冬薔薇の戀
白百合の着物
「あ~ここにおらんのか。薔子の喪服見たかったなぁ」
寅吉の間の抜けた声で、過去の思い出に意識が飛んでいた吾涼は、頬を叩かれたように我に返った。
(薔子のためにも、はよう忘れてやらなな……)
うつむいて軽くくちびるを噛む。そして周囲の雰囲気に気を配りながらも、寅吉をすっと睨んだ。彼の先ほどの発言に対し、思うことがあったからだ。
「お前、不謹慎やぞ……。お嬢様の葬式やぞ」
凄みのある低い声で諭《さと》されるが、寅吉は聞く耳を持たず、ただため息をつくばかりである。頬杖をつき、上の空だ。
吾涼は呆れてくちを開け、瞳を眇めた。
「俺見たで。やっぱ毒島《ぶすじま》は黒が似合うわ」
大吉がにやりと口角を上げて、横目で吾涼に視線を送る。
現在は落ち着いているが、若い頃に好色だった男の片鱗《へんりん》が覗いていた。
「横手さん」
吾涼は眉をしかめ、大吉に顔を向けた。刹那、彼らの視線が、かち合う。
それに気付かず、寅吉は羨ましそうに「はあ」と大きな溜息をつく。なんとも能天気な男だ。
「ええなぁ。あいつ別嬪《べっぴん》やもんなぁ。髪なんか艶があって、口紅いつも真っ赤で……。仕事中にすれ違うと、薔薇の香りするんたまらんわ。吾涼見たか? あの腰、あの胸……。最初、屋敷に来た時はこんまいお嬢ちゃんやったのに、ここ二年で急に女になってしまった。着物着とっても極上の女の体なんが分かるわ」
恍惚《こうこつ》として薔子を語る寅吉を無視して湯呑みの茶をくい、と飲む。茶は先ほどよりもぬるくつめたくなっていたが、贅沢を言わない吾涼は、何も文句を言わなかった。
仮にも通夜の席で、そんなに女を形容する色気のある言葉を発して恥ずかしくはないのであろうか。この寅吉という男は。
親しい自分達だからいいものの、この周囲の者が辻本家の親戚であったなら、大ごとになっていたに違いない。
寅吉は無視されたことに気づき、眉を寄せて不快な顔で吾涼を睨んだ。
「ちぇっ、なんやねん。……吾涼はんは、お嬢様ひとすじやったもんな」
皮肉を込めて口角を上げ、吾涼を煽《あお》る。
「変なこと言ったら殺すで」
湯呑みから口を離し、瞳だけを動かして寅吉を睨むと、吾涼は凄みのある声で返した。
「吾涼はこう見えて適当に遊んどるからええねん」
大吉は笑う。
「へっ、色男は女にも困らんか」
ふたりの声が聞こえていない様子で、神妙な顔でただ碧《あお》い茶の水面《みなも》を見続けていた。静かな、しずかな時間が流れる。
それを破るように、吾涼は急に立ち上がった。
寅吉に足袋《たび》を履いた足で「どけ」という仕草を示し、出口へ向かう。前髪で顔が見えなくなっているが、何か悲壮な雰囲気がその広い背中から感じられた。
「吾涼、どこ行くんや」
大吉は急に様子が変わった吾涼に心配気に問うた。気をまぎらわせてやろうと薔子の話をしたが、無駄だったか、といささか反省の色を込める。
大吉の濃いはしばみの瞳は、ちいさいが生命力に溢れ、よく動く。それが吾涼の健康的な刈り上げの下にあるうなじにとどめられた。
「ちょっと俺も小便行ってきますわ」
大吉の声に応えるように、後ろを一瞬振り向くと、吾涼は満面の笑顔を見せた。再び背を向け、敷居を跨《また》いで廊下へと、音も立てずに出ていった。
その吾涼の姿を見てぽかんとした後、寅吉も満面の笑顔になる。
「なんや! あいつも小便我慢しとったんやんけ!」
その大声に再び親戚の群れがざわめき、怪訝な顔でこちらに視線を送ってくる。
大吉は呆《あき》れて頭を抱えると、寅吉の頭をびしっ、と叩いた。
「あいてっ」
吾涼は割と強い力で叩かれた寅吉の威勢の良い音を、何かを押し出す合図であるかのように、背を向けたまま聞き、足の速度をはやめた。
吾涼が向かったのは、百合子の部屋であった。
渡り廊下を歩き、彼女の部屋へと向かう間、吾涼は心の臓がどきどきとするのを抑えられなかった。
もう百合子はいないというのに、自分は一体、何をしようとしているというのか。自分で、自分のことがわからなくなっていた。
部屋の戸の前まで辿り着くと、しん、と冷えた空気が横殴りで吾涼を襲う。誰かに見られている、そういった不安がうなじを、つーと伝う。
だが、周囲には誰一人の影もなかった。
時だけが流れ、白くあかるい昼から、黒い夜へと向かっていく。いつもの日常。いつもの一日。そこに、百合子だけがいない、確かな事実が、真白い雪となって吾涼の胸の中へ降りてくる。
かたり、という音を立てて、戸を開く。
古びた戸は、軋んでいたが、片手で徐々に押し進めると、なめらかな滑《すべ》りをみせた。
百合子が生前使っていた部屋は、未《いま》だに鏡台や箪笥などふるびた家具が、そのまま残されていた。
(お嬢様の部屋や……)
部屋の中は凛とした冬の空気に包まれていたが、その中にひとしずく、百合子の使っていた白百合の香水の香りがするのを感じた。
(百合子様……)
一歩、二歩と部屋を歩くと、左手が震え始めた。細く節《ふし》くれだったゆびさきをひとつ、ふたつとゆっくりと握るとこぶしとなる。そのこぶしを、白くなるほど強く握りしめた。
黒い袴の裾が揺れ、庭仕事で鍛えられた逞《たくま》しいふくらはぎがちら、ちらと見えることも気にせず、吾涼はつめたい部屋の中を歩き続ける。
(何で死んだんや)
思い返すと、あのひとの満開の花のような笑顔だけが思い浮かぶ。死ぬときは苦しかっただろうに、辛かっただろうに、無念だっただろうに、何故か幸せに生き切ったと信じられる百合子の笑顔しか浮かばなかった。
彼女が幼い頃から使っていた年季の入った桐箪笥《きりだんす》に目を止め、近づくと手前で腰を下ろし、正座する。虚ろなまなこで一番下の段をゆっくりと開ける。
百合子の着物はまだ幾枚か仕舞われたままになっていた。
白、赤、黄色。
彼女が好んで着ていた色の着物が、生前彼女に纏《まと》われていた「物」としての生命力が保たれたまま置かれている。まだ恋も知らなかった乙女だった頃の、女学生時代の葡萄色《えびいろ》の矢絣《やがすり》の着物と袴もあった。
吾涼はそれを見て、悲しみとともに懐かしさが込み上げ、切なく笑う。
二段目の着物を見終わり、いけないことをしているような罪悪感に襲われたが、すっと木が擦《こす》れる音を立てて、さらにその下、三段目の棚を開けた。
吾涼は中に仕舞われていた物を見て、はっと目を見開いた。
(この一番上の着物……。お嬢様が一番よう着とった着物や)
棺《ひつぎ》の中の百合子は、死装束を身に纏っていたが、涙が乾いた瞳でその姿を見た時に、まず率直に抱いた感想は、(こんひとは思てた通り白が一等似合うわ)というものであった。
生前の百合子は黄色地に牡丹や赤地の菊模様など、明るく華やかな着物を好んで着たがったが、吾涼はそんな柄の着物よりも真っ白な着物が一番似合っていると思っていた。
混じりのない、何者にも犯されない純白をまとう女。それで彼女は終わりを迎えた。
一番上に綺麗に折り畳まれた白い着物を崩さないように、両手で手を下に差し入れ、ゆっくり取り出す。いつのまにかゆびさきは震えていた。上質な絹のなめらかさがてのひらをやわらかく撫でる。さっと横にひとなでする。吾涼の手の動きを追って波打つように白くきらめく。
両手に乗せた百合子の着物をじっと見つめていると、涙が後からあとから頬を伝った。眉を歪ませ、瞳をきつく閉じると、着物に顔を埋め、固く抱きしめる。
「百合子っ……」
嗚咽を漏らしながら白い着物に涙の染みを作っていく。
――そうや、ずっと心の中では『百合子』と呼んでたんや。
あれは丁度《ちょうど》一年前の冬。
寅吉の間の抜けた声で、過去の思い出に意識が飛んでいた吾涼は、頬を叩かれたように我に返った。
(薔子のためにも、はよう忘れてやらなな……)
うつむいて軽くくちびるを噛む。そして周囲の雰囲気に気を配りながらも、寅吉をすっと睨んだ。彼の先ほどの発言に対し、思うことがあったからだ。
「お前、不謹慎やぞ……。お嬢様の葬式やぞ」
凄みのある低い声で諭《さと》されるが、寅吉は聞く耳を持たず、ただため息をつくばかりである。頬杖をつき、上の空だ。
吾涼は呆れてくちを開け、瞳を眇めた。
「俺見たで。やっぱ毒島《ぶすじま》は黒が似合うわ」
大吉がにやりと口角を上げて、横目で吾涼に視線を送る。
現在は落ち着いているが、若い頃に好色だった男の片鱗《へんりん》が覗いていた。
「横手さん」
吾涼は眉をしかめ、大吉に顔を向けた。刹那、彼らの視線が、かち合う。
それに気付かず、寅吉は羨ましそうに「はあ」と大きな溜息をつく。なんとも能天気な男だ。
「ええなぁ。あいつ別嬪《べっぴん》やもんなぁ。髪なんか艶があって、口紅いつも真っ赤で……。仕事中にすれ違うと、薔薇の香りするんたまらんわ。吾涼見たか? あの腰、あの胸……。最初、屋敷に来た時はこんまいお嬢ちゃんやったのに、ここ二年で急に女になってしまった。着物着とっても極上の女の体なんが分かるわ」
恍惚《こうこつ》として薔子を語る寅吉を無視して湯呑みの茶をくい、と飲む。茶は先ほどよりもぬるくつめたくなっていたが、贅沢を言わない吾涼は、何も文句を言わなかった。
仮にも通夜の席で、そんなに女を形容する色気のある言葉を発して恥ずかしくはないのであろうか。この寅吉という男は。
親しい自分達だからいいものの、この周囲の者が辻本家の親戚であったなら、大ごとになっていたに違いない。
寅吉は無視されたことに気づき、眉を寄せて不快な顔で吾涼を睨んだ。
「ちぇっ、なんやねん。……吾涼はんは、お嬢様ひとすじやったもんな」
皮肉を込めて口角を上げ、吾涼を煽《あお》る。
「変なこと言ったら殺すで」
湯呑みから口を離し、瞳だけを動かして寅吉を睨むと、吾涼は凄みのある声で返した。
「吾涼はこう見えて適当に遊んどるからええねん」
大吉は笑う。
「へっ、色男は女にも困らんか」
ふたりの声が聞こえていない様子で、神妙な顔でただ碧《あお》い茶の水面《みなも》を見続けていた。静かな、しずかな時間が流れる。
それを破るように、吾涼は急に立ち上がった。
寅吉に足袋《たび》を履いた足で「どけ」という仕草を示し、出口へ向かう。前髪で顔が見えなくなっているが、何か悲壮な雰囲気がその広い背中から感じられた。
「吾涼、どこ行くんや」
大吉は急に様子が変わった吾涼に心配気に問うた。気をまぎらわせてやろうと薔子の話をしたが、無駄だったか、といささか反省の色を込める。
大吉の濃いはしばみの瞳は、ちいさいが生命力に溢れ、よく動く。それが吾涼の健康的な刈り上げの下にあるうなじにとどめられた。
「ちょっと俺も小便行ってきますわ」
大吉の声に応えるように、後ろを一瞬振り向くと、吾涼は満面の笑顔を見せた。再び背を向け、敷居を跨《また》いで廊下へと、音も立てずに出ていった。
その吾涼の姿を見てぽかんとした後、寅吉も満面の笑顔になる。
「なんや! あいつも小便我慢しとったんやんけ!」
その大声に再び親戚の群れがざわめき、怪訝な顔でこちらに視線を送ってくる。
大吉は呆《あき》れて頭を抱えると、寅吉の頭をびしっ、と叩いた。
「あいてっ」
吾涼は割と強い力で叩かれた寅吉の威勢の良い音を、何かを押し出す合図であるかのように、背を向けたまま聞き、足の速度をはやめた。
吾涼が向かったのは、百合子の部屋であった。
渡り廊下を歩き、彼女の部屋へと向かう間、吾涼は心の臓がどきどきとするのを抑えられなかった。
もう百合子はいないというのに、自分は一体、何をしようとしているというのか。自分で、自分のことがわからなくなっていた。
部屋の戸の前まで辿り着くと、しん、と冷えた空気が横殴りで吾涼を襲う。誰かに見られている、そういった不安がうなじを、つーと伝う。
だが、周囲には誰一人の影もなかった。
時だけが流れ、白くあかるい昼から、黒い夜へと向かっていく。いつもの日常。いつもの一日。そこに、百合子だけがいない、確かな事実が、真白い雪となって吾涼の胸の中へ降りてくる。
かたり、という音を立てて、戸を開く。
古びた戸は、軋んでいたが、片手で徐々に押し進めると、なめらかな滑《すべ》りをみせた。
百合子が生前使っていた部屋は、未《いま》だに鏡台や箪笥などふるびた家具が、そのまま残されていた。
(お嬢様の部屋や……)
部屋の中は凛とした冬の空気に包まれていたが、その中にひとしずく、百合子の使っていた白百合の香水の香りがするのを感じた。
(百合子様……)
一歩、二歩と部屋を歩くと、左手が震え始めた。細く節《ふし》くれだったゆびさきをひとつ、ふたつとゆっくりと握るとこぶしとなる。そのこぶしを、白くなるほど強く握りしめた。
黒い袴の裾が揺れ、庭仕事で鍛えられた逞《たくま》しいふくらはぎがちら、ちらと見えることも気にせず、吾涼はつめたい部屋の中を歩き続ける。
(何で死んだんや)
思い返すと、あのひとの満開の花のような笑顔だけが思い浮かぶ。死ぬときは苦しかっただろうに、辛かっただろうに、無念だっただろうに、何故か幸せに生き切ったと信じられる百合子の笑顔しか浮かばなかった。
彼女が幼い頃から使っていた年季の入った桐箪笥《きりだんす》に目を止め、近づくと手前で腰を下ろし、正座する。虚ろなまなこで一番下の段をゆっくりと開ける。
百合子の着物はまだ幾枚か仕舞われたままになっていた。
白、赤、黄色。
彼女が好んで着ていた色の着物が、生前彼女に纏《まと》われていた「物」としての生命力が保たれたまま置かれている。まだ恋も知らなかった乙女だった頃の、女学生時代の葡萄色《えびいろ》の矢絣《やがすり》の着物と袴もあった。
吾涼はそれを見て、悲しみとともに懐かしさが込み上げ、切なく笑う。
二段目の着物を見終わり、いけないことをしているような罪悪感に襲われたが、すっと木が擦《こす》れる音を立てて、さらにその下、三段目の棚を開けた。
吾涼は中に仕舞われていた物を見て、はっと目を見開いた。
(この一番上の着物……。お嬢様が一番よう着とった着物や)
棺《ひつぎ》の中の百合子は、死装束を身に纏っていたが、涙が乾いた瞳でその姿を見た時に、まず率直に抱いた感想は、(こんひとは思てた通り白が一等似合うわ)というものであった。
生前の百合子は黄色地に牡丹や赤地の菊模様など、明るく華やかな着物を好んで着たがったが、吾涼はそんな柄の着物よりも真っ白な着物が一番似合っていると思っていた。
混じりのない、何者にも犯されない純白をまとう女。それで彼女は終わりを迎えた。
一番上に綺麗に折り畳まれた白い着物を崩さないように、両手で手を下に差し入れ、ゆっくり取り出す。いつのまにかゆびさきは震えていた。上質な絹のなめらかさがてのひらをやわらかく撫でる。さっと横にひとなでする。吾涼の手の動きを追って波打つように白くきらめく。
両手に乗せた百合子の着物をじっと見つめていると、涙が後からあとから頬を伝った。眉を歪ませ、瞳をきつく閉じると、着物に顔を埋め、固く抱きしめる。
「百合子っ……」
嗚咽を漏らしながら白い着物に涙の染みを作っていく。
――そうや、ずっと心の中では『百合子』と呼んでたんや。
あれは丁度《ちょうど》一年前の冬。