ヤンキー高校のアリス
六月は雨
※ ※ ※
千住くんの勉強を見ることになったから、当然、千住くんと二人きりの放課後が増えた。千住くんはからからに乾いたスポンジみたいだ。何を教えてもすぐに習得してしまう。むしろ、地頭という点で言えば、とっても頭が良い方なんじゃないかな?
「なんでいままで勉強してこなかったの……?」
そんな風に聞いてしまったくらいだ。
「板書写すのめんどくさいから。あと眠い」
「授業中寝てるタイプ?」
「そう。睡眠時間」
わたしは千住くんの綺麗な顔をみつめる。
「夜何時に寝てるの? いつも」
「四時くらい」
わたしはぽかんとした。毎晩きっかり十二時に寝るわたしとはあまりにも違いすぎていて。
「よじ?」
「そう、四時」
「なんで?」
千住くんは整った唇をつぐんだ。
「……いろいろ、あって」
言葉がつっかえるなんて、彼らしくない。だけどわたしは深く突っ込まずに、「そうなんだ」とだけ返した。
『早く寝た方がいいよ……』と思ったけど。言わなかった。
滅多に変わらない彼の顔色が、うっすら曇ったからだ。
わたしが先生役、千住くんが生徒役の放課後は過ぎていく。外は雨のまま、薄曇りの日々が続く。
ときどき、元気の良すぎる足立くんの悲鳴めいた雄叫びが聞こえてくる。八王子くんと足立くんは一体何をやってるんだろう?
「無視しなよ」と千住くんは言うけど。
「どうせじゃれてるだけ」
「じゃれ……てるだけなのかな……?」
「八王子は足立で面白がりすぎだし、足立はいちいちオーバーだ」
冷静に分析して見せた千住くんは、またシャープペンをかちんとぶつけてきた。
「おひい、ここわかんない。おしえて?」
「どこ?」
「こっちきて」
わたしは千住くんの側にまわりこんで問題集をのぞき込む。
「ここの問3のところの公式の当てはめ方」
「ああ、これはね――」
顔が近すぎて、千住くんのふわっとした甘い匂いが漂ってくる。お菓子とはまた違う、柔軟剤なのか、シャンプーなのか、わからないけど。良い匂い。
どきどき、するな。いま真面目な話してるんだから。
「ね、おひい。ドキドキする?」
「へ?」
思いがけない言葉に、わたしは間抜けな声を上げてしまう。
「ドキドキする? 俺はドキドキするよ。とっても」
透明感のある美貌は揺らがない。全然、そうは見えない。
ドキドキどころか「ばくばく」してるのはわたしの心臓だけなんじゃないかな。
「せ、んじゅくん、あの、いま、真面目な話」
「こっちも真面目な話してる」
千住くんの瞳がこちらを見た。あざやかな紫。
「おひいは俺にドキドキする?」
そのときちょうど、下校の放送が流れなかったら、わたしはなんと答えていただろう。
『ドキドキしてるよ』?
『そんなことないよ』?
どちらにせよ――嘘になっちゃうと言うか、違う気がする。どっちも真実じゃない。この気持ちがなんなのか、教科書を覗いてみても何も分からない。
帰りは大雨だった。わたしは折りたたみ傘を広げたけれど、千住くんは傘も差さずに、その大雨の下に躍り出た。
「待って千住くん!」
時すでに遅し。瞬く間に濡れそぼった千住くんは空を仰ぎながら雨を浴びていた。
「風邪引くよ!」
「だめ。おひいのなんだからおひいがつかって」
「でもこんな大雨だめだよ……」
学ランも、そのしたのシャツもびしょ濡れだ。千住くんは薄く笑って、鞄も持たずに雨の下を歩く。
「男には、雨に濡れたい日もあるってこと」
「わかんない」
「わかんなくて、いいよ」
ぐしょぐしょの金髪のさきから、ぽたぽたとしずくが落ちている。
「あー……」
千住くんはびしょびしょのまま、小さな子供のように頬をぐいとぬぐった。
「……帰りたくない。今、すっごい、帰りたくない」
切実な千住くんの言葉を聞いたのは二度目だったから、わたしは思わず歩みを止めた。雨は傘をたたき、うるさいくらいだった。
「……熱でも何でも出ればいいんだよ、俺なんか」
「千住くん、」
「……、――高熱でぶったおれてそのまま死ねばいい。そうすればあの女とおさらばできる」
「千住くん!」
わたしは思い切って傘をつきだした。ちいさなスペースは完全には雨をしのいでくれない。だけど。
「……話、聞いても良いなら聞くよ、わたし」
「おひい……」
「でも! 言いたくないなら聞かないよ! わたし、わたしね、――千住くんのこと、ちゃんと大事だから、……そんな言葉、言わせたくない」
なんて言って良いのか分からなくて、なかば反射で飛び出た言葉。千住くんは目を一杯に見開いて、それからきゅっと、猫のように細めた。
「おひい、あのね。俺――帰りたくないんだ。ただ、家に居たくないんだ」
「……うん」
「居たくないから、夜は外に出てる。あの女が帰ってくるまで外にいて、あの女が寝たら、俺も眠る」
「……、うん」
「反吐が出る」
綺麗な顔が歪む。
「俺は俺のことがきらい。俺の顔がきらい。俺の血が嫌い。俺を産んだ女がきらい。あの女似の顔につられてやってくる女はもっと嫌い」
絶叫のような吐露。
「死ねばいいのに」
誰に向けられたか分からない呪いの言葉。
「千住くん……」
「俺、生きてる意味分かんない。だから、勉強する意味もわかんない。喧嘩してる方が意味が通る。暴れてる間は、痛いのと痛めつけるのだけがあればいいから、シンプル」
そうか。そうだったんだ。
「でも……おひいと勉強するの、ドキドキして、たのしい」
濡れた瞳がわたしを見下ろしている。
「おひいは、どう? ドキドキ、する?」
「楽しいよ」
わたしは正直に千住くんの目を見つめ返した。
「千住くんは頭が良いよ。飲み込みも早いし、分からないことがあったらちゃんと聞いてくれるし、……何より、わたし自身、教えていてすごく、手応えを感じるの」
千住くんは黙ってそれを聞いていた。
「それが、楽しいの。先生冥利につきるよ。千住くん」
「そっか」
千住くんはゆっくり、顔を傾けた。つめたいやわらかいものが、唇にそっと触れた。
「ね。こっからふたりで逃げたいね、おひい」
――雨の音がしている。