君がくれた眠れない夜に

第一話

・・・主人公・月子の部屋




朝はブラックコーヒーみたいに苦手だ。五月なのに寒かった。
バスタブの中で眠るのがいつもの癖。




まだ起きたばかりでアクビをしながら布団をずりあげた。するとふわっとお花の香りがした。



そうだ、昨日持って帰ってきたテーブルブーケだ。コップに入れて水道の蛇口サイドに置いていた。確か洋子さんが教えてくれたジャックカルティエという名の薔薇だ。高級ブランドみたいな名前だ。なんだっけ? 淡い色のピンク。綺麗な。そんなことを思い出していたら目が覚めてしまって、ついに布団から出た。



インスタントコーヒーに温めたミルクをたっぷり入れてカフェオレにして飲むのが朝の日課。
お店でもらったクロワッサンはもう固くなっていた。少しだけ摘まんで口に入れた。



今日もジーンズとチェックのYシャツ。これがトレードマーク。ちょっと地味だけど外見を気にすることに気後れする。
なぜだかわからないけど女の子らしくすることに抵抗感を感じるのだ。



時計を見るともう8時。時間がない。急いで化粧水をはたいて家を出た。



朝の電車もバスも苦手だ。人混みがだめで自転車でバイト先のコーヒー屋に向かう。バイト先はアパートから自転車で一時間かかる場所にある。しろいママチャリの前かごにトートバッグを投げ入れた。



毎朝同じ光景だがよく眺めながら通勤するのが好きだ。犬の散歩をしている人。ジョギングしている夫婦。こんな時間のカップル。サラリーマン、OL、通学中の学生。それから川沿いの青々した草。草の匂いを吸って今日も生きていると実感できる。寂しいかな、たまにふと親友が欲しくなることがある。この人たちに交じって一緒に散歩して何気ない会話したいな、なんて思ったりする。



・・・バイト先


バイト先に到着すると小林さんが裏手でタバコを吸っていた。




月子「おはようございます」




私は走って裏口から店に入った。



小林「よお! はよ! 月子ちゃん、相変わらず元気な出勤だね」



小林さんは五十過ぎのおじさんで主に料理を担当している。



いつもわたしのことを元気だとか若いとか言うけれど、それを聞いているたまに来る高校生のバイト女子が陰で意味ありげに、うっすら笑ってるのに気がついていないのだろう。

別に悪い人ではないのは知っている。けれど恥ずかしかった。

わたしはあの子たちと比べたらきっとおばさんだ。





コーヒー屋はレインドロップという名前だ。

オーナーの末次(すえつぐ)洋子さんがショパン好きだからだ。

深い色の木目調を基調とした作りで真ん中に壁の仕切りがあって正面から左側がカウンター、右側がテーブル席になっている。キッチンはカウンターの少し奥にある。

小林さんは、体格がいいから注文があると、その狭いスペースを窮屈そうに行ったり来たりしている。

でもここは基本的にコーヒー専門店だから料理が出るのは珍しい。
やっているのはクロックムッシュひとつだけだ。クロックムッシュとはトーストの中にチーズとハムを入れてホットサンドメーカーで焼いた暖かサンドイッチで中にも外にもたっぷりのバターが塗ってあってとても美味しい。お手製のシロップ漬けプラムが一つ付いているところがポイントだ。

ただ手間がかかってオーダーから出てくるまで十五分はかかるので滅多に出ることもなかった。それと洋子さんのお母さんが焼いたクッキーも販売している。まわりにコーンフレークがついたバニラクッキーだ。それをマーマレードティーを頼む人にはサービスでつける。マーマレードのジャムを入れて飲むその紅茶は好評で、いつもコーヒーを頼む人でもたまに飲む人がいるくらいだ。



洋子「月子ちゃん、おはよう。あー寝癖! まったくもう」



洋子さんがわたしのショートヘアーに手をあてて直してくれた。



月子「すいません」



洋子「女の子なんだからね。もう! まあ、いいわ、で、今日のどうかな?」



洋子さんがエプロンのひもを首にかけているわたしに尋ねてきた。「今日の」というのは各テーブルに置かれた小さなブーケのことだ。わたしは正直に答えた。



月子「いいんじゃないですか。綺麗ですよ」



洋子「そう?  ありがと!」



昨日貰ったジャックカルティエの薔薇、茎の細長い花、紫の小さな花が束ねられていた。
洋子さんがスマホ片手に説明する。



洋子「これは昨日のジャックカルティエでしょ、こっちの淡くて赤いのはバーバスカムのサザンチャーム、この紫はサルビア」



月子「サルビアなら聞いたことあります」



洋子「うふふ、かわいいでしょ? 春に咲く花はどれも可憐なのよね」



突然洋子さんが「そうだ!」と大声を出した。びくりと驚く。



洋子「もうすぐ月子ちゃんのお誕生日じゃない?」



月子「え? あ、ああ、そうでしたね」



洋子「なにそれ、他人事みたいに」



月子「そういうわけでもないんですけど」



洋子「楽しみあるの?」



月子「え? 楽しみですか?」



洋子「なにか、誰かとどこかに行くとか、お食事するとか」



月子「別にありませんね」



洋子「なにも?」



月子「なにも」



洋子「最近の子はつまんないのね」





そんなことを言ったあと、洋子さんは鼻歌を歌いながら店の準備をしにカウンターに入っていった。



いつも思うけどまだ独身で、三十代なのにお店を持つなんて凄い。憧れだったりする。わたしは洋子さんもこの店も大好きだ。お花の話をする時は特に嬉しそう。と言ってもいつもテンション高めだけど⋯⋯。



ここのお花はどれも洋子さんの実家のお花だ。お母さんがガーデナーらしい。



わたしはこれまで特にお花には興味はなかったけど、この店に来て変わった。



実は割とお花より添えられた葉っぱの方が好きだったりする。



脇役で、でも大切な役割をしているそれが強くて凜としていて、表面がつやつやしていて美しく見えていい。






しばらくして店の中央の柱にあるボンボン時計が鳴った。午前十一時。開店の時間だ。さっそくチリンと扉の鈴が鳴った。





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