ごう」
私は川から上がる夏菜子ちゃんの後ろ姿を目で追い、心の中で小さくこう囁いていた。
(ごめんなさい。夏菜子ちゃん……。まだこの戦争は終わらないよ。史実では戦争は来年の夏まで終わらない。それまで私達は多分、病気のリアムを隠し通すことができない……)
あの日、川を出て先を急ぐ私には、そんな暗い未来しか考えずにいられなかった。
*
「なぁ、ハナちゃん。ミラちゃん。聞いたか千代さんのお兄さんの話。先週、フィリピンちゅう所で戦死したんだと。何や昨日、憲兵さんが例の札持ってき序でに千代さんの家で酒盛りしとったって聞いたわ……」
魚が大量に取れた次の日。
いつもの通り、勤労奉仕が行われる薄暗い教室に入ると今日も噂好きな女学生の一団が黄色い声をあげて噂話にしているところに鉢合わせた。
私はこの日、朝から体が熱っぽくて地に足がついていない、そんな感覚のままで女学生の話を適当に相づちをうち、金切り声を右から左に聞き流していた。
そんな私に対してハナちゃんは女学生の話に興味津々の様子だ。
「ん?それは、おかしかね。確か千代さんのお兄さんは大学生のはずじゃ。まだ、大学生じゃぁ前線にはいかん年頃のはずじゃ」
「そや、そや。それも千代さんはいつも“兄は航空兵や”言うて偉ぶっとったやないか」
「でも、先週戦死したのは確かや。今日、千代さんの家の前通ったら新しか“誉れの家”の札が貼ってあるのを見たもん!」
カツン カツン カツン……
日本髪にピンクいサンゴの簪を挿した女学生はそう言うと、ブーツの鋭い踵の音が近づくのに気がつき、口をつぐんだ。
ブーツの音が止まると、私達の立つ教室の前の扉の前には、泣き晴らしたような赤い目をした千代さんが胸を張って立っていた。
以前話したハナちゃんの話では千代さんの家は兄1人、妹1人の家だと聞いた。
クスクスクス……
「村長さんの家に婿に来るのはどんな成金のオジサマじゃろか……」
クスクスクス……
女学生の輪の中の一人がそう言うと教室の隅の女学生達の中に小さな笑いの輪が広がっていった。
「……っ。誰や今、言たのは!!」
千代さんは女学生のあざ笑うかのような声が聞こえた方を向き、教室が割れるくらい大きな声で、こう叫んだ。
老齢の坊主頭の憲兵さんが思わず帽子を振り落としそうになるくらい壮絶な声だ。
狭い教室に千代さんの嗚咽と沈黙が木霊する。
「千代さん。気にすることなか。早う戦争が終われば若い男もたっくさん帰ってくる。1日も早くお国が勝つ為に今日も私らは働くんよ。諦めたらいかん」
夏菜子ちゃんは千代さんの横に立ち、そう言うと彼女の背を撫ぜ、いつもの自分達の作業場へと千代さんを支えながら歩いて行った。
「さ、さぁ!今日もお国の為、作業はじめ!!」
憲兵さんの号令で固まっていた女学生達は、我を取り戻し慌てて自分の席につき、作業を始めた。
(明日は我が身。それが痛いほど分かるのなら相手を傷つけない方法を学んで欲しい……)
私は名前も知らない女学生の心無い言葉に後ろ髪を引かれ、顔も知らない戦争で亡くなった千代さんのお兄さんに黙祷を捧げたのだった。
*
「ミラさん。今日は午後からあんたは夏菜子さんと同じ作業場で勤労奉仕をしてもらうけんね。昨日一人、急に疎開しちゃってね。猫の手も借りたいくらい忙しい現場だから早く仕事を体に叩き込むように」
昼休みの前。
丸眼鏡の女学校の女先生はそう言うと風邪気味の私を学校の外れにある室内プールへと連れて行った。
私は昨日、川に入り魚を採った辺りから体が妙に熱っぽかった。
この辺りでは最近“疎開”と言う言葉を頻繁に聞くようになった。
社会の授業で“学童疎開”はよく聞いたが、家族で街を出ていく人達も幾人かいるようだ。
だが残る人たちは皆、口々に“今の仕事を捨てられない”とか“配給切符がなくなると生活出来ない”とか言っていたので、疎開を決意する人達も決して楽ではないのだろう。
戦争は家族も友達との絆も引き裂いていく……。
*
新しい私の作業場は教室よりも体育館よりも広い場所だった。
そこは少し前まで室内プールで今は板がはめられている広い空間になっていた。
私がこの場所に入るのは初めてだ。
私以外は皆、上級生のようだ。
夏菜子ちゃんや千代さんもいる。
室内プールの中はコンニャクとはまた違うコンニャクと酸っぱい何かが入り混じった何とも言い難い臭いで充満している。
夏菜子ちゃんが勤労奉仕を終えた後に体に染み付いている臭いと同じだ。
私は先ず、先生から渡された所々破れたモンペに着替えて作業の説明を聞かされた。
ここでの作業は、私達が前に教室で貼り合わせた和紙を1枚1枚を丁寧に横長に貼り合わせていく事らしい。
出来上がりが風船のような立体的な円形になるように計算し、チーム一丸となって隙間なく紙同士を貼り合わせていく。
特に端っこはミリ単位のズレも許されない。
作業は連係プレー。
飲み込みの悪い私には、かなりの激務だった。
*
そして作業開始から3時間後、悲劇は突然に起こった。
「ミラちゃん、フラフラしとったら危ないよ。ちいと休みな。先生!ミラさん……」
「夏菜子ちゃん。私は大丈夫。大丈夫」
私は初めての室内プールでの勤労奉仕の日。
立ったり座ったりの激しい動きになかなか慣れず、みんなの後を1テンポ遅れて室内プールの中を走り回っていた。
「ミラさん。早う!早う!あんたさん若いんやから、もう少しがんばらな、あかんよ」
「はい!」
熱っぽい頭に女先生のキンキンとした叫び声が突き刺さる。
私は自分の体調不良を理由に猫の手でも借りたいくら忙しいこの場所を空けたくなくて、必死で部屋の中を駆けずり回っていた。
初めはどうにかなっていた。
だが、体温が室温を超えた辺りから足が思うように動かなくなってきた。そして、遂に……
「あっ!」
バシャン!!
「「キャー」」
「皆さん落ち着いて!気球は無事ですか!?気球は……?皆さん、糊を早く雑巾で拭とってください!!」
「い、痛い……」
先生の叫び声を背に、私の右足首に鈍い痛みが走った。
どうやら私は、風邪の初期症状の熱にやられ目眩を起こし、はみ出した糊に足を取られて、盛大にひっくり返ってしまったようだった。
足の裏にコンニャクの糊がへばりついている。
「……千代さん。気球!気球は無事?」
私は1番近くにいた千代さんに力なく問いかけた。
「……。ん、ミラさん。気球は無事やそうよ。良かったわ。これなら、少し怒られるくらいですむわ。ちょっと脚を見せてみいーな」
千代さんは私の踵を布巾で軽く拭いた後、左右にゆっくりと動かした。
グキッ
「痛い!右足首を右側に動かすと痛いです……」
「こりゃいかん!先生!ミラさん、脚を骨折したようで大きく腫れとります。早う早う救護室に!!」
千代さんは私のケガの程度を大袈裟に偽ると私の右半身を支え、女先生に背を向け救護室へと向かって歩き出した。
「ま、待ちなさい!!」
女先生は雑巾を片手に救護室に向かう私達の背を数歩、追いかけて来た。だが、
「ま、まぁ、千代さんがそう言うなら……、ね。」
パン、パン
パン、パン
「はい、皆さん。落ち着いて。作業再開です。今日までに端を作らないと……」
女先生はそう言うと大袈裟に手を叩き、わざと私達から注意を反らすように反対側へと歩き始めた。
「ミラちゃん、大丈夫かね?」
夏菜子ちゃんはそう言うと私の左肩を支え、千代さんと救護室まで私に肩を貸してくれた。
そして、私は無事に傷の手当ができた。
二人の素早い対処のおかげで私は軽い捻挫というだけですんだのだった。
学校に毎日通わなければいけないのでとりあえず松葉杖生活にはなったが、1ヶ月もかからずに普通の生活に戻れる見込みだそうだ。
(千代さんが女先生に言ってくれたおかげで、懲罰はなかった。反省文は書かなちゃダメだけど。懲罰……下手したらみんなの前でお尻叩かれてたって言ってたし……。本当にありがとう千代さん。感謝です!!)
私はその日、千代さんにお礼も言えないまま帰路についた。
だが、千代さんはこの日から誰とも口をきかなくなってしまったのだった。
あの日は小春日和だった。
山の季節も少しずつ黄色やオレンジ色に染まりはじめ、秋が深くなる季節がやって来た。
リアムと初めて会った夏のあの日から私と夏菜子ちゃんは毎日、二人でリアムに会いにお社へと出向いていた。
街は山頂の木の葉でも早いものだと半分程落ち、街のイチョウやサクラの葉は黄色から茶色に変わり、大通りには茶色の絨毯が、まばらに敷きつめたられている。
地球温暖化がまだ進んでいないこの時代の日本は、秋の足音が聞こえるのも早いらしい。
私と夏菜子ちゃんは日の出より少し前。
おばあちゃんが朝食の準備を始める頃。
いつもより少し早起きをして竹箒を片手に“向こう三軒両隣”の落ち葉を拾い集める事が日課となっていた。
私が今、暮している場所は恐らく私のひいおばあちゃんが現代に住んでいた街だ。
時代は太平洋戦争の真っ只中。
現代でひいおばあちゃんの家がある場所は見覚えのある風景から、おそらくお社と空井戸がある辺りだと推測される。
そしてもし、史実どおりであれば約10ヶ月後に戦争は終わる。
この土地で若い頃のひいおばあちゃんに出会えるかも、と淡い期待を持って女学校の中を散策した事もあったが、私はひいおばあちゃんの名前を知らない。
田中という名字の子は15人程いるのだが、ひいおばあちゃんが婿養子をとったのか。
それとも私の知らない“田中”という苗字の男性と結婚して苗字が変わったのか。
それとも、ひいおばあちゃんは、この頃“疎開”してこの辺りにはいないのか。
それさえも今の私には分からないのだった……。
(パパにひいおばあちゃんの名前、旧姓も含め聞いておけばよかった……)
そんなことを考えなが私は今日も落ち葉拾いに精《せい》を出すのだった。
*
そして今日。
勤労奉仕の合間。
私は夏菜子ちゃんとハナちゃんと3人で昼休憩の時間に近くの川で魚を採っていた。
「やった!夏菜子ちゃん桶貸して。また魚、採れた!!」
「ミラちゃん。すごい!もう、一人でも上手く魚が採れるようになったね。ほら、今日は大漁!今夜は1人2匹は食べられるよ」
夏菜子ちゃんはそう言うと魚を入れた竹籠を持ち上げ、笑った。
そう、今日は秋も深くなった川の水の水面が冷たい日。
なのに今日は、いつも以上に水面の近くに魚が来ていたので、私でも簡単に魚を取ることができたのだ。
タイムスリップ前までの私は、暗いスマホの画面ばかり見て一時の娯楽に満足してばかりの、積み重ねのない毎日を過ごしていた。
そんな狭い世界しか知らない現代っ子の私には、この時代は以前では想像出来なかったような四季折々の豊かな自然が肌で生きる喜びを教えてくれる。
そんな時代だ。
秋や冬の川の水は、現代の冬の朝1番に水道をひねった時に出てくる水道水よりもはるかに冷たい。
だが、この水の冷たさが川魚の身が引き締め、美味しい食べ物の季節が到来した証拠でもあるらしい。
籠の中には採りたての20匹くらいの大小様々な魚がピチャピチャと音を立てて跳ねていた。
私は魚を採る方法を覚えても魚の名前は、まだ数種しか知らない。
「い~っぱい採れたね。魚は今日も塩焼きで食べるの?」
私は夏菜子ちゃんの背中を見ながら訪ねた。
「ん~。魚の種類によるけんね。こんまい魚は佃煮にしたりするし……。あっ、ドジョウは蒲焼きにしよ。蒲焼きにしたら持ち運びも……リーンに……」
「夏菜子ちゃん。今はまずいよ。ハナちゃんに聞かれたら私達“非国民”って言われちゃうよ。それに“リーン”って……。リアムの事?夏菜子ちゃんリアムの事をリーンって呼んでるの?」
私は夏菜子ちゃんの側に行き、夏菜子ちゃんにだけに聞こえるように小さく耳打ちをした。
「うん?そうよ。彼がそう呼んでって言っとった」
夏菜子ちゃんはそう言うと少し照れくさそうに髪を耳に掛け、私に背を向け再び魚を採り始めた。
ハナちゃんは川の川上にいて私達の声など聞くよりも魚を採ることに夢中らしい。
私達よりも遥かに手際よく魚を次々と籠へと入れていく。
「ふ~ん。因みに夏菜子ちゃんは好きなタイプはどんな人なの?」
私は好奇心に背を押され、夏菜子ちゃんの隣に縄張りを替え質問を重ねた。
「タイプ?タイプって何ね?」
「どんな人と結婚したいかって事!」
私がそう言うと夏菜子ちゃんは耳まで紅くして私から顔を逸すと、ぼそぼそと小さな声を出し、こう言った。
「んー……。そうやね……」
最近の夏菜子ちゃんの英会話は目を見張るほどのスピードで上達している。
私がたまに考え事をしている時でも、二人は私を介さずに何とか会話(?)してるなんてこともあるくらいだ。
「そうねぇ……。私の旦那さんになる人は背が高くて、優しくて、手が大きくて」
「うん。うん」
私は大袈裟に夏菜子ちゃんの話に相づちを打っていく。
理想の相手はリアムだと知っていたがここは、あえて知らないふりをする。
「それに……私の事を大切にしてくれる人……かな?でも、今の時代、この辺に生まれた女は親の決めた人と結婚すると決まっとるからね。東京じゃ自由恋愛で結婚できるらしいが、この辺じゃ無理な話だね……」
夏菜子ちゃんはそう言うと再び頬を真っ赤にしてリアムの隠れている山の方を見た。
私は夏菜子ちゃんのアンニュイな表情を横目に自分の胸に小波が起こるのを感じた。
(あぁ、やっぱり夏菜子ちゃんもリアムの事が好きなんだ……)
「もうすぐに雪の季節やね。戦争、神風が吹いて早く終わるといいね……。リーンも最近、風邪気味やろ?昨日も咳しとったし、精のつくもん食べさせたあげたいわ……」
夏菜子ちゃんはリアムの隠れている山を再び見上げると、いつもの口癖をポツリと呟いた。
「そうだね……」
私は夏菜子ちゃんと同じく山を見上げ、胸の前に当てた右手をきゅっと結ぶ。
カーン カーン カーン
昼休憩の終わりを告げる木槌の音が風に乗り私達の前を通り過ぎていった。
「今日は大量じゃ!みんなにも帰りに別けてやろ!!」
ハナちゃんは川から元気よく飛び出ると赤くなった足を素早く手ぬぐいで拭きとると、魚を仕掛けに入れ、勤労奉仕の作業を再開する為に校舎へと走っていった。
「ハナちゃん元気やな。さぁ、私らも急ごう」
私は川から上がる夏菜子ちゃんの後ろ姿を目で追い、心の中で小さくこう囁いていた。
(ごめんなさい。夏菜子ちゃん……。まだこの戦争は終わらないよ。史実では戦争は来年の夏まで終わらない。それまで私達は多分、病気のリアムを隠し通すことができない……)
あの日、川を出て先を急ぐ私には、そんな暗い未来しか考えずにいられなかった。
*
「なぁ、ハナちゃん。ミラちゃん。聞いたか千代さんのお兄さんの話。先週、フィリピンちゅう所で戦死したんだと。何や昨日、憲兵さんが例の札持ってき序でに千代さんの家で酒盛りしとったって聞いたわ……」
魚が大量に取れた次の日。
いつもの通り、勤労奉仕が行われる薄暗い教室に入ると今日も噂好きな女学生の一団が黄色い声をあげて噂話にしているところに鉢合わせた。
私はこの日、朝から体が熱っぽくて地に足がついていない、そんな感覚のままで女学生の話を適当に相づちをうち、金切り声を右から左に聞き流していた。
そんな私に対してハナちゃんは女学生の話に興味津々の様子だ。
「ん?それは、おかしかね。確か千代さんのお兄さんは大学生のはずじゃ。まだ、大学生じゃぁ前線にはいかん年頃のはずじゃ」
「そや、そや。それも千代さんはいつも“兄は航空兵や”言うて偉ぶっとったやないか」
「でも、先週戦死したのは確かや。今日、千代さんの家の前通ったら新しか“誉れの家”の札が貼ってあるのを見たもん!」
カツン カツン カツン……
日本髪にピンクいサンゴの簪を挿した女学生はそう言うと、ブーツの鋭い踵の音が近づくのに気がつき、口をつぐんだ。
ブーツの音が止まると、私達の立つ教室の前の扉の前には、泣き晴らしたような赤い目をした千代さんが胸を張って立っていた。
以前話したハナちゃんの話では千代さんの家は兄1人、妹1人の家だと聞いた。
クスクスクス……
「村長さんの家に婿に来るのはどんな成金のオジサマじゃろか……」
クスクスクス……
女学生の輪の中の一人がそう言うと教室の隅の女学生達の中に小さな笑いの輪が広がっていった。
「……っ。誰や今、言たのは!!」
千代さんは女学生のあざ笑うかのような声が聞こえた方を向き、教室が割れるくらい大きな声で、こう叫んだ。
老齢の坊主頭の憲兵さんが思わず帽子を振り落としそうになるくらい壮絶な声だ。
狭い教室に千代さんの嗚咽と沈黙が木霊する。
「千代さん。気にすることなか。早う戦争が終われば若い男もたっくさん帰ってくる。1日も早くお国が勝つ為に今日も私らは働くんよ。諦めたらいかん」
夏菜子ちゃんは千代さんの横に立ち、そう言うと彼女の背を撫ぜ、いつもの自分達の作業場へと千代さんを支えながら歩いて行った。
「さ、さぁ!今日もお国の為、作業はじめ!!」
憲兵さんの号令で固まっていた女学生達は、我を取り戻し慌てて自分の席につき、作業を始めた。
(明日は我が身。それが痛いほど分かるのなら相手を傷つけない方法を学んで欲しい……)
私は名前も知らない女学生の心無い言葉に後ろ髪を引かれ、顔も知らない戦争で亡くなった千代さんのお兄さんに黙祷を捧げたのだった。
*
「ミラさん。今日は午後からあんたは夏菜子さんと同じ作業場で勤労奉仕をしてもらうけんね。昨日一人、急に疎開しちゃってね。猫の手も借りたいくらい忙しい現場だから早く仕事を体に叩き込むように」
昼休みの前。
丸眼鏡の女学校の女先生はそう言うと風邪気味の私を学校の外れにある室内プールへと連れて行った。
私は昨日、川に入り魚を採った辺りから体が妙に熱っぽかった。
この辺りでは最近“疎開”と言う言葉を頻繁に聞くようになった。
社会の授業で“学童疎開”はよく聞いたが、家族で街を出ていく人達も幾人かいるようだ。
だが残る人たちは皆、口々に“今の仕事を捨てられない”とか“配給切符がなくなると生活出来ない”とか言っていたので、疎開を決意する人達も決して楽ではないのだろう。
戦争は家族も友達との絆も引き裂いていく……。
*
新しい私の作業場は教室よりも体育館よりも広い場所だった。
そこは少し前まで室内プールで今は板がはめられている広い空間になっていた。
私がこの場所に入るのは初めてだ。
私以外は皆、上級生のようだ。
夏菜子ちゃんや千代さんもいる。
室内プールの中はコンニャクとはまた違うコンニャクと酸っぱい何かが入り混じった何とも言い難い臭いで充満している。
夏菜子ちゃんが勤労奉仕を終えた後に体に染み付いている臭いと同じだ。
私は先ず、先生から渡された所々破れたモンペに着替えて作業の説明を聞かされた。
ここでの作業は、私達が前に教室で貼り合わせた和紙を1枚1枚を丁寧に横長に貼り合わせていく事らしい。
出来上がりが風船のような立体的な円形になるように計算し、チーム一丸となって隙間なく紙同士を貼り合わせていく。
特に端っこはミリ単位のズレも許されない。
作業は連係プレー。
飲み込みの悪い私には、かなりの激務だった。
*
そして作業開始から3時間後、悲劇は突然に起こった。
「ミラちゃん、フラフラしとったら危ないよ。ちいと休みな。先生!ミラさん……」
「夏菜子ちゃん。私は大丈夫。大丈夫」
私は初めての室内プールでの勤労奉仕の日。
立ったり座ったりの激しい動きになかなか慣れず、みんなの後を1テンポ遅れて室内プールの中を走り回っていた。
「ミラさん。早う!早う!あんたさん若いんやから、もう少しがんばらな、あかんよ」
「はい!」
熱っぽい頭に女先生のキンキンとした叫び声が突き刺さる。
私は自分の体調不良を理由に猫の手でも借りたいくら忙しいこの場所を空けたくなくて、必死で部屋の中を駆けずり回っていた。
初めはどうにかなっていた。
だが、体温が室温を超えた辺りから足が思うように動かなくなってきた。そして、遂に……
「あっ!」
バシャン!!
「「キャー」」
「皆さん落ち着いて!気球は無事ですか!?気球は……?皆さん、糊を早く雑巾で拭とってください!!」
「い、痛い……」
先生の叫び声を背に、私の右足首に鈍い痛みが走った。
どうやら私は、風邪の初期症状の熱にやられ目眩を起こし、はみ出した糊に足を取られて、盛大にひっくり返ってしまったようだった。
足の裏にコンニャクの糊がへばりついている。
「……千代さん。気球!気球は無事?」
私は1番近くにいた千代さんに力なく問いかけた。
「……。ん、ミラさん。気球は無事やそうよ。良かったわ。これなら、少し怒られるくらいですむわ。ちょっと脚を見せてみいーな」
千代さんは私の踵を布巾で軽く拭いた後、左右にゆっくりと動かした。
グキッ
「痛い!右足首を右側に動かすと痛いです……」
「こりゃいかん!先生!ミラさん、脚を骨折したようで大きく腫れとります。早う早う救護室に!!」
千代さんは私のケガの程度を大袈裟に偽ると私の右半身を支え、女先生に背を向け救護室へと向かって歩き出した。
「ま、待ちなさい!!」
女先生は雑巾を片手に救護室に向かう私達の背を数歩、追いかけて来た。だが、
「ま、まぁ、千代さんがそう言うなら……、ね。」
パン、パン
パン、パン
「はい、皆さん。落ち着いて。作業再開です。今日までに端を作らないと……」
女先生はそう言うと大袈裟に手を叩き、わざと私達から注意を反らすように反対側へと歩き始めた。
「ミラちゃん、大丈夫かね?」
夏菜子ちゃんはそう言うと私の左肩を支え、千代さんと救護室まで私に肩を貸してくれた。
そして、私は無事に傷の手当ができた。
二人の素早い対処のおかげで私は軽い捻挫というだけですんだのだった。
学校に毎日通わなければいけないのでとりあえず松葉杖生活にはなったが、1ヶ月もかからずに普通の生活に戻れる見込みだそうだ。
(千代さんが女先生に言ってくれたおかげで、懲罰はなかった。反省文は書かなちゃダメだけど。懲罰……下手したらみんなの前でお尻叩かれてたって言ってたし……。本当にありがとう千代さん。感謝です!!)
私はその日、千代さんにお礼も言えないまま帰路についた。
だが、千代さんはこの日から誰とも口をきかなくなってしまったのだった。