ヤンキー高校のアリス
 何があったのかは、結局そのすべてを人に聞くしかなかった。わたしはどうにかして千住くんが家まで届けてくれたらしい。
 翌日、弟を抱っこしたお母さんから「千住くん? のお宅に御礼しなくちゃね」と言われてわたしは慌てて首を横に振った。
「そ、そういうのはいいから!」
「なんで? 御礼くらい当たり前にしないと」
「千住くんと千住くんのお母さんはちょっと……」
 仲が悪すぎる。
 そこへお義父さんが、「僕に任せてよ、美智さん」と名乗り出てくれなかったら、わたしはぼろをだしてしまうところだった。お母さんが千住くんの派手すぎる外見について触れないところを見るに、なんとかしてくれたのは千住くんだけじゃないっぽい。

「あの、お義父さん。ありがとうございました。ご迷惑おかけしました」
「気にしないで。それより、有朱ちゃんの部屋に勝手に入ったことを怒られるんじゃないかと思ってたくらい」
「そ、そんなの全然……」

 そんなわけでわたしはEクラスの千住くんのもとまで来て、昨日のことについて御礼を言っていた。
 わたしが感謝の意をずっと述べている間、千住くんは特に感じることなどないかのように涼しい顔をしていたけれど、お義父さんの話題を出した瞬間に目がこっちを見た。
「おひいのおとうさんって、いいひとだよね」
「え?」
(あなど)りがなかった。どうせヤンキーだろ、クソガキだろ、みたいな侮り。おひいん()のことは聞いてたから、ちょっとは覚悟して行ったんだけど、全くそんなことなかった。いいひとだね」
「そ、そうなんだ……?」
「それに、昨日家まで運んだのは俺だけど、美術室から保健室まで連れてって面倒見たのは足立だから、足立にもそれ言ってやってよ」
「あ! ……うん。わかった。ありがとう」
「……おひい」
 背中から声をかけられて、振り向く。千住くんは手を伸ばして、わたしの後ろ髪に触れていた。

「……、ん、なんでもない」
「そう……?」

 千住くんはこうやって、大事なことを濁すことがおおい。


「あ、そんなにかしこまんないでさ。いいよ、気にするな」
 と言う足立くんの拳にはしっかり包帯が巻かれている。
「その手どうしたの?」
「自分で噛……猫に引っかかれた」
「大丈夫?」
「痛くも痒くもないって」

 からっと晴れた空みたいな笑顔を見てると、わたしも胸の奥があったかくなる。

「ありす、――あれから変な夢とか見ないよな? 悪夢とかさ」
「うん? 何の夢?」
「……いやなんでもねえや。気のせいだ気のせい。ごめん。気にすんな」

 一瞬だけ、ちらりと、何かが目の前を暗くしたけれど、わたしはCクラスの扉にしがみついて耐えた。
「……ありす?」


『おじょうちゃん、おじさんのことたすけてくれるんだろお』

『ありすをかえせ! ありす! ありす!』

『うるさいなあ!』

 るいくん。

『ね、いっしょにきてくれるよね、おじさんとけっこんしてくれるよね』

 やだ。

 るいくん。るいくん。



「うっ……」
 唐突にこみ上げてきた吐き気をこらえられず、わたしは口に手を当てた。口の中に酸っぱい味が広がる。しゃがみ込もうとする体を足立くんが抱きかかえる。どうしよう。吐瀉物(としゃぶつ)が足立くんにかかっちゃう。
 だけど足立くんは胃の中のものが喉元までせり上がってきて何も言えないわたしに向かって、こうささやいた。
「いい、吐いていい、吐け」
「う、え」
 こんなことはなんてことないんだ、という風に。足立くんはわたしを胸に抱きかかえ、こんな季節でも羽織っていた学ランで隠してくれた。並大抵のことじゃないことくらい、わたしにもわかる。
 「それ」にどれだけの勇気が要るか、それくらい鈍感なわたしでも十分理解できる。

 涙が止まらないわたしをそのまま、女子トイレまで送ってくれた足立くんは、さりげなく学ランの前を閉めた。わたしは申し訳なくて、また涙が出て、自分の弱さに途方に暮れた。

「足立くん、ごめ、ごめんなさい」
「まず手洗って。……オレは着替え持っていく。保健室、行くだろ。つぎ、サボろう」
「……で、も」
「顔が真っ青だ」
 断言されて、わたしは何も言えなくなる。

「ごめんなさい……」
「謝るな」
 足立くんははっきり言った。
「謝るな。オマエは悪くない。……悪くないよ、ありす」


※ ※ ※

 保健室の先生はいつも不在にしている。
 不在にしている、というより、不在にしたいのかもしれない。保健室の治安があまりよろしくないようだから。

 窓際のベッドを借りたわたしは、体育着に着替えた足立くんに手を握られていた。
自然と、そうなっていた。

「思い出させてごめん」

 チャイムの音が聞こえる。四限目が始まったみたいだ。

「……足立くんのせいじゃない、よ」

 まだ聞こえる。ねっとりした男の人の声。


『おじさんとけっこんしてくれるよねえ――?』


「むかし、……」
 わたしは窓の外を見た。もうすぐ夏休みだからか、木々の葉が青い。
「誘拐されかけたことがある、わたし、たぶん」

「うん」

「小さな女の子が好きなおじさんだったんだって。アリス・コンプレックスっていう……小さな女の子しか性的に見れないおじさん」

「……うん」

「わたし、運が悪くってさ」
 わたしは笑って天井を見上げた。足立くんの手を握った。
 パンツ脱がされたけど。いろいろ、触られたけど。なんとか助かった。なんとか――。

「はは。笑っちゃうよね。運、悪すぎ」
「……笑うなよ」
「だって」
「笑うことじゃないだろ」

 わたしは、目元を拭った。何度も。

「笑い話にしなきゃ、だめじゃん、こんな、こんな話さ」
「ありす」

 足立くんは、両手でゆっくりわたしの手を握った。祈るように。

「オレは――世界で一番好きな女の子を守れなかったことがある」
「足立くん?」
「七歳だった。ふたりでかくれんぼしてた。あの子が鬼だった。オレは木の陰に隠れて、見つからないように息を潜めてたんだ。そうしたらあの男が」

 罪を打ち明けるような声音で。

「オマエをさらっていこうとした! その上、あんなことまで……」

「るい、くん」

「たまたま通りかかったヤンキーの人が、あの男をボコしたから、なんとかオマエは助かったけど。そうじゃなかったら。そうじゃなかったらオレは」

 足立くんが泣くのを見るのは、初めてだった。

「ありす。オレのこと、(ゆる)さないでくれ」


 足立くんは――るいくんはわたしの手を引き寄せて泣いた。涙が指を伝って手をぬらしていく。わたしはとてもとても遠くに居たはずのるいくんが、実は近くに居て、ずっとわたしを守っていてくれたことに気づいて、ただその事実をかみしめていた。

るいくん、ずっといたんだ。
わたしがわからなかっただけで。
××××(よごれた)わたしのこと、きらいになってなかったんだ。

「るいくん、あのね」
 わたしは小さな声で言った。
「ずっと言ってなかった事があって――」

 そのときだった。


「姫、具合は平気?」
< 39 / 68 >

この作品をシェア

pagetop