ラブレター

歓迎会

歓迎会

「ここを最後の会社にしたいと思います。」
藤原拓也(35歳)の決意の言葉に、場の空気が少しだけ和らいだ。
「クスっ」
美咲早苗(29歳)は頬を少し赤らめ、控えめに微笑んだ。
平成10年・春
「中途採用の藤原ってやつ、シュガー社員じゃないか。工場長もよく採用したな。どうせ、すぐ辞めるぞ。」
50代の課長の怒鳴り声が事務所に響き渡る。拓也に対する厳しい目線が事務所内に漂う中、1ヶ月前に知人の紹介で入社した美咲早苗の姿があった。彼女は大学卒業後、中堅企業での経験を買われての採用だった。
歓迎会の席で、早苗は軽く頭を下げて言った。
「私も頑張ります。」
テーブルを挟んで向かい合って座る拓也と早苗。彼女の隣には、今年短大を卒業したばかりの新入社員の女性がいた。ほろ酔い気分の拓也の耳には、その女性が「新卒で入社しました。よろしくお願いします」と語った言葉が焼き付いていた。
「あの、美咲さんも、今年卒業で?」
「えっ?」
ふたりが初めて交わした短い会話。それだけで早苗の存在は、拓也にとって何か特別なものに変わり始めていた。
九州・福岡県北九州市
町外れの自動車部品工場。この会社を最後の職場にしようと決めた拓也だったが、その裏には長年の転職歴があった。派遣や下請け工場を転々とし、やりがいのなさと低い賃金に悩みながら、自分のスキルアップを目指してきた。その中で「ボーナス4ヶ月」という条件が決め手となり、この会社を選んだのだ。
採用を決めた工場長はこう言った。
「工場の扉は広く開けています。しかし、入社してからが勝負です。」
その言葉にうなずいた拓也だったが、歓迎会が終わり、最初の月曜日には風邪を理由に欠勤してしまった。その日、拓也は職安に足を運び、新たな食品工場の仕事に応募していた。
「もう少し、やりがいのある仕事を……」
そうつぶやきながら帰宅した拓也。しかし、翌朝は何事もなかったかのように出勤し、作業に取り組んでいた。
数日後
親友の井田克弘から電話が入った。
「どうだった? 面接。」
「ああ……家に電話があったみたいだけど留守しててさ。不採用のハガキが届いたよ。」
「やっぱりな。あの会社、電話したときに不在だと採用取り消すんだよな。」
「そうか……。」
翌朝、出勤した拓也の胸ポケットには、封をした退職願いがしまわれていた。
「あの、課長。少しお時間ありますか。」
「なんだ。」
「会社を辞めます。」
「そうか。それで、次の仕事は?」
「いえ、まだ……。」
「だったら、もう少し頑張ってみないか?」
課長の言葉に一瞬迷った拓也。前日の不採用通知が頭をよぎる。
「そうですね……。もう少し、頑張ってみます。」
課長は退職願いを受け取ることをやめ、拓也は現場に戻った。
拓也と早苗
高卒の拓也は現場で工員として作業に集中していた。一方で、早苗はそのパソコンスキルと経験を活かし、生産管理課で働いていた。事務所から現場に出る早苗の姿を、拓也は遠目で眺めることが多かったが、直接顔を合わせる機会はほとんどなかった。
早苗の部署では、風変わりな拓也の行動がたびたび話題になっていたが、当の本人はそんなことを知る由もなかった。
ある日、現場で不具合が発生した。現場の声と管理課の判断が交錯する中、拓也と早苗が再び向き合う瞬間が訪れる――そのとき、彼らの関係はどのように変わるのだろうか。
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