秋の逸話
思い出だけが美しい
高校2年生の季久美は最近、同じクラスの秋介と付き合い始めた。
チョコレートが大好きで、肌のコンディションと体重を気にしながら、デートでよく行くカフェで、ガトーショコラやザッハトルテを食べるのが好きな季久美を、秋介はブラックコーヒー片手に穏やかな顔で見ている。
「本当に幸せそうな顔して食うよなあ」
「だっておいしいもーん。チョコケーキは本当に悪魔の食べ物だなって思うよ」
そんなケーキを食べながら、その日の気分で選ぶコーヒーや紅茶には、砂糖もミルクもしっかり入っている。
時にはエスプレッソの小さなカップだけを卓上に置くことさえある秋介には、季久美の甘味好きは理解の外だが、彼女がうれしそうだから、その顔を見ているだけで俺もうれしい――そんなふうに考えていた。
2人の飲み物の容器も季久美の皿も空っぽになったところで2人は店を出た。
「今日はこれからどうする?」
「私んちに来ない?お母さんたちも秋介に会いたいって言っているし」
「…お父さんも?」
「いると思うけど、朝早く釣りに行ったからなあ。帰ってきてても寝てるかも」
「…そ、か…」
2人の家は、どちらも繁華街のある大きな駅から1キロ程度の距離にあったので、駅周辺で落ち合って映画を見たり、どちらかの家に行ったりすることが多かった。
秋介は季久美の父が少し苦手だった。
カノジョの父親だからはっきりとは言えないが、「声が大きくてガサツ」だと内心思っていたし、一度食事に招かれたとき、何かと自分に目をかけてくれるのはいいとして、何度も何度も同じ自慢話や家族の失敗談を聞かされ、うんざりしたことがあったのだ。
2人の交際は、そもそも季久美の告白から始まった。
おとなしい秋介は、もともと季久美の明るく積極的なところに憧れていたし、押し切られたような形ではあったが、「俺なんかでよければ、あの、その…」と交際の申し込みにOKした。
そのせいかどうか、ごくたまにではあるが、季久美の態度やしぐさに「父親的なもの」を感じ、ひっかかることも多少はあった。
とはいえ、17歳の快活な少女と推定40代のオジサンとでは、その「押しの強さ」から感じ取るものはやはり違う。
何だかんだで、かわいい彼女が自分を言い負かすような強気な態度だったとしても、「かわいいから許す」というマインドになっていたことも否定はできない。
何なら(こういうところも、季久美の魅力の一つだな)とまで思うことさえあった。
+++
季久美の家に行く途中の道に、小さな小さな公園がある。
近くに公民館や、小さな鳥居や祠だけがあるナントカ神社があり、遠目にはその一部のように見えるが、実際に通りかかると、「どうしてもここにこんなものが?」と思ってしまうほど、こういってはアレだが存在意義の分からない小緑地だが、むだに立派なイチョウの木が1本だけあり、秋は落葉という名の黄色い絵の具で染められていた。
秋介は季久美と付き合う前から、こののまっ黄色の公園の風景が大好きだった。
「しっかし、今年も見事だなあ」
「ほんとにね~」
2人が住む街から電車とバスを乗り継いで2時間くらいのところに、立派なイチョウ並木のある大きな公園があるという。
600メートルにわたる並木道は、シーズンになると夜間はライトアップされるというのをローカルニュースで見たばかりだった。
いつかは行ってみたいが、自家用車が自由に使える立場でないと、ライトアップを見るのは難しそうだ。
大人になったら――大学に入って、免許を取って、バイトで稼いだ金で車を買えたら――あんなところに季久美を連れていきたいなと、秋介は漠然と考えた。
「あ、何か落ちてるぞ?」
公園の前を通り過ぎる前に、秋介は足元に落ちている水色のものに気づいた。
「あ――カチューシャだ。まだ新しそうだね」
「あ、そういう名前だっけ、頭につけるやつだよね?」
「そうそう」
ヘアピンやシュシュならともかく、カチューシャが「いつの間にか頭から落ちて、それに気付かず」いる人がいるのかなと、季久美は少し疑問に思ったものの、わざわざ捨てていくというのも考えづらいから、落とし物なのだろう。
「汚れていないし、ここに落としてからそんなに時間は経ってないのかもね」
「こういうときってどうすればいい?交番とか?」
「まあ、それでもいいかもしれないけど…」
秋介は少し考えてから、カチューシャを持ち上げ、公園の入り口付近に移動させ、周囲のイチョウの落葉を少し集め、その上に寝かせるように置いた。
公園に入るためには、4段ほどの小さな石段をのぼる構造になっているので、普通の人の目に入りやすい高さになるし、誰かが気づかず踏んでしまうリスクも小さいと考えたようだ。
「こうすれば、取りに戻った人にも分かりやすくない?」
「確かに。けっこう目立ちそう」
明るい黄色のクッションの上に、水色のアーチ型が映える。
秋介は、「早く持ち主が取りにくるといいね」と言いながら、軽くカチューシャに触れた。
季久美はその穏やかな表情を見て、(ああ、シュウくんのこういうところ、本当に好きだなあ)と、改めて惚れ直す思いだった。
3日後、季久美が例の公園の前を通りかかると、カチューシャはなくなっていた。
真相は分からないけれど、多分落とし主が持っていったのだと思う。
それなら喜ばしいことだが、秋介の工夫が伝わったかどうか、確かめようがないのが残念だなと思った。
+++
季久美と秋介の交際は、10代のうちに幕を引いた。
積極的に地元での進学や就職を考えていた秋介と、もっと都会に行きたいとぼんやり考えた季久美との間に温度差が生じ、だんだんと互いに距離を置くようになったのだ。
けんからしいけんかもなく、お互いを傷つけるようなことを言うわけでもなかったが、お互いがお互いに、あまりいい感じを持たなくなってしまったことは確かなようだ。
季久美は秋介を、「つまんない安定志向」などとジャッジするようになり、秋介も秋介で「都会がいいとかミーハーなだけ」「地に足がついていない」と内心思っていた。
さらに、「大体男のくせにナヨっとし過ぎ」とか、「所詮あのヒトの娘なんだよなあ、人の話まともに聞かないっていうか…」と、ちょっと“切り取った”だけのしぐさで、それが彼(女)の本質であるかのように考え始めたら、恋人というより、人としてのつき合いも難しいかもしれない。
友人情報などで、お互いの進路を漠然とつかんではいたものの、卒業する頃には口も利かなくなっていた。
1人一回ずつ回してゲットしたアニメキャラクターの根付は、それぞれが捨てるでもなく、思い出にこだわって保管するでもなく、お互いの持ち物群の片隅で、ひっそりと眠り続けることになりそうだ。
それから10年以上経って、秋介も季久美も、高校時代は存在も知らなかった相手と交際し、それぞれ結婚した。
◇◇◇
季久美の夫は、出身地が全く異なる同い年の男性・文則である。
性格的には似たもの夫婦のせいか、小さな衝突はあるものの、2人ともできるだけ本音を言い合ってトラブルを解決しようとするタイプなので、それはそれでうまくいっているようだ。
けんかが激化すると、あまりにも温和な性格のため、けんかすらしなかった秋介をたまに思い出すことはあったものの、だからといって、秋介との別れや文則との結婚を後悔しているわけではない。
例えば、文則との思い出の品を見て冷静になった後、自分からわびたり、何かを提案したりしながら、「今頃シュウ君も、きっとおっとりしたお嫁さんとかもらって、仲よくやっているんだろうな」などと勝手に想像することもある。
+++
秋介は、大学で2年後輩の茜と児童文化系のサークルで知り合い、交際、結婚という運びだった。
早いうちから小学校教師を志していた秋介は、自分と考え方や志向が似た茜と意気投合した。
明るく前向きな性格で、季久美に近いものがあったせいか、今回も茜からの告白が交際のきっかけになった。
それも、実は茜は秋介の高校の後輩で、「前から憧れていたんです。だから私もこの大学に決めて…」とまで言う。
時期的に、季久美とだんだん疎遠になった頃だろうか。
当時は自分が後輩女子にそんな目で見られていることなど、全く想像すらしていなかったが、秋介は少し舞い上がり――調子に乗ってしまったのかもしれない。
秋介は無事、県の教員採用試験に合格し、最初の4年を少し郡部の学校で過ごした後、地元の学校に赴任したのを機に、茜と結婚した。
茜は残念ながら試験に失敗し、卒業後は再チャレンジを考えながら書店でアルバイトをしていた。
そんな生活で、少し心が折れそうになっている中、秋介は茜に手を差し伸べるつもりでプロポーズした。
「無理しなくていいよ。僕と家庭を築いて守るって仕事はどう?」
茜は秋介の温かい言葉に感謝し、泣きながら秋介の手を取った。
秋介も最初は、「愛する女性を守りたい」という純粋な気持ちだったかもしれない。
しかし、そうして生活している中、「無理しなくても」は「気楽でうらやましい」に、「僕との家庭を守って」は「食わせてもらってる身分で口答えするな」に徐々に変化し、しまいには手を上げることすらあった。
秋介のように優しい男性がそのように変わってしまうのは、何かきっかけがあったのか、実はそちらが素だったのか。
児童や保護者、職場の仲間からは「熱心で素晴らしい教師」として評判がいいが、その裏では気分次第で妻に暴言を吐くし、時には手を上げる(酒を飲めない秋介は素面でそれらを行う)こともある。
茜は、自分は割と強気な性格だと思っていたので、現在進行形で夫の暴力の被害に遭っているということ自体が他人ごとに思えるほどだが、苦い失敗体験のトラウマと、繰り返される「駄目女」「クズ嫁」という言葉の礫に傷つけられ、いざ言い返そうとしても、すっかり委縮してしまっていた。
『私はもともと気が強くて、自分がこんなふうになると思っていなかった』
辛い心情を、似た境遇の女性たちが集う掲示板でこう書き込んだことがあった。
しかしこれに対しての反応の中に、茜にとっては予想外の言葉があった。
「“こんなふう”って何ですか?
DV被害に遭うのは気が弱くて情けない人間だとでも言いたいんですか?」
「そういうことじゃないでしょ」とたしなめる者もいたが、「自分もそれ気になった。気が強いとか関係なくない?」と同調する者もいる。
茜は「自分には居場所がない」と絶望的になり、秋介に楯突こうという気色すら見せなくなった。
秋介はそんな妻を、「昔は生意気だったが、今は従順な理想の妻」だと思い込んでいる。
「今度の休み、ドライブに行きたいな」
「ドライブ、ですか?」
「県北スポーツ公園、イチョウ並木のライトアップがきれいなんだってさ。移動カフェも来るらしいよ」
「ああ、それニュースで見ました。いいですね。行きたいです」
【『思い出だけが美しい』了】
チョコレートが大好きで、肌のコンディションと体重を気にしながら、デートでよく行くカフェで、ガトーショコラやザッハトルテを食べるのが好きな季久美を、秋介はブラックコーヒー片手に穏やかな顔で見ている。
「本当に幸せそうな顔して食うよなあ」
「だっておいしいもーん。チョコケーキは本当に悪魔の食べ物だなって思うよ」
そんなケーキを食べながら、その日の気分で選ぶコーヒーや紅茶には、砂糖もミルクもしっかり入っている。
時にはエスプレッソの小さなカップだけを卓上に置くことさえある秋介には、季久美の甘味好きは理解の外だが、彼女がうれしそうだから、その顔を見ているだけで俺もうれしい――そんなふうに考えていた。
2人の飲み物の容器も季久美の皿も空っぽになったところで2人は店を出た。
「今日はこれからどうする?」
「私んちに来ない?お母さんたちも秋介に会いたいって言っているし」
「…お父さんも?」
「いると思うけど、朝早く釣りに行ったからなあ。帰ってきてても寝てるかも」
「…そ、か…」
2人の家は、どちらも繁華街のある大きな駅から1キロ程度の距離にあったので、駅周辺で落ち合って映画を見たり、どちらかの家に行ったりすることが多かった。
秋介は季久美の父が少し苦手だった。
カノジョの父親だからはっきりとは言えないが、「声が大きくてガサツ」だと内心思っていたし、一度食事に招かれたとき、何かと自分に目をかけてくれるのはいいとして、何度も何度も同じ自慢話や家族の失敗談を聞かされ、うんざりしたことがあったのだ。
2人の交際は、そもそも季久美の告白から始まった。
おとなしい秋介は、もともと季久美の明るく積極的なところに憧れていたし、押し切られたような形ではあったが、「俺なんかでよければ、あの、その…」と交際の申し込みにOKした。
そのせいかどうか、ごくたまにではあるが、季久美の態度やしぐさに「父親的なもの」を感じ、ひっかかることも多少はあった。
とはいえ、17歳の快活な少女と推定40代のオジサンとでは、その「押しの強さ」から感じ取るものはやはり違う。
何だかんだで、かわいい彼女が自分を言い負かすような強気な態度だったとしても、「かわいいから許す」というマインドになっていたことも否定はできない。
何なら(こういうところも、季久美の魅力の一つだな)とまで思うことさえあった。
+++
季久美の家に行く途中の道に、小さな小さな公園がある。
近くに公民館や、小さな鳥居や祠だけがあるナントカ神社があり、遠目にはその一部のように見えるが、実際に通りかかると、「どうしてもここにこんなものが?」と思ってしまうほど、こういってはアレだが存在意義の分からない小緑地だが、むだに立派なイチョウの木が1本だけあり、秋は落葉という名の黄色い絵の具で染められていた。
秋介は季久美と付き合う前から、こののまっ黄色の公園の風景が大好きだった。
「しっかし、今年も見事だなあ」
「ほんとにね~」
2人が住む街から電車とバスを乗り継いで2時間くらいのところに、立派なイチョウ並木のある大きな公園があるという。
600メートルにわたる並木道は、シーズンになると夜間はライトアップされるというのをローカルニュースで見たばかりだった。
いつかは行ってみたいが、自家用車が自由に使える立場でないと、ライトアップを見るのは難しそうだ。
大人になったら――大学に入って、免許を取って、バイトで稼いだ金で車を買えたら――あんなところに季久美を連れていきたいなと、秋介は漠然と考えた。
「あ、何か落ちてるぞ?」
公園の前を通り過ぎる前に、秋介は足元に落ちている水色のものに気づいた。
「あ――カチューシャだ。まだ新しそうだね」
「あ、そういう名前だっけ、頭につけるやつだよね?」
「そうそう」
ヘアピンやシュシュならともかく、カチューシャが「いつの間にか頭から落ちて、それに気付かず」いる人がいるのかなと、季久美は少し疑問に思ったものの、わざわざ捨てていくというのも考えづらいから、落とし物なのだろう。
「汚れていないし、ここに落としてからそんなに時間は経ってないのかもね」
「こういうときってどうすればいい?交番とか?」
「まあ、それでもいいかもしれないけど…」
秋介は少し考えてから、カチューシャを持ち上げ、公園の入り口付近に移動させ、周囲のイチョウの落葉を少し集め、その上に寝かせるように置いた。
公園に入るためには、4段ほどの小さな石段をのぼる構造になっているので、普通の人の目に入りやすい高さになるし、誰かが気づかず踏んでしまうリスクも小さいと考えたようだ。
「こうすれば、取りに戻った人にも分かりやすくない?」
「確かに。けっこう目立ちそう」
明るい黄色のクッションの上に、水色のアーチ型が映える。
秋介は、「早く持ち主が取りにくるといいね」と言いながら、軽くカチューシャに触れた。
季久美はその穏やかな表情を見て、(ああ、シュウくんのこういうところ、本当に好きだなあ)と、改めて惚れ直す思いだった。
3日後、季久美が例の公園の前を通りかかると、カチューシャはなくなっていた。
真相は分からないけれど、多分落とし主が持っていったのだと思う。
それなら喜ばしいことだが、秋介の工夫が伝わったかどうか、確かめようがないのが残念だなと思った。
+++
季久美と秋介の交際は、10代のうちに幕を引いた。
積極的に地元での進学や就職を考えていた秋介と、もっと都会に行きたいとぼんやり考えた季久美との間に温度差が生じ、だんだんと互いに距離を置くようになったのだ。
けんからしいけんかもなく、お互いを傷つけるようなことを言うわけでもなかったが、お互いがお互いに、あまりいい感じを持たなくなってしまったことは確かなようだ。
季久美は秋介を、「つまんない安定志向」などとジャッジするようになり、秋介も秋介で「都会がいいとかミーハーなだけ」「地に足がついていない」と内心思っていた。
さらに、「大体男のくせにナヨっとし過ぎ」とか、「所詮あのヒトの娘なんだよなあ、人の話まともに聞かないっていうか…」と、ちょっと“切り取った”だけのしぐさで、それが彼(女)の本質であるかのように考え始めたら、恋人というより、人としてのつき合いも難しいかもしれない。
友人情報などで、お互いの進路を漠然とつかんではいたものの、卒業する頃には口も利かなくなっていた。
1人一回ずつ回してゲットしたアニメキャラクターの根付は、それぞれが捨てるでもなく、思い出にこだわって保管するでもなく、お互いの持ち物群の片隅で、ひっそりと眠り続けることになりそうだ。
それから10年以上経って、秋介も季久美も、高校時代は存在も知らなかった相手と交際し、それぞれ結婚した。
◇◇◇
季久美の夫は、出身地が全く異なる同い年の男性・文則である。
性格的には似たもの夫婦のせいか、小さな衝突はあるものの、2人ともできるだけ本音を言い合ってトラブルを解決しようとするタイプなので、それはそれでうまくいっているようだ。
けんかが激化すると、あまりにも温和な性格のため、けんかすらしなかった秋介をたまに思い出すことはあったものの、だからといって、秋介との別れや文則との結婚を後悔しているわけではない。
例えば、文則との思い出の品を見て冷静になった後、自分からわびたり、何かを提案したりしながら、「今頃シュウ君も、きっとおっとりしたお嫁さんとかもらって、仲よくやっているんだろうな」などと勝手に想像することもある。
+++
秋介は、大学で2年後輩の茜と児童文化系のサークルで知り合い、交際、結婚という運びだった。
早いうちから小学校教師を志していた秋介は、自分と考え方や志向が似た茜と意気投合した。
明るく前向きな性格で、季久美に近いものがあったせいか、今回も茜からの告白が交際のきっかけになった。
それも、実は茜は秋介の高校の後輩で、「前から憧れていたんです。だから私もこの大学に決めて…」とまで言う。
時期的に、季久美とだんだん疎遠になった頃だろうか。
当時は自分が後輩女子にそんな目で見られていることなど、全く想像すらしていなかったが、秋介は少し舞い上がり――調子に乗ってしまったのかもしれない。
秋介は無事、県の教員採用試験に合格し、最初の4年を少し郡部の学校で過ごした後、地元の学校に赴任したのを機に、茜と結婚した。
茜は残念ながら試験に失敗し、卒業後は再チャレンジを考えながら書店でアルバイトをしていた。
そんな生活で、少し心が折れそうになっている中、秋介は茜に手を差し伸べるつもりでプロポーズした。
「無理しなくていいよ。僕と家庭を築いて守るって仕事はどう?」
茜は秋介の温かい言葉に感謝し、泣きながら秋介の手を取った。
秋介も最初は、「愛する女性を守りたい」という純粋な気持ちだったかもしれない。
しかし、そうして生活している中、「無理しなくても」は「気楽でうらやましい」に、「僕との家庭を守って」は「食わせてもらってる身分で口答えするな」に徐々に変化し、しまいには手を上げることすらあった。
秋介のように優しい男性がそのように変わってしまうのは、何かきっかけがあったのか、実はそちらが素だったのか。
児童や保護者、職場の仲間からは「熱心で素晴らしい教師」として評判がいいが、その裏では気分次第で妻に暴言を吐くし、時には手を上げる(酒を飲めない秋介は素面でそれらを行う)こともある。
茜は、自分は割と強気な性格だと思っていたので、現在進行形で夫の暴力の被害に遭っているということ自体が他人ごとに思えるほどだが、苦い失敗体験のトラウマと、繰り返される「駄目女」「クズ嫁」という言葉の礫に傷つけられ、いざ言い返そうとしても、すっかり委縮してしまっていた。
『私はもともと気が強くて、自分がこんなふうになると思っていなかった』
辛い心情を、似た境遇の女性たちが集う掲示板でこう書き込んだことがあった。
しかしこれに対しての反応の中に、茜にとっては予想外の言葉があった。
「“こんなふう”って何ですか?
DV被害に遭うのは気が弱くて情けない人間だとでも言いたいんですか?」
「そういうことじゃないでしょ」とたしなめる者もいたが、「自分もそれ気になった。気が強いとか関係なくない?」と同調する者もいる。
茜は「自分には居場所がない」と絶望的になり、秋介に楯突こうという気色すら見せなくなった。
秋介はそんな妻を、「昔は生意気だったが、今は従順な理想の妻」だと思い込んでいる。
「今度の休み、ドライブに行きたいな」
「ドライブ、ですか?」
「県北スポーツ公園、イチョウ並木のライトアップがきれいなんだってさ。移動カフェも来るらしいよ」
「ああ、それニュースで見ました。いいですね。行きたいです」
【『思い出だけが美しい』了】