君がくれた眠れない夜に
第七話
食事を食べ終わってから洋子さんが徐に話し出した。それまでどういうわけか皆黙ったままだったのだ。
「どう思う?小林さん」
小林さんは訊かれて困ったなと頭をかいた。
「どうって、他人事としても、まあ、どうしてか、ほっておけないっていうか」
「そうね。この家を壊すなんてとんでもないわ。家の中も凄く素敵。特に庭園はひと財産よ。そうでしょ? 月子ちゃん」
「あの、わたし、まさか、こんなに凄いと思ってなくて⋯⋯」
「もったいないですよね、更地にするの」
わたしも皆と同意見だった。更地にするなんて今となっては考えられない。残酷な行いだとさえ思っていた。
「月子ちゃん、肝心の月子ちゃんはどう思う?」
「そうですよね、それがどうしたらいいのか、まだ正直わかりません」
「何時までに決めないとまずいの?」
「特には言われてないんですけど」
「思うんだがな、これはメッセージだと思うんだわ」小林さんがそう言った。
「メッセージ?」
「また何を言い出すのかと思えば」
「ちょっと聞いてくれよ。この家はな、ただの家じゃない。生きてるんだ。そう思わないか?」
「確かにね」
「そうですね、そんな気がします」
「家なんて長い間人間がそこに暮らしていればそうなるもんでしょ」
「確かに、まあそれもあるけど」小林さんが少しばつの悪そうな顔をした。
「密度じゃないんですか?」と菅野くんが閃いたといった感じで言った。
「密度?」
「あまりに密度が濃いんだと思うんですよ。思い入れの密度が」
「うん」小林さんが言った。
「さっきのあきる野さんっていう人も赤の他人なんだけど大事にしてくれてたね」
みんなの言葉はわかるけど自信がなかった。でも流されて答えた。
「わたし⋯⋯、考えてみます」
「そうこないとね」
「そうこなきゃ」
「それがいいですね。でも大きな決断だからあまり無理しないほうがいいよ」
「どうして?」
「だってまだ18だよ? 家なんて車より価値があるものなんだし、維持費だって相当かかる。他人が無責任なこといえないよ」
「それはそうね」洋子さんが頷いた。
小林さんが「そろそろ今日は帰ろうか」と話はこれまでと区切って言った。
わたしはさっきから考えていたことを口にする。
「⋯⋯わたし、残ります」
「え?」
「ちょっと一人で考えたいんです」
「こんなに広い家で一人なんて怖くないか? 大丈夫か?」
小林さんもみんなも心配そうな表情だった。
「大丈夫」わたしは頷いた。
寝室はリビングから数段上がった場所にあった。窓が小さいので少し暗かった。入って電気をつけるとランプがオレンジ色に光った。カタツムリの柄がついている。部屋の隅に4つあった。
壁は一面ガラス張りでどうも落ち着かない。中央にキングサイズのベッドがあり横に大きなポートレイトが置いてあった。近寄ってみると瑠璃子おばさんが映っていた。それも若い。二十歳ごろだろうか? モノクロのお洒落なポーズをとった若い頃の写真。当時の世の中のことを考えるとかなり裕福だったんだろうということが伺えた。
寝室の奥にあるバスルームのバスタブに入ってみて考えた。暗い所で考え事をするのは癖だった。
こんなに凄いお屋敷を(お母さんは一軒家っていってたけど十分お屋敷だ)わたしなんかが貰っていいのだろうか? それにしても、瑠璃子おばさんが何故わたしに残したのか、いまだにわからない。上物に価値はないって言っていた。そんなことない。ここは壊したらいけないんだ。
バスルームから出てきたわたしは、なんとなくリビングのピアノを見に来た。グランドピアノなんてまじかで見たこともない。でも思った以上に大きくはないように見えた。それともこの部屋が大きいからそう見えるのだろうか。
なにかピアノの上に置いてあった。楽譜と枯れたミニブーケだった。写真もある。手に取ってよく見ると、瑠璃子おばさんが一人で嬉しそうな顔をして映っていた。場所はどこだろう? 町田駅? 有名チェーン店のカフェの前だった。ブーケを持っている。それがピアノの上に乗ったブーケと同じものだということに、すぐに気がついた。チューリップ。緑がかって白い。なんて名前なのかわからないけれどあまり見たことのない素敵な花だ。誰かに貰ったものなんだろうか?
楽譜は開いてあった。そこに出ているのは、タイトルはLento con gran espressione、読みかたがレント・コン・グラン・エスプレッシオーネという曲だった。ショパンの遺作らしい。スマホを使って配信で誰かが弾いている曲を聴いてみたら、どこかで聴いたことのあるような懐かしい曲だった。もの哀しい色合いの曲。
聴き終わるとわたしは急に涙が溢れ出た。瑠璃子おばさんは、がんだった。この世に未練を残して去っていったのか? 最後の最後孤独だったのだろうか? 愛する人はいたのだろうか? 恋人や友人はいたのだろうか? こんな広い家で一人、寂しくはなかったのだろうか──。
夕方になって、瑠璃子おばさんにさよならを言って家を出た。
町田駅から小田急線で一時間。ラッシュアワーとは逆の方向だからすんなり座れてほっと一息ついた。人ごみが反対側の線路に溢れている。
わたしは、この電車にはたしてあと何度乗ることになるのだろうかと思った。予感がした。たぶん、あの家は放ってはおけない。そんなことできない。でも家を持つということは大変なことだ。わたしにはたいした収入がそんなにあるわけじゃない。貯金だって雀の涙だ。一戸建ては維持費だってかかるし、きっと他にも色々な税金だってあるに違いない。
しがない若い女子に払えるわけがない。
その日は眠れなかった。枯れてしまった花束の意味も全て知りたかった。瑠璃子おばさんのことを⋯⋯。
「どう思う?小林さん」
小林さんは訊かれて困ったなと頭をかいた。
「どうって、他人事としても、まあ、どうしてか、ほっておけないっていうか」
「そうね。この家を壊すなんてとんでもないわ。家の中も凄く素敵。特に庭園はひと財産よ。そうでしょ? 月子ちゃん」
「あの、わたし、まさか、こんなに凄いと思ってなくて⋯⋯」
「もったいないですよね、更地にするの」
わたしも皆と同意見だった。更地にするなんて今となっては考えられない。残酷な行いだとさえ思っていた。
「月子ちゃん、肝心の月子ちゃんはどう思う?」
「そうですよね、それがどうしたらいいのか、まだ正直わかりません」
「何時までに決めないとまずいの?」
「特には言われてないんですけど」
「思うんだがな、これはメッセージだと思うんだわ」小林さんがそう言った。
「メッセージ?」
「また何を言い出すのかと思えば」
「ちょっと聞いてくれよ。この家はな、ただの家じゃない。生きてるんだ。そう思わないか?」
「確かにね」
「そうですね、そんな気がします」
「家なんて長い間人間がそこに暮らしていればそうなるもんでしょ」
「確かに、まあそれもあるけど」小林さんが少しばつの悪そうな顔をした。
「密度じゃないんですか?」と菅野くんが閃いたといった感じで言った。
「密度?」
「あまりに密度が濃いんだと思うんですよ。思い入れの密度が」
「うん」小林さんが言った。
「さっきのあきる野さんっていう人も赤の他人なんだけど大事にしてくれてたね」
みんなの言葉はわかるけど自信がなかった。でも流されて答えた。
「わたし⋯⋯、考えてみます」
「そうこないとね」
「そうこなきゃ」
「それがいいですね。でも大きな決断だからあまり無理しないほうがいいよ」
「どうして?」
「だってまだ18だよ? 家なんて車より価値があるものなんだし、維持費だって相当かかる。他人が無責任なこといえないよ」
「それはそうね」洋子さんが頷いた。
小林さんが「そろそろ今日は帰ろうか」と話はこれまでと区切って言った。
わたしはさっきから考えていたことを口にする。
「⋯⋯わたし、残ります」
「え?」
「ちょっと一人で考えたいんです」
「こんなに広い家で一人なんて怖くないか? 大丈夫か?」
小林さんもみんなも心配そうな表情だった。
「大丈夫」わたしは頷いた。
寝室はリビングから数段上がった場所にあった。窓が小さいので少し暗かった。入って電気をつけるとランプがオレンジ色に光った。カタツムリの柄がついている。部屋の隅に4つあった。
壁は一面ガラス張りでどうも落ち着かない。中央にキングサイズのベッドがあり横に大きなポートレイトが置いてあった。近寄ってみると瑠璃子おばさんが映っていた。それも若い。二十歳ごろだろうか? モノクロのお洒落なポーズをとった若い頃の写真。当時の世の中のことを考えるとかなり裕福だったんだろうということが伺えた。
寝室の奥にあるバスルームのバスタブに入ってみて考えた。暗い所で考え事をするのは癖だった。
こんなに凄いお屋敷を(お母さんは一軒家っていってたけど十分お屋敷だ)わたしなんかが貰っていいのだろうか? それにしても、瑠璃子おばさんが何故わたしに残したのか、いまだにわからない。上物に価値はないって言っていた。そんなことない。ここは壊したらいけないんだ。
バスルームから出てきたわたしは、なんとなくリビングのピアノを見に来た。グランドピアノなんてまじかで見たこともない。でも思った以上に大きくはないように見えた。それともこの部屋が大きいからそう見えるのだろうか。
なにかピアノの上に置いてあった。楽譜と枯れたミニブーケだった。写真もある。手に取ってよく見ると、瑠璃子おばさんが一人で嬉しそうな顔をして映っていた。場所はどこだろう? 町田駅? 有名チェーン店のカフェの前だった。ブーケを持っている。それがピアノの上に乗ったブーケと同じものだということに、すぐに気がついた。チューリップ。緑がかって白い。なんて名前なのかわからないけれどあまり見たことのない素敵な花だ。誰かに貰ったものなんだろうか?
楽譜は開いてあった。そこに出ているのは、タイトルはLento con gran espressione、読みかたがレント・コン・グラン・エスプレッシオーネという曲だった。ショパンの遺作らしい。スマホを使って配信で誰かが弾いている曲を聴いてみたら、どこかで聴いたことのあるような懐かしい曲だった。もの哀しい色合いの曲。
聴き終わるとわたしは急に涙が溢れ出た。瑠璃子おばさんは、がんだった。この世に未練を残して去っていったのか? 最後の最後孤独だったのだろうか? 愛する人はいたのだろうか? 恋人や友人はいたのだろうか? こんな広い家で一人、寂しくはなかったのだろうか──。
夕方になって、瑠璃子おばさんにさよならを言って家を出た。
町田駅から小田急線で一時間。ラッシュアワーとは逆の方向だからすんなり座れてほっと一息ついた。人ごみが反対側の線路に溢れている。
わたしは、この電車にはたしてあと何度乗ることになるのだろうかと思った。予感がした。たぶん、あの家は放ってはおけない。そんなことできない。でも家を持つということは大変なことだ。わたしにはたいした収入がそんなにあるわけじゃない。貯金だって雀の涙だ。一戸建ては維持費だってかかるし、きっと他にも色々な税金だってあるに違いない。
しがない若い女子に払えるわけがない。
その日は眠れなかった。枯れてしまった花束の意味も全て知りたかった。瑠璃子おばさんのことを⋯⋯。