冬薔薇の戀
冬薔薇の戀
二階へと続くふるい階段を上がる時が、永遠に思えたのは気のせいであっただろうか。
何度も誰かに踏まれて、飴色に染まったであろう階段は、体重のかるい薔子が踏んでも、みしみしと音を立てた。それがなんだか可笑しくなってしまい、先にあがる吾涼の背後で、くすくすと声を出して笑ってしまった。
吾涼は少しこちらを向いたが、また何を考えているかわからないような真顔に戻り、前を向いてあがる。
薔子は彼の背を見つめていた。後ろからだと、彼の刈り上げたうなじが、よく見える。
すっと細い線を描く彼の首すじ、その先に広がる漆黒の髪がうつくしい。
彼のすべてが、すきだった。
障子を開け、部屋に足を踏み入れると、吾涼は急に後ろを振り向き、薔子の腰に手を回すと、片手で後頭部を押さえ、強い力で抱きしめる。
こうなることが分かっていた薔子は、瞳を伏せ、くちびるをうすく開けた。
すると吾涼は蜜に吸い寄せられる蜂のように彼女のやわらかなくちびるにくちづけを施した。
最初は食むように、時が経つごとに、それは深さを増していった。
互いに眉を寄せ、たがいを味わう。
くちづけの音が激しさを増していったとき、吾涼は薔子の黒くつややかな髪に、細いゆびさきを沈め、彼女の結い紐を解いた。
はらり、と音を立ててほどけた彼女の黒髪は、扇のように背後に広がった。吾涼は彼女の腰を抱いていた片手を離し、腰のあたりまで伸びたその長い漆黒を、指にからめるように撫でて、つややかな質感を感じていた。
音を立てて吾涼のくちびるが彼女から離れる。切長の瞳を眇めて、間近で見つめた薔子のひとみは、すでに自分を受け入れる準備ができたかのようにうるんでいる。
「薔子……」
伏せていた瞳をうっすらと開け、吾涼を見つめる薔子は口角を少し上げた。
「吾涼さん。すき。すきよ」
「薔子……」
吾涼は、片手で薔子の額にかかった前髪をそっと上げてやる。
彼女の富士額は、暮れかけた紺と茜が入り混じった夜空に、うっすらと反射していた。そのうつくしい額に、吾涼は無意識にくちづけを落としていた。
彼の温かい熱を額に感じ、薔子はうっとりと瞳を眇める。そして、うすくくちびるを開き、細くあたたかな息を吐いた。それが、吾涼の白い喉仏に当たり、ぞくりと甘くしびれる。確かな男の盛り上がりを見せたそれが、縦に一度動く。
薔子はゆっくりと腕を伸ばして、吾涼の白い首すじに触れた。彼女のゆびさきが、かすかにふるえている。まるで、初めて雪に触れようとする、おさなごのように。
吾涼が、薔子の額からくちびるを離す。
ふたりの視線が絡まる。それは、刹那にも永遠にも感じられた。
「薔子、俺も。俺もすきや。お前が——」
彼の告白は、淡雪のように空気にすぐに溶けてしまう。
「おおきに」
薔子も溶けるようなかすかなつぶやきを彼に返すと、彼の切ない想いを飲み込むかのように、そっと表面だけが触れるくちづけをした。
(ああ、これが欲しかったんやな。俺はずっと)
うすくまぶたを開けると、彼女の伏せられた白い顔が目の前にあった。月光がそのまま人間に姿を変えたような、透明なうつくしさがそこにあった。
吾涼はそれをしばらく堪能すると、再び薔子の背後に手をまわし、彼女を抱きしめる。
彼女のやわらかさが、胸に染みるようであった。
背後に回した腕は、より力強さを増していく。
吾涼は薔子の肩に沈み込むように、顔を預けた。
(俺はずっと孤独やった。何かを探し求めてた。それは、俺を想ってくれる、ずっとおもい続けてくれるひとの存在やったんかもしれん)
「吾涼さん……」
切なくちいさな声で、薔子が呼ぶ。
いつの間にか茜に染まっていた夕日は落ち、部屋の中は青をふくんだ闇に覆われていた。
吾涼は薔子を抱いた腕に、より一層の想いを込めると、彼女の着物の帯にそっと手をかけた。
部屋の空気は、しんと澄み渡る清らかなつめたさだった。手にとって、ゆびさきで触れて、掬って飲んでみたくなるような。
その中を、ふたりのからだだけが、火のように熱く絡まっている。店の押し入れに仕舞われた布団は予想以上に綺麗で、なめらかな質感をしていた。その上に縦に並ぶように、ふたりは寝ていた。
吾涼は薔子のなめらかな白い背中と、うなじを見ていた。
片手で彼女の腰を押さえ、脚を広げさせて後ろから突く。
彼の足の上に乗った彼女の太ももは湿っており、そっと撫でると、さらに感じてしまうらしく、背筋をぴんと伸ばす。
吾涼はそれを見て、薔子のうなじに瞳を半分伏せてくちづける。
薔子は切ない鳴き声と、まなじりから涙をこぼす。
腹を撫でていた手で、豊かな白い胸をわし掴む。
薔子は上向いて自分の名を呼び、うつむいて、彼の手に自分の細い指を重ねる。
彼女の中はあたたかく、吾涼のすべてを包み込んでくれる。
「薔子……」
耳元でささやく吾涼の低い声が、湿って彼女の耳朶《じだ》の中に響いた。
「吾涼さん……」
彼女の声が、吾涼を誘う。
吾涼は胸筋の間からへその上を電流が走るのを感じた。ふたたび彼女の耳へくちびるを近づけると、そのやわらかくしろい耳たぶにくちづけ、またささやく。彼女の中に、己の命の粒を残すように。
「薔子……これだけは聞いとけ」
「えっ……?」
「お前が今までどんな男に何されたかて、俺は別に気にせぇへん」
薔子は驚いたのか、首をめぐらせて吾涼の方を見た。うるんだ彼女の瞳が、大きく見開いてこちらを見つめている。不安と戸惑い、そして羞恥がその瞳のみなもには浮かんでいた。男に愛されることに、戸惑いを感じている目。自分は幸せになってはいけないというような、自己肯定感の低い目。そのすべてを拭《ぬぐ》ってやりたかった。
頬をそっと撫でた。やわらかな、こどものような肌だった。
「俺だけ見てろ。俺だけ感じてろ……」
「吾涼さんっ……。はあっ……。うっ……」
そう言って、吾涼は腰の力を強める。薔子の中をつらぬく彼の質量がより一層、硬く、重くなる。その熱は火のように、彼女の中を縦横に蠢《うごめ》き、彼女の湿りをからめとり、彼女を愛した。
薔子は腹の中央を支点にして広がる快楽に耐えきれなくなり、身を捩《よじ》って彼の肩に腕を回し、彼のたくましい裸体にしがみついた。
男の肌はなめらかで、触れている箇所が、互いに癒しをもたらした。
薔子の伏せた瞳から頬に流れた涙を、吾涼はくちづけて拭ってやる。
双翼となったふたりを、小窓から凛とした白を放つさやかな月光だけが、見守っていた。
照らしだされた吾涼の背中と、薔子の腰だけが、闇の中でぽっかりと浮かび上がって、濡れたようなひかりを放っていた。
辻本家の正月は、昨年末に使用人たちがきっちりと準備したせいで、とどこおりなく安らかに迎えられた。
実家に帰っている使用人がほとんどであったが、その中で残っていた大吉は、門前で掃き掃除をしていた。
つめたい冬の空気の中に、何やらあたたかい陽射しがさしてきたと天を仰《あお》いだ。手を額にかざし、皺の寄った瞳を眇める。
またひとつ、歳をとった。
腰を叩き、屋敷へ戻ろうとした刹那、目の端にこちらへ歩いてくる人影がふたつ見えた。
茫然として立ち止まる。
やがて像を結び、あらわれたのは見慣れたふたりの若い男女であった。
男は女の手を握り、荷物をすべて持ってやっている。
女は幸せそうな顔で瞳を伏せ、男に手を引かれている。
やがて男の方が大吉の存在に気付き、「あっ」と顔を上げた。
「横手さん」
一点の曇りの無い、はっきりとした声音で自分の名前を口に出す。
大吉は、はーっと息を吐き出し、白い曇りを顔の周りに作ると、そのうすらぎと共に満面の笑顔を浮かべた。
「吾涼、薔子、おかえり」
男――吾涼は憑き物が落ちたような笑顔で大吉に微笑み返す。
女――薔子は、瞳を揺らし、大吉の笑顔を見つめると、やがてまなじりから涙をひとつこぼした。
ふたりの手はやわらかく握られたままである。ふたりとも、戻ってくる前よりも、髪の濃さや肌の艶が輝くようになっていると感じた。
門の奥から駆け出してくる下駄の音がし、顔を出したのは寅吉であった。
「あれ、お前ら、何でふたりで帰ってきたんや?」
ふたりを見て唖然とした顔で言う寅吉に、大吉は「お前にはまだまだわからん。はよ大人になれ」と頭を箒の柄でこつんと叩いた。
「庭に新しい花を植えようかと思うとるんや」
縁側で吾涼が椿を裁断している様子を絵紙に鉛筆でスケッチしていた薔子に、そう声をかけた。
薔子は絵紙から顔を上げ、憑き物が落ちたようにはれやかな笑顔を浮かべている吾涼にぽかんとした顔を向ける。
「新しい花?」
「せや、何がええと思う?」
「そうどすねえ」
青い空を見上げ、薔子は瞳を眇めて考える。
冬の昼のやわらかなひかりが当たり、彼女の額に添って流れる黒髪や、長いまつげをきらきらとひからせている。その姿を、吾涼はうつくしいと思いながら見つめていた。
そして「あっ、せや、それがええ」とあかるい笑顔になって吾涼の方を見ると、「百合の花を植えましょう」と言った。
「百合? 薔薇でなくてええんか?」
「薔薇は、うちが亡うなったときにでも、気まぐれに植えてください」
「お前、また何言うてるんや」
かわいた笑いをふくんだ、呆れた口調で言う。
「うちらをこの家に導き、繋ぎ止め、結んでくだすった百合子様に、ずっと庭で見守っててもらいたいんどす」
吾涼は、瞠目し、ひとみを揺らして薔子を見つめる。そしてゆっくり瞳を閉じると、やわらかく微笑んだ。
「せやな……」
吾涼は鋏を懐《ふところ》に仕舞うと、薔子に近付いた。目の前までくると、かがんで彼女と視線を合わせる。
少し驚く薔子に吾涼はやさしい微笑みを返すと、彼女の頬に手を伸ばし、撫でる。
「吾涼さん」
さっと朱《あけ》が差したように赤らむ薔子のさまに、野薔薇《のばら》のようなあいらしさを感じ、ひとさしゆびとおやゆびをずらすと、彼女のやわらかな頬をかるくつねった。
「いたっ」
「まったくお前は、めんどくさい女やで」
自分の頬を包み、優しく笑う愛《いと》しい男の顔を見つめた後、絵紙と鉛筆を太ももの上に置く。彼の手に己の手を重ねた後、薔子は幸せそうにまぶたを閉じた。(了)
参考文献
『美しい日本語の辞典』小学館辞典編集部(小学館)
『京都花街 ファッションの美と心』相原恭子(淡交社)
何度も誰かに踏まれて、飴色に染まったであろう階段は、体重のかるい薔子が踏んでも、みしみしと音を立てた。それがなんだか可笑しくなってしまい、先にあがる吾涼の背後で、くすくすと声を出して笑ってしまった。
吾涼は少しこちらを向いたが、また何を考えているかわからないような真顔に戻り、前を向いてあがる。
薔子は彼の背を見つめていた。後ろからだと、彼の刈り上げたうなじが、よく見える。
すっと細い線を描く彼の首すじ、その先に広がる漆黒の髪がうつくしい。
彼のすべてが、すきだった。
障子を開け、部屋に足を踏み入れると、吾涼は急に後ろを振り向き、薔子の腰に手を回すと、片手で後頭部を押さえ、強い力で抱きしめる。
こうなることが分かっていた薔子は、瞳を伏せ、くちびるをうすく開けた。
すると吾涼は蜜に吸い寄せられる蜂のように彼女のやわらかなくちびるにくちづけを施した。
最初は食むように、時が経つごとに、それは深さを増していった。
互いに眉を寄せ、たがいを味わう。
くちづけの音が激しさを増していったとき、吾涼は薔子の黒くつややかな髪に、細いゆびさきを沈め、彼女の結い紐を解いた。
はらり、と音を立ててほどけた彼女の黒髪は、扇のように背後に広がった。吾涼は彼女の腰を抱いていた片手を離し、腰のあたりまで伸びたその長い漆黒を、指にからめるように撫でて、つややかな質感を感じていた。
音を立てて吾涼のくちびるが彼女から離れる。切長の瞳を眇めて、間近で見つめた薔子のひとみは、すでに自分を受け入れる準備ができたかのようにうるんでいる。
「薔子……」
伏せていた瞳をうっすらと開け、吾涼を見つめる薔子は口角を少し上げた。
「吾涼さん。すき。すきよ」
「薔子……」
吾涼は、片手で薔子の額にかかった前髪をそっと上げてやる。
彼女の富士額は、暮れかけた紺と茜が入り混じった夜空に、うっすらと反射していた。そのうつくしい額に、吾涼は無意識にくちづけを落としていた。
彼の温かい熱を額に感じ、薔子はうっとりと瞳を眇める。そして、うすくくちびるを開き、細くあたたかな息を吐いた。それが、吾涼の白い喉仏に当たり、ぞくりと甘くしびれる。確かな男の盛り上がりを見せたそれが、縦に一度動く。
薔子はゆっくりと腕を伸ばして、吾涼の白い首すじに触れた。彼女のゆびさきが、かすかにふるえている。まるで、初めて雪に触れようとする、おさなごのように。
吾涼が、薔子の額からくちびるを離す。
ふたりの視線が絡まる。それは、刹那にも永遠にも感じられた。
「薔子、俺も。俺もすきや。お前が——」
彼の告白は、淡雪のように空気にすぐに溶けてしまう。
「おおきに」
薔子も溶けるようなかすかなつぶやきを彼に返すと、彼の切ない想いを飲み込むかのように、そっと表面だけが触れるくちづけをした。
(ああ、これが欲しかったんやな。俺はずっと)
うすくまぶたを開けると、彼女の伏せられた白い顔が目の前にあった。月光がそのまま人間に姿を変えたような、透明なうつくしさがそこにあった。
吾涼はそれをしばらく堪能すると、再び薔子の背後に手をまわし、彼女を抱きしめる。
彼女のやわらかさが、胸に染みるようであった。
背後に回した腕は、より力強さを増していく。
吾涼は薔子の肩に沈み込むように、顔を預けた。
(俺はずっと孤独やった。何かを探し求めてた。それは、俺を想ってくれる、ずっとおもい続けてくれるひとの存在やったんかもしれん)
「吾涼さん……」
切なくちいさな声で、薔子が呼ぶ。
いつの間にか茜に染まっていた夕日は落ち、部屋の中は青をふくんだ闇に覆われていた。
吾涼は薔子を抱いた腕に、より一層の想いを込めると、彼女の着物の帯にそっと手をかけた。
部屋の空気は、しんと澄み渡る清らかなつめたさだった。手にとって、ゆびさきで触れて、掬って飲んでみたくなるような。
その中を、ふたりのからだだけが、火のように熱く絡まっている。店の押し入れに仕舞われた布団は予想以上に綺麗で、なめらかな質感をしていた。その上に縦に並ぶように、ふたりは寝ていた。
吾涼は薔子のなめらかな白い背中と、うなじを見ていた。
片手で彼女の腰を押さえ、脚を広げさせて後ろから突く。
彼の足の上に乗った彼女の太ももは湿っており、そっと撫でると、さらに感じてしまうらしく、背筋をぴんと伸ばす。
吾涼はそれを見て、薔子のうなじに瞳を半分伏せてくちづける。
薔子は切ない鳴き声と、まなじりから涙をこぼす。
腹を撫でていた手で、豊かな白い胸をわし掴む。
薔子は上向いて自分の名を呼び、うつむいて、彼の手に自分の細い指を重ねる。
彼女の中はあたたかく、吾涼のすべてを包み込んでくれる。
「薔子……」
耳元でささやく吾涼の低い声が、湿って彼女の耳朶《じだ》の中に響いた。
「吾涼さん……」
彼女の声が、吾涼を誘う。
吾涼は胸筋の間からへその上を電流が走るのを感じた。ふたたび彼女の耳へくちびるを近づけると、そのやわらかくしろい耳たぶにくちづけ、またささやく。彼女の中に、己の命の粒を残すように。
「薔子……これだけは聞いとけ」
「えっ……?」
「お前が今までどんな男に何されたかて、俺は別に気にせぇへん」
薔子は驚いたのか、首をめぐらせて吾涼の方を見た。うるんだ彼女の瞳が、大きく見開いてこちらを見つめている。不安と戸惑い、そして羞恥がその瞳のみなもには浮かんでいた。男に愛されることに、戸惑いを感じている目。自分は幸せになってはいけないというような、自己肯定感の低い目。そのすべてを拭《ぬぐ》ってやりたかった。
頬をそっと撫でた。やわらかな、こどものような肌だった。
「俺だけ見てろ。俺だけ感じてろ……」
「吾涼さんっ……。はあっ……。うっ……」
そう言って、吾涼は腰の力を強める。薔子の中をつらぬく彼の質量がより一層、硬く、重くなる。その熱は火のように、彼女の中を縦横に蠢《うごめ》き、彼女の湿りをからめとり、彼女を愛した。
薔子は腹の中央を支点にして広がる快楽に耐えきれなくなり、身を捩《よじ》って彼の肩に腕を回し、彼のたくましい裸体にしがみついた。
男の肌はなめらかで、触れている箇所が、互いに癒しをもたらした。
薔子の伏せた瞳から頬に流れた涙を、吾涼はくちづけて拭ってやる。
双翼となったふたりを、小窓から凛とした白を放つさやかな月光だけが、見守っていた。
照らしだされた吾涼の背中と、薔子の腰だけが、闇の中でぽっかりと浮かび上がって、濡れたようなひかりを放っていた。
辻本家の正月は、昨年末に使用人たちがきっちりと準備したせいで、とどこおりなく安らかに迎えられた。
実家に帰っている使用人がほとんどであったが、その中で残っていた大吉は、門前で掃き掃除をしていた。
つめたい冬の空気の中に、何やらあたたかい陽射しがさしてきたと天を仰《あお》いだ。手を額にかざし、皺の寄った瞳を眇める。
またひとつ、歳をとった。
腰を叩き、屋敷へ戻ろうとした刹那、目の端にこちらへ歩いてくる人影がふたつ見えた。
茫然として立ち止まる。
やがて像を結び、あらわれたのは見慣れたふたりの若い男女であった。
男は女の手を握り、荷物をすべて持ってやっている。
女は幸せそうな顔で瞳を伏せ、男に手を引かれている。
やがて男の方が大吉の存在に気付き、「あっ」と顔を上げた。
「横手さん」
一点の曇りの無い、はっきりとした声音で自分の名前を口に出す。
大吉は、はーっと息を吐き出し、白い曇りを顔の周りに作ると、そのうすらぎと共に満面の笑顔を浮かべた。
「吾涼、薔子、おかえり」
男――吾涼は憑き物が落ちたような笑顔で大吉に微笑み返す。
女――薔子は、瞳を揺らし、大吉の笑顔を見つめると、やがてまなじりから涙をひとつこぼした。
ふたりの手はやわらかく握られたままである。ふたりとも、戻ってくる前よりも、髪の濃さや肌の艶が輝くようになっていると感じた。
門の奥から駆け出してくる下駄の音がし、顔を出したのは寅吉であった。
「あれ、お前ら、何でふたりで帰ってきたんや?」
ふたりを見て唖然とした顔で言う寅吉に、大吉は「お前にはまだまだわからん。はよ大人になれ」と頭を箒の柄でこつんと叩いた。
「庭に新しい花を植えようかと思うとるんや」
縁側で吾涼が椿を裁断している様子を絵紙に鉛筆でスケッチしていた薔子に、そう声をかけた。
薔子は絵紙から顔を上げ、憑き物が落ちたようにはれやかな笑顔を浮かべている吾涼にぽかんとした顔を向ける。
「新しい花?」
「せや、何がええと思う?」
「そうどすねえ」
青い空を見上げ、薔子は瞳を眇めて考える。
冬の昼のやわらかなひかりが当たり、彼女の額に添って流れる黒髪や、長いまつげをきらきらとひからせている。その姿を、吾涼はうつくしいと思いながら見つめていた。
そして「あっ、せや、それがええ」とあかるい笑顔になって吾涼の方を見ると、「百合の花を植えましょう」と言った。
「百合? 薔薇でなくてええんか?」
「薔薇は、うちが亡うなったときにでも、気まぐれに植えてください」
「お前、また何言うてるんや」
かわいた笑いをふくんだ、呆れた口調で言う。
「うちらをこの家に導き、繋ぎ止め、結んでくだすった百合子様に、ずっと庭で見守っててもらいたいんどす」
吾涼は、瞠目し、ひとみを揺らして薔子を見つめる。そしてゆっくり瞳を閉じると、やわらかく微笑んだ。
「せやな……」
吾涼は鋏を懐《ふところ》に仕舞うと、薔子に近付いた。目の前までくると、かがんで彼女と視線を合わせる。
少し驚く薔子に吾涼はやさしい微笑みを返すと、彼女の頬に手を伸ばし、撫でる。
「吾涼さん」
さっと朱《あけ》が差したように赤らむ薔子のさまに、野薔薇《のばら》のようなあいらしさを感じ、ひとさしゆびとおやゆびをずらすと、彼女のやわらかな頬をかるくつねった。
「いたっ」
「まったくお前は、めんどくさい女やで」
自分の頬を包み、優しく笑う愛《いと》しい男の顔を見つめた後、絵紙と鉛筆を太ももの上に置く。彼の手に己の手を重ねた後、薔子は幸せそうにまぶたを閉じた。(了)
参考文献
『美しい日本語の辞典』小学館辞典編集部(小学館)
『京都花街 ファッションの美と心』相原恭子(淡交社)