君がくれた眠れない夜に
第十話
蓮くんは少し息を切らしていた。
「あれから訊きたいこと思い出して探して。あ、あと、着いてきた。ごめん、驚かしちゃって。でも声かけようとしたら泣いてたみたいで、それでそのまま、ごめん」
「あ⋯⋯」
急いで涙を拭った。
「なんかあった?」
「なんでもないです」
「そう」
「あ、そ、そうだ。その前にわたしも言わないといけないことがあるんです」
「なに?」
「実は瑠璃子おばさん、一ヶ月前に亡くなったんです」
「え!」
蓮くんは絶句した。
「一ヶ月前? 俺、普通に会ったんだけど」
「がんでした。長い間患っていたんです」
「そ、そうか、そうだったのか。それで⋯⋯」
「え?」
「いいや、なんでもない」
「それで、訊きたいことって?」
「あ、いいんだ、瑠璃子さんのこと知りたかっただけだから。あれから長い間来ないからさ、どうしたのか心配になって」
「ありがとうございます」わたしは深々お辞儀した。
「瑠璃子おばさん、たぶん喜んでると思います。気にかけてくれる人がいて」
「そうかな」
「はい」
彼は寂しそうな顔で、にこりとした。わたしもつられて微笑んだ。
「送っていくよ。この辺が家なの?」
「瑠璃子おばさんの家があるんです。あ、知ってました?」
「いいや、そこまでは」
「そうですか」
「うん」
わたしはどうしても蓮くんにピアノの話をしたかった。それと何故だからわからない。瑠璃子おばさんのグランドピアノを見てもらいたかったのだ。思いきって訊いてみた。
「あ、あの、おばさんの家、来ます?」
「え?」
「もうすぐそこなんで」
「え、でも」
「訊きたいことがあるんです」
わたしは相手に有無を言わせない勢いで言った。
「あ、うん。別にいいけど」
蓮くんは少し驚いていたようだった。
暗い森のようになった家の前まで来ると、彼はまだ躊躇しているようだった。わたしが鍵を開けようとしたら、
「あのさ、やっぱいいの?」
「なんでですか?」
「俺が勝手に瑠璃子さんの世界に入ったらいけない気がするんだ」
「え? 瑠璃子おばさんの世界?」
「うん」
玄関の前で、わたしは彼と向き合った。
「瑠璃子おばさんは、あなたのこと好きだったんです。だから大丈夫です」
わたしは断言するように言った。このわたしが、いつも他人に遠慮してしまうわたしが彼になら、何故こんなにはっきり言葉がでてくるのか不思議に感じた。
「そ、そうかな」蓮くんは戸惑いながらも、そう言ってわたしの後ろから家に入った。
蓮くんのは玄関で、すぐにグランドピアノを見て言った。
「でかいの持ってたんだな」
わたしはピアノの側に来て、楽譜を見せた。
「ショパンだね」
「弾けますか?」
「まさか、俺クラシックはダメなんだ。なんたって楽譜読めないしな」
「え?」
わたしはあからさまにがっくりした。
「ごめん」
「あ、こちらこそ、ごめんなさい。その、お店でいつもなにか五線譜に書いてたから」
「ああ、あれ? あれは勉強だよ。できないから。俺、音楽留学するんだ。その試験に必要でさ」
「音楽留学?」
「そう、アメリカのね」
「そうなんですね。⋯⋯あの、瑠璃子おばさんはこの曲、好きでよく弾いてたんでしょうか?」
「うん、そうかもね。クラシックは好きで家でもよく弾くっていってたっけ。でも⋯⋯」
「でも?」
「あ、いいや、なんでもない」
「また」
「え?」
「またですね」
「なにが?」
「さっきも同じこといってた『何でもない』って」
「あ、そうだっけ。そのごめん。あのさ⋯⋯」
「はい」
「葬送行進曲って知ってる?」
「確か、ショパンですか?」
「そう。あの有名な奴。あれ練習してたら、旦那さん、亡くなったって連絡が来たんだって。それいらいその曲だけは弾けなくなったって言ってた」
「え!」
わたしはびっくりして目を見開いた。瑠璃子おばさんが結婚してたなんて知らなかったのだから。それも亡くなっているなんて⋯⋯。
「どうかした?」
わたしの表情に心配そうに蓮くんが尋ねた。
「わ、わたし、知らなかったんです。瑠璃子おばさんに旦那さんがいたなんて。てっきり独身だと」
「そりゃあ独身には違いないからね」
「そうですけど」
わたしはその重大な事実をこんな形で赤の他人から聞くことになるなんて思ってもみなかった。
「あれから訊きたいこと思い出して探して。あ、あと、着いてきた。ごめん、驚かしちゃって。でも声かけようとしたら泣いてたみたいで、それでそのまま、ごめん」
「あ⋯⋯」
急いで涙を拭った。
「なんかあった?」
「なんでもないです」
「そう」
「あ、そ、そうだ。その前にわたしも言わないといけないことがあるんです」
「なに?」
「実は瑠璃子おばさん、一ヶ月前に亡くなったんです」
「え!」
蓮くんは絶句した。
「一ヶ月前? 俺、普通に会ったんだけど」
「がんでした。長い間患っていたんです」
「そ、そうか、そうだったのか。それで⋯⋯」
「え?」
「いいや、なんでもない」
「それで、訊きたいことって?」
「あ、いいんだ、瑠璃子さんのこと知りたかっただけだから。あれから長い間来ないからさ、どうしたのか心配になって」
「ありがとうございます」わたしは深々お辞儀した。
「瑠璃子おばさん、たぶん喜んでると思います。気にかけてくれる人がいて」
「そうかな」
「はい」
彼は寂しそうな顔で、にこりとした。わたしもつられて微笑んだ。
「送っていくよ。この辺が家なの?」
「瑠璃子おばさんの家があるんです。あ、知ってました?」
「いいや、そこまでは」
「そうですか」
「うん」
わたしはどうしても蓮くんにピアノの話をしたかった。それと何故だからわからない。瑠璃子おばさんのグランドピアノを見てもらいたかったのだ。思いきって訊いてみた。
「あ、あの、おばさんの家、来ます?」
「え?」
「もうすぐそこなんで」
「え、でも」
「訊きたいことがあるんです」
わたしは相手に有無を言わせない勢いで言った。
「あ、うん。別にいいけど」
蓮くんは少し驚いていたようだった。
暗い森のようになった家の前まで来ると、彼はまだ躊躇しているようだった。わたしが鍵を開けようとしたら、
「あのさ、やっぱいいの?」
「なんでですか?」
「俺が勝手に瑠璃子さんの世界に入ったらいけない気がするんだ」
「え? 瑠璃子おばさんの世界?」
「うん」
玄関の前で、わたしは彼と向き合った。
「瑠璃子おばさんは、あなたのこと好きだったんです。だから大丈夫です」
わたしは断言するように言った。このわたしが、いつも他人に遠慮してしまうわたしが彼になら、何故こんなにはっきり言葉がでてくるのか不思議に感じた。
「そ、そうかな」蓮くんは戸惑いながらも、そう言ってわたしの後ろから家に入った。
蓮くんのは玄関で、すぐにグランドピアノを見て言った。
「でかいの持ってたんだな」
わたしはピアノの側に来て、楽譜を見せた。
「ショパンだね」
「弾けますか?」
「まさか、俺クラシックはダメなんだ。なんたって楽譜読めないしな」
「え?」
わたしはあからさまにがっくりした。
「ごめん」
「あ、こちらこそ、ごめんなさい。その、お店でいつもなにか五線譜に書いてたから」
「ああ、あれ? あれは勉強だよ。できないから。俺、音楽留学するんだ。その試験に必要でさ」
「音楽留学?」
「そう、アメリカのね」
「そうなんですね。⋯⋯あの、瑠璃子おばさんはこの曲、好きでよく弾いてたんでしょうか?」
「うん、そうかもね。クラシックは好きで家でもよく弾くっていってたっけ。でも⋯⋯」
「でも?」
「あ、いいや、なんでもない」
「また」
「え?」
「またですね」
「なにが?」
「さっきも同じこといってた『何でもない』って」
「あ、そうだっけ。そのごめん。あのさ⋯⋯」
「はい」
「葬送行進曲って知ってる?」
「確か、ショパンですか?」
「そう。あの有名な奴。あれ練習してたら、旦那さん、亡くなったって連絡が来たんだって。それいらいその曲だけは弾けなくなったって言ってた」
「え!」
わたしはびっくりして目を見開いた。瑠璃子おばさんが結婚してたなんて知らなかったのだから。それも亡くなっているなんて⋯⋯。
「どうかした?」
わたしの表情に心配そうに蓮くんが尋ねた。
「わ、わたし、知らなかったんです。瑠璃子おばさんに旦那さんがいたなんて。てっきり独身だと」
「そりゃあ独身には違いないからね」
「そうですけど」
わたしはその重大な事実をこんな形で赤の他人から聞くことになるなんて思ってもみなかった。