恋するソクラテス
恋するソクラテス
初めての長旅だった。
そして、初めての一人旅だった。
荷物検査を終えた僕は、搭乗ゲートフロアへ向かう。自動ドアを抜けて、空いているベンチに座る。
座るなり、少し伸びをする。背中がぴきぴきときしむ音がした。
僕はリュックサックから一冊の小説を取り出し、開く。
旅行に行く前に買ったもので、彼女が生前、一番好きだった小説。
彼女に感想を伝えることも、共鳴することも今はもうできない。
しばらくして、機内への入場が許されるアナウンスがあり、僕は、読みかけの小説を閉じ、リュックサックを片手に、搭乗口へ赴いた。
係員にスマホのチケットを見せて、何の問題もなく、帰りの飛行機にも乗ることができた。
機内に入り、自分の席をチケットで確認して、僕は窓側の席に座った。
安堵する。これで無事日本に帰れそうだ。
初めての海外旅行は思いのほかスムーズに終わりを迎えられそうだ。
リュックサックを床に置き、ひと段落すると、僕は自分のリュックサックから、昨日描いた絵を取り出した。
なかなかの出来栄えだと、心の中で自画自賛する。
人生、本当に何があるかわからない、と改めて思った。
「だから面白い!」と彼女は言いそうだ。
機内放送で、そろそろ離陸することが伝えられた。
隣にも人が座り、僕は念のため少しリュックサックをずらす。
シートベルトを着用するよう言われたので、僕は傷つかないよう気を付けながら絵をリュックサックにしまい、シートベルトをしめた。
やがて、機体は動き始める。
少し巡回し、離陸ポイントへ移動する。
機体減速し、やがて止まった。助走のため先ほどより早いスピードで機体は再び動き出す。
背もたれに体が押し付けら、機体は一気に上昇した。
機体が安定し、シートベルトをはずすことが許されたので、耳がキーンとなりながら、僕はシートベルトをはずした。
窓際の席をとって正解だった。
外の景色を眺める。まだ上昇途中の様でイタリアの海や街並みが一望できた。
それはすごく綺麗だった。僕はそれを目に焼き付ける。
フライトは十四時間。
やることがないので、僕は外を眺めながら、彼女との思い出を思い返すことにした。
幸い、時間はたっぷりとあった。
あれは、いつだったか、僕の名前が咲く頃だったような気がする。
淡い記憶を辿りながら、彼女との出会いから思い返した。
九月一日は一番自殺者数が多い日。成長の過程で、そんな情報を得た、僕は、まさか自分がそのうちの一人になるなんて、その情報を知った時には思いもしなかった。
もともと、生きることに対して、前向きでも後ろ向きでもなかった僕は、何となく年老いて、一定の年齢を超えたら年金暮らしをし、八十手前でひっそり死んでいくもんだと思っていた。
脚光など浴びず、劇的な何かが起こるわけでもなく、ただ平凡で平らな人生を送っていく、そう思っていた。決して悪いことじゃない。
しかし、時が流れるにつれて、僕の中で生きていくことがだんだんと後ろ向きになっていった。それは、空気が入っていく風船みたいに肥大していき、やがて消化できなくなっていた。
十七年生きて、人生の無意味さ、そして今を生きることの面倒くささ、そして未来への不安が僕を学校の屋上に動かした。
その風船は死にたいという明確な感情に変化していったのだ。
屋上に繋がる階段を一段一段、丁寧に上っていく。屋上のドアを開けるためドアノブを握りしめる。鍵がかかっていたらどうしようとは思わなかった。もしかしたら、風船が脳まで支配していて思考を停止させていたのかもしれない。ドアは簡単に開いた。キィ―という鼓膜を叩く嫌な音を立てて。
外は、僕の心に反して快晴だった。
秋晴れ。
いや、これで、人生を終わらせられる!という捉え方をすれば僕の心にそぐっていたのかもしれない。
自殺は別にネガティブな行動じゃない。
数十メートルほど歩き、屋上の柵に触れる。柵は、僕の胸のあたりできちんと整列し、高校生の身体能力では、ゆうに飛び越えられる位置にあった。
別に、いじめられているわけでも、体が不自由なわけでもない。ただ、生きる意味や生きる楽しさを見い出せないだけ。
「そんなことで死ぬな!」と誰かの怒声が聞こえてきそうだが、じゃ死んでもいい理由ってなんだ?
満場一致で死んでもいいと言える理由なんてあるのだろうか?
いいや。ない。
だから、どんな理由だろうと死んでもいい。
そう思えることで僕はいつも楽になれた。
僕は躊躇わず柵を飛び越えようとした。
僕が柵に足を引っかけたその時、僕の鼓膜に何かが飛んできた。
それは、誰かの声だった。
「ちょっと!なにしてんの!」
驚き振り返る。
そこには、クラスメイトである、望月しおんが大きく肩を揺らして立っていた。
「な、なに?」
僕は動揺を隠せなかった。
でも、死のうとしてることがバレていないことを期待した。
バレていたら色々面倒くさそうだ。
「なに、じゃないよ!今、死のうとしてたでしょ!」
僕の期待はあっけなく霧散した。
ここで変に言い訳をするのは、あまりよろしくないと思われた。
「死のうとしてたとして、クラスメイトである君に関係ある?」
「あるよ!とにかく、一回柵から離れて」
彼女の指示をシカトしていたら、彼女はスタスタと僕に近づき、僕の手を引いて屋上の真ん中まで移動させた。
向き合う。
改めて、顔を見ると彼女は意外にも優しく、そして切ない顔をしていた。
僕は黙って彼女をみる。
今になって、なぜ彼女が屋上にいるんだろう、という疑問が頭をもたげた。
「死にたくなる時もあるけどさ、もう少し生きてみない?せっかく健康に生まれたんだしさ、もったいないよ」
さっきの威勢はなくなり、彼女は少し照れてたように上目遣いで言った。
僕はどう答えていいかわからなかったが、言葉を発さずに、ただ頷いた。なぜ頷いたかは自分でもわからない。彼女の言葉に納得したから?それは違う。彼女の瞳がまっすぐだったから?それも違う。
本当にただ何となく。
「・・・・じゃ、もういい?」
沈黙が続いたので会話が終わったとみなした僕は、彼女にそう告げて彼女の返事を待たずに、ドアの方へ歩き出した。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って!秋桜(あきら)くんがこのまま死なないか、私、監視する!」
彼女の思い付きのような言い方に歩みを止めて答える。
「もう死なないから。余計なお世話だよ」
監視なんてされたら死ねないじゃないか。
「いいや!信じられない!だから、今から私に付き合ってもらうね!」
僕は首を傾げた。
そして、思った通り面倒臭くなったなと心の中でため息をついた。
こんな奴、放っておけばいいのに。
「とりあえずさ、屋上から出よ。先生に見つかったたら始末が悪いし」
彼女に促されて僕らは屋上を出て、階段を下る。下駄箱に着き、彼女と並んで上履きから靴に履き替える。彼女は器用に靴紐を縛り、立ち上がって先を歩く僕に並んだ。
「それでどこに行くの?」
「お!乗り気じゃん!えーとね、パフェリゾートに行く!」
僕は決して乗り気ではない。
彼女は隣でへらへら笑っていた。不幸中の幸いは校門までの道中、顔見知りとすれ違わなかったことだ。屋上での時間経過が、校門から人影を消した。なんて言い方をすると文学的だけど、同学年の連中は皆受験が控えているため、屋上で死のうとしている奴と、それを大げさに止めた奴以外は、皆学校が終われば足早に家路につく。
ちなみに、パフェリゾートとは、パフェ専門のチェーン店のこと。
校門を出て、パフェリゾートを目指す。
夕焼けが僕らを見下ろしていた。
店内に入り店員さんに「何名様ですか?」と訊かれ二名席に通された。店内は空いており、店内のBGMがよく聞こえた。席に着くなり、店員さんが水を持ってきてくれる。と、同時に彼女は、パフェタワーを注文したので僕は透かさず、彼女の注文に水を差した。
「ちょっと、パフェタワー?そんなに食べられないし、そんなお金持ってないよ」
「お金は私が払うよ。大丈夫!二人で食べれば完食できるよ!」
間髪入れず、店員さんが確認のために注文を復唱した。
「では、パフェタワーお一つでよろしいですか?」
「お願いします!」
彼女はニコニコと店員さんを見送った。
僕は彼女に冷たい視線を送る。
「どうしたの?怖い顔して」
彼女は店員さんを見送ったニコニコのまま、水を一口飲んだ。
「そうか、僕への心配は建前で、ようはパフェタワーが食べたくて、僕を拉致したわけね」
「人聞き悪い言い方しないでよ!秋桜くんも甘いもの食べたら死にたくなくなるよ」
「僕への心配が建前ってことは否定しないんだね」
「心配してほしかった?でも、本当に心配してるよ~!」
「本当に思っているなら、なんで吐き捨てるように言うんだよ」
彼女はへらっと笑った。彼女は表情に忙しい奴だ。
しばらくして、店員さんが大きな丸いおぼんに大きなパフェを持って現れた。
「お待たせしました~、パフェタワーでございまーす」
パフェが僕らの目の前に置かれる。
店員さんは、スプーンとフォークが二セット入った、細長い入れ物をテーブルの端に置き、伝票と笑顔を残し去っていった。
「さ~て、たっべよー!いっただきまーす!」
僕はその巨大な甘味に圧倒された。甘いものが得意ではない僕は、その量に少々食欲を失う。しかし、奢ってくれるのだし、せっかくのご厚意を無碍にするのは良くないと思い僕も控えめに「いただきます」といい、スプーンを持った。すでに彼女はてっぺんにある生クリームの山に手を付け始めている。
「おいしいいいいいい!」
彼女は生クリームを口に運ぶたびに笑みを深めた。
僕はちょうどグラスの淵の部分に添えられてあった、チョコレートのアイスクリームに手を付ける。口に運ぶ。うん。美味しい。今度はその下に埋まっているバナナを上手くスプーンに乗せて口に運ぶ。少し生クリームがついていたがこれも美味い。
「めっちゃ美味しくない???」
彼女は先ほどより幾分かテンション高めに言った。
「めっちゃ美味しいよ」
「え、なに、その程度のリアクション?」
違う。僕も彼女と同じくらい、美味しいと思っている。それがどれだけ表に出るかは人それぞれ。性分の違いだ。美味しいか不味いかは関係ない。と、そんなことを一人、心の中で呟いていると、彼女は唐突質問を投げかけてきた。
「秋桜くんは趣味とかあるの?」
ありきたりな質問。その質問の答えも持ちあわせていたので答える。
「絵を描くことかな」
「え!意外。どんな絵を描くの?」
「アクリル絵の具で描くことが多いかな」
「へー。アクリルなんだ。絵を描き始めたきっかけは?」
「小学生の時にゴッホの絵画集を見ていたんだ、それでいつか自分も描いてみたいなって思って。それがきっかけかな」
僕が饒舌に話していると、彼女は黙って聞いていた。
「社交辞令で訊くけど君は?」
「私は音楽聴くこと!」
「例えば誰を聴くの?」
僕は人気アイドルや今流行りのj₋popアーティストを挙げると思った。しかし、彼女はマイナーな、それでいて、僕のお気に入りのアーティストの名前を口にした。
「夜休みの羊!知らないっしょ~!」
「・・・・知ってる」
「えええええ!ほんとに!知ってる人なんているのー!」
僕も驚いたし、彼女と同じ感想だった。まさか知っている人がいるとは。ましてこんな身近に。やはり同じ趣味の人と出会うのは嬉しい。僕も幾分かテンションが上がった。
「私はね、一番星が一番好き!」
「いいよね、一番星」
と彼女は、その曲のサビの部分をハミングし始めた。
「えー!まさか、こんな偶然があるとはね。すごくない?お主も少しはテンション上がったんじゃなかろう?」
僕は素直に答える。
「うん。すごいよね。雀の涙の大きさくらいテンション上がったよ」
「少な!てか意味わかんないし、使い方間違っているよ」
僕の素直な気持ちは伝わらなかったらしい。
その後も、僕らは同じ趣味である、夜休みの羊について語り合った。そこで、去年の今頃に行われたツアーの初日に彼女が参戦していたことがわかった。僕もツアーの初日のコンサートに参戦したので、またそれもすごい偶然だった。しかし、僕はツアーの初日に参加したことを彼女に伝えなかった。なぜか。彼女があまりにもその日のコンサートの様子を熱弁するものだから僕は聞き役に徹することにしたのだ。
時間と共に僕らはパフェを減らした、彼女は主に生クリームを、僕は主にバナナを。残りコンフレークになったところで二人ともスプーンを置いた。
「もう、むりー!」
「完食できるんじゃなかったの?うーくるしい」
「世の中甘くないね」
「パフェだけに」
彼女は豪快に笑った。
少し休憩をはさみ、どちらがともなく、立ち上がり、彼女は伝票を持ちレジに向かった。先にお店を出ると外にはお日様の姿はなく、黒いくれよんで塗りつぶしたような空が張り付いていた。
ほどなく、彼女がお店から出てくる。
「帰ろっか」
彼女の宣言で、歩いてきた道を戻る。
「一番光る~の~はあの星のようどけど~君といるこの時が一番輝いてる~」
彼女は一番星のサビをハミングでなく今度は歌った。
彼女は軽いスキップをし僕より数歩先を進んでいる。
「私、ここが好き。秩父っていいところじゃない?」
彼女は振り返り、後ろに手を組んで共感を求めてきた。
「そうかなぁ、僕は好きじゃないな。夏は暑いし。冬は寒いし」
「でもさ、空気はきれいだし、水は美味しいし、星もきれいだし、人もいいし!秋桜くん!ちゃんと中身を見ないと!」
僕も彼女も、今あげた例は外見の話だ。
「私、この前東京に行ったんだけど、空気が汚くて、早く帰りたいっ!て思ったもん!」
それは敏感すぎないか?と思ったが、嗅覚は人それぞれなので黙っておいてあげた。
僕と彼女で、地元のいいところと悪いところ言い合っているうちに学校に着いた。
「あっそうだ連絡先、交換しよ!」
学校に着き、家路に着く間際彼女が提案した。
とくに断る理由もないので承諾する。
学校で別れるため、軽い挨拶をしたあと、彼女に背を向けて僕は歩き出した。
「ねー」
僕は、同じ日に同じ人に二度も引きとめられるのは初めてのことだった。
「また、付き合ってくれる?」
僕は振り返り。数秒、間をあけて言った。
「考えておく」
「私は、秋桜くんを監視をしなきゃいけないしね!大事な共通の趣味な友達を失うわけにいかないもんね~。じゃまた明日!」
彼女はくるりと身を翻し、僕の返事なんか待たずに、軽いステップを踏み、軽やかに去って行った。どうしてだろう、胸に肥大していた風船が心なしか少し小さくなっているような気がした。
人間は単純なんだなと思った。
今日は金曜日で明日は学校がないので彼女に会うことはない。彼女が曜日を忘れていて、言葉の流れで、また明日、と言ったと思っていた。
しかし、彼女はその夜、メッセージアプリで週末の誘いをしてきたのだ。
僕は家に帰り、手洗いうがいを済ませ、夕飯には手を付けず、自室にこもった。しばらく、描きかけの絵の続きを描いたり、ネットサーフィンをしていると時間は自然と過ぎ、僕はお風呂に入るため自室を出た。お風呂から出て、髪を乾かし、キッチンで水を飲み、再び自室にこもった。
もう少しネットサーフィンをして、寝ようかと思い携帯を開く。すると見慣れない通知が届いていた。
通知は彼女からのメールだった。
『やっほー。今日は付き合ってくれてありがとう!今頃胃もたれしてる頃だろう(笑)突然なんだけど明日空いてる?』
『空いてるよ。何かあるの?』
『週末死なれたら困るから、明日も私に付き合ってもらいます!』
それから集合場所と集合時間が送られてきた。僕は『了解』と送り携帯を閉じた。ベッドに体を預け、右手を額に乗せる。もう片方の手を胸にあててみる。心臓がドクンドクンと規則正しく振動を鳴らしているのが、手を通して伝わってきた。
僕はまだ生きていた。
無論、それは彼女のおかげである。
彼女は今何をしているんだろう。
一番星を聴いているのだろうか。
そんなことを考えていると自然と瞼が重くなり僕はいつの間にか眠ってしまっていた。
翌日、時間通りに集合場所に向かった。集合場所に着くと彼女はすでにおり、僕に気が付くと手を振った。僕も軽く手をあげて応える。
「おっはよー!今日も死んでないね!」
「前代未聞のあいさつだね」
彼女の私服姿を見るのは初めてだった。黒のミニスカートに白のシャツ。女子にしては高めの身長の彼女には実に似合うコーデだった。
「それで、今日はどこに行くの?」
「おお!今日も乗り気じゃん!今日はカラオケに行くよ」
僕は決して乗り気なわけではない。
彼女が今日のホストなので、僕は彼女についていく。
九月だというのにまだ夏を引きずっている気温に僕は辟易とした。ほどなくあるいて、僕らは、安さが売りで地元でも有名なカラオケ屋に着いた。
中に入る。
「いらっしゃいませ~」
気だるそうなアルバイトであろう若い店員が僕らを出迎えた。
「カラオケ、十二時間パックで!」
入店早々、彼女はそう宣言した。
僕は、自分の耳を疑った。
自分の耳と、彼女の言い間違いを疑った。
「十二時間パックですね。先払いになります。十二時間パック・・・」
「ちょ、ちょ、ちょっと」
申し訳ないと思いつつ、店員さんの言葉を遮って受付カウンターから彼女を引きはがし、彼女を問い詰める。
店員さんを一瞥するとみるからに不機嫌そうな顔をしていた。
「ん?なになに?」
彼女はまぬけな顔をしていた。
「十二時間パック?意味分かんないんだけど」
「あ~。あのね、三時間パック、六時間パック、十二時間パックと分かれてて、パックにするとお得なんだよ~?」
「そうじゃなくて、なんで十二時間なの?」
「今日はカラオケで歌いまくるの!ほら共通の趣味があるじゃん!」
もう一度、店員さんを一瞥する。今にも飛びかかってきそうな猛獣の顔をしていた。
僕は折れた。
「十二時間パックで!」
再び彼女がそう宣言し、先払いでお金を支払い、個室に通された。
安さを売りにしているため、部屋は狭いし、ぼろい。
彼女はマイクが入ったかごをテーブルに置き、マイクを一つ手にとり、機械をなになら操作し始めた。
その手際はスムーズだ。
結構カラオケに来ているということを思わせた。
「さ~て、歌おう!」
操作が終わったらしい彼女は、マイクを天井に向けた。
カラオケのテレビの画面に、夜休みの羊という文字と曲名が映し出される。出だしのキーも間違えず彼女は少しハスキーな声で歌い始めた。
ちなみに夜休みの羊のボーカルは、男性でハイトーンボイスなので彼女の声とは全く異なる。
しかし、彼女は、見事彼女節で歌い上げた。彼女の歌になっていた。
夜休みの羊は、どの曲もハモリの部分があるのでそこだけ僕も歌った。
僕は歌うより聞いている方が好きなので、彼女が次々と夜休みの羊の曲を入れ歌うことに嫌な気はしなかった。
彼女も気を遣ってか、僕に何度か「歌いなよ!」とマイクを通して言ってきたけれど、先ほどの理由を述べると彼女はにこりと笑い、テンション高く歌い続けた。
時間は経過し、残り一時間になったところで、彼女はマイクをおいた。
「おつかれ」
僕は彼女に労いの言葉を送る。彼女はだらりとソファーに腰掛け、先ほど注文していたクリームソーダを一口飲み「おいしい」と全身をバタつかせた。
それしきりのことで、そこまで喜べる。それが少し羨ましく思った。
すると彼女は可愛いウサギ柄のショルダーバックから日記帳の様なもの取り出し、ペンを走らせた。
「なに書いてるの?」
「ん~?べーつにー」
彼女はそれから数分間、真剣な眼差しで日記帳にペンを走らせた。
「そういえばさ、なんで死のうとしてたの?」
彼女はきょとんとした顔で純粋な疑問として僕に訊いた。
例えるなら、幼稚園児が大人に「空は何で青いの?」と訊くような感じで。
僕はその質問に対して明確な答えを持ちあわせていなかった。
趣味の質問とは違って。
伝わるかどうかはわかないが僕は胸の内を素直に話した。
「特にこれといった理由はないよ」
「ん~。例えば、シリアスな感じになるけど、いじめられてるとか、どこか体の調子が悪いとか、それか家庭環境とか・・・・」
彼女にしては珍しく歯切れが悪かった。それもそうだろ、自殺しようとしていた奴の目の前で、自殺の話をするのだから。
僕はなるべくシリアスにならないよう気を付けながら、僕が普段考えている自殺論を語った。
本当はそんなものないのだけれど。
「僕にとって自殺っていうものはマイナスなことじゃないんだ。この世界で前向きに生きていることの方がおかしいと思う」
彼女は、僕の持論に良いとも、悪いとも、言わなかった。ただ「それはどうして?」と先を促した。
「毎日同じ時間に起きて学校に行く。顔面が整って生まれてきたわけでもないし、お金持ちの家に生まれてきたわけでもない。これから数十年働かされて、国に税金を納めて、ある日ぽっくり死んでいく。それだったら早く終わらせて楽になりたい。死ぬってことは、楽になれるってことなんだ。それってマイナスなことじゃない」
僕は、カラオケの黒いテーブルも見つめながら、普段、心の中で思っていることを彼女にさらす。
彼女はわかりやすく顔をしかめて、静かな声で「違う」と言った。
「違うって?」
僕は訊き返す。
「そんなの違うよ!今、健康なんでしょ?」
「肉体は健康だよ」
彼女の声のボリュームが上がった。彼女をみる。どうやら、マイクのせいではないらしかった。
「十分じゃん!なんで未来のことを勝手に決めつけてマイナスに考えてるの?甘いよ!甘い!健康ならいいじゃん。勝手に不自由にしてるだけじゃん。健康なら自由に好きなように生きればいいじゃん!健康だけで・・・じゅうぶんじゃん・・・」
熱が入ったように急にしゃべりだし、最後は萎むような声を残し、うつむいてしまった。
僕は冷静さを失っていなかったし、僕も昔はそう思っていた。健康ならいいと。健康でいられるのだから幸せだと。
ただ、今は、それをも飛び越えた境地にいるのだ。
だから彼女の方が甘いと、心の中で呟いた。
僕は仕方なく食い下がらなかった。
食い下がったところでオチは見えている。
「た、確かに、君の言う通りかもしれない。僕は甘いのかも」
「い、いや。こっちこそごめん。急に熱くなっちゃって」
彼女は反省したように熱くなった顔を引っ込め、また一口クリームソーダを飲んだ。
僕は特に気にしない。僕の意見が絶対的だと思っていないからだ。
あんな論に共感する人の方が少ない。
ただも一度言う、彼女は甘い。
「じゃ、一緒に一番星を歌おう!」
彼女はくるりと表情を変化させ、再びマイクを持った。
また不機嫌になられては困るので僕も大人しくマイクを持つ。
二人で残りの時間を一番星で埋めた。
「ありがとうございました!」
朝の店員さんとは違う、元気のよい別の店員さんにお礼をいわれ外に出た。
外にはもう、夕焼けの姿はなかった。
「はあ。楽しかった~」
「そうだね」
「私、寄りたいお店があるんだけど、いい?」
「いいよ、何買うの」
「ないしょ~」
僕らは近くの本や文房具が売っているお店に向かうべく歩き始めた。
十分ほど歩き、お目当てのお店に着いた。
入店するなり、僕らは別々に行動した。
僕はアクリルのコーナーへ行き、今足りない絵の具を思い出しながらアクリル絵の具のコーナーを物色した。さまざまな色を順番に眺めていき、気に入った色の絵の具手に取ったりしていると、レジ袋を持った彼女が近づいてきた。
「いろんな色があるんだね~」
「うん、緑だけでもこんなに種類があるんだ」
「秋桜くんは何色が好き?」
「好きな色は白かな。絵を描くうえで一番大事な色」
「へ~。そうなんだ」
「興味なさそうだね」
「そんなことないよ!」
僕は何も買わなかった。帰路に着き、隣を歩く彼女に何を買ったのか尋ねた。が、彼女は最後まで何を買ったのか教えてくれなかった。
彼女は何を買ったんだろうか?
別れ道まで来て、別れの挨拶もそこそこに僕らはそれぞれ家路についた。
その夜は彼女からの連絡はなかった。
日曜日であるその次の日も彼女からの連絡はなかった。
日曜日の夜になって、もしかして僕は彼女からの連絡を待っているかもしれないと思った。
今、彼女は何をしているのだろう。
月曜日になって、彼女と深く関わりだして初めての登校日。
僕は、いつものように後ろの扉から教室に入り、席に座る。
彼女はまだ来ていなかった。僕は隣の席のクラスメイトに軽く挨拶をし、今日の授業で使う教科書を机にしまう。
手持ち無沙汰になったので、ポケットからスマホを取り出し、ネットサーフィンをはじめようとした時、前の扉が開き彼女が教室に入ってきた。
彼女は多方向から朝の挨拶を受けて、自分の席に着いた。席に着くなり、彼女といつも行動を共にしている二人のクラスメイトが彼女の席に近づき、彼女を含む三人は談笑を始めた。途中、彼女がこちらをちらりと見た。僕も彼女を見ていたので、目が合ってしまい、すぐにスマホに視線を落とす。
「秋桜、お前、しおんのこと気になってんの?」
隣の席のクラスメイトが話しかけてきた。
「違うよ。うるさいなと思ってさ」
苦笑いしながら答える。
「わかるわ~。うちのクラスの女子マジでうるさいよな~。でも、しおんは可愛くね?」
あまりに唐突な弾丸をどう処理しようか考えたが、僕はなるべく興味なさそうに返した。
「かもね」
「おいおい~。つれねーな」
そこで朝のチャイムが鳴って、隣の席のクラスメイトとの会話は終了した。
担任が教室に入ってきた。受験生だから気を引き締めろだの、将来を気にしろなど、また生きづらくなるような発言を担任は並べ始めた。
「それから週末は台風が来るようだから、外には出ず、家で勉強するように」
休日の在り方までを強要し、担任は教室を後にした。
それから授業は滞りなく進んだ。
四限目の授業が終わり、前の席のクラスメイトに誘われ、食堂に移動する。
「僕、頼んでおくから席、陣取っておいて!」
「わかった。ありがとう」
「何がいい?」
「ん~。醤油ラーメンで」
「おっけ~」
僕は窓際の席に座り、前の席のクラスメイトを待った。
ほどなくして、白いトレイに醤油ラーメンとカレーライスを持って僕の向い側に座った。
二人で昼食を食べ、軽く雑談をし、食器とトレイを返却口に戻して教室に戻ることにする。教室に戻る途中、彼女を含む三人組のグループが前から歩いてきた。僕は前の席のクラスメイトとの会話に夢中です、という雰囲気を醸し出し、彼女を無視することに決めていた。
しかし、彼女はすれ違いざま、僕に「やっほー」と挨拶をしてきたのだ。
僕は、前のクラスメイトとの会話を持続させた。
「今の秋桜くんに言ったっぽかったけど?仲いいの?」
取り巻き三人組が見えなくなったタイミングで、前の席のクラスメイトが言ってきた。
「さー?僕に言ってた?」
僕は白を切る。
「えー!じゃ僕に言ったのかな?それって僕に気があるってことかな?」
勝手に舞い上がるクラスメイトを見て「きっとそうなんじゃない?」と返しておいた。すると、さらに舞い上がっていた。
人間はやはり単純なんだなと思った。
その日は、それ以上彼女との接触はなかった。
次の日も、その次の日も、彼女との接点はなかった。
彼女が再び僕の日常に足を踏み入れたのは木曜日。
時間帯は夜。細かくいえば、寝ようとしたタイミング。
スマートフォンが震えた。
彼女からのメールだった。
『やっほー!起きてる?週末、また私に付き合ってもらいたいんだけどいいかな?』
週末は特に予定がないので彼女の誘いに乗ることにした。
『いいよ』
それからすぐに返信が来た。集合時間と集合場所を綴ったものだった。集合時間がやけに早かったが特に気にしなかった。
きっと朝型なんだろう。
次の日、彼女は学校に来なかった。
「今日、しおん休みだってさ~」
隣の席のクラスメイトが、つまんなそうに僕に言ってきた。
「そうなんだ」
僕はまた、興味なさそうに返した。
「ったく、お前、クラスの人気者のあのしおん様に興味ねぇのか?」
「あるかな」
「嘘つけ!」
その日の学校もいつも通り、何の変哲もなく終わった。
「おっはよー!」
土曜日の朝、待ち合わせ場所に行くと彼女は普段は背負っていない桃色のリュックを背負って仁王立ちしていた。
「おはよ。台風とか言われたけど、めっちゃ晴れたね」
「それな!私、晴れ女だわ」
どこへ行くのか尋ねたら、とりあえず電車に乗ろうと言われたので黙って従う。僕らは各駅停車の電車に乗りこみ、並んで座る。
電車の中は、さほど混んでいなかった。
「とりあえず、終点まで行って、その後、乗り換えて、バスか」
スマホを見ながらルート確認を行う彼女。
どうやら、かなりの遠出らしい。
少し、心の中でため息をついていると、目の前に一口サイズのチョコレートのお菓子が差し出された。
「食べる?さっき駅で買ったんだ」
「ありがとう」
僕はチョコレートを受け取り、ゴミがなるべく出ないよう開封し食べる。
「秋桜くんのおうちは門限とかある?」
「いいや、ないよ」
「そっか、ならよかった」
「一体、どこに行くの?」
「まあまあ。そんな焦らない焦らない」
それから電車に揺られること一時間半。乗り換えのため、ホームを移動し今度は急行の電車に乗った。さすがに、早朝より人は増えており、座ることができなかったので、二人並んでつり革につかまった。
電車の窓から流れる景色を眺める。僕らの地元と肩を並べるような田舎風景が目に入る。
僕があの日、自殺しようとしていなかったら、彼女とパフェを食べに行くことも、彼女とカラオケ屋さん行くことも、文房具屋さんに行くことも、彼女と連絡先を交換することもなかったのだ。そう考えると、人生本当に何があるかわからない。何を引き金に人生が動くかわからない。きっとこれから生きていけば、それが悪い方向に動いてしまうことだってあるだろう。思いもよらない事故に巻き込まれたり、事件に巻き込まれることだってあるかもしれない。罹りたくもない病気に罹るかもしれない。そういった不安の積み重ねが自殺への衝動に繋がっていくのだ。
健康ならいいと彼女は言った。果たしてそれは真実だろうか。
「秋桜くん、降りるよ!」
彼女に促され電車を降りる。
「それで?さっきバスとかいってなかった?」
「そう!バスに乗る!でも、バスが来るまで少し時間あるから何か食べよ!」
確かに、お腹が空いている気もする。
「あてはあるの?」
「やっぱり、ギョーザだと思うんだけど。どう?」
「うん、そうしよう」
駅の中は混雑していた。その中に交じって僕らは歩いた。事前に調べているのだろう、彼女の足には迷いがない。
駅から数分歩きいくつかのビルが重なる一角で彼女は足を止めた。
地下へ階段で降りると、中華料理屋が顔を出した。
店内は木をベースとしており、新しくできたのか清潔感があり好感が持てた。
僕らはギョーザ一人前と中華そばを二つ頼んだ。
「ここ、雑誌で調べたお店なんだけど、美味しいって有名らしいよ!」
くるくると店内を見渡しながら彼女が言った。
「へー。金額はお財布に優しいよね」
「うん。秋桜くんみたいにね」
メニュー表から顔を上げて彼女を見た。
彼女は舌を出して右手を後頭部に当てておどけた。
面倒くさいので、そのままメニューに視線を落とす。「無視すんな!」と雑音が聞こえたけれど、店内にかかっているラジオと共に僕の耳から耳へ流された。
しばらくして、注文した品々が運ばれてきた。
目の前に置かれた、中華そばのスープをレンゲですくって飲む。
見た目に反して、味は少し濃いめで懐かしさを感じるものだった。
麺もちょうどいい柔らかさで、成長期の僕らはそれを貪った。
ギョーザもいただく。
彼女はお皿の端に設けられた溝に、お酢と醤油をたらし、満遍なく浸して食べていた。
やれやれ。
ギョーザはそのままで食べるに限る。
そのままで完成されているのだ。
すぐに完食し、長居はすることなく、お暇する。
「めっちゃ美味しかったね!」
「さすが雑誌に載っているだけあるね」
僕らはバス停まで、歩いた。
「バスはどれくらい乗るの?」
「ん~。一時間くらいかな」
「なかなかだね。帰りが思いやられるな」
バスが到着し、後方の二人席に彼女が窓側、僕は通路側で座った。
バスが発車してすぐ、彼女は足元に置いた桃色のリュックサックをあさる。またも、日記帳を手に取り日記帳にひっかけてあったボールペンで何やら書き込みを始めた。
きっと日記が趣味なんだろう。
朝からイレギュラーな休日に見舞われていたため、疲れたのだろう僕は目的地に着くまで眠ってしまった。
彼女に肩を揺らされ僕は起きた。
「次、降りるよ」
「あ、うん」
次のバス停で降り、先を行く彼女についていく。五分ほど歩くと前方に観覧車が見えた。
「もしかして、遊園地?」
「そうだよ!小さい頃に家族と来たことあるんだ~。もう一度来たかったの!」
「それなら家族と来た方が良かったんじゃない?」
「高校生なんだし、異性と来てみたかったのよ~」
それなら、もっと異性に適した奴と一緒に来た方が良かったんじゃないか?と思ったが、彼女が楽しそうだったのと、僕も誘われて悪い気はしなかったので結果オーライかと自分を納得させた。
入り口で入場料とフリーパスを彼女が購入し遊園地に入る。
「絶対、返すから」
「いいよ、いいよ。私が強引に連れて来ちゃったんだから」
どこに行くか知らされていなかった僕は、五千円程度しか手持ちがなかった。行きの交通費で手持ちがほとんどなくなってしまったため、遊園地の費用と帰りの交通費は返済条件付きで彼女が賄うことになった。
「さ~!遊ぶぞ~!」
僕は遊園地の敷地の広さに圧倒された。
「すごい広さだね」
彼の県の夢の国に匹敵する広さだ。園内はいくつかのジャンルで分かれていた。
彼女はまずジェットコースターのエリアに向かった。最初は小さい子供でも安心して楽しめるジェットコースターに乗車した。三周するタイプのやつで、そこまで速くなく風を感じることができて、僕はジェット―コースターの中で一番楽しめた。彼女は「もっと早い方がいい」などと嘆いていた。
その後もいくつかのジェットコースターに乗った。いや、乗らされた。
水が流れている上を、薪をモデルにした乗り物で走行するものや、一回転するジェットコースターなど絶叫系が得意ではない僕はジェットコースターのエリアを後にする時、もう二度と乗らないと誓いを立てた。
それから、彼女が指さすもの全てについていった。
「コーヒーカップ乗ろう!」「次は、メリーゴーランド!」「ゴーカートもあるよ!行こ行こ!」と言った具合に。
そんなことをしていると、さすが娯楽施設、時間はあっという間に過ぎ夕焼けが顔を出し始めた。
帰りの移動時間もあるので、そろそろ引き上げなければいけない。
「じゃ、最後観覧車乗ろ~!」
「よし!観覧車ならいいね」
急に落っこちたりせず、ゆっくり一定のスピードで動く乗り物は今の僕にとって最高のアトラクションだ。
観覧車は空いており、すぐに乗車することができた。
係員さんが、動いているゴンドラの扉を流れるように開け、僕らは湿気を嫌がる猫のようにそそくさと乗りこんだ。
「うわ~!ドキドキする~。私、ジェットコースターとかより観覧車の方が怖いかも」
「そう?僕は好きだけど」
「え~!うそ!てか、秋桜くん揺らさないでよ」
「揺らしてないよ。君が大きい声出すからだよ」
観覧車は一定のスピードで上昇していく。
「なんか二人きりで観覧車ってカップルみたいだね」
「そうだねえ」
「ちょっと話聞いているの?」
「聞いてるよ」
「クラスで好きな子とかいないの?」
「そうだねえ」
「はい!聞いてなーい!人の話はちゃんと聞きなさいって教わんなかったの?」
僕は窓から彼女に視線を移す。
「ごめん、ごめん。それでなんだっけ?」
「だから、好きな人いないの?気になる人でもいいけど」
「いないよ。知ってると思うけどクラスメイトで仲いい女子いないし」
「確かに。一、二年の頃は?付き合ったりとかなかったの?」
「ないよ。・・・・そういう君は?」
「一年生の時、先輩に告白されて付き合ったけどすぐに別れたよ。それきり誰とも付き合ってませーん」
彼女の外見からは想像できない答えだった。僕は絶えず彼氏がいるもんだと思っていた。
振り返るほどの美人というわけではないが、ぱっちりとした目に細い鼻、少し厚い唇と笑うと見える健康的な白い歯。クラスでも彼女のことが好きという男子を何人か知っている。
観覧車がちょうど頂上に差し掛かったところで彼女が不吉なことを漏らした。
「台風きそうもないね~」
「え、なに。まさかとは思うけど、台風来てほしかったの?」
彼女は、窓から空を悲しそうに見ている。
先ほど夕焼け空が広がっていたのだけれど、奥の方に怪しい雲が現れ始めていた。
「でも、あっちの方、黒い雲いない?」
「ほんとだ!」
彼女は少し嬉しそうに僕の発言に反応した。
観覧車は徐々に下降していく。
地上に近くなり、係員さんが扉を開けてくる。「ありがとうございました」と言われ僕らは観覧車から遠ざかる。
「さて、帰ろうか」
「う、うん。そうだね~」
入園した時よりもだいぶテンションの低い彼女。きっと遊び疲れたんだろう。それかこの旅の終わりを感傷的に思ってくれているのだろうか。
そう思った僕は素直さと気遣いを混ぜた発言を彼女に送る。
「また行こうよ」
前を向いていた彼女が首だけ僕の方に向いた。
「うん!だね!」
はじける笑顔になった彼女はテンションを少しだけ取り戻した。
その後、入り口付近に設けられているお土産施設に入り、少しだけ店内を歩き回った。
彼女は、お土産コーナーで一番人気!というスイートパイを購入し、桃色のリュックサックにしまった。
店内から出ると、夕焼け空はすっかりなくなり、黒い雲と紺色で埋めつくされていた。
園内はパレードが始まっており盛り上がっていた。
出口まで行き、スタッフに「ありがとうございました!」と笑顔で言われ僕らはバス停まで歩く。
バス停までは彼女も静かだった。
僕も遊び疲れ、会話を振るような力は残っていない。
―ポツポツー
バス停まで歩き始めて数分、僕の頬を何かが濡らした。
と思うと、今度は腕に冷たさが走る。
「雨だ・・・」
声に出てしまった。
「本当だ!」
どこか嬉しそうな彼女。
みるみるうちに、雨脚は強くなる。
「走ろう」
僕らは走り、バス停までたどり着く。
すでに、服は湿っている。
するとバスがタイミングよくバス停に到着した。
―プシュー
炭酸の飲み物を開けた時のような音を立てて、バスの扉が開く。
僕らは、恥じらいなど考えず急いでバスに乗り込んだ。
「うわ、結構濡れたんだけど」
バスに乗るなり彼女が言った。
バスが目的地である駅前のバス停に着く頃には、雨の強さは増していた。
台風。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
バスは、強い雨を切り裂くように走っていく。
この雨でも、速度を落とすことなく、時間通りにバスは目的のバス停に着く。
「とりあえず、降りよ!」
彼女の言葉に従いバスを降りる。
「うわ」
「濡れる!濡れる!」
「とにかく、駅の中に入ろう」
僕らは急いで駅の中に避難した。
「・・・・すごい雨だな」
空を見上げると、真っ暗の空から無数の矢が落ちて来ているようだった。
―ピカッ
―ゴロゴロ!
「雷―!」
彼女がテンション上げて言った。
物凄い音とともにギザギザの光が近くに落ちていくのが見えた。
周りを見渡すと、スマホで電話をかけている人や空を見上げている人がたくさんいた。
先ほどから強風も吹いており状況は悪化している。
「すごいね。これって電車動くの?」
と、分かりっこない彼女に訊いた。
「どうなんだろう」
僕らはエスカレーターで二階に上がり、改札付近に向かう。
これだと嫌な予感がする。
エスカレーターで上がり、改札の外側から電光掲示板を見る。
嫌な予感は的中した。
―二十時発の〇〇行きの電車は、この雨の影響により運休いたします。
―繰り返します、二十時・・・
油断していた。
ここ最近雨なんて降っていなかったから。
この状況を彼女はどう思っているのだろうか。
隣の彼女を見やる。見て、心底驚いた。彼女は楽しそうな顔をしていたからだ。
「これじゃ家に帰れないじゃん。なんでちょっと嬉しそうなの?」
「旅はハプニングが起きた方が楽しいじゃーん」
「どうするの?」
「んね~。どうしよっか~」
彼女の言い方は、どうしようか悩んでいるのではなく、どうしようか決めているがそれを言おうかどうか迷っているようだった。
「な、なに?なんか案があるの?」
「まあこれじゃ今日中には帰れないし、どこかで一夜を明かすしかないよね~。ホテルに泊まるとかさ」
「ホテル?お金は?」
「お金は心配しなさんなって。私が持ちあわせているから。と言ってもそんなに余裕があるわけじゃないから同じ部屋になるけど。まさかここで一夜明かす気?私は止めないけど、こういう時は流れに身を任せるべきだと思うよ、私は」
僕が黙っていると彼女は続けた。
「そんな濡れた格好で朝を待って、生乾きの洋服で帰るの~?私についてくれば、暖かい部屋で朝を迎えて、乾いた服で帰れるのに」
彼女は手をヒラつかせて「最後は秋桜くんが決めたらいいよ~」とエスカレーターの方に歩いていった。
数秒、その場で考え、黙って彼女の後を追った。
この一連の流れで、僕を異性と簡単にホテルに泊まるような軽い男として見ないでほしい。状況が状況なだけに仕方なく。
うん、僕は誰に言い訳しているんだろう。ただ僕にやましい気持ちは一切なかった。それは断言できる。
暖かい部屋で過ごしたい気持ちとこの服を処理したい気持ちだけが僕を動かした。
彼女はタクシーを捕まえてビジネスホテルの名前を運転手さんに告げた。
「予約とかは?」
「さっき済ませたよ!駅近のホテルでたまたま空きが出た部屋があって予約したの。安心していいよダブルベッドの部屋だから」
「なるほど、僕がついてくるのを読んでたわけね」
「まあね。秋桜くんは変態だからねー!」
「うるさい馬鹿」
「ひど!」
ビジネスホテルは駅から近かった。駅近と知っていたのだけれど、それでも駅から近いと感じた。そそくさとチェックインを彼女が済ませ、部屋に向かう。
住所や携帯番号などの個人情報を尋ねられたり、親に連絡されたりするかと思ったが、そんなことはされず、すぐに部屋のカギであるカードを渡された。
指定された階へエレベータで上がり、部屋の前に着く。ICカードのようなものをドアノブ付近にかざすと、「ピッ」と音がなった。
施錠できた合図だ。
二人とも部屋に入る。
「うわー!結構狭い~」
部屋に入った彼女の第一声。
確かに狭かった。
しかし、ビジネスホテルなのだから、このくらいが妥当だろう。
「うわー!ユニットバスだ!」
入って右手にある扉を彼女が開ける。
そこには、トイレとお風呂、洗面台があった。
二人とも荷物という荷物はないが荷物を机の上に置く。
机の横にベッドが二つ。
さらにその横に小さいソファーがある。
さーて、順番にシャワーを浴びて寝よう。
「先、シャワー浴びれば?」
意識せず、提案する。
「おーけー!」
彼女は本当に意識してない様子で答えた。
ちなみに、着替えは浴衣がホテル内に常備されており、それを使用する。
まさか、ビジネスホテルに浴衣が常備されているとは知らなかった。世の中まだまだ知らないことばかりだ、と思った。
彼女は机の上にある自分のバックから、何やらポーチを取り出し、浴衣とビニール袋を持ってユニットバスに消えていった。
手持無沙汰の僕は、部屋に常備されている小さいテレビの電源を入れた。
適当にリモコンを操作するが、頭の中にテレビの内容なんか一ミリも入ってこなかった。
頭の中では、今日の今までを回想していた。
駅前で待ち合わせしたのが遠い昔に思える。
リモコンは操作したままだ。
そして、遊園地に行き、観覧車に乗って・・・・
今日一日を振り返り、観覧車で彼女が好きな人はいるのかと訊いてきたあたりを思い返している途中、僕は眠ってしまった。
目を覚ますと、彼女が無言で僕の肩を揺らしていた。
「だいじょうぶ~?」
「あ、あぁ。だ、大丈夫」
いきなりの異性の浴衣姿に動揺してしまった。
早くなる心臓を悟られないよう、僕はお風呂場に向かう。
お風呂場は、暖かく、洗剤のいい匂いがした。
とりあえず、服を脱ぎそれをビニール袋に入れる。
シャワーを出す。家のよりだいぶ勢いのあるシャワーのお湯を頭にかける。
備え付けのシャンプーとボディーソープで頭と体を洗っていく。
ユニットバスから出ると、部屋の中は先ほどより暗くなっていた。
机に、ビニール袋が置かれ彼女はベッドに腰かけ、何やらノートにペンを走らせていた。
日記かなにかだろう。
彼女はまだ僕に気づいていない。
「何、書いてるの?」
「ん、え!」
彼女は慌ただしくノートを閉じた。
彼女にしては珍しく動揺している。
まー日記を書いているところを他人に見られるというのはいい気分ではないか。
「二階にランドリーがあるみたいだから行こ!」
話を明らかにそらした彼女を特に問い詰めることはせず、彼女が日記をリュックサックにしまうのを呆然と見ていた。
二人でビニール袋を持ち二階へ向かった。
ランドリーに着き、彼女の提案で僕はその横に隣接している売店で夕飯を買うことになった。異性の洗濯物には興味がないので僕は大人しく晩御飯の調達に向かった。
売店は雑誌や新聞、カードゲームなども売っていた。
乾燥に二十分ほどかかるというので、焦ることなく、じっくりと店内を見て回る。
店内の雑誌コーナーを見ていると、一番端に隠れるように、ある雑誌が置かれているのに気がついた。近づいて手に取る。僕はぺらぺらとページをめくっていく。
メンバーのインタビューや写真などが載っており、僕は時間を忘れて熟読してしまっていた。
すっかり時間を忘れて雑誌の世界に浸っていた僕は彼女に声を掛けられ現実に世界に戻った。
「なんで立ち読みしてんの?」
「あ。ごめん」
「あっそれ夜休みの羊じゃん!」
さっそく彼女は、雑誌に食いついた。
「そうそう。地元の本屋さんには売ってなかったから、つい」
「それな!田舎だからね。品揃え悪いもんね~」
雑誌を見て、すっかり笑顔になった彼女は「それ買お!」といい、カゴにいれ「一緒に晩御飯を選ぼう」と張り切った。
彼女はお弁当コーナーでカレーライスを、僕はカップ麺をカゴの中に入れた。
「せっかくだからトランプ買おうよ!」
「二人でトランプ?寂しくない?」
「私、二人でできるゲーム知ってるからやろやろ~」
彼女はペンギンが書かれたトランプをカゴに入れる。
会計を彼女が済ませ、乾いた洋服が入ったビニール袋を持ち、部屋まで戻る。
部屋まで戻り、彼女は備え付けの電子レンジを使い、僕は備え付けのポットでお湯を沸かす。先にカレーが温まり彼女は「いただきまーす」と雨と風の音に負けないくらいの声量で食べる宣言をした。ほどなく僕のカップ麺も出来上がり控えめに「いただきます」といい食事を開始した。
「思いもよらない事態になったね」
「旅はこうでなきゃ!私はとっても楽しいよ!」
彼女は目を細め全身で喜びを表現した。
先ほど、スマホを開いたら親から不在着信が三件も入っていた。
それに対し、友達の家に泊まるとメッセージアプリで応答した。
これで、警察に捜索願は出されないだろう。
かくゆう彼女は、ご両親にどのような言い訳を使ったのだろうか。
「ご両親は心配してないの?」
「今日は、もともと友達の家に泊まるつもりだったから、だいじょうぶい」
彼女はブイサインを突き出した。
食事を終え、ビニール袋にゴミをまとめた。
僕は歯磨きを済ませ、そそくさと寝る準備にとりかかった。
僕が寝ようと部屋の明かりを消そうとすると彼女から、待ったがかかった。
「なに?」
「いや、寝るつもり?」
「え、寝ないつもり?」
「当たり前じゃん!せっかく、これから夜が始まるのにもったいない。もしかして、修学旅行とか一番に寝るタイプ?」
「そうだけど?」
「つまんな!言っとくけど、今日は寝かせないよ!」
彼女は机に近づき先ほど購入したトランプを顔の横に持っていき、ニヤついた。
「せっかく買ったんだから、なにかしよ」
「二人でできる遊びなんて、スピードくらい?」
「んー、せっかく時間はたっぷりあるし、神経衰弱でもやろうよ」
窓側のベッドの布団をどけて、そこにトランプを無造作に置いた。
僕と彼女は一つのベッドに、無造作に置かれたトランプを挟んで座る。
「じゃ、私から引きまーす」
彼女は二枚、自分の方にあったトランプをめくる。当然揃うわけもなく、裏返す。
「はい。秋桜くんの番」
「えーと・・・」
僕は真ん中あたりを引く。もちろん揃わない。
そんなことを繰り返していると、お互い無言になってしまっていた。
結局、神経衰弱はドロ試合の末、僅差で僕が勝った。
「次、何して遊ぼうか~」
「てか、疲れてないの?眠くないの?」
「ぜーんぜん眠くないよ!」
いや、眠い方がありがたいのだが。
彼女はトランプをシャフルし五回ほどシャッフルしたところで手をとめ「あっ!」と何かをひらめいた顔をした。
「せっかく、夜を共にしているんだし、お互いを知ろうよ!」
「というと?」
「私、普段本読まないんだけど、すっごい好きな本があって」
「なんなの?」
「君の膵臓を食べたい、っていう本なんだけどね。そこで真実か挑戦かっていうゲームをやるシーンがあるの。それやろうよ」
小説のタイトルは聞いたことがあったが、その物語を読んだことがない僕は、そのゲームがなんなのかさっぱりわからなかった。
「どういう遊びなの?」
「まず、お互い、適当に一枚選んでひっくりかえすの。数字が大きい方が権利を得る」
「なんの権利?」
「真実か挑戦かを訊く権利」
この段階では、まださっぱり理解できない。
「それで?」
「でね、真実を選んだら、相手が質問したことに答えなきゃいけない。挑戦を選んだら、相手が指示したことに挑戦する。でも今回は真実だけにしよ」
「は、はぁ~」
この段階でもさっぱりわからない。
「まあ、やってみよ!とりあえず、一枚選んで」
彼女はまた、ベッドの上にトランプを散らかした。
僕は真ん中あたりのカードを一枚選ぶ。彼女は僕の方にあるカードを一杯選んだ。
同時にひっくりかえす。
「私はハートの三。秋桜くんは、スペードの五。ってわけで、秋桜くんが私に質問する権利を得たから質問する。何でもいいよ」
「・・・えーと、じゃ・・・」
僕はずっと気になっていたことを訊こうとした。
「君の名前の由来は?」
「あー、しおんね。私、秋に生まれたからだよ。紫苑(しおん)って秋の花の名前なんだよ。きっと今が咲きごろかな?知ってる?」
「いいや。知らない」
「とっても綺麗な花だよ!私は花の中で一番、紫苑が好き。たとえ、私の名前じゃなかったとしても」
それは言い過ぎではないか?と思った。
「これでいい?」
「うん」
「じゃ、次!」
僕らはまた、適当にカードを選んでひっくり返す。
今度は彼女が質問する権利を得た。
「じゃ、さっきの質問のお返しで、秋桜くんの名前の由来は?」
「僕も、同じ。秋に生まれたから」
言うと、彼女が驚いた顔をした。
「え!ほんとに?誕生日いつ?」
「あ、それは権利を得てから質問して下さい」
「うざ!」
彼女は、わははははっと笑った。
それから、僕らはカードを選んではひっくり返し、質問するという動作を繰り返した。
僕は彼女に訊いた。
「好きな食べ物は?」
「チョコレート!」
彼女が僕に訊いた。
「好きな異性のタイプは~?」
「んー優しい人かな」
「つまんな!そこは私みたいな人っていえよ!」
言うと、彼女は笑った。僕はそれを白けた顔で見てやった。
そんなことをしていると夜も更け、時刻は三時半を過ぎようとしていた。そのころになるとお互いトランプを挟み一つのベッドに寝そべってカードを選んでいた。
目を開けているので精一杯だった。
「・・・秋桜くん・・は・・なんだったった?」
「・・・僕は・・クラブの・・・えーと・・三・・」
「・・やっ・・・たー・・じゃ、質問するね・・」
「・・・」
僕は眠りながら質問を待った。
「・・・・私がもうすぐ死ぬっていったらどうする?・・」
彼女の声により現実世界に戻ってきた。半分眠っていたので意識が遠のいたまま僕は答える。
「可哀想だなって思う・・・・」
いつもの冗談に白けて返したから、彼女が笑うと思った。僕は半分も開かない目で彼女を見る。
彼女は天井を見つめて、これっぽっちも笑っていなかった。僕の視線に気づいた彼女はこちらに顔を向けて、眠たそうに小さく笑った。僕はそれが苦笑いに見えた。
「・・・どうして・・そんなこと訊くの?」
「じょうだんだよ・・じょうだーん・・・」
それから長い沈黙が続いた。
「・・・私、シチリアに行きたいな・・」
突然の彼女の声で僕は再び現実世界に戻された。
「・・・どうして?・・・」
反射で口を動かした。
「小さい時に、お父さんと行ったんだ・・・」
「・・・・またお父さんに・・頼んでいけばいいんじゃない?・・・」
「それは無理・・お父さん自殺して死んじゃったから・・・・」
「・・・・・」
僕は何も答えられなかった。眠かったというのもある。だから僕はこの状況にしか使えない必殺技、狸寝入りを使った。
「・・・あれ?・・秋桜くーん。・・・寝ちゃった?」
その声にも応じず、僕は寝たふりを決め込んだ。寝たふりを決め込んでいると僕は本当に眠ってしまった。
僕らの夜は純粋で無垢でロマンチックだった。
翌朝、電話の電子音により目を覚ました。僕は自分の携帯電話を確認する。しかし、着信はない。彼女も手探りで自分の携帯を手に取る確認する。が、すぐ携帯をベッドに置いた。疑問に思い部屋を見回すと、部屋の電話が鳴っていることに気が付いた。彼女はさっそく二度寝を開始しているので、僕が電話をとった。
「・・・・はい」
「あっすみません、フロントの者なのですがチェックアウトの時間になりますので、速やかに退室をお願い致します」
僕は謝り数語交わして電話を切った。
「なんだった~?」
寝ながら彼女が訊いた。
「チェックアウトの時間だって」
「うえー。やば~」
彼女はむくむくと起き上がり手櫛で髪を整えた。
「結局寝ちゃった」
「のんびりしている暇ないよ」
僕は、顔を洗いに洗面所に向かった。
顔を洗い、歯を磨く。朝一の歯磨きは歯磨き粉を付けないのだが、昨日の歯磨き粉の味がかすかに残っていた。
僕と入れ替わるように彼女は洗面台にこもった。
五分ほどで出てきた彼女は先ほどの容姿とは異なり、髪は整えられ、ばっちり化粧もされていた。乾いた、昨日と同じ服をしっかり着こなしていた。
僕らはチェックアウトを済ませ、昨日とは違いタクシーを使わず、ゆっくり駅まで歩いた。
しかし、駅近ということなので、さほど時間はかからず駅に到着した。
駅までの道中、僕は僕なりにこの旅の終わりを感傷的に思った。どうせならまだ終わってほしくないと気まぐれに思い始めていた。しかし、当たり前なのだけれど、時は止まることなく進んでいく。
今日は日曜日だから急いで帰る必要はない。なので、朝食兼昼食を兼ねてカフェに立ち寄ることにした。
カフェについて、僕はホットウーロン茶と小さいカルボナーラ、彼女は紅茶とティラミスを頼んだ。先にカルボナーラとティラミスが到着し、僕らはそれをゆっくり胃にしまった。食べ終え、食後の飲み物として、ホットウーロン茶と紅茶が運ばれてきた。
ひと口飲み物を飲んだところで、彼女が口を開いた。
「はー。楽しかったね~。また行こうよ」
僕は窓を見ながら、素直に答える。
「そうだね。また行こうか」
僕の言葉に彼女は、一瞬驚き、その後笑みを深めていった。
「うふふふうふ、うははははっ」
昨日のジェットコースターで頭がおかしくなったのか。
「なに?」
「いやいや、今幸せだな~って。絶対また行こうね!」
その後、軽く談笑し、カフェを出た。
駅に着き少しお土産施設に寄った。
そこで僕は自分用に月をモチーフにしたカステラのお菓子を購入した。彼女は何も買わなかった。
駅で各駅停車の電車に乗り、並んで座る。
電車内は、空いており、老夫婦や子供連れのお母さんなどがいて、のんびりしていた。
「はい」
目の前にパイのお菓子が出された。
「昨日、遊園地で買ったやつ、お一つどうぞ」
「ありがとう。じゃ、僕も」
僕はバッグから先ほど買ったカステラのお菓子を一つ彼女にあげた。
「次はどこに行こうかな~」
電車を乗り換え、あと少しで地元の駅に着く頃に彼女が独り言のように呟いた。
「君の行きたいところに行けばいいんじゃない?」
「そしたら付き合ってくれるの?」
「もちろん」
「どこでもいいの?」
「まあ、いいよ。別に」
「今、言ったからね?」
彼女は念を押すように、いたずら笑みを浮かべて言った。
僕は頷いた。
この旅が思いのほか楽しかったからだろう。やはり、僕の中で肥大していた感情は小さくなっている。
それは隣に座る、彼女のおかげなのだ。
僕は彼女の気が済むまで付き合うことに決めた。
人生に退屈、無意味さを覚えている僕にとって、彼女との付き合いは楽しいものだった。
僕らの住む街に辿り着く頃には夕方になっていた。数語、駅で言葉を交わし、お互い帰路に着いた。
家に帰るとまだ両親は帰ってきていなかった。
僕は、しっかり手洗いとうがいをして自室にこもった。ベッドでとりとめもなくスマホをいじっていると自然と瞼が重くなり僕は眠ってしまった。
目を覚ましたのは、夕食ができたという母親の声によってだった。
昨日とは違いしっかりとした食事をとり、昨日とは違いシャワーのみではなくしっかり湯船に浸かり、いつもより長く自宅のお風呂を堪能した。
お風呂から上がりキッチンで水分補給をして、再び自室にこもった。携帯を開くと、メール通知が来ていた。
メールは彼女からだった。
『ちゃんと家に帰れた~?かなりの長旅になっちゃってごめんね。また付き合ってくれたら嬉しいよ~!じゃまた学校で!』
僕は数分、返信を考えて『おやすみ』とだけ返した。
結局、昨日の夜の眠る直前の質問はどういう意味だったのかわからない。訊く術もなかったし、彼女が寝ぼけて、そんなことを言ったのかもしれない。
僕は眠る直前まで考えていたが、結局しっくりくる答えが出ないまま眠ってしまった。
翌朝いつものように目を覚まし、いつものように朝食を食べ、いつものように登校した。
登校して、下駄箱で靴から上履きに履き替えている途中大きな声で挨拶された。
「おはよー!」
僕に挨拶をしてくる異性はたった一人しかいない。
「おはよ。昨日ぶりだね」
彼女はにやにやと、これからいたずらを仕掛けるような顔で立っていた。
「なに?履き替えないの?」
彼女がずっとにやにやしていたので僕は続けて声を掛けた。
「じゃ行こ!」
と、いきなり僕の手を引いて、走り出した。そのまま最寄りの駅まで僕を拉致した。
「いきなり何?はぁはぁ。学校完全遅刻じゃん」
「海に行こ!」
「海?どうしていきなり?」
「行きたいところに行けばいいって言ったのは秋桜くんじゃん!私は海に行きたい!」
週末でもいいのではないかと思ったが黙っておいてあげた。
海に行きたい理由が何となくわかったからだ。僕自身、死のうとしていた人間だし、彼女が引き止めなければあの日死んでいた。学校も、どうでもよくなっていたし、彼女に付き合うと決めていたので、僕は海に行くことを承諾した。
「三日連続で異性と遊んだこと初めてだよ」
「私もー!前付き合ってた先輩より恋人っぽいことしてるよ!」
昨日とは違う行き先の電車に乗って、僕らは海を目指した。と言っても、地元の県には海がないので、県をまたぐことになる。それから僕らは四回も電車を乗り換え、彼女が行きたがった海に着くことができた。
九月下旬の平日の昼間なので海岸はガラガラだった。アスファルトから砂浜にかわり、少し歩きにくくなる。彼女は持っていたバッグを僕に渡し、海に走っていった。まさか飛び込むのかと思ったが、さすがにそれはせずギリギリで止まり、しゃがみこんだ。
僕は立ったまま、その様子を眺めていた。
「冷たーい!」
どうやら波が彼女の足元まで届いたようで彼女が声を上げた。「うわー靴下濡れた~」と嘆いている。
「秋桜くんもおいでよ!」
彼女は浅瀬で波と戯れながら僕を呼んだ。
僕はその場に座り込み、心地よい風に吹かれた。ひとしきり、楽しんだ彼女は僕の方へ戻ってきた。
「なんで、呼んだのに来ないのよ!」
僕は軽く肩を叩かれる。
「靴も靴下も濡れてんじゃん」
「かわっくしょ!」
今日は真夏日になると天気予報で言っていたのでおそらく帰る頃には乾くだろう。真上にあるお日様の光を浴びているが真夏のように暑く感じないのは、風があるからだ。
でも、台風の風とは違い、冷たくなく、穏やかだった。秋らしい変わりやすい天気だと、ここ数日をもって感じた。
「ずっとこんな天気だったらいいのにね」
「僕も今そう思ってた」
「いいよねー。この風なら愛せる」
彼女は風に目を細めて気持ちよさそうに言った。
「あっそうだ。私今日、スケッチブックを持ってきたの」
彼女は自分のバッグからクレヨンと小さめのスケッチブックを取り出した。
「描いてよ」
「ん、何を?」
「海と私!」
「なんでクレヨンなの?」
「夜休みの羊の曲にあるじゃん!クレヨンの歌!」
「あー、あるね。だから?」
「私はクレヨンが大好きなの!私の一番好きな画材はクレヨン!秋桜くんの絵見たことなしさ、それと今日私の誕生日なの。だから誕生日プレゼントとして、描いてほしい。お願いします」
彼女はぺこりと頭をさげた。恭しくお願いされるので僕は、こんな僕が描く絵なんかでいいのかと少し申し訳なくなった。
「僕の絵なんかでいいの?」
「いいに決まってんじゃん!秋桜くんの絵がいいんだよ!」
面と向かって臭いことを言われて、僕の方が恥ずかしくなった。けど、同時に嬉しくもあった。自分の趣味が初めて必要とされた瞬間だったから。
絵を描く前に腹ごしらえをしようと言われたので海の家に行くことにした。
二人で昼食をとり場所選びのため、砂浜を歩く。彼女は場所場所でポージングを決め「ここじゃないな」などと真剣に場所選びに勤しんでいた。だいぶ歩いたところで彼女は「よし!」と何かを決めたような声を漏らした。
「ここにする!秋桜くんはもうちょい引きで描いて!私がメインというより風景メインで描いて!」
彼女はポージングを始めた。
「もういつでも描いていいよ!」
彼女は後ろで手を組み少し左に上半身を傾けた。
僕は言われた通り、引きで目に映る景色をスケッチブックに描いていく。途中、心地よい風が彼女の髪を揺らした。僕はモデルである彼女のことも考えてスラスラと絵を描いていく。
クレヨンは今まで使ったことがない画材だったがアクリル同様、重ね塗りができるので僕はアクリルで描くのと同じ要領で色を付けていく。
海と砂浜とお日様と彼女をクレヨンで、僕らしく描いた。
彼女の負担を減らすために、まず大まかに絵を完成させる。
「もう大丈夫だよ」
彼女は固めていた体を動かし、伸びをした。
「はー、モデルって結構大変なんだね」
僕はその後も絵を描き進めていく。彼女は完成まで絵を見たくないと言って完成するまで散歩に出かけた。
一人になった僕は時間を忘れて絵を描いた。
数十分で終わらせようと思っていたのだけれど集中してしまい、結局小一時間もかかってしまった。
やっと完成し、左右に首を動かし、彼女を探す。しかし、視界内に彼女の姿はなかった。
僕は立ち上がり、彼女を探しに出かけた。
少し歩くとテトラポットがあり、そこに彼女は座って、また日記を書いていた。
「終わったよ」
近づきながら言うと、彼女は顔を上げ、日記を閉じ笑顔で僕に駆け寄ってきた。
「見せて見せて」
僕はスケッチブックを彼女に渡す。
「うわー!めっちゃいいじゃん!すごい!私もすごい似てる!秋桜くん天才なんだね!」
「褒めすぎだよ。モデルがよかったのかな?」
「うわ!なにいまの!ださー」
彼女に茶化され少しムっとするが、彼女がうはははっと笑うので僕もだんだん可笑しくなりつられて笑った。
「一生大事にするね!」
「大げさだって」
それから僕と彼女はテトラポットに腰掛けて、海にお日様が沈んでいくのを眺めていた。
「・・・シチリアに行きたいなぁ」
彼女は夕日の光を浴びながらそう言った。
僕は一瞬ドキリとしたがあの夜のことは忘れて何でもないように彼女の呟きに答えた。
「一緒に行こうよ」
なぜ行きたいかっという理由は聞かないで。
彼女がこちらを見たのが目尻で見えた。
僕は前を向いたまま。
数秒、視線を感じていると「うん、行く!」と彼女の溌剌とした声が飛んできた。
僕らは海を見つめ隣の彼女は鼻歌を歌った。
「それなんの歌だっけ?」
「夜休みの羊の『砂浜』だよ!今年のライブのアンコールで歌ってたんだ~。そうだ!今度一緒にコンサート観に行こうよ!」
その日、僕は、シチリアに行くこととコンサートを観に行くことを約束した。そして、お日様が消えて一番星が顔を出すまで僕らは海を眺めていた。
すっかり遅くなってしまい、急いで電車に飛び乗った。
行きと同じく、四回電車を乗り換え地元に帰ってきた。
駅に着きそれぞれの道に進もうとした時、彼女が僕に質問してきた。
「秋桜くんの誕生日はいつなの?」
僕は誕生日を彼女に教える。
「そっか!ありがとう」
彼女は携帯にメモし「じゃ、またね」と手を振り僕とは反対方向に歩いて行った。
僕も自分の家路に着いた。
家に帰ると家族はすでに寝ており静かだった。
台所に行くと、焼うどんがラップに包まれておいてあった。僕はそれを電子レンジで温め、静まり返った台所で立ったままそれを食べた。さくっとシャワーを浴び自室にこもる。すぐにベッドに横になり目を閉じた。
あれから、死にたい気持ちになる時はあるが、あの日のように行動に移すことはしていない。
波のようなものだ。死にたくなったり、もう少し生きてみようと思ったり。
そんなこと考えなかったり。
そんな日々の連続だ。
自殺は衝動的なものなんだと思う。
こういう風に、波のようになっている人は、ある日突然何かを引き金に衝動的に自殺してしまう。
あの日、彼女が屋上に現れなかったら、僕は今ここにいないだろう。
あの日、死ななくてよかったかどうか僕はわからない。
死ぬことはいつでもできる。また死にたくなったら死ねばいい。
今は、何となく生きている。
小さな幸せと小さな不幸せを日々感じながら生きている。
僕はもう少し彼女との日常を過ごしたいと思い始めていた。音楽を聴いてや絵を描いているときに、もう少し生きてみるかと思うことはあったが誰かのために生きようと思ったのはこれが初めてだ。
僕は、彼女が僕に付きまとわなくなるまで生きようと思った。
そんなことを思うのだから少なからず僕は彼女に対して特別な感情を抱きつつあったんだと思う。
次の日、学校に行くと、僕と彼女が学校をさぼり二人仲良く出かけたことが広まっていた。クラスの人気者の彼女とクラスで目立たない奴が付き合っているのではないかという噂までも立てられていた。
僕はいつものように後ろの扉からひっそりと教室に入った。が、その時点で数人からの視線を感じた。それは、疑問のものもあれば敵対心のものあった。僕はすべて無視した。
「よー。お前、しおんと付き合ってんの?」
席につくなり隣の席のクラスメイトが話しかけてきた。
僕は朝からいろんな人からの視線を浴びて少々いらだっていた。
「違うよ」
「昨日、二人で手をつないで、駅の方に消えていくの見たって言ってたで?」
「人違いじゃね?」
「いやいや、二人とも昨日休んだじゃん。なんだよ興味ないとか言って、お前しおんのこと好きなんじゃん。いいな、しおんとデートできるなんて。この色男が」
彼女と関わることで起こる、こう言った面倒なことは全て諦めていた。
どうせ、からかわれるのは隣の席のクラスメイトか前の席のクラスメイトくらいなもんだ。
あとの連中はろくに話したことがないので実害はなさそうだ。多少の視線は目をつぶろう。
そろそろホームルームが始まろうとしているのに彼女はまだ登校していない。
チャイムが鳴り、担任が入ってきた。
「あれ、またしおん休み?」
誰かがそう言い担任が「休みだから、今日の日直は村岡、お前一人だからよろしく」と言った。村岡と呼ばれたそいつは面倒くさそうに「ういーっす」と応えた。
「なんで、しおん休みなん?」
小声で隣の席のクラスメイトが言ってきたので「知るかよ」と返した。
彼女はちょこちょこ学校休む。気にならないと言えば嘘になるが、近々彼女に理由を訊くことはできなかった。なぜならそれから一週間彼女は学校を休んだからだ。
メールもないので僕と彼女の接点はなかった。
彼女が再び登校してきたのは翌週の水曜日だった。登校するなりクラスの男子や女子になぜ休んでいたのか聞かれていた。
教室の喧騒で彼女らの会話を聞き取ることができなかった。彼女はなせ休んだのだろうか。その日も僕はいつも通りの学校を過ごした。昼食の時間になれば前の席のクラスメイトと一緒に食堂へ向かった。午後の授業にも耐え、あと何回学校に来ればいいのか、あと何回学校に来たら死のうかなどと考えながら、帰るため校門まで歩き出した。
「秋桜くーん!」
校門を出て右に歩みを進めようとしたところで彼女に呼び止められた。
僕は振り返り僕に追いつく彼女を待った。
「今日なにか予定ある?」
「いいや、ないけど」
「じゃ、うちに来てよ!」
「え?なんで?」
「夜休みの羊のレコードがうちにあるんだ!一緒に聴こうよ!」
夜休みの羊は今時珍しくレコードを販売している。僕はレコードで彼らの音楽を聴いたことがなかった。レコードをプレイヤーは持っていないからだ。
とても興味深い代物だったので、僕は彼女と一緒に彼女の家に行くことにした。彼女の家は僕の家とは反対方向にある。
もう慣れっこになったが、二人並んで歩く。
「今時、レコードを出すっておしゃれだよね~!」
「うん、けどCDは販売しないっていう」
「そうそう!そういうとこがまたいいんだよ。秋桜くんは普段はサブスクで聴いてる感じ?」
「そうだよ。またレコードだと違う感じがするけど」
「そうなんだよ!またレコードで聴くと一味違うんだよ!」
彼女はレコードの魅力について語り始めた。レコードにしか出せない音色やアンプによっても音色がことなるなど。
レコードについてイマイチ理解していなかった僕にとって、それは興味深いものだった。
「あれだよ!」
数十分歩き、彼女が指さす先に、外壁が水色の家があった。
どこにでもある作りの二階建ての一軒家。
木でできた可愛らしい表札が僕を出迎えた。僕の視線に気づいた彼女が「それ小学校の頃に作ったの」と言ってきた。
小学校の頃、僕も同じような工作の授業があったことを思い出す。
そんな作品なんて、授業が終わればすぐ捨てていたけれど。
彼女の後ろにつき、彼女が家のカギをあけるのを見守る。
同級生の女の子の親に会うと思うと少し緊張した。
「あっ!親いないから大丈夫だよ!緊張してる?」
クスクス笑う彼女。
どうやら緊張しているのがバレていたらしい。
「あ、あ~。そう・・・」
はやくいってくれよ。
「どうぞ!」
彼女の後に続いて、僕は初めて同級生の女の子の家に足を踏みいれた。
「お邪魔します」
彼女が誰もいない家の電気をつけていく。
洗面所に案内してもらい、律儀に手洗いうがいをすませる。それをみて、彼女は「りっちぎ~」といった。
僕は彼女に倣って二階にあがり彼女の部屋に入った。彼女の部屋はシンプルで片付いていた。勉強机、本棚、ベッド、本棚の合間にレコードプレーヤーとその横にいくつかのレコードも置かれていた。
「ちょっとジュース持ってくる!」
彼女は元気よく宣言し、部屋を出ていった。一人になって、改めて部屋を見回す。すると勉強机に彼女がいつも書き込みをしている日記が置いてあるのに気がついた。
僕の中にも邪心というものがあったのだろう。僕は日記の中身が気になった。少しだけ日記を見たいという衝動に駆られ、僕は日記に手を伸ばした。
手に持つとそれは数百ページのもので、僕はぺらりと一ページ目を開いた。
そこには可愛い丸文字が並んでいた。
『十月二十日
今日、病気だと診断された。余命は一年。
お父さんと同じ病気でやっぱりなって思った。
家に帰っても何もやる気が起きないのでネットで調べたところ日記を書くことに決めた。
今日から・・・・・』
「お待たせ―。・・・・!」
彼女は勢いよく部屋に入ってきた。
その勢いなら、僕の邪心も振り払えたかもしれない。
僕は慌てて日記を閉じたが間に合わなかった。
「・・・これは・・そ、その・・・ごめん」
変に言い訳するはよろしくないと思い僕は素直に謝った。
「・・・・見ちゃったんだ・・・」
彼女が心の中でため息をついたのが表情から見て取れた。
僕は確かめたかった。いや、否定してほしかったのかもしれない。
「これは冗談だよね?」
彼女は優しく首を左右に振った。
「本当だよ。・・・・ちょっと外出よ」
彼女はジュースをのせたおぼを勉強机に置き「はい」と両手を僕に差し出した。
「・・あ、ああ」
僕は彼女に日記を渡した。
僕らはそのまま外に出た。どこに行くのかわからないので黙って彼女についていった。
少し山を登り僕らは『羊山公園』に着いた。
夜景のスポットのベンチに腰掛ける。
まだ夕方なので、夜景ではなく夕日が僕らを包んだ。
座っても黙ったままの彼女。しびれを切らして僕が口を開こうとした時に彼女が口火を切った。
「私、もうすぐ死んじゃうんだ~」
おどける彼女だったがその目はどこか寂しく、すこし苦しそうだった。
「一ページ目に書いてあった内容って・・・」
「去年の秋。だから、もうすぐ一年かな」
「ってことは」
「そうだよ、本当にもうすぐ死んじゃうのよ、あはは」
彼女の笑いは乾いていた。
僕は、今どんな顔をしているのだろう。
「どんな病気なの?」
訊いていいものか迷ったけど、訊いてしまった。
「・・・脳の病気」
「脳・・・・」
「冗談だと思ってる~?」
彼女はくすくすと笑った。その笑顔は苦しそうではなかった。
「学校をちょくちょく休んだりしたのは?」
「そう、通院のためだよ」
なるほど。そういうことか。
「クラスの友達とかには?」
「話してないよ!話したところで何も変わらない。それよりも同情を向けられるのが嫌なんだ」
「・・・そっか」
「そんな辛気臭い顔しないでよ!私が死んでも秋桜くんは生きてね」
冗談っぽく聞こえるように言ったのはきっと彼女なりの優しさなんだと思う。
「学校は、どうしてやめないの?」
言ってから、なんて身勝手で傲慢な質問なんだと思った。
しかし、彼女の表情は悪い方には傾かず、僕を諭すように言った。
「病に侵されたらね、急に普通が恋しくなるんだよ。今までの普通がすべて特別に変わるの。だから今の私にとって、学校は特別なんだよ。・・・きっとね」
きっと、という言葉が気になったが聞く勇気はなかった。
そう、自分を納得させているようにも、嘘をついているようにも聞こえた。
それから彼女は黙った。僕も黙った。
空の色と街の風景だけが変わっていく。
終始無言だったけれど気まずくはなかった。
「さむ!」
少し寒い風が横切り彼女が声をあげた。
「帰ろうか」
僕は先に立ちあがり言った。
「そうだね!てか、私の家でご飯食べていきなよ!」
彼女は思い立ったように発言する。
「異性の親に会うのは緊張するし・・・」
「今日、ママ、夜勤だからうちいないよ!レコードも聴いてないし!」
僕はしぶしぶ頷き彼女の家に戻った。
この状況で気丈に振る舞えるほど僕は器用な人間ではなかった。
あと何回彼女に付き合えるのだろうか。
僕は急にいろいろなことを不安に思った。
家に戻り、また律儀に手洗いうがいを済ませ、今度はリビング兼キッチンに通された。
彼女はさっそくキッチンにて食材を並べ始めた。
「なにか手伝おうか?」
「のんのん!座ってて!テレビでも見てて!」
僕はテーブルに四つ置いてある一つに座りキッチンへ目を向ける。
彼女はキッチンに立ち、やや大きめの鍋に水を張り、それを火にかけていた。
まさか、カップラーメンじゃないだろうな。
すると、何やら細長い袋を手に持ちそれを開封する。どうやら、パスタのようだ。
適当にパスタの麺を鍋に入れた。
次に、フライパンを用意し、野菜室から小松菜、棚から鷹の爪を取り出した。
どちらも、適当な量を、油が引いてあるフライパンにぶち込んだ。
なるほど、ペペロンチーノを作っているみたいだ。
パスタの柔らかさを確認しつつ、フライパンの中身を炒めていく彼女。割と、様になっている。
ひとしきり、その様子を見守っていると、鍋の火を止め、流しに鍋を持っていき麺をざるに移していく。そして、麺の水を軽くきり素早く、フライパンに入れた。手際よく炒め、それを皿に移す。
あっという間に、ペペロンチーノが完成した。
「はい、どうぞ~。お手製ペペロンチーノ!」
「お~、美味しそうだね」
「多分、まずいよ~」
「自信ないね。いただきます」
僕は、適量の麺をフォークに絡め、口に運ぶ。
うん、悪くない。
いや、普通に美味しい。
僕はそれをそのまま口にだす。
「うん!美味しいよ!」
僕の方を見ていた、彼女が一瞬、泣きそうな表情を見せた気がした。
しかし、一瞬だったため気のせいかもしれない。と思っているうちに、彼女の表情はいつもの笑顔に戻っていた。
「え~!うれし!」
これまた、まぬけそうな声と共に飛んできた彼女の返し。
それから僕は、半分を彼女にお裾分けをした。
彼女もペペロンチーノを口運び「うわ!美味し!私天才かも」などと自画自賛していた。
僕はそれをみて勝手に口角が上がってしまっていた。
そのあと、談笑しながらペペロンチーノを食べ、二人並んで洗い物をした。
「じゃ、お待ちかね、レコードを聴こう!」
彼女の部屋に再び赴き、床に座る。
彼女はレコードが並ぶ棚から一つを手に取り、レコードを取り出した。
針を落とし、プチプチという音が鳴った後『夜休みの羊』の『青い春』という曲のイントロが流れ始めた。
確かに、サブスクで聴く音と異なり、レコードならではの音がした。
表現しづらいのだけれど、なんていうか、すーっと耳ではなく心に入ってくる、そんな感じがした。
彼女もベッドに腰掛け、黙って耳を傾けていた。
「レコードっていいね」
A面を聴き終え素直に感想を述べる。
「でっしょ!秋桜くんならわかってくれると思っていたよ」
彼女はにこっと笑った。それを見て僕も自然と口角が上がる。
この時、初めて彼女を失ってしまうという不安が覆いかぶさってきた。
失ってしまうからなんなんだ?
別に彼女はただのクラスメイトだ。それ以上でもそれ以下でない。
そう思い込まなければいけない、気がした。
僕は無理やりそれらを払拭した。
僕らはその後も、レコードを聴いた。
二人だけの空間で、二人だけの夜に、レコードの世界だけが広がっていた。
その世界には、病気という悪魔も、自殺という文字もなかった。
ただ安らかだった。
僕は日付が変わるギリギリまで、彼女とレコードを楽しんだ。
「なんか遅くまで付き合わせちゃってごめんね」
「いや、こっちこそ、遅くまでお邪魔しちゃってごめん」
僕は玄関の扉を開けようとして、振り返った。
彼女はきょとんとしていた。
「ん?どうかした?」
「これからも、もしよかったら付き合わせてほしい」
言っておきたかった。
それと、もっと一緒にいたいと思った。
彼女はきょとんとした顔から、笑顔に一変させて、言った。
「わかった!付き合わせる!」
その笑顔をみて満足した僕は、今度こそ振り返り、彼女の家をあとにした。
帰り道、彼女の言葉が頭の中で反芻していた。
僕の自殺を止めた時の言葉「死にたくなる時もあるけどさ、もう少し生きてみない?せっかく健康に生まれたんだしさ、もったいないよ」
カラオケで僕に放った言葉「十分じゃん!なんで未来のことを勝手に決めつけてマイナスに考えてるの?甘いよ!甘い!健康ならいいじゃん。勝手に不自由にしてるだけじゃん。健康なら自由に好きなように生きればいいじゃん!健康だけで・・・じゅうぶんじゃん」
そうか。そういうことだったのか。
こんな形で伏線が回収されるとは。
彼女の言葉たちを追い出すために僕は、イヤホンを取り出し、耳にはめる。
スマホを操作し、曲を再生する。
『一番星』
夜休みの羊を聴くことで、僕らのどこかにある共通した心を共有している気分になれた。
空を見上げて、一番星を探す。
もしかしたら、彼女も自分の部屋から、レコードを聴いているかもしれない。
彼女はあと何回星を見ることができるのだろうか。
しかし、その後、僕と彼女が学校で会うことはなった。
翌朝、学校に行くと、いつも通り、多方向からの視線を感じつつ僕は席についた。
席について、いつも通り、教科書を机にしまう。
机に教科書を入れるため、机に手を入れる。
すると、空っぽのはずなに、手に何かが触れた。当たる感じ、それは紙だと推測できる。
僕はそれを机の右側に手探りで寄せて、教科書を左側に入れた。手を机の中から出すと同時に、その紙も一緒に取り出す。
目視で確認すると、それはくしゃくしゃになったノートの切れ端だった。そこに黒い線が引いてある。
その線は言葉になっていた。
『死ね』
僕は心底ため息をつく。
こんな陰湿なこと今時小学生でもやらないぞ。
なぜ、これが僕の机に投函されたかは、見当がついている。
彼女はこのクラスの男子からモテている。
ゆえに、僕と彼女の関係をよく思わない奴が嫉妬心から嫌がらせをしているのだ。
面倒くさい。
面と向かって、殴られた方がまだよかった。
誰がやったかわからない分、こういうのが一番、たちが悪い。
「なにかあったのか?」
隣の席のクラスメイトがスマホに視線を落としたまま、僕に言った。
「いいや、なんでもない」
僕はそれを、制服のポケットにしまって、スマホをいじった。
すると、担任が入ってきて、彼女が本日も休みだと、告げた。
昨日、長居しすぎたせいだと思い、僕は少し、バツが悪くなった。
その日はそれ以外、何事もなく終わった。
次の日も、彼女は学校に来なかった。
少し心配になり、僕からメールを送ろうとしたがその必要はなくなった。
その日のお昼休み中、いつも通り、前の席のクラスメイトと食堂に行き、昼食をとっている時、彼女からメールが来たのだ。
『今日の放課後、空いてる?空いてたら南小学校の隣の喫茶店に来て!』
僕は『了解!』と返した。
放課後、僕は足早に学校を後にし、直接喫茶店に向かった。入るなり、彼女はすでにおり、オーナーであるおばちゃんと楽しそうに談笑していた。
「あっ。やっほー!」
「いらっしゃい」
「学校さぼって喫茶店でお茶なんて、いい身分だね」
「そうよ!昨日、告白されたんだから秋桜くんよりいい身分よ!」
僕は何かを頼まないと悪いと思い、ココアを注文した。
おばちゃんは人懐っこい笑顔を見せて厨房に消えていった。
告白の件は興味なかったので、触れずに今日、なぜ呼んだのか訊いた。
「それがねー。実は入院することになっちゃってさー」
彼女はホットレモンティー飲みながら言った。
僕が何かを言おうとしたタイミングでなにも知らないおばちゃんがココアを持って現れた。
「ありがとうございます」
受け取り、一口飲む。
美味い。ココアはいつだって甘く僕を受け入れてくれる。
「誰に、告白されたでしょー!」
「あっ、戻すんだ」
「もちろん!私がモテているっていうことを証明したいからね~」
「変わった趣味だね。・・・クラスの男子じゃない」
告白の件を彼女から聞いて、なんとなく目星がついていたので、それをそのまま言った。
「ぴんぽーん!でも、この先は秘密なんだ!ごめんね秋桜くん!」
口の前でチャックするような仕草をする。
「こっちこそ、ごめん。最初から興味ないんだ」
「いちいち、ひどいよね、秋桜くんは」
そして、「告白に乾杯」とわけのわからない宣言をし、僕のグラスに自分のカップをぶつけた。「キーン」という音が小さい喫茶店に響く。
その後、僕と彼女とおばちゃんで軽く雑談し、喫茶店を出た。
外は、すっかり日が落ちて肌寒かった。
「さむいね!一気に寒くなったよね」
「十月だしね」
並んで歩いた。
「ちょっとさ、紅葉見に行かない?絶対今が見ごろだよ!」
「どこに?」
「ミューズパーク!まだバスあるから行こうよ!」
ミューズパークとは僕らの地元にある、大きな公園で、観光客も多く訪れる場所だ。
自然豊かな場所なので一年通して四季を楽しめる。
確かに、ちょうど今頃がイチョウや紅葉の見ごろかもしれない。
僕は、もう走り出している彼女の後を歩いて追った。
「お金ある?」
バス停でバスを持っている時、彼女が訊いた。
「あるよ、てか、十五分くらいでしょ?」
「そうだよ!行ったことあるでしょ!」
「あるけどさ、紅葉だけをメインに行ったことはないかも」
「私も!でも絶対きれいだよ!」
僕らはバスに乗り、目的地を目指した。と、言っても、地元なので少し山を登ればすぐに着く。
十五分ほど揺られ、バスから降りた。
少し歩くと、イチョウがずらりと並ぶ道に出た。
「うわー!めっちゃきれい!」
暗かったけれど、両サイドからのライトアップがあり、綺麗にイチョウ並木が僕らの目の前に映し出される。
それは、確かに、もの凄く綺麗で幻想的だった。
「昼間見るのもいいけど、ライトアップされて見るのも神秘的でめっちゃいいね!」
横で彼女はテンションを上げている。
僕らはそのイチョウ並木をゆっくり歩いて、秋を味わった。
「これは、私についてきて、正解だと思ったでしょ?」
「・・・うん、まぁ少し」
「もう素直じゃないな」
彼女は不貞腐れたような表情を見せるが、口角の端は上がっていた。
「君が楽しそうで何よりだよ」
「すっごい楽しいよ~」
しばらく歩いて、彼女がこんな提案をした。
「そうだ!これをバックに写真撮ろうよ!」
僕は少しムッとした。
「写真?僕、あんまり好きじゃないんだけど」
「いいじゃん!女子なんて毎回写真撮るんだよ!ほらほら」
僕は彼女に腕をつかまれ、ぐいっと引き寄せられる。
スマホを内カメにし、僕と彼女と紅葉と、少し傾けて夜空が写るようにし、彼女はシャッターを切った。
フラッシュをたいたため、景色がよく写った。
僕は間抜けな顔をし、彼女は健康的な白い歯を見せ、ピースサインをしているという、僕にとっては黒歴史に残る写真ができ上ってしまった。
僕らは、最終のバスの時間に間に合わなければいけないので、長居はせずすぐにバス亭に戻った。
バスに乗り、前の方の席に二人並んで座った。
バス内は僕ら以外に人はいなかった。
「そういえば、入院するの?」
「そうそう!治療に専念するんだ!一応、学校はやめないけどね~」
「すぐに学校に戻ってくるんでしょ?」
「それがね~。もう余命は過ぎてるし、わかんないんだよね。最近、体調不良も多いし」
「・・・・そっか」
「だから、病院に遊びに来てよ!いい?」
僕は迷いなく答えた。
「もちろん」
「やったー!病院での楽しみが増えたよ!」
「そんなの楽しみにするなよ」
「これ、めっちゃ美味しい!どこのゼリー?」
僕は、家の近所にある、ケーキ屋さんの名前を口にした。
「あー!あそこね!ゼリーなんて売ってたんんだ!てっきりケーキだけだと思ってた。あそこのモンブラン美味しいんだよね~」
「わかる!」
僕は珍しく彼女に共感した。
「だよね!はーまた食べたいな~」
「今度買ってきてあげるよ!」
「えー本当にー!楽しみにしてる!」
彼女ははじける笑顔でゼリーをまた一口、口に運んだ。
僕は、学校終わりに、人生初めてお見舞いというやつに来ていた。
彼女の体調は良好そうなのでひとまず安堵した。
ゼリーを食べ終え、彼女は自分で立って、病室のゴミ箱にそれを捨てた。再びベッドに戻り、上半身を起こし、窓から外を見た。
窓の反対側のイスに腰掛けた僕も、一緒に外を眺める。
「無駄に眺めいいね」
「そうなんよ!あっそうだ、秋桜くん、屋上に行かない?」
「屋上?」
「そう!死ぬためじゃなくてね、星を見ようよ!私、昨日見たんだけどすっごい綺麗だったの!」
頭の言葉は無視し、僕は彼女の誘いに乗った。
彼女がベットから起き、立ち上げる時、僕は先ほどのお返しに、過剰に養護した。
「ちょっと!そんなおばあちゃんじゃなんだけど!」
と、僕の肩をグーパンチした。
せっかく、手を貸したのになんて奴だ。
僕らは階段を使い屋上へ上がった。
空の色は、オレンジとピンクとほんの少しの群青色で僕らを見下ろしていた。
ベンチに腰掛けて、遠くの空を眺める。
すると突然彼女が声を出した。
「あっ、あれ一番星じゃない?」
「いや~、あれでしょ」
各々、それっぽい星を指さした。
そんな話をしていると、秋の空はうさぎのスピードで変わっていき、少しずつ群青色が増えていった。
「確かに、星が良く見えるね」
「でっしょ~!」
一拍おいて、空を見上げたまんま言った。
「秋桜くんは、天国とか地獄とかあると思う?」
「ないんじゃない?」
「それは、つまり信じてないってこと?」
「うーん、というより、死んでるのにまだ生きるような感じは嫌だな。死んだら、ずっと眠っていたい」
「そっか~」
「君は?信じているの?」
「私は、信じたくないなぁ。天国にも地獄にも行きたくない。私は星になりたい!」
小学生みたいなことをいう彼女。
隣を見ると彼女はまっすぐ、空を見ていた。
「なるなら、秩父の星になりたい!ここから見える星になりたい!」
「どうしたの?急に。とうとう病気に脳をやられたの?」
「私は本気だよ!」
と、また僕の肩をグーで殴ってきた。
満点の星空の下、僕らは流れ星をたくさん見た。
その状況はこの上なくロマンチックだった。
今後、数十年、いや、もしかしたら一生訪れることのない、状況だったかもしれない。
次に僕が病室を訪れたのは、二日後学校をさぼり、正午に彼女の元を尋ねた。
病室の扉を開けると、彼女は雑誌を読んでいた。
僕に気づいた彼女は目を丸くした。
「秋桜くん。どうして?学校は?」
「さぼった。あっ、ケーキ買ってきた」
手に持っていた、ケーキを僕は彼女に差し出した。
「うわー!モンブランじゃん!さすができる男は違うぜ!」
彼女は、満面の笑みをこぼし「フォークがそこの引き出しにあるから二つとって」と言った。
僕は病室に備え付けられたキッチンの引き出しからフォークを見つけ、パイプ椅子に座った。
「一緒に食べよ!」
モンブランとチョコレートケーキを買っていた。
高校生のお財布ではケーキ二個が限界だった。
「チョコレートケーキはあとで、君が食べてよ」
「わかった!じゃモンブラン半分こしよ!」
言うと、モンブランのケーキを取り出し、ベッドの横の棚に置いた。
彼女はフォークで上手く半分に割った。
「うまい~!この味、この味~」
「喜んでもらえてよかったよ」
僕もケーキを口運ぶ。
「そういえば、どうしてさぼった?」
モンブランケーキを頬張りながら彼女が訊いた。
「どうせ、死のうとしてたし、学校とかどうでもいいよ。それより、君と過ごした方が合理的だと思って」
彼女はフォークを口に当てて難しい顔をした。
例えるなら、幼稚園児に「空はなんで青いの?」と質問された、保育士のような感じ。
「それはすごく嬉しいんだけど、学校は行きなよ~」
「特別だから?」
「そういうことでいいよ」
彼女は、くすくすと笑った。
ケーキを食べ終え、片づけをした。
ケーキが入っていた箱を丁寧に折りたたみ、ゴミ箱に捨てる。
余った、チョコレートケーキは備え付けの冷蔵庫に入れた。
そう、彼女はなかなかのクラスの病室に入院していた。
片づけを終えた僕は再びパイプ椅子に腰かける。
「ありがと!」
「ううん。さっきなんか雑誌読んでなかった?」
「あっそうそう!地元の雑誌読んでたの」
「また、なんで?」
「もうすぐ、お祭りあるじゃん?今年も見たいな~と思ってさ」
「いいじゃん。見ようよ。一緒に」
「おお!どうしたの?積極的じゃん。さ、さては私のこと狙ってるな?」
「そういうことでいいよ」
すると彼女は「キャー」といって、頭から布団をかぶった。
僕は一連の流れを白けた目で見てやった。
しばらくして落ち付いた彼女は何事もなかったかのようにベッドに座った。
それを見て僕は自然と頬が緩んでしまった。
「じゃ、僕はそろそろお暇するよ」
「あっ!うん。次からはちゃんと学校に行ってよ~?でも来てくれてありがとうね」
別れの挨拶をし、僕は病院を出た。
病室を出て、僕の家から病院まで三駅あるので、駅に向かう。
平日の午後、ホームには人がいなかった。
ほどなく、電車が来て乗りこむ。二駅なので、座らなくてもよかったのだけど、車内に誰もいなかったのと、気分で端の席に座った。
電車が走り出し、次の駅に着くか着かないかあたりで、僕の記憶は途絶えた。
意識を取り戻し、はっとして次の駅を確認するため、アナウンスに耳を澄ませた。
すると、僕の最寄りから、さらに二つ進んだ駅に着こうとしていた。
うっかり、三駅しかないのに乗り過ごしてしまった。
でも、家に帰っても特にすることもないので、せっかくだから、終点までいこうと思いそのまま座り続けた。
くだりのため、電車は秩父の奥地へと進んでいく。
終点の周辺に観光スポットである神社があるので、そこに寄って帰ろうと計画を立てた。
何駅も通り過ぎる。
小一時間揺られ、終点にたどり着いた。
電車を降りると、寒さが体を覆った。
少し、歩くとお目当ての神社が森の中でひっそりと佇んでいた。
観光スポットではあるが十月の平日なので、人は少なかった。
それでも、数組、観客らしく人たちを確認できた。
神様の財布に、控えめなお賽銭を投げ、お参りの仕方が書いてある通りに拝む。
一緒に花火が見られますように。
いや、彼女の病気が治りますように。
叶わない願いの方が祈りやすい。
おみくじが販売されている場所に行き、お金を入れておみくじを引く。
僕にではなく、彼女に対して引いた。
結果、吉。
そんなもんだよな。
ワンコインで人の運勢がわかったら誰も苦労しない。
引いたおみくじを木の枝に縛り、お守りが売っているところで、病気回復のお守りを買った。
遠くに日が落ちていくのを眺めながら、階段を下り駅に向かった。
空はすっかりみかん色と化していた。
その三日後の土曜日。僕はお守りを渡すべく、彼女の病室を訪れた。
が、しかし、彼女はずっと眠ったままで起きることはなかった。
結局その日は、彼女が目を覚ますことはなかった。
渡そうとしたお守りも起きている時の方がいいと思い、持ち帰ってきた。
家に帰って、自室にこもる。
椅子に座って、お守りを見つめる。
初めて、目の当たりにした。
彼女の顔色の悪さと、やせこけた頬や腕。
僕はショックを受けた。
この時、初めて、願いが叶えばいいなと思った。
彼女が入院し、十日が経った。僕は本日で四回目のお見舞いに彼女の病室を訪れていた。
彼女の顔色をみると体調は、あまり良くなさそうだった。
僕が彼女の病室の扉を開けても反応しないくらいには。
「体調は?」
「・・・あっ今日も来てくれたんだ」
体調が悪いのか、それから黙ってしまった。
僕は窓際のパイプ椅子に座り、外を眺めた。
ここからだと、武甲山が良く見える。
「あっ、そうだ。これ」
「ん?・・・お守り?」
「そう、いらないかもしれないけど」
「そんなことないよ。私、嬉しい」
そういって、彼女はお守りを大事そうに見つめた。
ずっとそうしていると彼女がかすれた声で僕に話しかけた。
「ねぇ。シチリアに連れて行ってよ」
「近々、退院できそうなの?」
「そうじゃなくて。抜け出すんだよ」
「君は、急になに言ってるんだよ」
僕は笑って言った。
「私は本気だよ。私は・・・私はもう長くない。なんとなくわかるの」
僕は何にも答えられなかった。
だから彼女が続けた。
「行かなかったら、秋桜くんはきっと後悔するよ」
その押し切る言い方に僕の心は揺らいだ。
そうだ、彼女にはもう時間がないのだ。
僕は、この状況に及んでも、まだ彼女が良くなると信じていたのだ。
彼女の顔色をみていれば、彼女がもう長くないことは容易に想像できるのに。現実から逃げている。
僕は、決意する。彼女とシチリアに行くことを。
「わかった。一緒に行こう!シチリアに」
彼女はゆっくり、そして優しく笑って「ありがとう、秋桜くん」と言って、力尽きたのかそのまま眠ってしまった。その日は面会時間まで彼女が目を覚ますことはなかった。
家に帰って、僕はネットでシチリアまでの行き方を調べた。
僕らの地元からシチリアまで二十時間はかかるみたいだった。もっと近いものだと思っていたので僕は肩を落とした。でも、これで彼女に付き合うのはきっと最後になる。彼女の最後の外出になる。
彼女が死んだら、僕も死のうと思っている。もともと死にたかったし、今の生きがいである彼女がいなくなってしまえば僕は生きていても意味がない。
だからお金の心配もなかった。今までの貯金を使い果たしてしまっても全然構わない。
それに遊園地に行った時のお金をまだ返せていない。その分のお金としてシチリアに行くお金を全て僕が賄ってあげようと考えていた。
それから、シチリアに行ったら僕は彼女に告白しよう。
振られても構わない。けど、この気持ちを彼女が生きているうちに伝えたい。
僕は、迷わず最短で空いている飛行機のチケットを検索し、ローマ行きのチケットを二枚購入した。
フライトの日は二週間後に決まった。
二日後、学校終わり、僕は再び彼女の病室を訪れた。
しかし、彼女は眠っていた。
その表情は穏やかだった。
その表情をみて、もう目覚めない方がいいのではないか、と思った。いいや、まだ彼女とシチリアに行かなければいけない。僕は首を振り彼女をみた。
「勝手に死ぬなよ」
眠っている彼女を見て僕は言った。
彼女が少しだけ笑ったような気がした。
次の日病室を訪れても彼女は眠っていた。
彼女が目を覚ましたのは、それから二日後。
病室に僕が訪れると、彼女は笑って出迎えてくれた。
「いつまで寝てんだよ」
「ごめんね。最近眠くて。・・・それは?」
僕の手を指さした。
「あ、ああ。シチリア行きのチケット。とれたんだ。どう?行けそう?」
「本当にとってくれたんだ。やるねー秋桜くん」
彼女はベッドに寝たまま。最近は上半身を起こすこともなくなった。
時々、苦しそうに顔をしかめる。
僕はフライト日を彼女に伝える。彼女はそれを聞いて「迎えに来てね」と言った。
「でも、本当にいいの?」
僕は訊いておきたかった。きっとこれで最後だ。シチリアに行って帰ってくる頃には、大惨事になっているはずだ。末期の女の子を病室から連れ出し、旅行にいくのだから。当然、怒られるで済む問題ではない。もしかしたら彼女と会うことさえできなくなってしまうかもしれない。
だから訊いておきたかったのだ。
「せめても、お母さんには言っといた方がいいんじゃない?」
「大丈夫だって。日記にちゃんと秋桜くんは悪くないって書いておくからさ」
「そんなんで許してもらえるとは到底思えないけど、ないよりはましか」
「大丈夫だって。きっと上手くいくよ」
そういって、グッドサインをし、やがて目を閉じ眠ってしまった。
そして迎えた、当日。
僕は前日から眠れずに、そわそわしていた。朝早く、支度をし学校には行かず、病室を目指した。
事前に病棟には面会で訪れる旨を伝えていたためすんなり、病室に辿りつくことができた。
今日のために、僕は貯金を全額下ろしてきたのだ。
病室の扉を開けるなり、彼女はニット帽をかぶり、少しだけ化粧をしていた。
どうやら出かける準備は満タンのようだ。
「おはよ」
「おはよー。時間通りだね」
彼女は薄く笑う。その表情から、あんまり体調が良くないことがうかがえた。
彼女は、昨日調達したという車いすを指さし、そこまで手を貸してくれと言った。
「大丈夫?」
彼女はゆっくり、ベッドから体を起こし、病室のスリッパを履く。僕は彼女の肩を抱くようにして支える。
「なんかさ、どきどきするね」
「本当だよ。僕なんか昨日からどきどきして寝れなかったんだから」
「違うよ。秋桜くんが肩を抱いているこの状況をだよ」
僕は、指摘され急に恥ずかしくなった。
「うふふふ。顔赤いよ?」
「無駄口叩いている余裕あるなら歩いてくれる?」
「はーい、うふふふ」
彼女を優しく車いすに乗せ、病室から出る。
病院の駐車場にタクシーを待たせているので、病院から出られれば僕らのミッションはほとんど成功したと言ってもいい。
タクシーに着替えなど必要なものを載せている。
廊下進んでいく、他の患者さんや、検査に付き添う看護師さんなどとすれ違ったけれど、特に何も言われず、エレベーターに乗る。
一階に着き、受付の手前を右に曲がり、中庭に向かう。
中庭には朝のお日様を浴びている老人や、走り回る子供たちがいた。僕らはそおっと駐車場に繋がる道に車いすを押す。幸い、僕らを訝しがる人たちはいなかったので無事、僕らは駐車場にたどり着くことができた。
「はあー、どきどきしたね」
彼女は疲れた笑顔を向ける。相当、負担をかけてしまったみたいだ。
「体調大丈夫?」
「うん!ありがとう」
彼女を先にタクシーに乗せ、僕は車いすを病院の入り口付近に置いた。
僕もタクシーに乗り行き先を運転手に告げると「ここからですか?」と驚いた。
「はい、ここから羽田空港に向かってください」
「いや、私はいいのですが・・・・」
運転手はバックミラー越しに彼女を見た。
「お願いします!お願いします!」
僕らは、何度も頭を下げた。そのうち彼女も頭を下げ始めたので観念したのかタクシーの運転手は「わ、わかりました」と言い、タクシーを発進させた。
タクシーに乗り、一時間が経った。
「結構、長丁場になるけど、本当に大丈夫?もし無理そうだっ」
「大丈夫!次はもうないから!」
彼女は僕を見て力強くいった。その目は僕に有無を言わせない迫力があった。
次はもうない、彼女が言うことで、彼女の死がよりリアルに聞こえた。
「そんな暗い顔しないよ。秋桜くん。秋桜くんは強い!私なんかいなくても生きていけるよ」
「こんな気持ちになるなら出会わなければよかったのに」
僕の心の声が思わず漏れてしまった。
「それは、違うよ」
カラオケの時は異なる「違う」が返ってきた。それは優しく穏やかな口調だった。
続けて彼女は何かを言おうとしけど、それを寸前で飲み込み、にこりと笑った。「少し、寝るね」といい、目を閉じた。
途中、車が揺れ、彼女の頭が僕の肩に乗っかった。
僕は振り払うことはせず、そのまま彼女に肩をかした。目的地に到着するまで、車内には彼女の寝息だけが静かに響いていた。
目的地である羽田空港に着き、運転手に料金を支払い、荷物を下ろし、僕らはタクシーを見送った。
彼女を支えようとすると彼女は手で制した。
「大丈夫、歩けるから、秋桜くん荷物重いでしょ」
僕は大きめのリュックサックと、キャリーバックを引いている。
「で、でも・・・」
「じゃ、空いてる、右手を貸して」
彼女は僕の空いていた右手に自分の左手を重ねた。そして握った。
その状況に僕はまたどきどきしてしまう。
エレベーターで入場ゲートがあるフロアまで上がり、フライト時間まで、あと二時間あるので、どこか座れそうな場所を探す。
入場ゲート付近に少し柔らかそうなベンチを見つけたので、二人で腰掛けた。
僕は荷物を下ろし、床に置く。
すると、彼女はまた僕の肩に頭を乗せた。
まさか、そんなすぐ眠ってしまったのかと、隣を見ると、彼女は目をあけていた。
その目は、心ここにあらずで、どこか遠く、明後日を見ていた。
「私、幸せだったなぁ」
だった。過去形でいう彼女。
「私、秋桜くんに出会えて、本当によかった。秋桜くんと色んな楽しいことができたよ」
「なんだよ、急に。これで終わりみたいじゃないか」
「さっき、出会わなければ、よかったって言ったじゃん?」
「うん、だからなんか終わりみたいな言い方すんなよ」
「違うよ。・・・私は秋が嫌いだった。昔から。なんか寂しいし、それに病気で余命を宣告されたのも秋。それで余計に嫌いになった。でもね、今は違う。秋が好き。だって秋にはコスモスが咲くでしょ?それを見たら私は秋桜くんを思い出す。味気ない季節が、秋桜くんとの思い出で色づいたんだよ。嫌いだった秋が私にとって大切な季節なったの。それってすごい素敵だと思わない?」
彼女はにこっと笑って、こちらをちらりと見た。「まあ、もう秋を迎えることはないんだけどね~」と舌を出して力なくおどけた。
「余命なんて、あてにすんなよ。今だって余命より一か月長く生きてるじゃんか。来年の秋だって目じゃないよ。そんな弱気になってどうすんだよ」
僕は少し怒りを混ぜていった。
「あはは。今度は私が怒られてる。でも、ほら人間いつ死ぬかわかんないしさ。一応、伝えておこうと思って。ありがとね」
なんだか今日の彼女はいつになく弱気だった。
これで終わりとでもいうような。
「これから、旅行が始まるんじゃん。シチリアに行ったら美味しいもん食べて、一番星でも見つけようぜ、な?」
「・・・うん、そうだね。ねー秋桜くん。私、喉乾いた」
「あっ確かに、じゃ買ってくるよ!ちょっと待ってて」
僕は自動販売機に向かうべくベンチから腰を上げた。
数歩あるいて、確か入り口付近にあったことを思い出し、そちらに歩き出そうとした瞬間「きゃー」と悲鳴が聞こえた。僕はすぐに声が聞こえた方に振り返る。
先ほどまで、座っていたベンチには誰もいない。が、その手前荷物が置いてある横で人が横たわっていた。それが彼女だとわかると同時に僕は走り出した。
人の目を気にせず。
僕は彼女に駆け寄り、その場に座り込んで、彼女の肩を持ち上げた。
彼女は、鼻から血を流していた。
彼女は薄目を開け、力なく笑った。
「・・・私、シチリアに行きけるよね?」
「あー、行けるよ?」
「・・・わたし・・行けるよね?」
「行けるって。で、でも、今は病院に行って少し休んだ方がいいかもしれない。また、次いつでも行けるんだから、な?」
「・・・つぎ?・・・ないんだって・・・・」
かすれた声で言った。
「次なんてなんだってば!連れてってよ・・・秋桜くん・・・・連れてってよ・・・・秋桜くんと行きたいんだよ・・・」
彼女は赤い涙を流した。
それは病気の影響なのか。彼女の気持ちなのか。わからない。
「ごめんね、冗談だよ・・・今の。また行けるよ。秋桜くん・・・」
そういって、静かに、音も立てずに彼女は目を閉じた。
「おい、目開けろよ!おい!寝てたらシチリアに行けないぞ!おい!!!」
何度ゆすっても、彼女が目を開けることはなかった。
僕の叫ぶ声だけが虚しく響いた。
誰が僕を許してくれるんだろう。
二日後、彼女はこの世を去った。
なんて不条理なんだろう。
結局叶わなかった。
彼女とシチリアに行くことも。
彼女とコンサートに行くことも。
花火を一緒に見ることも。
僕の願いも。
彼女に思いを伝えることも。
どれも叶わなかった。
彼女が亡くなってから十一日目の朝を迎えた。
今日はいつになく、早起きだ。学校も行ってないのに早く起きるなんて。
しかし、今日は目が覚めてしまったのだ。昨日の夜、僕のメールに一通通知が届いたのだ。
通知は彼女からだった。
まさか、と思い通知を開いた。すると、それは彼女の母親から送られてきたものだった。
僕は、無断で彼女を連れ出し、挙句の果てには殺してしまったのだ。許されるはずがない。彼女のご遺族に合わせる顔がなかったため、お通夜やお葬式には顔を出さなかった。しかし、メールの内容は僕を批判するような辛辣なものではなく、丁寧な言葉で、暇があったら家に来てほしいと綴られていた。
僕はいてもたってもいわれなくなり、翌日の向かう旨を伝えた。
一体要件はなんなのだろうか。
それに彼女の遺影に挨拶していないため都合が良かった。
僕は、ゆっくり朝食をしまい、制服を着て、外に出る。
雨が降っていた。
僕はビニール傘を差し、歩き始める。
コンビニに立ち寄り、お線香と迷った末、チョコレートのお菓子を買った。
僕はコンビニを後にし、彼女の家までの道のりを思い出しながら歩いた。
車の騒音は消え、閑静な住宅地を歩く。進むと水色の家が見えてきた。
つい、懐かしさを覚えてしまい、少し頬が緩んだ。
家の前まできて、彼女が作った木の表札の下にあるインターフォンを鳴らす。
緊張していた、もしかしたら僕を目の前にしたら怒りだすかもしれない。
それはそうだ、僕が連れ出さなければ彼女はまだ生きていたのかもしれないのだから。
『はい・・・』
くぐもった女性の声がインターフォン越しに聞こえてきた。
『クラスメイトの志村秋桜です』
『ああ・・・ちょっと待ってね』
インターフォンは切られた。優しい口調から僕の心配は杞憂に思われる。
ややって、玄関のドアが開いた。
「いらっしゃい」
お母さんは彼女にそっくりな方だった。僕は「失礼します」といい、家の中に入る。
「この度は、その、僕のせいで・・・」
僕はズボンの裾を握りしめながら言葉をつないだ。
「そんなかしこまらないで。さー上がって」
彼女は優しく微笑み、僕を迎え入れた。
「お邪魔します」
僕は靴をしっかり揃え、家に上がった。
いつか来た、リビング兼キッチンを通り過ぎ、奥の畳の部屋に通された。
入った瞬間、視界が脳が捉えた情報に僕は一瞬ひるんだ。何かがあふれ出しそうになるのを必死で止めた。
お母さんが先に膝を折り、その場に座った。「秋桜くんが来てくれたわよ」と遺影に向かって話しかけた。遺影には、はじける笑顔でこちらを向く彼女の姿があった。その横には、いつか渡したお守りと僕の絵が飾られてある。
「その絵、しおん凄く大事にしてたのよ」
僕の視線に気が付いたお母さんが涙声で言った。
僕もその場に座り、座布団をよけて木製の棚の前に正座した。
僕はリュックサックからコンビニで買ったチョコレートのお菓子を取り出した。
「あら、しおんが好きなお菓子じゃない。どうぞ、しおんの横にお供えしてあげて」
僕は、無言でそれを彼女の遺影の横にそっと置いた。
ろうそくに火がついていたので、買ってきたお線香に火を移す。そして手をあわせた。
何も祈ることはなかった。
生きているうちに祈ることはたくさんあったのに。すべて霧散した。
お参りを終え、目を開ける。と同時にお母さんが口を開いた。
「来てくれて本当によかったわ。あの子に頼み事をされていたの。ちょっと待っててね」
お母さんは立ち上がり、部屋を後にした。しばらくして、戻ってきたお母さんの手には、懐かしさを覚える、一冊の日記帳があった。それを僕に差し出す。
「これをね、秋桜くんに渡してほしいって頼まれてたのよ」
「そ、そんな。僕が見ていいものなのでしょうか」
「当たり前じゃない。それはしおんがあなたに残したものよ」
僕に・・・残したもの・・・
僕はその日記帳を受け取り、はやる気持ちを抑え、ぺらりとページをめくる。
そこにはいつか見た、丸文字が並んでいた。
『十月二十日
今日、病気だと診断された。余命は一年。
お父さんと同じ病気でやっぱりなって思った。
家に帰っても何もやる気が起きないのでネットで調べたところ日記を書くことに決めた。
今日からこの日記帳に色々なことを書き込んでいこうと思う。』
『十一月二日
今日、スマホをいじっていたら、知恵袋でやりたいことをリストアップすると良いと書いてあったので、私がやりたいことをリストアップしてみる。
やりたいこと
・巨大パフェを食べたい
・カラオケで歌いまくりたい
・異性と遊びたい(仲のいい男子なんていないけど)
・異性と二人きりでお泊りしたい(恋愛ドラマの影響)
・異性に料理をふるまいたい
・オールがしたい(大学生にはなれないから)
・シチリアに行きたい
・恋がしたい
ざっとこんなもんかな。・・・・』
日記は毎日行われているわけではなかった。
『十一月二九日
今日はクラスの男子に告白された。よく話こともない人。当然振った。恋はしたいけど、誰でもいいわけじゃないし。
リストを作ったけど、もうどうでもいいや。早く、死にたい。
自殺しなくも、病気が私を殺してくれるから、それまで待とう・・・・』
『一月五日
日記帳なのに、すっごい期間が空きすぎてる。
私は何をやっても続かない。人生も。でも、いいや、もうすぐ死ぬんだし。
ある意味よかった、病気になって・・・・・』
それからも、日記の日付は飛び飛びだった。
月に多くて三回。少ない時は二か月、飛んでいることもあった。
次のページは文字が消された跡があり読むことができなかった。しかし、一言。
『やりたいことができそう』とシャーペンではなく、黒いボールペンで書かれていた。
『九月二日
・・・・昨日は、クラスメイトの秋桜くんと、まさかまさかのパフェを食べに行った!
なぜ仲良くなったかはあんまり書きたくないけど。
でも、とっても楽しかった!しかも夜休みの羊が好きっていう偶然!これは仲良くせねば!明日はカラオケだー!楽しむぞー!!・・・・』
『九月三日
・・・・今日は秋桜くんとカラオケしてきた!
秋桜くんに少し怒りをぶつけてしまった。ごめんなさい。でも秋桜くんには生きててほしい。
カラオケはすごい楽しかった!喉ヘトヘト。秋桜くんも歌上手い!それから帰りにクレヨンとスケッチブックを買った!いつかシチリアに行って秋桜くんに絵を描いてほしいな。台風が休日に来るらしい!これはチャンスかも!・・・・・』
『九月七日
・・・・今日は学校を休んで、検査にいった。
あんまりよくないみたい・・・・
くよくよしてもダメだよね!明日は遠出だ!がんばれ私!台風よ味方してくれよ!・・・』
『九月九日
・・・・昨日と今日!なんと!旅行ができた!台風が来ないかと思ったらちゃんと来てくれた!
旅はハプニング!とっても楽しかった!今、雑誌を読んでいる。これは思い出の品になりそうだ・・・・そうだ、昨日寝る前にシチリアに行きたいって言ったんだけど、秋桜くん寝ぼけて覚えてないだろうな~。でも行きたい!秋桜くんと・・・・よし!明日馬鹿なふりして、海に行こう!予行練習だ・・・』
『九月十日
・・・今日は学校さぼって海に行った!おとといとは打って変わっていい天気!
風が気持ちよかったな。それから!秋桜くんの絵上手い!さすがだよ。見直してしまった!
ますます、シチリアに行くのが楽しみになった!・・・・』
僕は日記を一文字一文字丁寧に読み進めていった。
やがて読み終わり、静かに日記帳を閉じようとした時、お母さんから声がかかった。
「まだよ。そこはしおんの日記の部分。秋桜くんに読んでもらいたいのはそこじゃないの。しおんが言ってたわ。秋桜くんに宛てたものだからお母さんも見ないでって」
僕は、再び日記帳を開き、ページをめくった。空白のページが続いた。
日記のページ数が半分を少し過ぎたところで手をとめた。
黒い文字が書かれていた。
『拝啓、自殺する君へ。
これを読んでいるということは私が死んだってことだよね。
遺書でこのセリフを書いてみたかった(笑)
まず最初に!これだけは言わせて、今まで本当にありがとう。
秋桜くんに出会えて私は本当によかった。感謝してます。
もう死んでいるから赤裸々に秋桜くんに伝えたいことを書くね。
私は余命を宣告されたからずっと、色々なことを諦めてた。
なにか新しいことに挑戦すること、死ぬまでにやりたいことをすること、誰かを好きになることも。そういったこと全部諦めてた。
だってそうじゃない?
失うとわかっているのに百パーセント人を好きなるのは無理でしょ?
あの日、覚えてる?秋桜くんが自殺しようとした日。
実はあの日、私も自殺しようとしてたの。
そしたら先客がいたんだもん。そんなことある?(笑)
なぜ秋桜くんの自殺を止めたのか。
それは、きっとね、自分を見ているような気になっちゃったんだよね。
そして、気が付いたら秋桜くんの自殺を止めてた。
私自身びっくりしたよ。
だけど、あの日、秋桜くんが屋上にいなかったら私は残りの人生をこんなに楽しく過ごすことはできなかった。あのまま人生を終わらせてた。そういう意味でも本当にありがとうね。
そこで思ったの、死にたい人ならね、私のわがままに付き合わせてもいいと。
この人となら、やりたいことをできるかもって。
私の人生に一筋の光が射したような気がしたんだ。
だから私は、今までやりたかったことを最後に秋桜くんとしようと決めたの。
もしそこでね、仮に恋に落ちてしまったとしても、死のうとしている二人の恋なら許されるでしょ?
期限付きの恋なら許されるでしょ?
そしたら、意外と秋桜くんはノリが良くて、私のわがままに付き合ってくれた。
しかも、思ったより、優しかった。
うん。本当に優しかった。
ありがとね。
私何回お礼言うんだろう(笑)
私の死ぬまでにやりたいことを秋桜くんとできて本当によかった。
私は秋桜くんと過ごす時間が余生のすべてだったの。
大げさだな~って言いそうだね~。(笑)
もしかして、言ってる~?
よし、これ読んでいる時はもう死んでいるし、素直になろう。
私は、秋桜くんに恋してた。秋桜くんのことが好き。
でも、それは、きっと私が病気じゃくても秋桜くんのことを好きになってた。
どういうことかって?
私が恋できるのは秋桜くんしかいないから秋桜くんのことを好きなったんじゃなくて、そういうのなしにしても私は秋桜くんのことが好き。今までもこれからも。
人にこんなにストレート告白するのは初めてかな。文字でも緊張するね(笑)
秋桜はどう思っていたのかな。
もし同じ気持ちならお墓に私の名前でも差しておいてよ。(笑)
でもね、秋桜くんと関わっていく上で、一緒に過ごしていくことで一つだけね、後悔したことがあったの。
それはね。
生きたいと思うようになってしまった。
もっと、もっと、秋桜くんと一緒にいたいって思ってしまったの。
それは、秋桜くんと過ごしてくことで強くなっていった。
人生でやりたいことじゃくて、秋桜くんと一緒にやりたいことが増えていった。
でも、それをする時間が私にはもうない。
それが唯一、秋桜くんと関わって後悔したこと。
ねぇ、生きたいな。
普通に生きたい。
秋桜くんと生きたかった。
私をこんな気持ちにさせて!本当に罪深い男だよ(笑)
こんな気持ちにさせた私に対しての贖罪として私のお願いを二つ聞きなさい!
一つ、秋桜くんの絵をコンクールに出すこと!どんな小さいコンクールでもいいから秋桜くんの絵をみんなに見てもらってください!
秋桜くんの絵は素晴らしいって私が保証してあげる。だから胸をはってコンクールに出して大丈夫だよ(笑)
約束だよ?うん。よろしい。
そして、二つ!
生きて。
秋桜くんは生きて。
私の分までとは言わないけど、生きて。
そして笑って。笑えない時は泣いてもいいけど(笑)
私のお葬式でも泣いてもいいけど?
秋桜くんは泣かなそうだね(笑)
それはそれでなんだかなぁ。
でも、秋桜くんには笑っていてほしい。
わかったね?わかるよね?
さあ、いつまでも下ばっかり向いてないで、ほら、騒がしい未来が待ってるよ!
それで、私とはもうお別れ。またねじゃない。本当のお別れだよ。
名残惜しいけど。
でも、私はね、いつだって見守ってるよ。
だから、もし生き詰まった時があったら夜空を見上げてよ、どこかに私がいるからさ(笑)
じゃ、バイバイ、さようなら。
最初で最後の本気で恋をした、大好きな秋桜くんへ。
望月しおんより』
『P・S・
最後に私も、自分の名前をクレヨンで描いてみました!』
そこには、一輪の紫苑の花が描かれていた。
僕はその絵を指でなぞる。
その花の横に大きな水玉が落っこちた。
とめられなかった。
涙を。
受け止められなかった。
君こ死を。
とめどなく涙があふれ、僕は声をあげて泣いた。子供のように泣いた。声を押し殺すことなんてできなかった。
畳に頭を何回もこすりつけ、畳が鼻水と涙で汚れる。それでも構わず泣いた。
伝えればよかった。
好きだって、一言伝えればよかったんだ。でも出来なかった。
なぜだろう。今、目の前に彼女がいれば言えるのに。
どうして生きているうちに言えなかったんだろう。
悔しくて、また涙があふれ出してきた。
君のいない世界で僕はどう生きていけばいいんだ。
君がいた世界でも生きるのがやっとだったのに。
君と関わって生きていられるかもしれないって思ったのに。
僕は、ひとしきり、文字通り、涙が枯れるまで泣いた。
ようやく僕は顔を上げた。きっと目は赤く腫れ、鼻水は垂れ流れて、人に見せるような顔はしていなかったと思う。
それでも、彼女のお母さんは優しく微笑んで、桃色のハンカチを渡してくれた。
涙と鼻水を拭きとると、かすかに彼女の匂いが残っていて、また涙がこぼれた。
「しおんのために、そこまで泣いてくれてありがとうね。きっと、しおんも喜んでいると思うわ。ありがとう。ありがとう・・・・」
お母さんもまた、涙を流した。
僕はハンカチを洗って返すと言ったが、持っていてほしいと言われたので、ありがたく彼女のハンカチを受け取った。
玄関まで何とか歩き、靴を履く。
「また来てちょうだい」
「はい、また伺わせていただきます。いろいろが迷惑をおかけてして申し訳ございません」
僕は、玄関の扉を開けて、外に出る。
雨は上がり、雲の隙間からお日様が顔を出していた。
ありがとう。頑張るよ。そしてさようなら。
今年もまた、君が好きになった季節がやってきたよ。まだ夏の余韻を残しているみたいで、僕は辟易としているけど。
君の命日には、少し早いけれど、ここに来ることができてよかった。
今日は色々報告しないといけないことがあって。
ここに来ているから、わかっているとは思うけど、僕は今もこうして生きている。
先日、やっとシチリアにも行けたよ。
専門学校に入って、色々なアクリルの画材を買って試しているんだけど、それらをシチリアにはもっていかなかった。
なぜって?
君の好きだった画材で描くことが君のお願いに一番適していると思ったからだ。
描いたんだ。絵を。
君がきっとお父さんと見たであろう、シチリアの浜辺をね。
割と、いい仕上がりじゃないかな。
それを今日持ってきたんだ。
これから君の家にお邪魔するつもりだからもしここにいなかったら、その時にもまた見せるよ。
それが終わったら、秋に学校で行われるコンクールに出そうと思ってる。
結果はまたその時にでも。
僕は、先ほど花屋で買った、秋の花を花瓶にさす。
どうやら、お墓参りにも適した花らしい。
僕は手を合わせて、目を閉じる。
花言葉を花屋の店員さんに教えてもらったよ。
『追憶』『遠くにいる人を思う』だってさ。
確かに、故人に送るにはぴったりだよね。
それからもう一つ『君を忘れない』。って意味もあるらしい。
きっと手紙に描いたのはこっちの意味だよね。
そうそう。出会いの話なんだけど、僕も最近こう思うことにした。
いいかい?
僕は地元である秩父が好きじゃないって話をしたよね。
でも、君は地元が好きで、君は死んだら、ここの星になりたいって言ってたろ?
だから、僕は好きになった。
わからない?
秩父の夜空を見上げたら君がいるかもしれいって思えるようになったんだ。
他の場所の夜空と違って秩父の夜空に意味が付いたんだ。
すごく素敵じゃない?
きっと、騒がしい君だから、一番星にでもなっているんだろう。
僕は、今日も夜空を見上げるよ。
だって、どこかに君がいるんだから。
作中に出てくる音楽(夜休みの羊)
https://youtube.com/@yoruyasumi-hitsuji?si=qce7uowIFlAtT1z3
そして、初めての一人旅だった。
荷物検査を終えた僕は、搭乗ゲートフロアへ向かう。自動ドアを抜けて、空いているベンチに座る。
座るなり、少し伸びをする。背中がぴきぴきときしむ音がした。
僕はリュックサックから一冊の小説を取り出し、開く。
旅行に行く前に買ったもので、彼女が生前、一番好きだった小説。
彼女に感想を伝えることも、共鳴することも今はもうできない。
しばらくして、機内への入場が許されるアナウンスがあり、僕は、読みかけの小説を閉じ、リュックサックを片手に、搭乗口へ赴いた。
係員にスマホのチケットを見せて、何の問題もなく、帰りの飛行機にも乗ることができた。
機内に入り、自分の席をチケットで確認して、僕は窓側の席に座った。
安堵する。これで無事日本に帰れそうだ。
初めての海外旅行は思いのほかスムーズに終わりを迎えられそうだ。
リュックサックを床に置き、ひと段落すると、僕は自分のリュックサックから、昨日描いた絵を取り出した。
なかなかの出来栄えだと、心の中で自画自賛する。
人生、本当に何があるかわからない、と改めて思った。
「だから面白い!」と彼女は言いそうだ。
機内放送で、そろそろ離陸することが伝えられた。
隣にも人が座り、僕は念のため少しリュックサックをずらす。
シートベルトを着用するよう言われたので、僕は傷つかないよう気を付けながら絵をリュックサックにしまい、シートベルトをしめた。
やがて、機体は動き始める。
少し巡回し、離陸ポイントへ移動する。
機体減速し、やがて止まった。助走のため先ほどより早いスピードで機体は再び動き出す。
背もたれに体が押し付けら、機体は一気に上昇した。
機体が安定し、シートベルトをはずすことが許されたので、耳がキーンとなりながら、僕はシートベルトをはずした。
窓際の席をとって正解だった。
外の景色を眺める。まだ上昇途中の様でイタリアの海や街並みが一望できた。
それはすごく綺麗だった。僕はそれを目に焼き付ける。
フライトは十四時間。
やることがないので、僕は外を眺めながら、彼女との思い出を思い返すことにした。
幸い、時間はたっぷりとあった。
あれは、いつだったか、僕の名前が咲く頃だったような気がする。
淡い記憶を辿りながら、彼女との出会いから思い返した。
九月一日は一番自殺者数が多い日。成長の過程で、そんな情報を得た、僕は、まさか自分がそのうちの一人になるなんて、その情報を知った時には思いもしなかった。
もともと、生きることに対して、前向きでも後ろ向きでもなかった僕は、何となく年老いて、一定の年齢を超えたら年金暮らしをし、八十手前でひっそり死んでいくもんだと思っていた。
脚光など浴びず、劇的な何かが起こるわけでもなく、ただ平凡で平らな人生を送っていく、そう思っていた。決して悪いことじゃない。
しかし、時が流れるにつれて、僕の中で生きていくことがだんだんと後ろ向きになっていった。それは、空気が入っていく風船みたいに肥大していき、やがて消化できなくなっていた。
十七年生きて、人生の無意味さ、そして今を生きることの面倒くささ、そして未来への不安が僕を学校の屋上に動かした。
その風船は死にたいという明確な感情に変化していったのだ。
屋上に繋がる階段を一段一段、丁寧に上っていく。屋上のドアを開けるためドアノブを握りしめる。鍵がかかっていたらどうしようとは思わなかった。もしかしたら、風船が脳まで支配していて思考を停止させていたのかもしれない。ドアは簡単に開いた。キィ―という鼓膜を叩く嫌な音を立てて。
外は、僕の心に反して快晴だった。
秋晴れ。
いや、これで、人生を終わらせられる!という捉え方をすれば僕の心にそぐっていたのかもしれない。
自殺は別にネガティブな行動じゃない。
数十メートルほど歩き、屋上の柵に触れる。柵は、僕の胸のあたりできちんと整列し、高校生の身体能力では、ゆうに飛び越えられる位置にあった。
別に、いじめられているわけでも、体が不自由なわけでもない。ただ、生きる意味や生きる楽しさを見い出せないだけ。
「そんなことで死ぬな!」と誰かの怒声が聞こえてきそうだが、じゃ死んでもいい理由ってなんだ?
満場一致で死んでもいいと言える理由なんてあるのだろうか?
いいや。ない。
だから、どんな理由だろうと死んでもいい。
そう思えることで僕はいつも楽になれた。
僕は躊躇わず柵を飛び越えようとした。
僕が柵に足を引っかけたその時、僕の鼓膜に何かが飛んできた。
それは、誰かの声だった。
「ちょっと!なにしてんの!」
驚き振り返る。
そこには、クラスメイトである、望月しおんが大きく肩を揺らして立っていた。
「な、なに?」
僕は動揺を隠せなかった。
でも、死のうとしてることがバレていないことを期待した。
バレていたら色々面倒くさそうだ。
「なに、じゃないよ!今、死のうとしてたでしょ!」
僕の期待はあっけなく霧散した。
ここで変に言い訳をするのは、あまりよろしくないと思われた。
「死のうとしてたとして、クラスメイトである君に関係ある?」
「あるよ!とにかく、一回柵から離れて」
彼女の指示をシカトしていたら、彼女はスタスタと僕に近づき、僕の手を引いて屋上の真ん中まで移動させた。
向き合う。
改めて、顔を見ると彼女は意外にも優しく、そして切ない顔をしていた。
僕は黙って彼女をみる。
今になって、なぜ彼女が屋上にいるんだろう、という疑問が頭をもたげた。
「死にたくなる時もあるけどさ、もう少し生きてみない?せっかく健康に生まれたんだしさ、もったいないよ」
さっきの威勢はなくなり、彼女は少し照れてたように上目遣いで言った。
僕はどう答えていいかわからなかったが、言葉を発さずに、ただ頷いた。なぜ頷いたかは自分でもわからない。彼女の言葉に納得したから?それは違う。彼女の瞳がまっすぐだったから?それも違う。
本当にただ何となく。
「・・・・じゃ、もういい?」
沈黙が続いたので会話が終わったとみなした僕は、彼女にそう告げて彼女の返事を待たずに、ドアの方へ歩き出した。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って!秋桜(あきら)くんがこのまま死なないか、私、監視する!」
彼女の思い付きのような言い方に歩みを止めて答える。
「もう死なないから。余計なお世話だよ」
監視なんてされたら死ねないじゃないか。
「いいや!信じられない!だから、今から私に付き合ってもらうね!」
僕は首を傾げた。
そして、思った通り面倒臭くなったなと心の中でため息をついた。
こんな奴、放っておけばいいのに。
「とりあえずさ、屋上から出よ。先生に見つかったたら始末が悪いし」
彼女に促されて僕らは屋上を出て、階段を下る。下駄箱に着き、彼女と並んで上履きから靴に履き替える。彼女は器用に靴紐を縛り、立ち上がって先を歩く僕に並んだ。
「それでどこに行くの?」
「お!乗り気じゃん!えーとね、パフェリゾートに行く!」
僕は決して乗り気ではない。
彼女は隣でへらへら笑っていた。不幸中の幸いは校門までの道中、顔見知りとすれ違わなかったことだ。屋上での時間経過が、校門から人影を消した。なんて言い方をすると文学的だけど、同学年の連中は皆受験が控えているため、屋上で死のうとしている奴と、それを大げさに止めた奴以外は、皆学校が終われば足早に家路につく。
ちなみに、パフェリゾートとは、パフェ専門のチェーン店のこと。
校門を出て、パフェリゾートを目指す。
夕焼けが僕らを見下ろしていた。
店内に入り店員さんに「何名様ですか?」と訊かれ二名席に通された。店内は空いており、店内のBGMがよく聞こえた。席に着くなり、店員さんが水を持ってきてくれる。と、同時に彼女は、パフェタワーを注文したので僕は透かさず、彼女の注文に水を差した。
「ちょっと、パフェタワー?そんなに食べられないし、そんなお金持ってないよ」
「お金は私が払うよ。大丈夫!二人で食べれば完食できるよ!」
間髪入れず、店員さんが確認のために注文を復唱した。
「では、パフェタワーお一つでよろしいですか?」
「お願いします!」
彼女はニコニコと店員さんを見送った。
僕は彼女に冷たい視線を送る。
「どうしたの?怖い顔して」
彼女は店員さんを見送ったニコニコのまま、水を一口飲んだ。
「そうか、僕への心配は建前で、ようはパフェタワーが食べたくて、僕を拉致したわけね」
「人聞き悪い言い方しないでよ!秋桜くんも甘いもの食べたら死にたくなくなるよ」
「僕への心配が建前ってことは否定しないんだね」
「心配してほしかった?でも、本当に心配してるよ~!」
「本当に思っているなら、なんで吐き捨てるように言うんだよ」
彼女はへらっと笑った。彼女は表情に忙しい奴だ。
しばらくして、店員さんが大きな丸いおぼんに大きなパフェを持って現れた。
「お待たせしました~、パフェタワーでございまーす」
パフェが僕らの目の前に置かれる。
店員さんは、スプーンとフォークが二セット入った、細長い入れ物をテーブルの端に置き、伝票と笑顔を残し去っていった。
「さ~て、たっべよー!いっただきまーす!」
僕はその巨大な甘味に圧倒された。甘いものが得意ではない僕は、その量に少々食欲を失う。しかし、奢ってくれるのだし、せっかくのご厚意を無碍にするのは良くないと思い僕も控えめに「いただきます」といい、スプーンを持った。すでに彼女はてっぺんにある生クリームの山に手を付け始めている。
「おいしいいいいいい!」
彼女は生クリームを口に運ぶたびに笑みを深めた。
僕はちょうどグラスの淵の部分に添えられてあった、チョコレートのアイスクリームに手を付ける。口に運ぶ。うん。美味しい。今度はその下に埋まっているバナナを上手くスプーンに乗せて口に運ぶ。少し生クリームがついていたがこれも美味い。
「めっちゃ美味しくない???」
彼女は先ほどより幾分かテンション高めに言った。
「めっちゃ美味しいよ」
「え、なに、その程度のリアクション?」
違う。僕も彼女と同じくらい、美味しいと思っている。それがどれだけ表に出るかは人それぞれ。性分の違いだ。美味しいか不味いかは関係ない。と、そんなことを一人、心の中で呟いていると、彼女は唐突質問を投げかけてきた。
「秋桜くんは趣味とかあるの?」
ありきたりな質問。その質問の答えも持ちあわせていたので答える。
「絵を描くことかな」
「え!意外。どんな絵を描くの?」
「アクリル絵の具で描くことが多いかな」
「へー。アクリルなんだ。絵を描き始めたきっかけは?」
「小学生の時にゴッホの絵画集を見ていたんだ、それでいつか自分も描いてみたいなって思って。それがきっかけかな」
僕が饒舌に話していると、彼女は黙って聞いていた。
「社交辞令で訊くけど君は?」
「私は音楽聴くこと!」
「例えば誰を聴くの?」
僕は人気アイドルや今流行りのj₋popアーティストを挙げると思った。しかし、彼女はマイナーな、それでいて、僕のお気に入りのアーティストの名前を口にした。
「夜休みの羊!知らないっしょ~!」
「・・・・知ってる」
「えええええ!ほんとに!知ってる人なんているのー!」
僕も驚いたし、彼女と同じ感想だった。まさか知っている人がいるとは。ましてこんな身近に。やはり同じ趣味の人と出会うのは嬉しい。僕も幾分かテンションが上がった。
「私はね、一番星が一番好き!」
「いいよね、一番星」
と彼女は、その曲のサビの部分をハミングし始めた。
「えー!まさか、こんな偶然があるとはね。すごくない?お主も少しはテンション上がったんじゃなかろう?」
僕は素直に答える。
「うん。すごいよね。雀の涙の大きさくらいテンション上がったよ」
「少な!てか意味わかんないし、使い方間違っているよ」
僕の素直な気持ちは伝わらなかったらしい。
その後も、僕らは同じ趣味である、夜休みの羊について語り合った。そこで、去年の今頃に行われたツアーの初日に彼女が参戦していたことがわかった。僕もツアーの初日のコンサートに参戦したので、またそれもすごい偶然だった。しかし、僕はツアーの初日に参加したことを彼女に伝えなかった。なぜか。彼女があまりにもその日のコンサートの様子を熱弁するものだから僕は聞き役に徹することにしたのだ。
時間と共に僕らはパフェを減らした、彼女は主に生クリームを、僕は主にバナナを。残りコンフレークになったところで二人ともスプーンを置いた。
「もう、むりー!」
「完食できるんじゃなかったの?うーくるしい」
「世の中甘くないね」
「パフェだけに」
彼女は豪快に笑った。
少し休憩をはさみ、どちらがともなく、立ち上がり、彼女は伝票を持ちレジに向かった。先にお店を出ると外にはお日様の姿はなく、黒いくれよんで塗りつぶしたような空が張り付いていた。
ほどなく、彼女がお店から出てくる。
「帰ろっか」
彼女の宣言で、歩いてきた道を戻る。
「一番光る~の~はあの星のようどけど~君といるこの時が一番輝いてる~」
彼女は一番星のサビをハミングでなく今度は歌った。
彼女は軽いスキップをし僕より数歩先を進んでいる。
「私、ここが好き。秩父っていいところじゃない?」
彼女は振り返り、後ろに手を組んで共感を求めてきた。
「そうかなぁ、僕は好きじゃないな。夏は暑いし。冬は寒いし」
「でもさ、空気はきれいだし、水は美味しいし、星もきれいだし、人もいいし!秋桜くん!ちゃんと中身を見ないと!」
僕も彼女も、今あげた例は外見の話だ。
「私、この前東京に行ったんだけど、空気が汚くて、早く帰りたいっ!て思ったもん!」
それは敏感すぎないか?と思ったが、嗅覚は人それぞれなので黙っておいてあげた。
僕と彼女で、地元のいいところと悪いところ言い合っているうちに学校に着いた。
「あっそうだ連絡先、交換しよ!」
学校に着き、家路に着く間際彼女が提案した。
とくに断る理由もないので承諾する。
学校で別れるため、軽い挨拶をしたあと、彼女に背を向けて僕は歩き出した。
「ねー」
僕は、同じ日に同じ人に二度も引きとめられるのは初めてのことだった。
「また、付き合ってくれる?」
僕は振り返り。数秒、間をあけて言った。
「考えておく」
「私は、秋桜くんを監視をしなきゃいけないしね!大事な共通の趣味な友達を失うわけにいかないもんね~。じゃまた明日!」
彼女はくるりと身を翻し、僕の返事なんか待たずに、軽いステップを踏み、軽やかに去って行った。どうしてだろう、胸に肥大していた風船が心なしか少し小さくなっているような気がした。
人間は単純なんだなと思った。
今日は金曜日で明日は学校がないので彼女に会うことはない。彼女が曜日を忘れていて、言葉の流れで、また明日、と言ったと思っていた。
しかし、彼女はその夜、メッセージアプリで週末の誘いをしてきたのだ。
僕は家に帰り、手洗いうがいを済ませ、夕飯には手を付けず、自室にこもった。しばらく、描きかけの絵の続きを描いたり、ネットサーフィンをしていると時間は自然と過ぎ、僕はお風呂に入るため自室を出た。お風呂から出て、髪を乾かし、キッチンで水を飲み、再び自室にこもった。
もう少しネットサーフィンをして、寝ようかと思い携帯を開く。すると見慣れない通知が届いていた。
通知は彼女からのメールだった。
『やっほー。今日は付き合ってくれてありがとう!今頃胃もたれしてる頃だろう(笑)突然なんだけど明日空いてる?』
『空いてるよ。何かあるの?』
『週末死なれたら困るから、明日も私に付き合ってもらいます!』
それから集合場所と集合時間が送られてきた。僕は『了解』と送り携帯を閉じた。ベッドに体を預け、右手を額に乗せる。もう片方の手を胸にあててみる。心臓がドクンドクンと規則正しく振動を鳴らしているのが、手を通して伝わってきた。
僕はまだ生きていた。
無論、それは彼女のおかげである。
彼女は今何をしているんだろう。
一番星を聴いているのだろうか。
そんなことを考えていると自然と瞼が重くなり僕はいつの間にか眠ってしまっていた。
翌日、時間通りに集合場所に向かった。集合場所に着くと彼女はすでにおり、僕に気が付くと手を振った。僕も軽く手をあげて応える。
「おっはよー!今日も死んでないね!」
「前代未聞のあいさつだね」
彼女の私服姿を見るのは初めてだった。黒のミニスカートに白のシャツ。女子にしては高めの身長の彼女には実に似合うコーデだった。
「それで、今日はどこに行くの?」
「おお!今日も乗り気じゃん!今日はカラオケに行くよ」
僕は決して乗り気なわけではない。
彼女が今日のホストなので、僕は彼女についていく。
九月だというのにまだ夏を引きずっている気温に僕は辟易とした。ほどなくあるいて、僕らは、安さが売りで地元でも有名なカラオケ屋に着いた。
中に入る。
「いらっしゃいませ~」
気だるそうなアルバイトであろう若い店員が僕らを出迎えた。
「カラオケ、十二時間パックで!」
入店早々、彼女はそう宣言した。
僕は、自分の耳を疑った。
自分の耳と、彼女の言い間違いを疑った。
「十二時間パックですね。先払いになります。十二時間パック・・・」
「ちょ、ちょ、ちょっと」
申し訳ないと思いつつ、店員さんの言葉を遮って受付カウンターから彼女を引きはがし、彼女を問い詰める。
店員さんを一瞥するとみるからに不機嫌そうな顔をしていた。
「ん?なになに?」
彼女はまぬけな顔をしていた。
「十二時間パック?意味分かんないんだけど」
「あ~。あのね、三時間パック、六時間パック、十二時間パックと分かれてて、パックにするとお得なんだよ~?」
「そうじゃなくて、なんで十二時間なの?」
「今日はカラオケで歌いまくるの!ほら共通の趣味があるじゃん!」
もう一度、店員さんを一瞥する。今にも飛びかかってきそうな猛獣の顔をしていた。
僕は折れた。
「十二時間パックで!」
再び彼女がそう宣言し、先払いでお金を支払い、個室に通された。
安さを売りにしているため、部屋は狭いし、ぼろい。
彼女はマイクが入ったかごをテーブルに置き、マイクを一つ手にとり、機械をなになら操作し始めた。
その手際はスムーズだ。
結構カラオケに来ているということを思わせた。
「さ~て、歌おう!」
操作が終わったらしい彼女は、マイクを天井に向けた。
カラオケのテレビの画面に、夜休みの羊という文字と曲名が映し出される。出だしのキーも間違えず彼女は少しハスキーな声で歌い始めた。
ちなみに夜休みの羊のボーカルは、男性でハイトーンボイスなので彼女の声とは全く異なる。
しかし、彼女は、見事彼女節で歌い上げた。彼女の歌になっていた。
夜休みの羊は、どの曲もハモリの部分があるのでそこだけ僕も歌った。
僕は歌うより聞いている方が好きなので、彼女が次々と夜休みの羊の曲を入れ歌うことに嫌な気はしなかった。
彼女も気を遣ってか、僕に何度か「歌いなよ!」とマイクを通して言ってきたけれど、先ほどの理由を述べると彼女はにこりと笑い、テンション高く歌い続けた。
時間は経過し、残り一時間になったところで、彼女はマイクをおいた。
「おつかれ」
僕は彼女に労いの言葉を送る。彼女はだらりとソファーに腰掛け、先ほど注文していたクリームソーダを一口飲み「おいしい」と全身をバタつかせた。
それしきりのことで、そこまで喜べる。それが少し羨ましく思った。
すると彼女は可愛いウサギ柄のショルダーバックから日記帳の様なもの取り出し、ペンを走らせた。
「なに書いてるの?」
「ん~?べーつにー」
彼女はそれから数分間、真剣な眼差しで日記帳にペンを走らせた。
「そういえばさ、なんで死のうとしてたの?」
彼女はきょとんとした顔で純粋な疑問として僕に訊いた。
例えるなら、幼稚園児が大人に「空は何で青いの?」と訊くような感じで。
僕はその質問に対して明確な答えを持ちあわせていなかった。
趣味の質問とは違って。
伝わるかどうかはわかないが僕は胸の内を素直に話した。
「特にこれといった理由はないよ」
「ん~。例えば、シリアスな感じになるけど、いじめられてるとか、どこか体の調子が悪いとか、それか家庭環境とか・・・・」
彼女にしては珍しく歯切れが悪かった。それもそうだろ、自殺しようとしていた奴の目の前で、自殺の話をするのだから。
僕はなるべくシリアスにならないよう気を付けながら、僕が普段考えている自殺論を語った。
本当はそんなものないのだけれど。
「僕にとって自殺っていうものはマイナスなことじゃないんだ。この世界で前向きに生きていることの方がおかしいと思う」
彼女は、僕の持論に良いとも、悪いとも、言わなかった。ただ「それはどうして?」と先を促した。
「毎日同じ時間に起きて学校に行く。顔面が整って生まれてきたわけでもないし、お金持ちの家に生まれてきたわけでもない。これから数十年働かされて、国に税金を納めて、ある日ぽっくり死んでいく。それだったら早く終わらせて楽になりたい。死ぬってことは、楽になれるってことなんだ。それってマイナスなことじゃない」
僕は、カラオケの黒いテーブルも見つめながら、普段、心の中で思っていることを彼女にさらす。
彼女はわかりやすく顔をしかめて、静かな声で「違う」と言った。
「違うって?」
僕は訊き返す。
「そんなの違うよ!今、健康なんでしょ?」
「肉体は健康だよ」
彼女の声のボリュームが上がった。彼女をみる。どうやら、マイクのせいではないらしかった。
「十分じゃん!なんで未来のことを勝手に決めつけてマイナスに考えてるの?甘いよ!甘い!健康ならいいじゃん。勝手に不自由にしてるだけじゃん。健康なら自由に好きなように生きればいいじゃん!健康だけで・・・じゅうぶんじゃん・・・」
熱が入ったように急にしゃべりだし、最後は萎むような声を残し、うつむいてしまった。
僕は冷静さを失っていなかったし、僕も昔はそう思っていた。健康ならいいと。健康でいられるのだから幸せだと。
ただ、今は、それをも飛び越えた境地にいるのだ。
だから彼女の方が甘いと、心の中で呟いた。
僕は仕方なく食い下がらなかった。
食い下がったところでオチは見えている。
「た、確かに、君の言う通りかもしれない。僕は甘いのかも」
「い、いや。こっちこそごめん。急に熱くなっちゃって」
彼女は反省したように熱くなった顔を引っ込め、また一口クリームソーダを飲んだ。
僕は特に気にしない。僕の意見が絶対的だと思っていないからだ。
あんな論に共感する人の方が少ない。
ただも一度言う、彼女は甘い。
「じゃ、一緒に一番星を歌おう!」
彼女はくるりと表情を変化させ、再びマイクを持った。
また不機嫌になられては困るので僕も大人しくマイクを持つ。
二人で残りの時間を一番星で埋めた。
「ありがとうございました!」
朝の店員さんとは違う、元気のよい別の店員さんにお礼をいわれ外に出た。
外にはもう、夕焼けの姿はなかった。
「はあ。楽しかった~」
「そうだね」
「私、寄りたいお店があるんだけど、いい?」
「いいよ、何買うの」
「ないしょ~」
僕らは近くの本や文房具が売っているお店に向かうべく歩き始めた。
十分ほど歩き、お目当てのお店に着いた。
入店するなり、僕らは別々に行動した。
僕はアクリルのコーナーへ行き、今足りない絵の具を思い出しながらアクリル絵の具のコーナーを物色した。さまざまな色を順番に眺めていき、気に入った色の絵の具手に取ったりしていると、レジ袋を持った彼女が近づいてきた。
「いろんな色があるんだね~」
「うん、緑だけでもこんなに種類があるんだ」
「秋桜くんは何色が好き?」
「好きな色は白かな。絵を描くうえで一番大事な色」
「へ~。そうなんだ」
「興味なさそうだね」
「そんなことないよ!」
僕は何も買わなかった。帰路に着き、隣を歩く彼女に何を買ったのか尋ねた。が、彼女は最後まで何を買ったのか教えてくれなかった。
彼女は何を買ったんだろうか?
別れ道まで来て、別れの挨拶もそこそこに僕らはそれぞれ家路についた。
その夜は彼女からの連絡はなかった。
日曜日であるその次の日も彼女からの連絡はなかった。
日曜日の夜になって、もしかして僕は彼女からの連絡を待っているかもしれないと思った。
今、彼女は何をしているのだろう。
月曜日になって、彼女と深く関わりだして初めての登校日。
僕は、いつものように後ろの扉から教室に入り、席に座る。
彼女はまだ来ていなかった。僕は隣の席のクラスメイトに軽く挨拶をし、今日の授業で使う教科書を机にしまう。
手持ち無沙汰になったので、ポケットからスマホを取り出し、ネットサーフィンをはじめようとした時、前の扉が開き彼女が教室に入ってきた。
彼女は多方向から朝の挨拶を受けて、自分の席に着いた。席に着くなり、彼女といつも行動を共にしている二人のクラスメイトが彼女の席に近づき、彼女を含む三人は談笑を始めた。途中、彼女がこちらをちらりと見た。僕も彼女を見ていたので、目が合ってしまい、すぐにスマホに視線を落とす。
「秋桜、お前、しおんのこと気になってんの?」
隣の席のクラスメイトが話しかけてきた。
「違うよ。うるさいなと思ってさ」
苦笑いしながら答える。
「わかるわ~。うちのクラスの女子マジでうるさいよな~。でも、しおんは可愛くね?」
あまりに唐突な弾丸をどう処理しようか考えたが、僕はなるべく興味なさそうに返した。
「かもね」
「おいおい~。つれねーな」
そこで朝のチャイムが鳴って、隣の席のクラスメイトとの会話は終了した。
担任が教室に入ってきた。受験生だから気を引き締めろだの、将来を気にしろなど、また生きづらくなるような発言を担任は並べ始めた。
「それから週末は台風が来るようだから、外には出ず、家で勉強するように」
休日の在り方までを強要し、担任は教室を後にした。
それから授業は滞りなく進んだ。
四限目の授業が終わり、前の席のクラスメイトに誘われ、食堂に移動する。
「僕、頼んでおくから席、陣取っておいて!」
「わかった。ありがとう」
「何がいい?」
「ん~。醤油ラーメンで」
「おっけ~」
僕は窓際の席に座り、前の席のクラスメイトを待った。
ほどなくして、白いトレイに醤油ラーメンとカレーライスを持って僕の向い側に座った。
二人で昼食を食べ、軽く雑談をし、食器とトレイを返却口に戻して教室に戻ることにする。教室に戻る途中、彼女を含む三人組のグループが前から歩いてきた。僕は前の席のクラスメイトとの会話に夢中です、という雰囲気を醸し出し、彼女を無視することに決めていた。
しかし、彼女はすれ違いざま、僕に「やっほー」と挨拶をしてきたのだ。
僕は、前のクラスメイトとの会話を持続させた。
「今の秋桜くんに言ったっぽかったけど?仲いいの?」
取り巻き三人組が見えなくなったタイミングで、前の席のクラスメイトが言ってきた。
「さー?僕に言ってた?」
僕は白を切る。
「えー!じゃ僕に言ったのかな?それって僕に気があるってことかな?」
勝手に舞い上がるクラスメイトを見て「きっとそうなんじゃない?」と返しておいた。すると、さらに舞い上がっていた。
人間はやはり単純なんだなと思った。
その日は、それ以上彼女との接触はなかった。
次の日も、その次の日も、彼女との接点はなかった。
彼女が再び僕の日常に足を踏み入れたのは木曜日。
時間帯は夜。細かくいえば、寝ようとしたタイミング。
スマートフォンが震えた。
彼女からのメールだった。
『やっほー!起きてる?週末、また私に付き合ってもらいたいんだけどいいかな?』
週末は特に予定がないので彼女の誘いに乗ることにした。
『いいよ』
それからすぐに返信が来た。集合時間と集合場所を綴ったものだった。集合時間がやけに早かったが特に気にしなかった。
きっと朝型なんだろう。
次の日、彼女は学校に来なかった。
「今日、しおん休みだってさ~」
隣の席のクラスメイトが、つまんなそうに僕に言ってきた。
「そうなんだ」
僕はまた、興味なさそうに返した。
「ったく、お前、クラスの人気者のあのしおん様に興味ねぇのか?」
「あるかな」
「嘘つけ!」
その日の学校もいつも通り、何の変哲もなく終わった。
「おっはよー!」
土曜日の朝、待ち合わせ場所に行くと彼女は普段は背負っていない桃色のリュックを背負って仁王立ちしていた。
「おはよ。台風とか言われたけど、めっちゃ晴れたね」
「それな!私、晴れ女だわ」
どこへ行くのか尋ねたら、とりあえず電車に乗ろうと言われたので黙って従う。僕らは各駅停車の電車に乗りこみ、並んで座る。
電車の中は、さほど混んでいなかった。
「とりあえず、終点まで行って、その後、乗り換えて、バスか」
スマホを見ながらルート確認を行う彼女。
どうやら、かなりの遠出らしい。
少し、心の中でため息をついていると、目の前に一口サイズのチョコレートのお菓子が差し出された。
「食べる?さっき駅で買ったんだ」
「ありがとう」
僕はチョコレートを受け取り、ゴミがなるべく出ないよう開封し食べる。
「秋桜くんのおうちは門限とかある?」
「いいや、ないよ」
「そっか、ならよかった」
「一体、どこに行くの?」
「まあまあ。そんな焦らない焦らない」
それから電車に揺られること一時間半。乗り換えのため、ホームを移動し今度は急行の電車に乗った。さすがに、早朝より人は増えており、座ることができなかったので、二人並んでつり革につかまった。
電車の窓から流れる景色を眺める。僕らの地元と肩を並べるような田舎風景が目に入る。
僕があの日、自殺しようとしていなかったら、彼女とパフェを食べに行くことも、彼女とカラオケ屋さん行くことも、文房具屋さんに行くことも、彼女と連絡先を交換することもなかったのだ。そう考えると、人生本当に何があるかわからない。何を引き金に人生が動くかわからない。きっとこれから生きていけば、それが悪い方向に動いてしまうことだってあるだろう。思いもよらない事故に巻き込まれたり、事件に巻き込まれることだってあるかもしれない。罹りたくもない病気に罹るかもしれない。そういった不安の積み重ねが自殺への衝動に繋がっていくのだ。
健康ならいいと彼女は言った。果たしてそれは真実だろうか。
「秋桜くん、降りるよ!」
彼女に促され電車を降りる。
「それで?さっきバスとかいってなかった?」
「そう!バスに乗る!でも、バスが来るまで少し時間あるから何か食べよ!」
確かに、お腹が空いている気もする。
「あてはあるの?」
「やっぱり、ギョーザだと思うんだけど。どう?」
「うん、そうしよう」
駅の中は混雑していた。その中に交じって僕らは歩いた。事前に調べているのだろう、彼女の足には迷いがない。
駅から数分歩きいくつかのビルが重なる一角で彼女は足を止めた。
地下へ階段で降りると、中華料理屋が顔を出した。
店内は木をベースとしており、新しくできたのか清潔感があり好感が持てた。
僕らはギョーザ一人前と中華そばを二つ頼んだ。
「ここ、雑誌で調べたお店なんだけど、美味しいって有名らしいよ!」
くるくると店内を見渡しながら彼女が言った。
「へー。金額はお財布に優しいよね」
「うん。秋桜くんみたいにね」
メニュー表から顔を上げて彼女を見た。
彼女は舌を出して右手を後頭部に当てておどけた。
面倒くさいので、そのままメニューに視線を落とす。「無視すんな!」と雑音が聞こえたけれど、店内にかかっているラジオと共に僕の耳から耳へ流された。
しばらくして、注文した品々が運ばれてきた。
目の前に置かれた、中華そばのスープをレンゲですくって飲む。
見た目に反して、味は少し濃いめで懐かしさを感じるものだった。
麺もちょうどいい柔らかさで、成長期の僕らはそれを貪った。
ギョーザもいただく。
彼女はお皿の端に設けられた溝に、お酢と醤油をたらし、満遍なく浸して食べていた。
やれやれ。
ギョーザはそのままで食べるに限る。
そのままで完成されているのだ。
すぐに完食し、長居はすることなく、お暇する。
「めっちゃ美味しかったね!」
「さすが雑誌に載っているだけあるね」
僕らはバス停まで、歩いた。
「バスはどれくらい乗るの?」
「ん~。一時間くらいかな」
「なかなかだね。帰りが思いやられるな」
バスが到着し、後方の二人席に彼女が窓側、僕は通路側で座った。
バスが発車してすぐ、彼女は足元に置いた桃色のリュックサックをあさる。またも、日記帳を手に取り日記帳にひっかけてあったボールペンで何やら書き込みを始めた。
きっと日記が趣味なんだろう。
朝からイレギュラーな休日に見舞われていたため、疲れたのだろう僕は目的地に着くまで眠ってしまった。
彼女に肩を揺らされ僕は起きた。
「次、降りるよ」
「あ、うん」
次のバス停で降り、先を行く彼女についていく。五分ほど歩くと前方に観覧車が見えた。
「もしかして、遊園地?」
「そうだよ!小さい頃に家族と来たことあるんだ~。もう一度来たかったの!」
「それなら家族と来た方が良かったんじゃない?」
「高校生なんだし、異性と来てみたかったのよ~」
それなら、もっと異性に適した奴と一緒に来た方が良かったんじゃないか?と思ったが、彼女が楽しそうだったのと、僕も誘われて悪い気はしなかったので結果オーライかと自分を納得させた。
入り口で入場料とフリーパスを彼女が購入し遊園地に入る。
「絶対、返すから」
「いいよ、いいよ。私が強引に連れて来ちゃったんだから」
どこに行くか知らされていなかった僕は、五千円程度しか手持ちがなかった。行きの交通費で手持ちがほとんどなくなってしまったため、遊園地の費用と帰りの交通費は返済条件付きで彼女が賄うことになった。
「さ~!遊ぶぞ~!」
僕は遊園地の敷地の広さに圧倒された。
「すごい広さだね」
彼の県の夢の国に匹敵する広さだ。園内はいくつかのジャンルで分かれていた。
彼女はまずジェットコースターのエリアに向かった。最初は小さい子供でも安心して楽しめるジェットコースターに乗車した。三周するタイプのやつで、そこまで速くなく風を感じることができて、僕はジェット―コースターの中で一番楽しめた。彼女は「もっと早い方がいい」などと嘆いていた。
その後もいくつかのジェットコースターに乗った。いや、乗らされた。
水が流れている上を、薪をモデルにした乗り物で走行するものや、一回転するジェットコースターなど絶叫系が得意ではない僕はジェットコースターのエリアを後にする時、もう二度と乗らないと誓いを立てた。
それから、彼女が指さすもの全てについていった。
「コーヒーカップ乗ろう!」「次は、メリーゴーランド!」「ゴーカートもあるよ!行こ行こ!」と言った具合に。
そんなことをしていると、さすが娯楽施設、時間はあっという間に過ぎ夕焼けが顔を出し始めた。
帰りの移動時間もあるので、そろそろ引き上げなければいけない。
「じゃ、最後観覧車乗ろ~!」
「よし!観覧車ならいいね」
急に落っこちたりせず、ゆっくり一定のスピードで動く乗り物は今の僕にとって最高のアトラクションだ。
観覧車は空いており、すぐに乗車することができた。
係員さんが、動いているゴンドラの扉を流れるように開け、僕らは湿気を嫌がる猫のようにそそくさと乗りこんだ。
「うわ~!ドキドキする~。私、ジェットコースターとかより観覧車の方が怖いかも」
「そう?僕は好きだけど」
「え~!うそ!てか、秋桜くん揺らさないでよ」
「揺らしてないよ。君が大きい声出すからだよ」
観覧車は一定のスピードで上昇していく。
「なんか二人きりで観覧車ってカップルみたいだね」
「そうだねえ」
「ちょっと話聞いているの?」
「聞いてるよ」
「クラスで好きな子とかいないの?」
「そうだねえ」
「はい!聞いてなーい!人の話はちゃんと聞きなさいって教わんなかったの?」
僕は窓から彼女に視線を移す。
「ごめん、ごめん。それでなんだっけ?」
「だから、好きな人いないの?気になる人でもいいけど」
「いないよ。知ってると思うけどクラスメイトで仲いい女子いないし」
「確かに。一、二年の頃は?付き合ったりとかなかったの?」
「ないよ。・・・・そういう君は?」
「一年生の時、先輩に告白されて付き合ったけどすぐに別れたよ。それきり誰とも付き合ってませーん」
彼女の外見からは想像できない答えだった。僕は絶えず彼氏がいるもんだと思っていた。
振り返るほどの美人というわけではないが、ぱっちりとした目に細い鼻、少し厚い唇と笑うと見える健康的な白い歯。クラスでも彼女のことが好きという男子を何人か知っている。
観覧車がちょうど頂上に差し掛かったところで彼女が不吉なことを漏らした。
「台風きそうもないね~」
「え、なに。まさかとは思うけど、台風来てほしかったの?」
彼女は、窓から空を悲しそうに見ている。
先ほど夕焼け空が広がっていたのだけれど、奥の方に怪しい雲が現れ始めていた。
「でも、あっちの方、黒い雲いない?」
「ほんとだ!」
彼女は少し嬉しそうに僕の発言に反応した。
観覧車は徐々に下降していく。
地上に近くなり、係員さんが扉を開けてくる。「ありがとうございました」と言われ僕らは観覧車から遠ざかる。
「さて、帰ろうか」
「う、うん。そうだね~」
入園した時よりもだいぶテンションの低い彼女。きっと遊び疲れたんだろう。それかこの旅の終わりを感傷的に思ってくれているのだろうか。
そう思った僕は素直さと気遣いを混ぜた発言を彼女に送る。
「また行こうよ」
前を向いていた彼女が首だけ僕の方に向いた。
「うん!だね!」
はじける笑顔になった彼女はテンションを少しだけ取り戻した。
その後、入り口付近に設けられているお土産施設に入り、少しだけ店内を歩き回った。
彼女は、お土産コーナーで一番人気!というスイートパイを購入し、桃色のリュックサックにしまった。
店内から出ると、夕焼け空はすっかりなくなり、黒い雲と紺色で埋めつくされていた。
園内はパレードが始まっており盛り上がっていた。
出口まで行き、スタッフに「ありがとうございました!」と笑顔で言われ僕らはバス停まで歩く。
バス停までは彼女も静かだった。
僕も遊び疲れ、会話を振るような力は残っていない。
―ポツポツー
バス停まで歩き始めて数分、僕の頬を何かが濡らした。
と思うと、今度は腕に冷たさが走る。
「雨だ・・・」
声に出てしまった。
「本当だ!」
どこか嬉しそうな彼女。
みるみるうちに、雨脚は強くなる。
「走ろう」
僕らは走り、バス停までたどり着く。
すでに、服は湿っている。
するとバスがタイミングよくバス停に到着した。
―プシュー
炭酸の飲み物を開けた時のような音を立てて、バスの扉が開く。
僕らは、恥じらいなど考えず急いでバスに乗り込んだ。
「うわ、結構濡れたんだけど」
バスに乗るなり彼女が言った。
バスが目的地である駅前のバス停に着く頃には、雨の強さは増していた。
台風。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
バスは、強い雨を切り裂くように走っていく。
この雨でも、速度を落とすことなく、時間通りにバスは目的のバス停に着く。
「とりあえず、降りよ!」
彼女の言葉に従いバスを降りる。
「うわ」
「濡れる!濡れる!」
「とにかく、駅の中に入ろう」
僕らは急いで駅の中に避難した。
「・・・・すごい雨だな」
空を見上げると、真っ暗の空から無数の矢が落ちて来ているようだった。
―ピカッ
―ゴロゴロ!
「雷―!」
彼女がテンション上げて言った。
物凄い音とともにギザギザの光が近くに落ちていくのが見えた。
周りを見渡すと、スマホで電話をかけている人や空を見上げている人がたくさんいた。
先ほどから強風も吹いており状況は悪化している。
「すごいね。これって電車動くの?」
と、分かりっこない彼女に訊いた。
「どうなんだろう」
僕らはエスカレーターで二階に上がり、改札付近に向かう。
これだと嫌な予感がする。
エスカレーターで上がり、改札の外側から電光掲示板を見る。
嫌な予感は的中した。
―二十時発の〇〇行きの電車は、この雨の影響により運休いたします。
―繰り返します、二十時・・・
油断していた。
ここ最近雨なんて降っていなかったから。
この状況を彼女はどう思っているのだろうか。
隣の彼女を見やる。見て、心底驚いた。彼女は楽しそうな顔をしていたからだ。
「これじゃ家に帰れないじゃん。なんでちょっと嬉しそうなの?」
「旅はハプニングが起きた方が楽しいじゃーん」
「どうするの?」
「んね~。どうしよっか~」
彼女の言い方は、どうしようか悩んでいるのではなく、どうしようか決めているがそれを言おうかどうか迷っているようだった。
「な、なに?なんか案があるの?」
「まあこれじゃ今日中には帰れないし、どこかで一夜を明かすしかないよね~。ホテルに泊まるとかさ」
「ホテル?お金は?」
「お金は心配しなさんなって。私が持ちあわせているから。と言ってもそんなに余裕があるわけじゃないから同じ部屋になるけど。まさかここで一夜明かす気?私は止めないけど、こういう時は流れに身を任せるべきだと思うよ、私は」
僕が黙っていると彼女は続けた。
「そんな濡れた格好で朝を待って、生乾きの洋服で帰るの~?私についてくれば、暖かい部屋で朝を迎えて、乾いた服で帰れるのに」
彼女は手をヒラつかせて「最後は秋桜くんが決めたらいいよ~」とエスカレーターの方に歩いていった。
数秒、その場で考え、黙って彼女の後を追った。
この一連の流れで、僕を異性と簡単にホテルに泊まるような軽い男として見ないでほしい。状況が状況なだけに仕方なく。
うん、僕は誰に言い訳しているんだろう。ただ僕にやましい気持ちは一切なかった。それは断言できる。
暖かい部屋で過ごしたい気持ちとこの服を処理したい気持ちだけが僕を動かした。
彼女はタクシーを捕まえてビジネスホテルの名前を運転手さんに告げた。
「予約とかは?」
「さっき済ませたよ!駅近のホテルでたまたま空きが出た部屋があって予約したの。安心していいよダブルベッドの部屋だから」
「なるほど、僕がついてくるのを読んでたわけね」
「まあね。秋桜くんは変態だからねー!」
「うるさい馬鹿」
「ひど!」
ビジネスホテルは駅から近かった。駅近と知っていたのだけれど、それでも駅から近いと感じた。そそくさとチェックインを彼女が済ませ、部屋に向かう。
住所や携帯番号などの個人情報を尋ねられたり、親に連絡されたりするかと思ったが、そんなことはされず、すぐに部屋のカギであるカードを渡された。
指定された階へエレベータで上がり、部屋の前に着く。ICカードのようなものをドアノブ付近にかざすと、「ピッ」と音がなった。
施錠できた合図だ。
二人とも部屋に入る。
「うわー!結構狭い~」
部屋に入った彼女の第一声。
確かに狭かった。
しかし、ビジネスホテルなのだから、このくらいが妥当だろう。
「うわー!ユニットバスだ!」
入って右手にある扉を彼女が開ける。
そこには、トイレとお風呂、洗面台があった。
二人とも荷物という荷物はないが荷物を机の上に置く。
机の横にベッドが二つ。
さらにその横に小さいソファーがある。
さーて、順番にシャワーを浴びて寝よう。
「先、シャワー浴びれば?」
意識せず、提案する。
「おーけー!」
彼女は本当に意識してない様子で答えた。
ちなみに、着替えは浴衣がホテル内に常備されており、それを使用する。
まさか、ビジネスホテルに浴衣が常備されているとは知らなかった。世の中まだまだ知らないことばかりだ、と思った。
彼女は机の上にある自分のバックから、何やらポーチを取り出し、浴衣とビニール袋を持ってユニットバスに消えていった。
手持無沙汰の僕は、部屋に常備されている小さいテレビの電源を入れた。
適当にリモコンを操作するが、頭の中にテレビの内容なんか一ミリも入ってこなかった。
頭の中では、今日の今までを回想していた。
駅前で待ち合わせしたのが遠い昔に思える。
リモコンは操作したままだ。
そして、遊園地に行き、観覧車に乗って・・・・
今日一日を振り返り、観覧車で彼女が好きな人はいるのかと訊いてきたあたりを思い返している途中、僕は眠ってしまった。
目を覚ますと、彼女が無言で僕の肩を揺らしていた。
「だいじょうぶ~?」
「あ、あぁ。だ、大丈夫」
いきなりの異性の浴衣姿に動揺してしまった。
早くなる心臓を悟られないよう、僕はお風呂場に向かう。
お風呂場は、暖かく、洗剤のいい匂いがした。
とりあえず、服を脱ぎそれをビニール袋に入れる。
シャワーを出す。家のよりだいぶ勢いのあるシャワーのお湯を頭にかける。
備え付けのシャンプーとボディーソープで頭と体を洗っていく。
ユニットバスから出ると、部屋の中は先ほどより暗くなっていた。
机に、ビニール袋が置かれ彼女はベッドに腰かけ、何やらノートにペンを走らせていた。
日記かなにかだろう。
彼女はまだ僕に気づいていない。
「何、書いてるの?」
「ん、え!」
彼女は慌ただしくノートを閉じた。
彼女にしては珍しく動揺している。
まー日記を書いているところを他人に見られるというのはいい気分ではないか。
「二階にランドリーがあるみたいだから行こ!」
話を明らかにそらした彼女を特に問い詰めることはせず、彼女が日記をリュックサックにしまうのを呆然と見ていた。
二人でビニール袋を持ち二階へ向かった。
ランドリーに着き、彼女の提案で僕はその横に隣接している売店で夕飯を買うことになった。異性の洗濯物には興味がないので僕は大人しく晩御飯の調達に向かった。
売店は雑誌や新聞、カードゲームなども売っていた。
乾燥に二十分ほどかかるというので、焦ることなく、じっくりと店内を見て回る。
店内の雑誌コーナーを見ていると、一番端に隠れるように、ある雑誌が置かれているのに気がついた。近づいて手に取る。僕はぺらぺらとページをめくっていく。
メンバーのインタビューや写真などが載っており、僕は時間を忘れて熟読してしまっていた。
すっかり時間を忘れて雑誌の世界に浸っていた僕は彼女に声を掛けられ現実に世界に戻った。
「なんで立ち読みしてんの?」
「あ。ごめん」
「あっそれ夜休みの羊じゃん!」
さっそく彼女は、雑誌に食いついた。
「そうそう。地元の本屋さんには売ってなかったから、つい」
「それな!田舎だからね。品揃え悪いもんね~」
雑誌を見て、すっかり笑顔になった彼女は「それ買お!」といい、カゴにいれ「一緒に晩御飯を選ぼう」と張り切った。
彼女はお弁当コーナーでカレーライスを、僕はカップ麺をカゴの中に入れた。
「せっかくだからトランプ買おうよ!」
「二人でトランプ?寂しくない?」
「私、二人でできるゲーム知ってるからやろやろ~」
彼女はペンギンが書かれたトランプをカゴに入れる。
会計を彼女が済ませ、乾いた洋服が入ったビニール袋を持ち、部屋まで戻る。
部屋まで戻り、彼女は備え付けの電子レンジを使い、僕は備え付けのポットでお湯を沸かす。先にカレーが温まり彼女は「いただきまーす」と雨と風の音に負けないくらいの声量で食べる宣言をした。ほどなく僕のカップ麺も出来上がり控えめに「いただきます」といい食事を開始した。
「思いもよらない事態になったね」
「旅はこうでなきゃ!私はとっても楽しいよ!」
彼女は目を細め全身で喜びを表現した。
先ほど、スマホを開いたら親から不在着信が三件も入っていた。
それに対し、友達の家に泊まるとメッセージアプリで応答した。
これで、警察に捜索願は出されないだろう。
かくゆう彼女は、ご両親にどのような言い訳を使ったのだろうか。
「ご両親は心配してないの?」
「今日は、もともと友達の家に泊まるつもりだったから、だいじょうぶい」
彼女はブイサインを突き出した。
食事を終え、ビニール袋にゴミをまとめた。
僕は歯磨きを済ませ、そそくさと寝る準備にとりかかった。
僕が寝ようと部屋の明かりを消そうとすると彼女から、待ったがかかった。
「なに?」
「いや、寝るつもり?」
「え、寝ないつもり?」
「当たり前じゃん!せっかく、これから夜が始まるのにもったいない。もしかして、修学旅行とか一番に寝るタイプ?」
「そうだけど?」
「つまんな!言っとくけど、今日は寝かせないよ!」
彼女は机に近づき先ほど購入したトランプを顔の横に持っていき、ニヤついた。
「せっかく買ったんだから、なにかしよ」
「二人でできる遊びなんて、スピードくらい?」
「んー、せっかく時間はたっぷりあるし、神経衰弱でもやろうよ」
窓側のベッドの布団をどけて、そこにトランプを無造作に置いた。
僕と彼女は一つのベッドに、無造作に置かれたトランプを挟んで座る。
「じゃ、私から引きまーす」
彼女は二枚、自分の方にあったトランプをめくる。当然揃うわけもなく、裏返す。
「はい。秋桜くんの番」
「えーと・・・」
僕は真ん中あたりを引く。もちろん揃わない。
そんなことを繰り返していると、お互い無言になってしまっていた。
結局、神経衰弱はドロ試合の末、僅差で僕が勝った。
「次、何して遊ぼうか~」
「てか、疲れてないの?眠くないの?」
「ぜーんぜん眠くないよ!」
いや、眠い方がありがたいのだが。
彼女はトランプをシャフルし五回ほどシャッフルしたところで手をとめ「あっ!」と何かをひらめいた顔をした。
「せっかく、夜を共にしているんだし、お互いを知ろうよ!」
「というと?」
「私、普段本読まないんだけど、すっごい好きな本があって」
「なんなの?」
「君の膵臓を食べたい、っていう本なんだけどね。そこで真実か挑戦かっていうゲームをやるシーンがあるの。それやろうよ」
小説のタイトルは聞いたことがあったが、その物語を読んだことがない僕は、そのゲームがなんなのかさっぱりわからなかった。
「どういう遊びなの?」
「まず、お互い、適当に一枚選んでひっくりかえすの。数字が大きい方が権利を得る」
「なんの権利?」
「真実か挑戦かを訊く権利」
この段階では、まださっぱり理解できない。
「それで?」
「でね、真実を選んだら、相手が質問したことに答えなきゃいけない。挑戦を選んだら、相手が指示したことに挑戦する。でも今回は真実だけにしよ」
「は、はぁ~」
この段階でもさっぱりわからない。
「まあ、やってみよ!とりあえず、一枚選んで」
彼女はまた、ベッドの上にトランプを散らかした。
僕は真ん中あたりのカードを一枚選ぶ。彼女は僕の方にあるカードを一杯選んだ。
同時にひっくりかえす。
「私はハートの三。秋桜くんは、スペードの五。ってわけで、秋桜くんが私に質問する権利を得たから質問する。何でもいいよ」
「・・・えーと、じゃ・・・」
僕はずっと気になっていたことを訊こうとした。
「君の名前の由来は?」
「あー、しおんね。私、秋に生まれたからだよ。紫苑(しおん)って秋の花の名前なんだよ。きっと今が咲きごろかな?知ってる?」
「いいや。知らない」
「とっても綺麗な花だよ!私は花の中で一番、紫苑が好き。たとえ、私の名前じゃなかったとしても」
それは言い過ぎではないか?と思った。
「これでいい?」
「うん」
「じゃ、次!」
僕らはまた、適当にカードを選んでひっくり返す。
今度は彼女が質問する権利を得た。
「じゃ、さっきの質問のお返しで、秋桜くんの名前の由来は?」
「僕も、同じ。秋に生まれたから」
言うと、彼女が驚いた顔をした。
「え!ほんとに?誕生日いつ?」
「あ、それは権利を得てから質問して下さい」
「うざ!」
彼女は、わははははっと笑った。
それから、僕らはカードを選んではひっくり返し、質問するという動作を繰り返した。
僕は彼女に訊いた。
「好きな食べ物は?」
「チョコレート!」
彼女が僕に訊いた。
「好きな異性のタイプは~?」
「んー優しい人かな」
「つまんな!そこは私みたいな人っていえよ!」
言うと、彼女は笑った。僕はそれを白けた顔で見てやった。
そんなことをしていると夜も更け、時刻は三時半を過ぎようとしていた。そのころになるとお互いトランプを挟み一つのベッドに寝そべってカードを選んでいた。
目を開けているので精一杯だった。
「・・・秋桜くん・・は・・なんだったった?」
「・・・僕は・・クラブの・・・えーと・・三・・」
「・・やっ・・・たー・・じゃ、質問するね・・」
「・・・」
僕は眠りながら質問を待った。
「・・・・私がもうすぐ死ぬっていったらどうする?・・」
彼女の声により現実世界に戻ってきた。半分眠っていたので意識が遠のいたまま僕は答える。
「可哀想だなって思う・・・・」
いつもの冗談に白けて返したから、彼女が笑うと思った。僕は半分も開かない目で彼女を見る。
彼女は天井を見つめて、これっぽっちも笑っていなかった。僕の視線に気づいた彼女はこちらに顔を向けて、眠たそうに小さく笑った。僕はそれが苦笑いに見えた。
「・・・どうして・・そんなこと訊くの?」
「じょうだんだよ・・じょうだーん・・・」
それから長い沈黙が続いた。
「・・・私、シチリアに行きたいな・・」
突然の彼女の声で僕は再び現実世界に戻された。
「・・・どうして?・・・」
反射で口を動かした。
「小さい時に、お父さんと行ったんだ・・・」
「・・・・またお父さんに・・頼んでいけばいいんじゃない?・・・」
「それは無理・・お父さん自殺して死んじゃったから・・・・」
「・・・・・」
僕は何も答えられなかった。眠かったというのもある。だから僕はこの状況にしか使えない必殺技、狸寝入りを使った。
「・・・あれ?・・秋桜くーん。・・・寝ちゃった?」
その声にも応じず、僕は寝たふりを決め込んだ。寝たふりを決め込んでいると僕は本当に眠ってしまった。
僕らの夜は純粋で無垢でロマンチックだった。
翌朝、電話の電子音により目を覚ました。僕は自分の携帯電話を確認する。しかし、着信はない。彼女も手探りで自分の携帯を手に取る確認する。が、すぐ携帯をベッドに置いた。疑問に思い部屋を見回すと、部屋の電話が鳴っていることに気が付いた。彼女はさっそく二度寝を開始しているので、僕が電話をとった。
「・・・・はい」
「あっすみません、フロントの者なのですがチェックアウトの時間になりますので、速やかに退室をお願い致します」
僕は謝り数語交わして電話を切った。
「なんだった~?」
寝ながら彼女が訊いた。
「チェックアウトの時間だって」
「うえー。やば~」
彼女はむくむくと起き上がり手櫛で髪を整えた。
「結局寝ちゃった」
「のんびりしている暇ないよ」
僕は、顔を洗いに洗面所に向かった。
顔を洗い、歯を磨く。朝一の歯磨きは歯磨き粉を付けないのだが、昨日の歯磨き粉の味がかすかに残っていた。
僕と入れ替わるように彼女は洗面台にこもった。
五分ほどで出てきた彼女は先ほどの容姿とは異なり、髪は整えられ、ばっちり化粧もされていた。乾いた、昨日と同じ服をしっかり着こなしていた。
僕らはチェックアウトを済ませ、昨日とは違いタクシーを使わず、ゆっくり駅まで歩いた。
しかし、駅近ということなので、さほど時間はかからず駅に到着した。
駅までの道中、僕は僕なりにこの旅の終わりを感傷的に思った。どうせならまだ終わってほしくないと気まぐれに思い始めていた。しかし、当たり前なのだけれど、時は止まることなく進んでいく。
今日は日曜日だから急いで帰る必要はない。なので、朝食兼昼食を兼ねてカフェに立ち寄ることにした。
カフェについて、僕はホットウーロン茶と小さいカルボナーラ、彼女は紅茶とティラミスを頼んだ。先にカルボナーラとティラミスが到着し、僕らはそれをゆっくり胃にしまった。食べ終え、食後の飲み物として、ホットウーロン茶と紅茶が運ばれてきた。
ひと口飲み物を飲んだところで、彼女が口を開いた。
「はー。楽しかったね~。また行こうよ」
僕は窓を見ながら、素直に答える。
「そうだね。また行こうか」
僕の言葉に彼女は、一瞬驚き、その後笑みを深めていった。
「うふふふうふ、うははははっ」
昨日のジェットコースターで頭がおかしくなったのか。
「なに?」
「いやいや、今幸せだな~って。絶対また行こうね!」
その後、軽く談笑し、カフェを出た。
駅に着き少しお土産施設に寄った。
そこで僕は自分用に月をモチーフにしたカステラのお菓子を購入した。彼女は何も買わなかった。
駅で各駅停車の電車に乗り、並んで座る。
電車内は、空いており、老夫婦や子供連れのお母さんなどがいて、のんびりしていた。
「はい」
目の前にパイのお菓子が出された。
「昨日、遊園地で買ったやつ、お一つどうぞ」
「ありがとう。じゃ、僕も」
僕はバッグから先ほど買ったカステラのお菓子を一つ彼女にあげた。
「次はどこに行こうかな~」
電車を乗り換え、あと少しで地元の駅に着く頃に彼女が独り言のように呟いた。
「君の行きたいところに行けばいいんじゃない?」
「そしたら付き合ってくれるの?」
「もちろん」
「どこでもいいの?」
「まあ、いいよ。別に」
「今、言ったからね?」
彼女は念を押すように、いたずら笑みを浮かべて言った。
僕は頷いた。
この旅が思いのほか楽しかったからだろう。やはり、僕の中で肥大していた感情は小さくなっている。
それは隣に座る、彼女のおかげなのだ。
僕は彼女の気が済むまで付き合うことに決めた。
人生に退屈、無意味さを覚えている僕にとって、彼女との付き合いは楽しいものだった。
僕らの住む街に辿り着く頃には夕方になっていた。数語、駅で言葉を交わし、お互い帰路に着いた。
家に帰るとまだ両親は帰ってきていなかった。
僕は、しっかり手洗いとうがいをして自室にこもった。ベッドでとりとめもなくスマホをいじっていると自然と瞼が重くなり僕は眠ってしまった。
目を覚ましたのは、夕食ができたという母親の声によってだった。
昨日とは違いしっかりとした食事をとり、昨日とは違いシャワーのみではなくしっかり湯船に浸かり、いつもより長く自宅のお風呂を堪能した。
お風呂から上がりキッチンで水分補給をして、再び自室にこもった。携帯を開くと、メール通知が来ていた。
メールは彼女からだった。
『ちゃんと家に帰れた~?かなりの長旅になっちゃってごめんね。また付き合ってくれたら嬉しいよ~!じゃまた学校で!』
僕は数分、返信を考えて『おやすみ』とだけ返した。
結局、昨日の夜の眠る直前の質問はどういう意味だったのかわからない。訊く術もなかったし、彼女が寝ぼけて、そんなことを言ったのかもしれない。
僕は眠る直前まで考えていたが、結局しっくりくる答えが出ないまま眠ってしまった。
翌朝いつものように目を覚まし、いつものように朝食を食べ、いつものように登校した。
登校して、下駄箱で靴から上履きに履き替えている途中大きな声で挨拶された。
「おはよー!」
僕に挨拶をしてくる異性はたった一人しかいない。
「おはよ。昨日ぶりだね」
彼女はにやにやと、これからいたずらを仕掛けるような顔で立っていた。
「なに?履き替えないの?」
彼女がずっとにやにやしていたので僕は続けて声を掛けた。
「じゃ行こ!」
と、いきなり僕の手を引いて、走り出した。そのまま最寄りの駅まで僕を拉致した。
「いきなり何?はぁはぁ。学校完全遅刻じゃん」
「海に行こ!」
「海?どうしていきなり?」
「行きたいところに行けばいいって言ったのは秋桜くんじゃん!私は海に行きたい!」
週末でもいいのではないかと思ったが黙っておいてあげた。
海に行きたい理由が何となくわかったからだ。僕自身、死のうとしていた人間だし、彼女が引き止めなければあの日死んでいた。学校も、どうでもよくなっていたし、彼女に付き合うと決めていたので、僕は海に行くことを承諾した。
「三日連続で異性と遊んだこと初めてだよ」
「私もー!前付き合ってた先輩より恋人っぽいことしてるよ!」
昨日とは違う行き先の電車に乗って、僕らは海を目指した。と言っても、地元の県には海がないので、県をまたぐことになる。それから僕らは四回も電車を乗り換え、彼女が行きたがった海に着くことができた。
九月下旬の平日の昼間なので海岸はガラガラだった。アスファルトから砂浜にかわり、少し歩きにくくなる。彼女は持っていたバッグを僕に渡し、海に走っていった。まさか飛び込むのかと思ったが、さすがにそれはせずギリギリで止まり、しゃがみこんだ。
僕は立ったまま、その様子を眺めていた。
「冷たーい!」
どうやら波が彼女の足元まで届いたようで彼女が声を上げた。「うわー靴下濡れた~」と嘆いている。
「秋桜くんもおいでよ!」
彼女は浅瀬で波と戯れながら僕を呼んだ。
僕はその場に座り込み、心地よい風に吹かれた。ひとしきり、楽しんだ彼女は僕の方へ戻ってきた。
「なんで、呼んだのに来ないのよ!」
僕は軽く肩を叩かれる。
「靴も靴下も濡れてんじゃん」
「かわっくしょ!」
今日は真夏日になると天気予報で言っていたのでおそらく帰る頃には乾くだろう。真上にあるお日様の光を浴びているが真夏のように暑く感じないのは、風があるからだ。
でも、台風の風とは違い、冷たくなく、穏やかだった。秋らしい変わりやすい天気だと、ここ数日をもって感じた。
「ずっとこんな天気だったらいいのにね」
「僕も今そう思ってた」
「いいよねー。この風なら愛せる」
彼女は風に目を細めて気持ちよさそうに言った。
「あっそうだ。私今日、スケッチブックを持ってきたの」
彼女は自分のバッグからクレヨンと小さめのスケッチブックを取り出した。
「描いてよ」
「ん、何を?」
「海と私!」
「なんでクレヨンなの?」
「夜休みの羊の曲にあるじゃん!クレヨンの歌!」
「あー、あるね。だから?」
「私はクレヨンが大好きなの!私の一番好きな画材はクレヨン!秋桜くんの絵見たことなしさ、それと今日私の誕生日なの。だから誕生日プレゼントとして、描いてほしい。お願いします」
彼女はぺこりと頭をさげた。恭しくお願いされるので僕は、こんな僕が描く絵なんかでいいのかと少し申し訳なくなった。
「僕の絵なんかでいいの?」
「いいに決まってんじゃん!秋桜くんの絵がいいんだよ!」
面と向かって臭いことを言われて、僕の方が恥ずかしくなった。けど、同時に嬉しくもあった。自分の趣味が初めて必要とされた瞬間だったから。
絵を描く前に腹ごしらえをしようと言われたので海の家に行くことにした。
二人で昼食をとり場所選びのため、砂浜を歩く。彼女は場所場所でポージングを決め「ここじゃないな」などと真剣に場所選びに勤しんでいた。だいぶ歩いたところで彼女は「よし!」と何かを決めたような声を漏らした。
「ここにする!秋桜くんはもうちょい引きで描いて!私がメインというより風景メインで描いて!」
彼女はポージングを始めた。
「もういつでも描いていいよ!」
彼女は後ろで手を組み少し左に上半身を傾けた。
僕は言われた通り、引きで目に映る景色をスケッチブックに描いていく。途中、心地よい風が彼女の髪を揺らした。僕はモデルである彼女のことも考えてスラスラと絵を描いていく。
クレヨンは今まで使ったことがない画材だったがアクリル同様、重ね塗りができるので僕はアクリルで描くのと同じ要領で色を付けていく。
海と砂浜とお日様と彼女をクレヨンで、僕らしく描いた。
彼女の負担を減らすために、まず大まかに絵を完成させる。
「もう大丈夫だよ」
彼女は固めていた体を動かし、伸びをした。
「はー、モデルって結構大変なんだね」
僕はその後も絵を描き進めていく。彼女は完成まで絵を見たくないと言って完成するまで散歩に出かけた。
一人になった僕は時間を忘れて絵を描いた。
数十分で終わらせようと思っていたのだけれど集中してしまい、結局小一時間もかかってしまった。
やっと完成し、左右に首を動かし、彼女を探す。しかし、視界内に彼女の姿はなかった。
僕は立ち上がり、彼女を探しに出かけた。
少し歩くとテトラポットがあり、そこに彼女は座って、また日記を書いていた。
「終わったよ」
近づきながら言うと、彼女は顔を上げ、日記を閉じ笑顔で僕に駆け寄ってきた。
「見せて見せて」
僕はスケッチブックを彼女に渡す。
「うわー!めっちゃいいじゃん!すごい!私もすごい似てる!秋桜くん天才なんだね!」
「褒めすぎだよ。モデルがよかったのかな?」
「うわ!なにいまの!ださー」
彼女に茶化され少しムっとするが、彼女がうはははっと笑うので僕もだんだん可笑しくなりつられて笑った。
「一生大事にするね!」
「大げさだって」
それから僕と彼女はテトラポットに腰掛けて、海にお日様が沈んでいくのを眺めていた。
「・・・シチリアに行きたいなぁ」
彼女は夕日の光を浴びながらそう言った。
僕は一瞬ドキリとしたがあの夜のことは忘れて何でもないように彼女の呟きに答えた。
「一緒に行こうよ」
なぜ行きたいかっという理由は聞かないで。
彼女がこちらを見たのが目尻で見えた。
僕は前を向いたまま。
数秒、視線を感じていると「うん、行く!」と彼女の溌剌とした声が飛んできた。
僕らは海を見つめ隣の彼女は鼻歌を歌った。
「それなんの歌だっけ?」
「夜休みの羊の『砂浜』だよ!今年のライブのアンコールで歌ってたんだ~。そうだ!今度一緒にコンサート観に行こうよ!」
その日、僕は、シチリアに行くこととコンサートを観に行くことを約束した。そして、お日様が消えて一番星が顔を出すまで僕らは海を眺めていた。
すっかり遅くなってしまい、急いで電車に飛び乗った。
行きと同じく、四回電車を乗り換え地元に帰ってきた。
駅に着きそれぞれの道に進もうとした時、彼女が僕に質問してきた。
「秋桜くんの誕生日はいつなの?」
僕は誕生日を彼女に教える。
「そっか!ありがとう」
彼女は携帯にメモし「じゃ、またね」と手を振り僕とは反対方向に歩いて行った。
僕も自分の家路に着いた。
家に帰ると家族はすでに寝ており静かだった。
台所に行くと、焼うどんがラップに包まれておいてあった。僕はそれを電子レンジで温め、静まり返った台所で立ったままそれを食べた。さくっとシャワーを浴び自室にこもる。すぐにベッドに横になり目を閉じた。
あれから、死にたい気持ちになる時はあるが、あの日のように行動に移すことはしていない。
波のようなものだ。死にたくなったり、もう少し生きてみようと思ったり。
そんなこと考えなかったり。
そんな日々の連続だ。
自殺は衝動的なものなんだと思う。
こういう風に、波のようになっている人は、ある日突然何かを引き金に衝動的に自殺してしまう。
あの日、彼女が屋上に現れなかったら、僕は今ここにいないだろう。
あの日、死ななくてよかったかどうか僕はわからない。
死ぬことはいつでもできる。また死にたくなったら死ねばいい。
今は、何となく生きている。
小さな幸せと小さな不幸せを日々感じながら生きている。
僕はもう少し彼女との日常を過ごしたいと思い始めていた。音楽を聴いてや絵を描いているときに、もう少し生きてみるかと思うことはあったが誰かのために生きようと思ったのはこれが初めてだ。
僕は、彼女が僕に付きまとわなくなるまで生きようと思った。
そんなことを思うのだから少なからず僕は彼女に対して特別な感情を抱きつつあったんだと思う。
次の日、学校に行くと、僕と彼女が学校をさぼり二人仲良く出かけたことが広まっていた。クラスの人気者の彼女とクラスで目立たない奴が付き合っているのではないかという噂までも立てられていた。
僕はいつものように後ろの扉からひっそりと教室に入った。が、その時点で数人からの視線を感じた。それは、疑問のものもあれば敵対心のものあった。僕はすべて無視した。
「よー。お前、しおんと付き合ってんの?」
席につくなり隣の席のクラスメイトが話しかけてきた。
僕は朝からいろんな人からの視線を浴びて少々いらだっていた。
「違うよ」
「昨日、二人で手をつないで、駅の方に消えていくの見たって言ってたで?」
「人違いじゃね?」
「いやいや、二人とも昨日休んだじゃん。なんだよ興味ないとか言って、お前しおんのこと好きなんじゃん。いいな、しおんとデートできるなんて。この色男が」
彼女と関わることで起こる、こう言った面倒なことは全て諦めていた。
どうせ、からかわれるのは隣の席のクラスメイトか前の席のクラスメイトくらいなもんだ。
あとの連中はろくに話したことがないので実害はなさそうだ。多少の視線は目をつぶろう。
そろそろホームルームが始まろうとしているのに彼女はまだ登校していない。
チャイムが鳴り、担任が入ってきた。
「あれ、またしおん休み?」
誰かがそう言い担任が「休みだから、今日の日直は村岡、お前一人だからよろしく」と言った。村岡と呼ばれたそいつは面倒くさそうに「ういーっす」と応えた。
「なんで、しおん休みなん?」
小声で隣の席のクラスメイトが言ってきたので「知るかよ」と返した。
彼女はちょこちょこ学校休む。気にならないと言えば嘘になるが、近々彼女に理由を訊くことはできなかった。なぜならそれから一週間彼女は学校を休んだからだ。
メールもないので僕と彼女の接点はなかった。
彼女が再び登校してきたのは翌週の水曜日だった。登校するなりクラスの男子や女子になぜ休んでいたのか聞かれていた。
教室の喧騒で彼女らの会話を聞き取ることができなかった。彼女はなせ休んだのだろうか。その日も僕はいつも通りの学校を過ごした。昼食の時間になれば前の席のクラスメイトと一緒に食堂へ向かった。午後の授業にも耐え、あと何回学校に来ればいいのか、あと何回学校に来たら死のうかなどと考えながら、帰るため校門まで歩き出した。
「秋桜くーん!」
校門を出て右に歩みを進めようとしたところで彼女に呼び止められた。
僕は振り返り僕に追いつく彼女を待った。
「今日なにか予定ある?」
「いいや、ないけど」
「じゃ、うちに来てよ!」
「え?なんで?」
「夜休みの羊のレコードがうちにあるんだ!一緒に聴こうよ!」
夜休みの羊は今時珍しくレコードを販売している。僕はレコードで彼らの音楽を聴いたことがなかった。レコードをプレイヤーは持っていないからだ。
とても興味深い代物だったので、僕は彼女と一緒に彼女の家に行くことにした。彼女の家は僕の家とは反対方向にある。
もう慣れっこになったが、二人並んで歩く。
「今時、レコードを出すっておしゃれだよね~!」
「うん、けどCDは販売しないっていう」
「そうそう!そういうとこがまたいいんだよ。秋桜くんは普段はサブスクで聴いてる感じ?」
「そうだよ。またレコードだと違う感じがするけど」
「そうなんだよ!またレコードで聴くと一味違うんだよ!」
彼女はレコードの魅力について語り始めた。レコードにしか出せない音色やアンプによっても音色がことなるなど。
レコードについてイマイチ理解していなかった僕にとって、それは興味深いものだった。
「あれだよ!」
数十分歩き、彼女が指さす先に、外壁が水色の家があった。
どこにでもある作りの二階建ての一軒家。
木でできた可愛らしい表札が僕を出迎えた。僕の視線に気づいた彼女が「それ小学校の頃に作ったの」と言ってきた。
小学校の頃、僕も同じような工作の授業があったことを思い出す。
そんな作品なんて、授業が終わればすぐ捨てていたけれど。
彼女の後ろにつき、彼女が家のカギをあけるのを見守る。
同級生の女の子の親に会うと思うと少し緊張した。
「あっ!親いないから大丈夫だよ!緊張してる?」
クスクス笑う彼女。
どうやら緊張しているのがバレていたらしい。
「あ、あ~。そう・・・」
はやくいってくれよ。
「どうぞ!」
彼女の後に続いて、僕は初めて同級生の女の子の家に足を踏みいれた。
「お邪魔します」
彼女が誰もいない家の電気をつけていく。
洗面所に案内してもらい、律儀に手洗いうがいをすませる。それをみて、彼女は「りっちぎ~」といった。
僕は彼女に倣って二階にあがり彼女の部屋に入った。彼女の部屋はシンプルで片付いていた。勉強机、本棚、ベッド、本棚の合間にレコードプレーヤーとその横にいくつかのレコードも置かれていた。
「ちょっとジュース持ってくる!」
彼女は元気よく宣言し、部屋を出ていった。一人になって、改めて部屋を見回す。すると勉強机に彼女がいつも書き込みをしている日記が置いてあるのに気がついた。
僕の中にも邪心というものがあったのだろう。僕は日記の中身が気になった。少しだけ日記を見たいという衝動に駆られ、僕は日記に手を伸ばした。
手に持つとそれは数百ページのもので、僕はぺらりと一ページ目を開いた。
そこには可愛い丸文字が並んでいた。
『十月二十日
今日、病気だと診断された。余命は一年。
お父さんと同じ病気でやっぱりなって思った。
家に帰っても何もやる気が起きないのでネットで調べたところ日記を書くことに決めた。
今日から・・・・・』
「お待たせ―。・・・・!」
彼女は勢いよく部屋に入ってきた。
その勢いなら、僕の邪心も振り払えたかもしれない。
僕は慌てて日記を閉じたが間に合わなかった。
「・・・これは・・そ、その・・・ごめん」
変に言い訳するはよろしくないと思い僕は素直に謝った。
「・・・・見ちゃったんだ・・・」
彼女が心の中でため息をついたのが表情から見て取れた。
僕は確かめたかった。いや、否定してほしかったのかもしれない。
「これは冗談だよね?」
彼女は優しく首を左右に振った。
「本当だよ。・・・・ちょっと外出よ」
彼女はジュースをのせたおぼを勉強机に置き「はい」と両手を僕に差し出した。
「・・あ、ああ」
僕は彼女に日記を渡した。
僕らはそのまま外に出た。どこに行くのかわからないので黙って彼女についていった。
少し山を登り僕らは『羊山公園』に着いた。
夜景のスポットのベンチに腰掛ける。
まだ夕方なので、夜景ではなく夕日が僕らを包んだ。
座っても黙ったままの彼女。しびれを切らして僕が口を開こうとした時に彼女が口火を切った。
「私、もうすぐ死んじゃうんだ~」
おどける彼女だったがその目はどこか寂しく、すこし苦しそうだった。
「一ページ目に書いてあった内容って・・・」
「去年の秋。だから、もうすぐ一年かな」
「ってことは」
「そうだよ、本当にもうすぐ死んじゃうのよ、あはは」
彼女の笑いは乾いていた。
僕は、今どんな顔をしているのだろう。
「どんな病気なの?」
訊いていいものか迷ったけど、訊いてしまった。
「・・・脳の病気」
「脳・・・・」
「冗談だと思ってる~?」
彼女はくすくすと笑った。その笑顔は苦しそうではなかった。
「学校をちょくちょく休んだりしたのは?」
「そう、通院のためだよ」
なるほど。そういうことか。
「クラスの友達とかには?」
「話してないよ!話したところで何も変わらない。それよりも同情を向けられるのが嫌なんだ」
「・・・そっか」
「そんな辛気臭い顔しないでよ!私が死んでも秋桜くんは生きてね」
冗談っぽく聞こえるように言ったのはきっと彼女なりの優しさなんだと思う。
「学校は、どうしてやめないの?」
言ってから、なんて身勝手で傲慢な質問なんだと思った。
しかし、彼女の表情は悪い方には傾かず、僕を諭すように言った。
「病に侵されたらね、急に普通が恋しくなるんだよ。今までの普通がすべて特別に変わるの。だから今の私にとって、学校は特別なんだよ。・・・きっとね」
きっと、という言葉が気になったが聞く勇気はなかった。
そう、自分を納得させているようにも、嘘をついているようにも聞こえた。
それから彼女は黙った。僕も黙った。
空の色と街の風景だけが変わっていく。
終始無言だったけれど気まずくはなかった。
「さむ!」
少し寒い風が横切り彼女が声をあげた。
「帰ろうか」
僕は先に立ちあがり言った。
「そうだね!てか、私の家でご飯食べていきなよ!」
彼女は思い立ったように発言する。
「異性の親に会うのは緊張するし・・・」
「今日、ママ、夜勤だからうちいないよ!レコードも聴いてないし!」
僕はしぶしぶ頷き彼女の家に戻った。
この状況で気丈に振る舞えるほど僕は器用な人間ではなかった。
あと何回彼女に付き合えるのだろうか。
僕は急にいろいろなことを不安に思った。
家に戻り、また律儀に手洗いうがいを済ませ、今度はリビング兼キッチンに通された。
彼女はさっそくキッチンにて食材を並べ始めた。
「なにか手伝おうか?」
「のんのん!座ってて!テレビでも見てて!」
僕はテーブルに四つ置いてある一つに座りキッチンへ目を向ける。
彼女はキッチンに立ち、やや大きめの鍋に水を張り、それを火にかけていた。
まさか、カップラーメンじゃないだろうな。
すると、何やら細長い袋を手に持ちそれを開封する。どうやら、パスタのようだ。
適当にパスタの麺を鍋に入れた。
次に、フライパンを用意し、野菜室から小松菜、棚から鷹の爪を取り出した。
どちらも、適当な量を、油が引いてあるフライパンにぶち込んだ。
なるほど、ペペロンチーノを作っているみたいだ。
パスタの柔らかさを確認しつつ、フライパンの中身を炒めていく彼女。割と、様になっている。
ひとしきり、その様子を見守っていると、鍋の火を止め、流しに鍋を持っていき麺をざるに移していく。そして、麺の水を軽くきり素早く、フライパンに入れた。手際よく炒め、それを皿に移す。
あっという間に、ペペロンチーノが完成した。
「はい、どうぞ~。お手製ペペロンチーノ!」
「お~、美味しそうだね」
「多分、まずいよ~」
「自信ないね。いただきます」
僕は、適量の麺をフォークに絡め、口に運ぶ。
うん、悪くない。
いや、普通に美味しい。
僕はそれをそのまま口にだす。
「うん!美味しいよ!」
僕の方を見ていた、彼女が一瞬、泣きそうな表情を見せた気がした。
しかし、一瞬だったため気のせいかもしれない。と思っているうちに、彼女の表情はいつもの笑顔に戻っていた。
「え~!うれし!」
これまた、まぬけそうな声と共に飛んできた彼女の返し。
それから僕は、半分を彼女にお裾分けをした。
彼女もペペロンチーノを口運び「うわ!美味し!私天才かも」などと自画自賛していた。
僕はそれをみて勝手に口角が上がってしまっていた。
そのあと、談笑しながらペペロンチーノを食べ、二人並んで洗い物をした。
「じゃ、お待ちかね、レコードを聴こう!」
彼女の部屋に再び赴き、床に座る。
彼女はレコードが並ぶ棚から一つを手に取り、レコードを取り出した。
針を落とし、プチプチという音が鳴った後『夜休みの羊』の『青い春』という曲のイントロが流れ始めた。
確かに、サブスクで聴く音と異なり、レコードならではの音がした。
表現しづらいのだけれど、なんていうか、すーっと耳ではなく心に入ってくる、そんな感じがした。
彼女もベッドに腰掛け、黙って耳を傾けていた。
「レコードっていいね」
A面を聴き終え素直に感想を述べる。
「でっしょ!秋桜くんならわかってくれると思っていたよ」
彼女はにこっと笑った。それを見て僕も自然と口角が上がる。
この時、初めて彼女を失ってしまうという不安が覆いかぶさってきた。
失ってしまうからなんなんだ?
別に彼女はただのクラスメイトだ。それ以上でもそれ以下でない。
そう思い込まなければいけない、気がした。
僕は無理やりそれらを払拭した。
僕らはその後も、レコードを聴いた。
二人だけの空間で、二人だけの夜に、レコードの世界だけが広がっていた。
その世界には、病気という悪魔も、自殺という文字もなかった。
ただ安らかだった。
僕は日付が変わるギリギリまで、彼女とレコードを楽しんだ。
「なんか遅くまで付き合わせちゃってごめんね」
「いや、こっちこそ、遅くまでお邪魔しちゃってごめん」
僕は玄関の扉を開けようとして、振り返った。
彼女はきょとんとしていた。
「ん?どうかした?」
「これからも、もしよかったら付き合わせてほしい」
言っておきたかった。
それと、もっと一緒にいたいと思った。
彼女はきょとんとした顔から、笑顔に一変させて、言った。
「わかった!付き合わせる!」
その笑顔をみて満足した僕は、今度こそ振り返り、彼女の家をあとにした。
帰り道、彼女の言葉が頭の中で反芻していた。
僕の自殺を止めた時の言葉「死にたくなる時もあるけどさ、もう少し生きてみない?せっかく健康に生まれたんだしさ、もったいないよ」
カラオケで僕に放った言葉「十分じゃん!なんで未来のことを勝手に決めつけてマイナスに考えてるの?甘いよ!甘い!健康ならいいじゃん。勝手に不自由にしてるだけじゃん。健康なら自由に好きなように生きればいいじゃん!健康だけで・・・じゅうぶんじゃん」
そうか。そういうことだったのか。
こんな形で伏線が回収されるとは。
彼女の言葉たちを追い出すために僕は、イヤホンを取り出し、耳にはめる。
スマホを操作し、曲を再生する。
『一番星』
夜休みの羊を聴くことで、僕らのどこかにある共通した心を共有している気分になれた。
空を見上げて、一番星を探す。
もしかしたら、彼女も自分の部屋から、レコードを聴いているかもしれない。
彼女はあと何回星を見ることができるのだろうか。
しかし、その後、僕と彼女が学校で会うことはなった。
翌朝、学校に行くと、いつも通り、多方向からの視線を感じつつ僕は席についた。
席について、いつも通り、教科書を机にしまう。
机に教科書を入れるため、机に手を入れる。
すると、空っぽのはずなに、手に何かが触れた。当たる感じ、それは紙だと推測できる。
僕はそれを机の右側に手探りで寄せて、教科書を左側に入れた。手を机の中から出すと同時に、その紙も一緒に取り出す。
目視で確認すると、それはくしゃくしゃになったノートの切れ端だった。そこに黒い線が引いてある。
その線は言葉になっていた。
『死ね』
僕は心底ため息をつく。
こんな陰湿なこと今時小学生でもやらないぞ。
なぜ、これが僕の机に投函されたかは、見当がついている。
彼女はこのクラスの男子からモテている。
ゆえに、僕と彼女の関係をよく思わない奴が嫉妬心から嫌がらせをしているのだ。
面倒くさい。
面と向かって、殴られた方がまだよかった。
誰がやったかわからない分、こういうのが一番、たちが悪い。
「なにかあったのか?」
隣の席のクラスメイトがスマホに視線を落としたまま、僕に言った。
「いいや、なんでもない」
僕はそれを、制服のポケットにしまって、スマホをいじった。
すると、担任が入ってきて、彼女が本日も休みだと、告げた。
昨日、長居しすぎたせいだと思い、僕は少し、バツが悪くなった。
その日はそれ以外、何事もなく終わった。
次の日も、彼女は学校に来なかった。
少し心配になり、僕からメールを送ろうとしたがその必要はなくなった。
その日のお昼休み中、いつも通り、前の席のクラスメイトと食堂に行き、昼食をとっている時、彼女からメールが来たのだ。
『今日の放課後、空いてる?空いてたら南小学校の隣の喫茶店に来て!』
僕は『了解!』と返した。
放課後、僕は足早に学校を後にし、直接喫茶店に向かった。入るなり、彼女はすでにおり、オーナーであるおばちゃんと楽しそうに談笑していた。
「あっ。やっほー!」
「いらっしゃい」
「学校さぼって喫茶店でお茶なんて、いい身分だね」
「そうよ!昨日、告白されたんだから秋桜くんよりいい身分よ!」
僕は何かを頼まないと悪いと思い、ココアを注文した。
おばちゃんは人懐っこい笑顔を見せて厨房に消えていった。
告白の件は興味なかったので、触れずに今日、なぜ呼んだのか訊いた。
「それがねー。実は入院することになっちゃってさー」
彼女はホットレモンティー飲みながら言った。
僕が何かを言おうとしたタイミングでなにも知らないおばちゃんがココアを持って現れた。
「ありがとうございます」
受け取り、一口飲む。
美味い。ココアはいつだって甘く僕を受け入れてくれる。
「誰に、告白されたでしょー!」
「あっ、戻すんだ」
「もちろん!私がモテているっていうことを証明したいからね~」
「変わった趣味だね。・・・クラスの男子じゃない」
告白の件を彼女から聞いて、なんとなく目星がついていたので、それをそのまま言った。
「ぴんぽーん!でも、この先は秘密なんだ!ごめんね秋桜くん!」
口の前でチャックするような仕草をする。
「こっちこそ、ごめん。最初から興味ないんだ」
「いちいち、ひどいよね、秋桜くんは」
そして、「告白に乾杯」とわけのわからない宣言をし、僕のグラスに自分のカップをぶつけた。「キーン」という音が小さい喫茶店に響く。
その後、僕と彼女とおばちゃんで軽く雑談し、喫茶店を出た。
外は、すっかり日が落ちて肌寒かった。
「さむいね!一気に寒くなったよね」
「十月だしね」
並んで歩いた。
「ちょっとさ、紅葉見に行かない?絶対今が見ごろだよ!」
「どこに?」
「ミューズパーク!まだバスあるから行こうよ!」
ミューズパークとは僕らの地元にある、大きな公園で、観光客も多く訪れる場所だ。
自然豊かな場所なので一年通して四季を楽しめる。
確かに、ちょうど今頃がイチョウや紅葉の見ごろかもしれない。
僕は、もう走り出している彼女の後を歩いて追った。
「お金ある?」
バス停でバスを持っている時、彼女が訊いた。
「あるよ、てか、十五分くらいでしょ?」
「そうだよ!行ったことあるでしょ!」
「あるけどさ、紅葉だけをメインに行ったことはないかも」
「私も!でも絶対きれいだよ!」
僕らはバスに乗り、目的地を目指した。と、言っても、地元なので少し山を登ればすぐに着く。
十五分ほど揺られ、バスから降りた。
少し歩くと、イチョウがずらりと並ぶ道に出た。
「うわー!めっちゃきれい!」
暗かったけれど、両サイドからのライトアップがあり、綺麗にイチョウ並木が僕らの目の前に映し出される。
それは、確かに、もの凄く綺麗で幻想的だった。
「昼間見るのもいいけど、ライトアップされて見るのも神秘的でめっちゃいいね!」
横で彼女はテンションを上げている。
僕らはそのイチョウ並木をゆっくり歩いて、秋を味わった。
「これは、私についてきて、正解だと思ったでしょ?」
「・・・うん、まぁ少し」
「もう素直じゃないな」
彼女は不貞腐れたような表情を見せるが、口角の端は上がっていた。
「君が楽しそうで何よりだよ」
「すっごい楽しいよ~」
しばらく歩いて、彼女がこんな提案をした。
「そうだ!これをバックに写真撮ろうよ!」
僕は少しムッとした。
「写真?僕、あんまり好きじゃないんだけど」
「いいじゃん!女子なんて毎回写真撮るんだよ!ほらほら」
僕は彼女に腕をつかまれ、ぐいっと引き寄せられる。
スマホを内カメにし、僕と彼女と紅葉と、少し傾けて夜空が写るようにし、彼女はシャッターを切った。
フラッシュをたいたため、景色がよく写った。
僕は間抜けな顔をし、彼女は健康的な白い歯を見せ、ピースサインをしているという、僕にとっては黒歴史に残る写真ができ上ってしまった。
僕らは、最終のバスの時間に間に合わなければいけないので、長居はせずすぐにバス亭に戻った。
バスに乗り、前の方の席に二人並んで座った。
バス内は僕ら以外に人はいなかった。
「そういえば、入院するの?」
「そうそう!治療に専念するんだ!一応、学校はやめないけどね~」
「すぐに学校に戻ってくるんでしょ?」
「それがね~。もう余命は過ぎてるし、わかんないんだよね。最近、体調不良も多いし」
「・・・・そっか」
「だから、病院に遊びに来てよ!いい?」
僕は迷いなく答えた。
「もちろん」
「やったー!病院での楽しみが増えたよ!」
「そんなの楽しみにするなよ」
「これ、めっちゃ美味しい!どこのゼリー?」
僕は、家の近所にある、ケーキ屋さんの名前を口にした。
「あー!あそこね!ゼリーなんて売ってたんんだ!てっきりケーキだけだと思ってた。あそこのモンブラン美味しいんだよね~」
「わかる!」
僕は珍しく彼女に共感した。
「だよね!はーまた食べたいな~」
「今度買ってきてあげるよ!」
「えー本当にー!楽しみにしてる!」
彼女ははじける笑顔でゼリーをまた一口、口に運んだ。
僕は、学校終わりに、人生初めてお見舞いというやつに来ていた。
彼女の体調は良好そうなのでひとまず安堵した。
ゼリーを食べ終え、彼女は自分で立って、病室のゴミ箱にそれを捨てた。再びベッドに戻り、上半身を起こし、窓から外を見た。
窓の反対側のイスに腰掛けた僕も、一緒に外を眺める。
「無駄に眺めいいね」
「そうなんよ!あっそうだ、秋桜くん、屋上に行かない?」
「屋上?」
「そう!死ぬためじゃなくてね、星を見ようよ!私、昨日見たんだけどすっごい綺麗だったの!」
頭の言葉は無視し、僕は彼女の誘いに乗った。
彼女がベットから起き、立ち上げる時、僕は先ほどのお返しに、過剰に養護した。
「ちょっと!そんなおばあちゃんじゃなんだけど!」
と、僕の肩をグーパンチした。
せっかく、手を貸したのになんて奴だ。
僕らは階段を使い屋上へ上がった。
空の色は、オレンジとピンクとほんの少しの群青色で僕らを見下ろしていた。
ベンチに腰掛けて、遠くの空を眺める。
すると突然彼女が声を出した。
「あっ、あれ一番星じゃない?」
「いや~、あれでしょ」
各々、それっぽい星を指さした。
そんな話をしていると、秋の空はうさぎのスピードで変わっていき、少しずつ群青色が増えていった。
「確かに、星が良く見えるね」
「でっしょ~!」
一拍おいて、空を見上げたまんま言った。
「秋桜くんは、天国とか地獄とかあると思う?」
「ないんじゃない?」
「それは、つまり信じてないってこと?」
「うーん、というより、死んでるのにまだ生きるような感じは嫌だな。死んだら、ずっと眠っていたい」
「そっか~」
「君は?信じているの?」
「私は、信じたくないなぁ。天国にも地獄にも行きたくない。私は星になりたい!」
小学生みたいなことをいう彼女。
隣を見ると彼女はまっすぐ、空を見ていた。
「なるなら、秩父の星になりたい!ここから見える星になりたい!」
「どうしたの?急に。とうとう病気に脳をやられたの?」
「私は本気だよ!」
と、また僕の肩をグーで殴ってきた。
満点の星空の下、僕らは流れ星をたくさん見た。
その状況はこの上なくロマンチックだった。
今後、数十年、いや、もしかしたら一生訪れることのない、状況だったかもしれない。
次に僕が病室を訪れたのは、二日後学校をさぼり、正午に彼女の元を尋ねた。
病室の扉を開けると、彼女は雑誌を読んでいた。
僕に気づいた彼女は目を丸くした。
「秋桜くん。どうして?学校は?」
「さぼった。あっ、ケーキ買ってきた」
手に持っていた、ケーキを僕は彼女に差し出した。
「うわー!モンブランじゃん!さすができる男は違うぜ!」
彼女は、満面の笑みをこぼし「フォークがそこの引き出しにあるから二つとって」と言った。
僕は病室に備え付けられたキッチンの引き出しからフォークを見つけ、パイプ椅子に座った。
「一緒に食べよ!」
モンブランとチョコレートケーキを買っていた。
高校生のお財布ではケーキ二個が限界だった。
「チョコレートケーキはあとで、君が食べてよ」
「わかった!じゃモンブラン半分こしよ!」
言うと、モンブランのケーキを取り出し、ベッドの横の棚に置いた。
彼女はフォークで上手く半分に割った。
「うまい~!この味、この味~」
「喜んでもらえてよかったよ」
僕もケーキを口運ぶ。
「そういえば、どうしてさぼった?」
モンブランケーキを頬張りながら彼女が訊いた。
「どうせ、死のうとしてたし、学校とかどうでもいいよ。それより、君と過ごした方が合理的だと思って」
彼女はフォークを口に当てて難しい顔をした。
例えるなら、幼稚園児に「空はなんで青いの?」と質問された、保育士のような感じ。
「それはすごく嬉しいんだけど、学校は行きなよ~」
「特別だから?」
「そういうことでいいよ」
彼女は、くすくすと笑った。
ケーキを食べ終え、片づけをした。
ケーキが入っていた箱を丁寧に折りたたみ、ゴミ箱に捨てる。
余った、チョコレートケーキは備え付けの冷蔵庫に入れた。
そう、彼女はなかなかのクラスの病室に入院していた。
片づけを終えた僕は再びパイプ椅子に腰かける。
「ありがと!」
「ううん。さっきなんか雑誌読んでなかった?」
「あっそうそう!地元の雑誌読んでたの」
「また、なんで?」
「もうすぐ、お祭りあるじゃん?今年も見たいな~と思ってさ」
「いいじゃん。見ようよ。一緒に」
「おお!どうしたの?積極的じゃん。さ、さては私のこと狙ってるな?」
「そういうことでいいよ」
すると彼女は「キャー」といって、頭から布団をかぶった。
僕は一連の流れを白けた目で見てやった。
しばらくして落ち付いた彼女は何事もなかったかのようにベッドに座った。
それを見て僕は自然と頬が緩んでしまった。
「じゃ、僕はそろそろお暇するよ」
「あっ!うん。次からはちゃんと学校に行ってよ~?でも来てくれてありがとうね」
別れの挨拶をし、僕は病院を出た。
病室を出て、僕の家から病院まで三駅あるので、駅に向かう。
平日の午後、ホームには人がいなかった。
ほどなく、電車が来て乗りこむ。二駅なので、座らなくてもよかったのだけど、車内に誰もいなかったのと、気分で端の席に座った。
電車が走り出し、次の駅に着くか着かないかあたりで、僕の記憶は途絶えた。
意識を取り戻し、はっとして次の駅を確認するため、アナウンスに耳を澄ませた。
すると、僕の最寄りから、さらに二つ進んだ駅に着こうとしていた。
うっかり、三駅しかないのに乗り過ごしてしまった。
でも、家に帰っても特にすることもないので、せっかくだから、終点までいこうと思いそのまま座り続けた。
くだりのため、電車は秩父の奥地へと進んでいく。
終点の周辺に観光スポットである神社があるので、そこに寄って帰ろうと計画を立てた。
何駅も通り過ぎる。
小一時間揺られ、終点にたどり着いた。
電車を降りると、寒さが体を覆った。
少し、歩くとお目当ての神社が森の中でひっそりと佇んでいた。
観光スポットではあるが十月の平日なので、人は少なかった。
それでも、数組、観客らしく人たちを確認できた。
神様の財布に、控えめなお賽銭を投げ、お参りの仕方が書いてある通りに拝む。
一緒に花火が見られますように。
いや、彼女の病気が治りますように。
叶わない願いの方が祈りやすい。
おみくじが販売されている場所に行き、お金を入れておみくじを引く。
僕にではなく、彼女に対して引いた。
結果、吉。
そんなもんだよな。
ワンコインで人の運勢がわかったら誰も苦労しない。
引いたおみくじを木の枝に縛り、お守りが売っているところで、病気回復のお守りを買った。
遠くに日が落ちていくのを眺めながら、階段を下り駅に向かった。
空はすっかりみかん色と化していた。
その三日後の土曜日。僕はお守りを渡すべく、彼女の病室を訪れた。
が、しかし、彼女はずっと眠ったままで起きることはなかった。
結局その日は、彼女が目を覚ますことはなかった。
渡そうとしたお守りも起きている時の方がいいと思い、持ち帰ってきた。
家に帰って、自室にこもる。
椅子に座って、お守りを見つめる。
初めて、目の当たりにした。
彼女の顔色の悪さと、やせこけた頬や腕。
僕はショックを受けた。
この時、初めて、願いが叶えばいいなと思った。
彼女が入院し、十日が経った。僕は本日で四回目のお見舞いに彼女の病室を訪れていた。
彼女の顔色をみると体調は、あまり良くなさそうだった。
僕が彼女の病室の扉を開けても反応しないくらいには。
「体調は?」
「・・・あっ今日も来てくれたんだ」
体調が悪いのか、それから黙ってしまった。
僕は窓際のパイプ椅子に座り、外を眺めた。
ここからだと、武甲山が良く見える。
「あっ、そうだ。これ」
「ん?・・・お守り?」
「そう、いらないかもしれないけど」
「そんなことないよ。私、嬉しい」
そういって、彼女はお守りを大事そうに見つめた。
ずっとそうしていると彼女がかすれた声で僕に話しかけた。
「ねぇ。シチリアに連れて行ってよ」
「近々、退院できそうなの?」
「そうじゃなくて。抜け出すんだよ」
「君は、急になに言ってるんだよ」
僕は笑って言った。
「私は本気だよ。私は・・・私はもう長くない。なんとなくわかるの」
僕は何にも答えられなかった。
だから彼女が続けた。
「行かなかったら、秋桜くんはきっと後悔するよ」
その押し切る言い方に僕の心は揺らいだ。
そうだ、彼女にはもう時間がないのだ。
僕は、この状況に及んでも、まだ彼女が良くなると信じていたのだ。
彼女の顔色をみていれば、彼女がもう長くないことは容易に想像できるのに。現実から逃げている。
僕は、決意する。彼女とシチリアに行くことを。
「わかった。一緒に行こう!シチリアに」
彼女はゆっくり、そして優しく笑って「ありがとう、秋桜くん」と言って、力尽きたのかそのまま眠ってしまった。その日は面会時間まで彼女が目を覚ますことはなかった。
家に帰って、僕はネットでシチリアまでの行き方を調べた。
僕らの地元からシチリアまで二十時間はかかるみたいだった。もっと近いものだと思っていたので僕は肩を落とした。でも、これで彼女に付き合うのはきっと最後になる。彼女の最後の外出になる。
彼女が死んだら、僕も死のうと思っている。もともと死にたかったし、今の生きがいである彼女がいなくなってしまえば僕は生きていても意味がない。
だからお金の心配もなかった。今までの貯金を使い果たしてしまっても全然構わない。
それに遊園地に行った時のお金をまだ返せていない。その分のお金としてシチリアに行くお金を全て僕が賄ってあげようと考えていた。
それから、シチリアに行ったら僕は彼女に告白しよう。
振られても構わない。けど、この気持ちを彼女が生きているうちに伝えたい。
僕は、迷わず最短で空いている飛行機のチケットを検索し、ローマ行きのチケットを二枚購入した。
フライトの日は二週間後に決まった。
二日後、学校終わり、僕は再び彼女の病室を訪れた。
しかし、彼女は眠っていた。
その表情は穏やかだった。
その表情をみて、もう目覚めない方がいいのではないか、と思った。いいや、まだ彼女とシチリアに行かなければいけない。僕は首を振り彼女をみた。
「勝手に死ぬなよ」
眠っている彼女を見て僕は言った。
彼女が少しだけ笑ったような気がした。
次の日病室を訪れても彼女は眠っていた。
彼女が目を覚ましたのは、それから二日後。
病室に僕が訪れると、彼女は笑って出迎えてくれた。
「いつまで寝てんだよ」
「ごめんね。最近眠くて。・・・それは?」
僕の手を指さした。
「あ、ああ。シチリア行きのチケット。とれたんだ。どう?行けそう?」
「本当にとってくれたんだ。やるねー秋桜くん」
彼女はベッドに寝たまま。最近は上半身を起こすこともなくなった。
時々、苦しそうに顔をしかめる。
僕はフライト日を彼女に伝える。彼女はそれを聞いて「迎えに来てね」と言った。
「でも、本当にいいの?」
僕は訊いておきたかった。きっとこれで最後だ。シチリアに行って帰ってくる頃には、大惨事になっているはずだ。末期の女の子を病室から連れ出し、旅行にいくのだから。当然、怒られるで済む問題ではない。もしかしたら彼女と会うことさえできなくなってしまうかもしれない。
だから訊いておきたかったのだ。
「せめても、お母さんには言っといた方がいいんじゃない?」
「大丈夫だって。日記にちゃんと秋桜くんは悪くないって書いておくからさ」
「そんなんで許してもらえるとは到底思えないけど、ないよりはましか」
「大丈夫だって。きっと上手くいくよ」
そういって、グッドサインをし、やがて目を閉じ眠ってしまった。
そして迎えた、当日。
僕は前日から眠れずに、そわそわしていた。朝早く、支度をし学校には行かず、病室を目指した。
事前に病棟には面会で訪れる旨を伝えていたためすんなり、病室に辿りつくことができた。
今日のために、僕は貯金を全額下ろしてきたのだ。
病室の扉を開けるなり、彼女はニット帽をかぶり、少しだけ化粧をしていた。
どうやら出かける準備は満タンのようだ。
「おはよ」
「おはよー。時間通りだね」
彼女は薄く笑う。その表情から、あんまり体調が良くないことがうかがえた。
彼女は、昨日調達したという車いすを指さし、そこまで手を貸してくれと言った。
「大丈夫?」
彼女はゆっくり、ベッドから体を起こし、病室のスリッパを履く。僕は彼女の肩を抱くようにして支える。
「なんかさ、どきどきするね」
「本当だよ。僕なんか昨日からどきどきして寝れなかったんだから」
「違うよ。秋桜くんが肩を抱いているこの状況をだよ」
僕は、指摘され急に恥ずかしくなった。
「うふふふ。顔赤いよ?」
「無駄口叩いている余裕あるなら歩いてくれる?」
「はーい、うふふふ」
彼女を優しく車いすに乗せ、病室から出る。
病院の駐車場にタクシーを待たせているので、病院から出られれば僕らのミッションはほとんど成功したと言ってもいい。
タクシーに着替えなど必要なものを載せている。
廊下進んでいく、他の患者さんや、検査に付き添う看護師さんなどとすれ違ったけれど、特に何も言われず、エレベーターに乗る。
一階に着き、受付の手前を右に曲がり、中庭に向かう。
中庭には朝のお日様を浴びている老人や、走り回る子供たちがいた。僕らはそおっと駐車場に繋がる道に車いすを押す。幸い、僕らを訝しがる人たちはいなかったので無事、僕らは駐車場にたどり着くことができた。
「はあー、どきどきしたね」
彼女は疲れた笑顔を向ける。相当、負担をかけてしまったみたいだ。
「体調大丈夫?」
「うん!ありがとう」
彼女を先にタクシーに乗せ、僕は車いすを病院の入り口付近に置いた。
僕もタクシーに乗り行き先を運転手に告げると「ここからですか?」と驚いた。
「はい、ここから羽田空港に向かってください」
「いや、私はいいのですが・・・・」
運転手はバックミラー越しに彼女を見た。
「お願いします!お願いします!」
僕らは、何度も頭を下げた。そのうち彼女も頭を下げ始めたので観念したのかタクシーの運転手は「わ、わかりました」と言い、タクシーを発進させた。
タクシーに乗り、一時間が経った。
「結構、長丁場になるけど、本当に大丈夫?もし無理そうだっ」
「大丈夫!次はもうないから!」
彼女は僕を見て力強くいった。その目は僕に有無を言わせない迫力があった。
次はもうない、彼女が言うことで、彼女の死がよりリアルに聞こえた。
「そんな暗い顔しないよ。秋桜くん。秋桜くんは強い!私なんかいなくても生きていけるよ」
「こんな気持ちになるなら出会わなければよかったのに」
僕の心の声が思わず漏れてしまった。
「それは、違うよ」
カラオケの時は異なる「違う」が返ってきた。それは優しく穏やかな口調だった。
続けて彼女は何かを言おうとしけど、それを寸前で飲み込み、にこりと笑った。「少し、寝るね」といい、目を閉じた。
途中、車が揺れ、彼女の頭が僕の肩に乗っかった。
僕は振り払うことはせず、そのまま彼女に肩をかした。目的地に到着するまで、車内には彼女の寝息だけが静かに響いていた。
目的地である羽田空港に着き、運転手に料金を支払い、荷物を下ろし、僕らはタクシーを見送った。
彼女を支えようとすると彼女は手で制した。
「大丈夫、歩けるから、秋桜くん荷物重いでしょ」
僕は大きめのリュックサックと、キャリーバックを引いている。
「で、でも・・・」
「じゃ、空いてる、右手を貸して」
彼女は僕の空いていた右手に自分の左手を重ねた。そして握った。
その状況に僕はまたどきどきしてしまう。
エレベーターで入場ゲートがあるフロアまで上がり、フライト時間まで、あと二時間あるので、どこか座れそうな場所を探す。
入場ゲート付近に少し柔らかそうなベンチを見つけたので、二人で腰掛けた。
僕は荷物を下ろし、床に置く。
すると、彼女はまた僕の肩に頭を乗せた。
まさか、そんなすぐ眠ってしまったのかと、隣を見ると、彼女は目をあけていた。
その目は、心ここにあらずで、どこか遠く、明後日を見ていた。
「私、幸せだったなぁ」
だった。過去形でいう彼女。
「私、秋桜くんに出会えて、本当によかった。秋桜くんと色んな楽しいことができたよ」
「なんだよ、急に。これで終わりみたいじゃないか」
「さっき、出会わなければ、よかったって言ったじゃん?」
「うん、だからなんか終わりみたいな言い方すんなよ」
「違うよ。・・・私は秋が嫌いだった。昔から。なんか寂しいし、それに病気で余命を宣告されたのも秋。それで余計に嫌いになった。でもね、今は違う。秋が好き。だって秋にはコスモスが咲くでしょ?それを見たら私は秋桜くんを思い出す。味気ない季節が、秋桜くんとの思い出で色づいたんだよ。嫌いだった秋が私にとって大切な季節なったの。それってすごい素敵だと思わない?」
彼女はにこっと笑って、こちらをちらりと見た。「まあ、もう秋を迎えることはないんだけどね~」と舌を出して力なくおどけた。
「余命なんて、あてにすんなよ。今だって余命より一か月長く生きてるじゃんか。来年の秋だって目じゃないよ。そんな弱気になってどうすんだよ」
僕は少し怒りを混ぜていった。
「あはは。今度は私が怒られてる。でも、ほら人間いつ死ぬかわかんないしさ。一応、伝えておこうと思って。ありがとね」
なんだか今日の彼女はいつになく弱気だった。
これで終わりとでもいうような。
「これから、旅行が始まるんじゃん。シチリアに行ったら美味しいもん食べて、一番星でも見つけようぜ、な?」
「・・・うん、そうだね。ねー秋桜くん。私、喉乾いた」
「あっ確かに、じゃ買ってくるよ!ちょっと待ってて」
僕は自動販売機に向かうべくベンチから腰を上げた。
数歩あるいて、確か入り口付近にあったことを思い出し、そちらに歩き出そうとした瞬間「きゃー」と悲鳴が聞こえた。僕はすぐに声が聞こえた方に振り返る。
先ほどまで、座っていたベンチには誰もいない。が、その手前荷物が置いてある横で人が横たわっていた。それが彼女だとわかると同時に僕は走り出した。
人の目を気にせず。
僕は彼女に駆け寄り、その場に座り込んで、彼女の肩を持ち上げた。
彼女は、鼻から血を流していた。
彼女は薄目を開け、力なく笑った。
「・・・私、シチリアに行きけるよね?」
「あー、行けるよ?」
「・・・わたし・・行けるよね?」
「行けるって。で、でも、今は病院に行って少し休んだ方がいいかもしれない。また、次いつでも行けるんだから、な?」
「・・・つぎ?・・・ないんだって・・・・」
かすれた声で言った。
「次なんてなんだってば!連れてってよ・・・秋桜くん・・・・連れてってよ・・・・秋桜くんと行きたいんだよ・・・」
彼女は赤い涙を流した。
それは病気の影響なのか。彼女の気持ちなのか。わからない。
「ごめんね、冗談だよ・・・今の。また行けるよ。秋桜くん・・・」
そういって、静かに、音も立てずに彼女は目を閉じた。
「おい、目開けろよ!おい!寝てたらシチリアに行けないぞ!おい!!!」
何度ゆすっても、彼女が目を開けることはなかった。
僕の叫ぶ声だけが虚しく響いた。
誰が僕を許してくれるんだろう。
二日後、彼女はこの世を去った。
なんて不条理なんだろう。
結局叶わなかった。
彼女とシチリアに行くことも。
彼女とコンサートに行くことも。
花火を一緒に見ることも。
僕の願いも。
彼女に思いを伝えることも。
どれも叶わなかった。
彼女が亡くなってから十一日目の朝を迎えた。
今日はいつになく、早起きだ。学校も行ってないのに早く起きるなんて。
しかし、今日は目が覚めてしまったのだ。昨日の夜、僕のメールに一通通知が届いたのだ。
通知は彼女からだった。
まさか、と思い通知を開いた。すると、それは彼女の母親から送られてきたものだった。
僕は、無断で彼女を連れ出し、挙句の果てには殺してしまったのだ。許されるはずがない。彼女のご遺族に合わせる顔がなかったため、お通夜やお葬式には顔を出さなかった。しかし、メールの内容は僕を批判するような辛辣なものではなく、丁寧な言葉で、暇があったら家に来てほしいと綴られていた。
僕はいてもたってもいわれなくなり、翌日の向かう旨を伝えた。
一体要件はなんなのだろうか。
それに彼女の遺影に挨拶していないため都合が良かった。
僕は、ゆっくり朝食をしまい、制服を着て、外に出る。
雨が降っていた。
僕はビニール傘を差し、歩き始める。
コンビニに立ち寄り、お線香と迷った末、チョコレートのお菓子を買った。
僕はコンビニを後にし、彼女の家までの道のりを思い出しながら歩いた。
車の騒音は消え、閑静な住宅地を歩く。進むと水色の家が見えてきた。
つい、懐かしさを覚えてしまい、少し頬が緩んだ。
家の前まできて、彼女が作った木の表札の下にあるインターフォンを鳴らす。
緊張していた、もしかしたら僕を目の前にしたら怒りだすかもしれない。
それはそうだ、僕が連れ出さなければ彼女はまだ生きていたのかもしれないのだから。
『はい・・・』
くぐもった女性の声がインターフォン越しに聞こえてきた。
『クラスメイトの志村秋桜です』
『ああ・・・ちょっと待ってね』
インターフォンは切られた。優しい口調から僕の心配は杞憂に思われる。
ややって、玄関のドアが開いた。
「いらっしゃい」
お母さんは彼女にそっくりな方だった。僕は「失礼します」といい、家の中に入る。
「この度は、その、僕のせいで・・・」
僕はズボンの裾を握りしめながら言葉をつないだ。
「そんなかしこまらないで。さー上がって」
彼女は優しく微笑み、僕を迎え入れた。
「お邪魔します」
僕は靴をしっかり揃え、家に上がった。
いつか来た、リビング兼キッチンを通り過ぎ、奥の畳の部屋に通された。
入った瞬間、視界が脳が捉えた情報に僕は一瞬ひるんだ。何かがあふれ出しそうになるのを必死で止めた。
お母さんが先に膝を折り、その場に座った。「秋桜くんが来てくれたわよ」と遺影に向かって話しかけた。遺影には、はじける笑顔でこちらを向く彼女の姿があった。その横には、いつか渡したお守りと僕の絵が飾られてある。
「その絵、しおん凄く大事にしてたのよ」
僕の視線に気が付いたお母さんが涙声で言った。
僕もその場に座り、座布団をよけて木製の棚の前に正座した。
僕はリュックサックからコンビニで買ったチョコレートのお菓子を取り出した。
「あら、しおんが好きなお菓子じゃない。どうぞ、しおんの横にお供えしてあげて」
僕は、無言でそれを彼女の遺影の横にそっと置いた。
ろうそくに火がついていたので、買ってきたお線香に火を移す。そして手をあわせた。
何も祈ることはなかった。
生きているうちに祈ることはたくさんあったのに。すべて霧散した。
お参りを終え、目を開ける。と同時にお母さんが口を開いた。
「来てくれて本当によかったわ。あの子に頼み事をされていたの。ちょっと待っててね」
お母さんは立ち上がり、部屋を後にした。しばらくして、戻ってきたお母さんの手には、懐かしさを覚える、一冊の日記帳があった。それを僕に差し出す。
「これをね、秋桜くんに渡してほしいって頼まれてたのよ」
「そ、そんな。僕が見ていいものなのでしょうか」
「当たり前じゃない。それはしおんがあなたに残したものよ」
僕に・・・残したもの・・・
僕はその日記帳を受け取り、はやる気持ちを抑え、ぺらりとページをめくる。
そこにはいつか見た、丸文字が並んでいた。
『十月二十日
今日、病気だと診断された。余命は一年。
お父さんと同じ病気でやっぱりなって思った。
家に帰っても何もやる気が起きないのでネットで調べたところ日記を書くことに決めた。
今日からこの日記帳に色々なことを書き込んでいこうと思う。』
『十一月二日
今日、スマホをいじっていたら、知恵袋でやりたいことをリストアップすると良いと書いてあったので、私がやりたいことをリストアップしてみる。
やりたいこと
・巨大パフェを食べたい
・カラオケで歌いまくりたい
・異性と遊びたい(仲のいい男子なんていないけど)
・異性と二人きりでお泊りしたい(恋愛ドラマの影響)
・異性に料理をふるまいたい
・オールがしたい(大学生にはなれないから)
・シチリアに行きたい
・恋がしたい
ざっとこんなもんかな。・・・・』
日記は毎日行われているわけではなかった。
『十一月二九日
今日はクラスの男子に告白された。よく話こともない人。当然振った。恋はしたいけど、誰でもいいわけじゃないし。
リストを作ったけど、もうどうでもいいや。早く、死にたい。
自殺しなくも、病気が私を殺してくれるから、それまで待とう・・・・』
『一月五日
日記帳なのに、すっごい期間が空きすぎてる。
私は何をやっても続かない。人生も。でも、いいや、もうすぐ死ぬんだし。
ある意味よかった、病気になって・・・・・』
それからも、日記の日付は飛び飛びだった。
月に多くて三回。少ない時は二か月、飛んでいることもあった。
次のページは文字が消された跡があり読むことができなかった。しかし、一言。
『やりたいことができそう』とシャーペンではなく、黒いボールペンで書かれていた。
『九月二日
・・・・昨日は、クラスメイトの秋桜くんと、まさかまさかのパフェを食べに行った!
なぜ仲良くなったかはあんまり書きたくないけど。
でも、とっても楽しかった!しかも夜休みの羊が好きっていう偶然!これは仲良くせねば!明日はカラオケだー!楽しむぞー!!・・・・』
『九月三日
・・・・今日は秋桜くんとカラオケしてきた!
秋桜くんに少し怒りをぶつけてしまった。ごめんなさい。でも秋桜くんには生きててほしい。
カラオケはすごい楽しかった!喉ヘトヘト。秋桜くんも歌上手い!それから帰りにクレヨンとスケッチブックを買った!いつかシチリアに行って秋桜くんに絵を描いてほしいな。台風が休日に来るらしい!これはチャンスかも!・・・・・』
『九月七日
・・・・今日は学校を休んで、検査にいった。
あんまりよくないみたい・・・・
くよくよしてもダメだよね!明日は遠出だ!がんばれ私!台風よ味方してくれよ!・・・』
『九月九日
・・・・昨日と今日!なんと!旅行ができた!台風が来ないかと思ったらちゃんと来てくれた!
旅はハプニング!とっても楽しかった!今、雑誌を読んでいる。これは思い出の品になりそうだ・・・・そうだ、昨日寝る前にシチリアに行きたいって言ったんだけど、秋桜くん寝ぼけて覚えてないだろうな~。でも行きたい!秋桜くんと・・・・よし!明日馬鹿なふりして、海に行こう!予行練習だ・・・』
『九月十日
・・・今日は学校さぼって海に行った!おとといとは打って変わっていい天気!
風が気持ちよかったな。それから!秋桜くんの絵上手い!さすがだよ。見直してしまった!
ますます、シチリアに行くのが楽しみになった!・・・・』
僕は日記を一文字一文字丁寧に読み進めていった。
やがて読み終わり、静かに日記帳を閉じようとした時、お母さんから声がかかった。
「まだよ。そこはしおんの日記の部分。秋桜くんに読んでもらいたいのはそこじゃないの。しおんが言ってたわ。秋桜くんに宛てたものだからお母さんも見ないでって」
僕は、再び日記帳を開き、ページをめくった。空白のページが続いた。
日記のページ数が半分を少し過ぎたところで手をとめた。
黒い文字が書かれていた。
『拝啓、自殺する君へ。
これを読んでいるということは私が死んだってことだよね。
遺書でこのセリフを書いてみたかった(笑)
まず最初に!これだけは言わせて、今まで本当にありがとう。
秋桜くんに出会えて私は本当によかった。感謝してます。
もう死んでいるから赤裸々に秋桜くんに伝えたいことを書くね。
私は余命を宣告されたからずっと、色々なことを諦めてた。
なにか新しいことに挑戦すること、死ぬまでにやりたいことをすること、誰かを好きになることも。そういったこと全部諦めてた。
だってそうじゃない?
失うとわかっているのに百パーセント人を好きなるのは無理でしょ?
あの日、覚えてる?秋桜くんが自殺しようとした日。
実はあの日、私も自殺しようとしてたの。
そしたら先客がいたんだもん。そんなことある?(笑)
なぜ秋桜くんの自殺を止めたのか。
それは、きっとね、自分を見ているような気になっちゃったんだよね。
そして、気が付いたら秋桜くんの自殺を止めてた。
私自身びっくりしたよ。
だけど、あの日、秋桜くんが屋上にいなかったら私は残りの人生をこんなに楽しく過ごすことはできなかった。あのまま人生を終わらせてた。そういう意味でも本当にありがとうね。
そこで思ったの、死にたい人ならね、私のわがままに付き合わせてもいいと。
この人となら、やりたいことをできるかもって。
私の人生に一筋の光が射したような気がしたんだ。
だから私は、今までやりたかったことを最後に秋桜くんとしようと決めたの。
もしそこでね、仮に恋に落ちてしまったとしても、死のうとしている二人の恋なら許されるでしょ?
期限付きの恋なら許されるでしょ?
そしたら、意外と秋桜くんはノリが良くて、私のわがままに付き合ってくれた。
しかも、思ったより、優しかった。
うん。本当に優しかった。
ありがとね。
私何回お礼言うんだろう(笑)
私の死ぬまでにやりたいことを秋桜くんとできて本当によかった。
私は秋桜くんと過ごす時間が余生のすべてだったの。
大げさだな~って言いそうだね~。(笑)
もしかして、言ってる~?
よし、これ読んでいる時はもう死んでいるし、素直になろう。
私は、秋桜くんに恋してた。秋桜くんのことが好き。
でも、それは、きっと私が病気じゃくても秋桜くんのことを好きになってた。
どういうことかって?
私が恋できるのは秋桜くんしかいないから秋桜くんのことを好きなったんじゃなくて、そういうのなしにしても私は秋桜くんのことが好き。今までもこれからも。
人にこんなにストレート告白するのは初めてかな。文字でも緊張するね(笑)
秋桜はどう思っていたのかな。
もし同じ気持ちならお墓に私の名前でも差しておいてよ。(笑)
でもね、秋桜くんと関わっていく上で、一緒に過ごしていくことで一つだけね、後悔したことがあったの。
それはね。
生きたいと思うようになってしまった。
もっと、もっと、秋桜くんと一緒にいたいって思ってしまったの。
それは、秋桜くんと過ごしてくことで強くなっていった。
人生でやりたいことじゃくて、秋桜くんと一緒にやりたいことが増えていった。
でも、それをする時間が私にはもうない。
それが唯一、秋桜くんと関わって後悔したこと。
ねぇ、生きたいな。
普通に生きたい。
秋桜くんと生きたかった。
私をこんな気持ちにさせて!本当に罪深い男だよ(笑)
こんな気持ちにさせた私に対しての贖罪として私のお願いを二つ聞きなさい!
一つ、秋桜くんの絵をコンクールに出すこと!どんな小さいコンクールでもいいから秋桜くんの絵をみんなに見てもらってください!
秋桜くんの絵は素晴らしいって私が保証してあげる。だから胸をはってコンクールに出して大丈夫だよ(笑)
約束だよ?うん。よろしい。
そして、二つ!
生きて。
秋桜くんは生きて。
私の分までとは言わないけど、生きて。
そして笑って。笑えない時は泣いてもいいけど(笑)
私のお葬式でも泣いてもいいけど?
秋桜くんは泣かなそうだね(笑)
それはそれでなんだかなぁ。
でも、秋桜くんには笑っていてほしい。
わかったね?わかるよね?
さあ、いつまでも下ばっかり向いてないで、ほら、騒がしい未来が待ってるよ!
それで、私とはもうお別れ。またねじゃない。本当のお別れだよ。
名残惜しいけど。
でも、私はね、いつだって見守ってるよ。
だから、もし生き詰まった時があったら夜空を見上げてよ、どこかに私がいるからさ(笑)
じゃ、バイバイ、さようなら。
最初で最後の本気で恋をした、大好きな秋桜くんへ。
望月しおんより』
『P・S・
最後に私も、自分の名前をクレヨンで描いてみました!』
そこには、一輪の紫苑の花が描かれていた。
僕はその絵を指でなぞる。
その花の横に大きな水玉が落っこちた。
とめられなかった。
涙を。
受け止められなかった。
君こ死を。
とめどなく涙があふれ、僕は声をあげて泣いた。子供のように泣いた。声を押し殺すことなんてできなかった。
畳に頭を何回もこすりつけ、畳が鼻水と涙で汚れる。それでも構わず泣いた。
伝えればよかった。
好きだって、一言伝えればよかったんだ。でも出来なかった。
なぜだろう。今、目の前に彼女がいれば言えるのに。
どうして生きているうちに言えなかったんだろう。
悔しくて、また涙があふれ出してきた。
君のいない世界で僕はどう生きていけばいいんだ。
君がいた世界でも生きるのがやっとだったのに。
君と関わって生きていられるかもしれないって思ったのに。
僕は、ひとしきり、文字通り、涙が枯れるまで泣いた。
ようやく僕は顔を上げた。きっと目は赤く腫れ、鼻水は垂れ流れて、人に見せるような顔はしていなかったと思う。
それでも、彼女のお母さんは優しく微笑んで、桃色のハンカチを渡してくれた。
涙と鼻水を拭きとると、かすかに彼女の匂いが残っていて、また涙がこぼれた。
「しおんのために、そこまで泣いてくれてありがとうね。きっと、しおんも喜んでいると思うわ。ありがとう。ありがとう・・・・」
お母さんもまた、涙を流した。
僕はハンカチを洗って返すと言ったが、持っていてほしいと言われたので、ありがたく彼女のハンカチを受け取った。
玄関まで何とか歩き、靴を履く。
「また来てちょうだい」
「はい、また伺わせていただきます。いろいろが迷惑をおかけてして申し訳ございません」
僕は、玄関の扉を開けて、外に出る。
雨は上がり、雲の隙間からお日様が顔を出していた。
ありがとう。頑張るよ。そしてさようなら。
今年もまた、君が好きになった季節がやってきたよ。まだ夏の余韻を残しているみたいで、僕は辟易としているけど。
君の命日には、少し早いけれど、ここに来ることができてよかった。
今日は色々報告しないといけないことがあって。
ここに来ているから、わかっているとは思うけど、僕は今もこうして生きている。
先日、やっとシチリアにも行けたよ。
専門学校に入って、色々なアクリルの画材を買って試しているんだけど、それらをシチリアにはもっていかなかった。
なぜって?
君の好きだった画材で描くことが君のお願いに一番適していると思ったからだ。
描いたんだ。絵を。
君がきっとお父さんと見たであろう、シチリアの浜辺をね。
割と、いい仕上がりじゃないかな。
それを今日持ってきたんだ。
これから君の家にお邪魔するつもりだからもしここにいなかったら、その時にもまた見せるよ。
それが終わったら、秋に学校で行われるコンクールに出そうと思ってる。
結果はまたその時にでも。
僕は、先ほど花屋で買った、秋の花を花瓶にさす。
どうやら、お墓参りにも適した花らしい。
僕は手を合わせて、目を閉じる。
花言葉を花屋の店員さんに教えてもらったよ。
『追憶』『遠くにいる人を思う』だってさ。
確かに、故人に送るにはぴったりだよね。
それからもう一つ『君を忘れない』。って意味もあるらしい。
きっと手紙に描いたのはこっちの意味だよね。
そうそう。出会いの話なんだけど、僕も最近こう思うことにした。
いいかい?
僕は地元である秩父が好きじゃないって話をしたよね。
でも、君は地元が好きで、君は死んだら、ここの星になりたいって言ってたろ?
だから、僕は好きになった。
わからない?
秩父の夜空を見上げたら君がいるかもしれいって思えるようになったんだ。
他の場所の夜空と違って秩父の夜空に意味が付いたんだ。
すごく素敵じゃない?
きっと、騒がしい君だから、一番星にでもなっているんだろう。
僕は、今日も夜空を見上げるよ。
だって、どこかに君がいるんだから。
作中に出てくる音楽(夜休みの羊)
https://youtube.com/@yoruyasumi-hitsuji?si=qce7uowIFlAtT1z3