ヤンキー高校のアリス
※ ※ ※

 千住くんから告白を受けて数日後。ずいぶん進んだ夏休みの宿題をパラパラ眺めていた時。スマホに、

『デート、いつにする?』
 とメッセージが入った。相手は八王子くんだ。わたしはすぐに返信を打つ。

「土日ならいつでも良いよ。一週間前に教えてくれたら調整する」

 もちろん、お母さんに連絡は必須。相手の事も簡単に紹介しておかなければならない。わたしが誘拐され掛けてから、心配性が加速したお母さん。
 あのときのことを記憶に封じていたから、今まではちょっと、「うざったいな」と思うばかりだったけれど。今ならわかる。きっとあれは愛情の裏返しなんだ。

『じゃあ今週の土曜。迎えに行く』
 
 わたしは八王子くんの人となりをかいつまんでお母さんに説明したあと、またしても何か言いたげにニヤニヤしているお母さんに文句を入れた。
「彼氏じゃないです」
「もう、有朱ってば隅に置けないんだから。ねえ?」
 お義父さんに同意を求めるお母さん。お義父さんは困ったように眉を寄せて、弱々しく笑った。そりゃそうだ。気になるに決まってる。自分の会社の専務の息子と、自分の義娘がカップルだなんて。

 わたしはまだ、お義父さんの忠告を覚えている。だけど。

「八王子くんは、わたしの友人で、目標となるひとだから。彼氏じゃない」
「デートするのに?」
「デートに見えるかもだけど」
 茶化そうとするお母さんへ、わたしは言いきった。

「わたしには好きな人、ちゃんといるから」





 電車とバスを乗り継いで向かう水族館は、死んでしまったお父さんとの記憶が残っている、わたしにとってとても大事な場所だった。

「あのね、八王子くん」
 隣に座っている八王子くんは、柄物のシャツを着こなしていて、それが妙に様になっている。
「何、姫。急にあらたまって」
「……お父さんが死んじゃったのは、九才の時、癌で」
 八王子くんは神妙な顔つきでそれを聞いていた。がたごとと揺れるバスが、私たちをぐらぐら揺らす。わたしは一瞬、八王子くんの肩にもたれてしまう。
「大丈夫?」
「揺れるね、バス」
「寄りかかっていてもいいよ」
「ううん、平気」

「わたしは、あのとき世界が終わっちゃったと思った。たぶん、一度終わったんだと思う」
 八王子くんは、遠い目をした。わたしは彼の顔から視線をそらし、農道を突き進んでいくバスの外を見た。山と田圃と、道だけがある。

「それから気づいた。わたし、自分が特別な女の子だと思ってた。すごくキラキラした、特別な子だと思ってた。……それは、お父さんが特別、わたしをかわいがって、特別にしてくれてたからだって、気づいた」
「……姫は、お父さんが好きなんだ」
「うん」
 迷いなく頷いてから、わたしは八王子くんに視線を戻す。

「八王子くんは、お父さんに似てる」




 二枚チケットを買って中へ入る。地域の海。世界の海。海獣の海。何個かの区画に分けられた館内を順路どおりに辿っていく中で、わたしは八王子くんにささやかれた。

「お父さんに似てるって、つまりどういう意味」
 暗がりで見る八王子くんの顔はいやに真剣だった。わたしは、銀色に腹を光らせる回遊魚たちの群れに目を細める。
「そのままの意味」
「……勘違いしそうなんだけど。説明してくれないと」
「八王子くんは、石ころのわたしを丁寧に扱ってくれたってこと。これ以上なく丁寧に、それでいて、優しく」

 【姫】って、最初嫌な称号だと思ってた。でも、慣れてきて、だんだん気づくんだ。そこに込められた親しみとか、敬意とか――特別な感情とか。

「最初に姫ってわたしを呼んだのはるいくんだったけど、……わたしを【姫】にしてくれたのは八王子くんだったね。……おかげで、ここまで、るいくんと、千住くんと、八王子くんとわたしとで、四人で過ごす時間が宝物だった」
「ねえ、なにそれ」
 八王子くんは壁に手を突いた。
「まるで、これでお別れみたいなこと、言わないでよ」
「お別れじゃないよ。……お別れなんかじゃない。でも、これはわたしのけじめ」

 ――お父さん。
 ――八王子くん。
 ありがとう。そして、

「縞くん。……ごめんね」
「……有朱、」
 一瞬、心臓がざわめいた――名前呼びに、心が揺れないわけがなかった。だって。
だって。
 水族館の暗がりで、唇同士がふれあっている。でもそれは、海の中では一瞬のことだ。四十六億年続いてきた地球のなかでは、ほんのまたたきにもすぎない時間の中で、わたしたちは一瞬だけ、恋人だったような気がする。

「僕は」
「うん」
「君が誰を好きでも、君を守ると決めてた」

 わたしは何も言えずに、彼の目を見つめた。

「一回触れたら我慢できなくなると思って、途中でやめてた……!」
 八王子くんは、

「……でも今は、君がほしい。ほしくてたまらない、有朱」

 八王子くんは、やさしい。

「どうして、僕のものになってくれないんだ……! どうして……!」

 わたしは黙っているしかなかった。どんな言葉を掛けても、彼を傷つけるだけのような気がして。

「どうして僕は、いつも、誰かの2番手……」

 崩れ落ちそうになる彼の手を握る。どこかに座れる場所があるといいんだけど……。
 そうしているうちに、後ろからぬくもりが覆い被さってくる。抱きしめられていると気づいたときには遅くて、耳朶に吐息が触れていた。

「……好きだよ」
「うん」
「好きなんだ」
「……うん」
「こんなに好きなのに」
「……八王子くん」

 周りの目も気にせず、彼はわたしの肩に顔を埋めた。

「有朱」

 その声に、わたしは答えることができない。
 その資格がないからだ。
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