ヤンキー高校のアリス
 夏になって、みんなの夏服も見慣れたころ。あずき先輩や千代田くんとのほほんとした美術部でのひとときを過ごし、夕方は千住くんに送ってもらい、夜勉強して、朝起きたら足立くんの元気な顔を見る。クラスに行けばリーダー的存在の八王子くんがいて――この繰り返しが、毎日同じようで全く違う繰り返しが、ずっとずっと続くと思ってた。思ってたけど、暦のうえではそうはいかないみたい。

「夏休みかぁー。夏休みやだなぁ……」

 わたしは美術室で嘆息した。家に居るのが基本的に嫌なわたしにとって、夏休みは鬼門だ。
「そんなにですか。青春を謳歌する若者は、大抵夏休みを大喜びで享受するものと」
「あずき先輩、若者ってあなた」
「失礼しました。推しキャラの言葉遣いが移ってしまって」

 そんなことってある?

「有朱さんは、夏休みのご予定は? わたしはあの子たちと毎日約束があるので、とても暇とは言えない夏休みなのですが」
そうか、二年生の【姫】は忙しいのだ。
 わたしはすこし、あずき先輩がうらやましくなった。
「……あの三人と、夏休みを過ごせたらいいんですけどね。わたしの家、やたら厳しくて……お母さんが、許してくれないんです。そういうの」
「あら」
「なぜだか知らないけど。……先輩だって、GPSつきで遊びに行くのなんか嫌でしょう? 門限は六時だし、遅れると怒られます。まったくもう、心配させて、って。嫌になっちゃう」

 あずき先輩はふむ、と腕を組んだ。

「本当は、隣町のミッションスクールに入る予定だったんですけど、それを無理矢理、近所だからこっちがいいって変えて。だってあっちの学校、校則が厳しくて、監獄みたいだって噂だったから」
 まあ、監獄を避けてやってきたここがヤンキーの登竜門だったことには驚いたけど。
「だから清音に逃げ込んできたんです、わたし。でもお母さんが……」
過干渉(かかんしょう)ぎみ?」
「そう、過干渉。なんでかなぁ……」
「そこまでするのなら、お母様側にも理由があると思うんですけどね」

 あずき先輩は唇に指を当てて考え込んだ。様になっている。

「理由って?」
「たとえば……過去、有朱さんが危ない目に遭ったことがあるとか。だから、過剰になってしまう……とか。たしかわたしが小学生の頃、そうした事件がありましたよね。ほら、七歳の女の子が、変質者に誘拐されかけて」
「わたしが――?」


 危ない目に?


 その一瞬、ぐらっと視界が揺れた。
 美術室の机に寄りかかっていたわたしは、そのまま斜めに倒れたらしい。らしいっていうのは、あとからあずき先輩に聞いた話。

 記憶はそこで途切れている。



※ ※ ※

『いーち、にーい、さーん』

 わたしは大声で数を数えている。かくれんぼの鬼になったから。

『よーん、ごーお、ろーく』

 公園の木に目を伏せて、彼が隠れるのを待っている。放り出した黄色いランドセル。黄色い帽子。それから防犯ブザー。

『しーち、はーち、きゅーう、じゅーう! もーおいーいかーい!』

『もーお、いーよ!』

『よーし!』

 そうして振り向いて走り出したわたしはスカートをなびかせて公園の中を探し回って。そして、見つけるのだ。
 土管の中に隠れていた、ぎょろりとした目の、男の人を。

『おじさん、だいじょうぶ?』
『だ、だ、だいじょうぶだよお』 
 おじさんは汗をかいていた。わたしはあんまり様子がおかしいから、おじさんは病気なんじゃないかと心配する。
『だいじょうぶ……?』
『うう、うん。で、で、でも、おじょうちゃんが一緒に来てくれたら、もっとだいじょうぶになるよお』

 七歳のわたしは、その言葉の意味を理解できなかった。


「――!」
 夏の風が入り込む白い部屋。保健室だ、と反射的に判断する。わたしはベッドに横たえられて、今まで長いこと眠っていたようだった。……っていうのは、ベッドサイドの時計が下校時刻の十分前を示していたから。
 夢の内容は覚えていない。でも。
「――は、はあ、はぁ、はぁ、ひゅ、う」
 上手く息ができなくて、過呼吸気味になってしまう。

 一体何なの。
 何の夢を見たの、わたし。
 ちょっと意味分からない。苦しい。くるしい、くるしい、たすけて、だれか、だれでもいい、だれか。

『おじょうちゃんがいっしょにきてくれたら』

「――ひゅっ」
「ありす」
「ひゅっ、ひゅう、ひゅう」
「落ち着け、大丈夫だから、大丈夫、」

 涙で見えない視界に誰かが映り込む。そして――、
 あごを上向けられる。そのまま横たえるように後ろ頭に手が添えられた。
 唇に、なにか当たっている。そこから、熱い息が吹き込まれる。取り込めなかった酸素がじょじょに肺に、血に交じっていく。

「ん」
 長い睫毛がみえる。頬に添えられてる手が大きい。涙を拭う親指はあたたかい。
「ん、ん」
 漏れる声のあいだに、彼の息がわたしのなかに入ってくる。離された唇は、また酸素を伴ってわたしにふれてくる。
「んー……」
「……大丈夫かな」

 あ。あのね。こわい夢を見たの。とてもこわい夢を見たの。
 思ってるのに何も言えなくて、離れていこうとする彼に思わず手を伸ばした。

「いかな、で」
「……ありす?」
「いかな、いで、るいくん」

 ああ、
 わたしの、

 わたしのおうじさま。

「たすけて、るいくん」
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