男装して婚約者を演じていたらお兄様に目をつけられてしまいました
 花畑にいるかのような華やかな香り。
 雲の上にいるかのような柔らかな寝心地。
 ここは天国なのかもしれない。
 いや、だめだ。私が天国に行ったら弟や妹が困るじゃないか!
 飛び上がるように起きた場所は身に覚えのない部屋だった。でかすぎるベッドはキングサイズだろうか。部屋はシンプルすぎるほどシンプルで生活感が全くない。窓の外は天文台にでもいるかのような景色。
 ベッドを降りて扉に向かい、ドアノブに手をかけると軽い力で扉が動いた。

「お目覚めでしたか」

 扉の向こうにはタキシードを着た肌白いエメラルドグリーンの瞳をもつ白髪の美しい男性が笑顔で扉を支えていた。
 扉が開いたのは彼のおかげだと分かりドアノブから手を離す。

「ルココお嬢様がお待ちです」

 白髪の男性の後ろに広がる空間を覗くと奥に食べ物がずらりと並んだダイニングテーブルがある。その中心に背筋をピンと伸ばしたフランス人形のような女の子がこちらに笑みを浮かべて座っていた。年頃は弟や妹と同じくらいだろうか。近づけば近づくほど、生きていることに疑いを持ってしまいそうなほどに完璧な彼女は白髪の男性が椅子を引くタイミングでゆっくりと立ち上がる。

芹沢(せりざわ)ルココと申します。どうぞ、おかけになって」

 笑みを浮かべたルココちゃんが腰を下ろすタイミングで白髪の男性は慣れた手つきで椅子を動かした。
 目の前に広がる情景が現実世界とかけ離れているせいで私は再び気を失いかけるように椅子に腰を下ろす。

「お気分は如何かしら」

 きっと彼女たちは記憶が途切れたところで私を助けてくれた人たちなのだろう。私の荷物はさっき横切ったローテーブルの上に置かれていたし、さっきからヒリヒリする右腕や右足はきっと転んだからなんだと思う。腕には大きなガーゼ式絆創膏が貼られている。
 腕に触れながら「大丈夫です」と答えるとルココちゃんは「よかったですわ」とホッとした様子を浮かべた。

「お腹はお空きではございませんこと? お腹が空いたのですが頼み過ぎてしまいましたの。丸留(まるとめ)とわたくしでは食べきれませんわ。手伝ってくださらない?」

 時刻を見るとちょうどお昼過ぎ。食欲が湧かないと思っていたが、湯気だつ美味しそうな食事の前にお腹が反応する。

「お持ち帰り用のボックスもいただいておりますので無理はなさらないでくださいね」

 白髪の男性、丸留さんが笑顔でそう言いながらお茶を注いでくれた。
 ステーキや果物を持って帰ったらきっとみんな喜ぶだろう。薄切り肉やバナナばかりで私も飽き飽きしていたからな。
 スープはとても美味しく胃を温めてくれる。パンは何もつけなくても甘味が感じられる。美味しい……。食事って、こんなに美味しいものなんだ。口に運ぶ箸が止まらない。
 サンドイッチを二切れ食べ終えたルココちゃんは紅茶を一口飲んでナプキンで口を拭うと話始めた。

「食べながらでよろしいのでわたくしのお話を聞いていただけますか?」

 口いっぱいにした私はこもった声で「はい」と返事をする。

「わたくしと結婚してくださいませんこと?」

 口の中で咀嚼を終えた食べ物を一気に飲み込み「へえ?」と気の抜けた声を漏らした。
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