冬薔薇の戀

蜂と百合

 「吾涼は相変わらず指が綺麗やなぁ」

 椿の首を、鋏《はさみ》で一輪《いちりん》ずつ丁寧に切っていく吾涼の手を眺めて、その日、百合子はそう言った。
 縁側に座り、白地に黄色の百合模様の着物を着た百合子は、紫のショールを肩に羽織っていた。うすい絹製のショールは、白い着物に溶けて透けるように百合子の肩を覆っている。
 彼女の髪は生まれつき少しだけ色彩が淡く、陽の光に当たると金をはらんで、内側から発光するような紅茶色に輝く。
 それを彼女は気にしていたが、吾涼はうつくしいと感じていた。
口に出すことは決してなかったが。
 今はそのやわらかな髪をハーフアップにし、陶製のバレッタで留めている楽な髪型にしていた。バレッタにはターコイズブルーの地に薄紅色の牡丹の花が釉薬で描かれ、周囲をレエスの模様をした金の縁取りが覆っていた。
 吾涼は集中して定めていた斑入《ふい》りの椿の首を切り落とすと、微笑み返した。
 百合子は彼を満面の笑顔で見つめ返したが、急に真顔になり、虚ろな眼で、心ここにあらずといったように呟いた。

「うち、出戻りやさかい、今家におっても居場所が無いように感じるんよ。でもこの庭で、吾涼の手入れした椿を見てる時だけ、心が休まるんや」

 吾涼は、手を止め、真剣な顔で百合子を見つめると、鋭い声音で言った。

「相手が悪かっただけです。お嬢様は何も悪くありません」

 彼女の苦しみをぱちりと切り落とす、鋏のような声音であった。

「ありがとう。吾涼はほんま優しいね」

 受け取ったものに瞳を閉じ、百合子はくちもとにやわらかな笑みを浮かべた。
 だが吾涼は、そこに青い悲しみの色が混じっているのを見落とすことが出来なかった。
 縁側からよいしょっ、という声と共に庭へと降りると、尻を一度はたき、吾涼に近づいていく。

「なあ吾涼、うちにも椿の切り方教えてえな」

 あどけない少女のような声で懇願され、吾涼は一瞬たじろいだが、すぐに真顔になり、首を左右に振る。

「……お嬢様に、刃物を持たせる訳にはいきません」

「ええやない。どうせもう傷物やし」

「……そんなご冗談言ったかて何も面白くありません」

 怒りを交えた声で百合子を睨む。
 百合子は閉じたくちびるから桃色の舌先を出し、お茶目に笑った。
 ふいに吾涼の片手を可憐な両手で包むように掴み、優し気に見つめる。
 吾涼は急に触れた百合子の手のやわらかさに一瞬瞠目し、息を殺した。

「痣、消えてきたね」

「……もうここに来て今年で十年ですからね」

「あんた、うちよりちびで可愛かったのに、今は背丈追い越されてしまって悔しいわ。……吾涼、ここに来てよかった?」

 百合子は吾涼の手首を抱いたまま、顔を上げる。目を細めて微笑んだ。その瞳は不純物を一切含んでいない泉のごとく澄んでいた。この瞳で見つめられれば、言葉も、体も逃げることが出来なくなる。息を吸うのと同時に、吾涼は胸に秘めていた本心の一部分を桶《おけ》で掬《すく》いとり、声に出して語った。

「……あの日、前の丁稚奉公先で虐待されとった俺を、お嬢様が引き取ってくださらなかったら、向こうのおやじに殺されてましたからね。あの日から俺はお嬢様のもんどす」
 
 あれは遠い日、十歳の幼い記憶。
 その日も商家の丁稚奉公先《でっちぼうこうさき》で、殴る蹴るの暴行を受けて鼻血をすすりながら、冬の寒い日に門の外に出されていた。
 吾涼が最初に連れられた商家は男所帯で、右も左もわからず必死で仕事を覚えようとする吾涼に、先輩の使用人たちは何も教えてくれなかった。
 しかし観察力が鋭く、要領がいい吾涼は、他の使用人たちの行動をじっくりと見ることで仕事を覚え、来てそれほど時が経っていないというのに一通りの仕事が出来るようになっていた。それも、そのどれもが他の使用人よりも完成度が高かった。幼い頃から手先が器用で、丁寧さを心がける吾涼は、仕事にもそれが出ていた。
 逆に、吾涼が来てから雑さが目立つようになった使用人たちの仕事は、それがさらに浮き彫りになってしまった。
 長年奉公してきたというのに、自分たちより早く仕事が出来るようになってしまった年下の丁稚《でっち》の少年のことを、性悪の男達がよく思うはずがない。
 最初は皆が寝静まった夜に、使用人が雑魚寝している寝所から連れ出され、井戸の水を全身にかけられる程度であった。だが次第にその虐《いじ》めは激しさを増していった。
 屋敷の雑巾がけをしている最中に通りかかった者に足を手で踏まれたり、言いがかりをつけられては襟首《えりくび》を掴まれ、中庭に連れ出され、殴る蹴るの暴行を受けた。
 権限のない自分が口ごたえをしてもこの状況は悪化するだけだろう。うすれてゆく意識の中、切れたくちびるの中で歯を食いしばりながら、早く終わりの時だけを待っていた。
 口の中からとつとつと流れいづる血の味だけが、自分が生きていると感じられることであった。
 そんな吾涼の様子を、商家の主《あるじ》はある時に気付いた。吾涼は、主が助けてくれるのかと幼心《おさなごころ》に半《なか》ば期待していた。
 だが、主は吾涼に対し、お前が屋敷の風紀を乱している。と告げ、吾涼を見つけると仕事の細やかな間違いに対する言いがかりをつけては、自分も暴行に加わった。
 顔中腫れ上がり、体に紫色の斑点の痣《あざ》が幾つも出来た吾涼を気味悪く思い、ある真冬の綿雪の降る夕暮れに、彼を屋敷の外に立たせるという罰を与えた。
 このまま凍え死んだ方がましやろうか。
 暗い空から舞い降りてくる白い雪をぼうっと見上げていた。空は薄墨《うすずみ》を何層にも重ね塗りしたような黒で、ところどころ筆でぼかしたような灰色の雲が、その画上にアクセントをつけている。
 手袋も足袋も身に着けることを許されなかった手足は、寒さで既に感覚を失い赤くかじかんで小刻みに震えていた。
 くちびるは紫色に変化し、歯はかたかたと鳴り続けている。雪と冷気に撫でられ続けている睫毛の先は、小さな氷柱《つらら》のように凍ってしまった。鼻孔から内部に入ってくる空気は、吸う度に体温を一度ずつ下げていくようにつめたく刺さってゆく。
 商家の者たちに暴行を受けている最中も、早くこの時が終わってほしいと思い続けながら耐えていたが、今はこの命が早く終わってほしい、それだけを澄んだ頭の中で、ぼんやりと思考していた。
 空から頭をゆっくりと落とし、茫とした瞳で前を見やる。
 路上に降りつもった純白の雪道を、しゃりしゃりと踏み進んでいく何かの音が、真っ赤に染まった耳に聞こえてきたかと思うと、目の前に黒い車が停止した。
 このご時世に車に乗っているなんて、よほどの金持ちなんやろうな、と俯瞰《ふかん》した視点で考える。
 鉄製の固い車のドアが、きぃ、という音と共に開く。冷気で少し軋んでいるのだろう。

(ああ、ついに死神さまが俺を迎えに来てくださったんやーー)

 吾涼は、ひとみを閉じ、両手をくちもとで合わせると、仏に祈りを捧げるように俯いた。
 暗くなった閉じた視界に、しゃりしゃりと雪を踏みしめて、こちらへ向かってくる静かな足音だけが聞こえてくる。

(もうすぐ、もうすぐ死ねる)

 口を少し開き、うっすらと微笑んだ。その顔からは生気が消えたためか、かつてないほど、彼に穏やかで優しい表情をさせていた。
 ふいに、肩に温かくやわらかい手が乗せられる感触がした。

(死神さまってあったかいんやな)

 夢見心地に感じていると、ふわりと体が前方に引き寄せられた。
 背に腕を回され、触れた頬には絹のなめらかな感触、そしてやわらかなふくらみがした。
 塞《ふさ》いだまぶたをはっと開ける。
 揺れる瞳で見上げると、薄墨《うすずみ》の雪空を背景に、まぶたを閉じた白くうつくしい少女の顔が見えた。
 長い睫毛を震わせ、少し眉を歪ませて泣きそうな顔になっている。
 髪は結い上げられており、乳白色に薄紅《うすくれない》をひとしずく垂らしたような色彩の簪《かんざし》を付けていた。自分の顔を包んでいたのは彼女の胸だった。
 景色と同じく雪のような白地に濃き紅色《べにいろ》の薔薇模様の着物を着ている。
 あまりの驚きに「はっ……」と息を吸うのと同時に声を漏らす。
 それに気づいた少女・百合子は瞳をうっすらと開けると、抱きしめた幼い少年を見下ろし、優しく微笑んだ。
 百合子の笑顔は、冬の陽のひかりのように白く輝き、かつ、あたたかかった。

「天女さま……」

 か細い声で、いつの間にかそう呟《つぶや》いていた。その声は、額に触れた雪と同様に溶けて消えてゆく。
 ワインレッドの手袋越しに吾涼の凍った前髪を上げ、その富士額を撫でた百合子の手は、うっすらとつめたさを表面に纏っていたが、内側から漏れ出す熱を彼に与えた。
 その温かさに、亡くした母を思い出した。
 忘れていたなみだが、気づかぬ内に見開いた眼《まなこ》から流れ、百合子の胸を濡らしていた。一度涙がこぼれだすと、収拾がつかなくなる。彼女の胸に顔を深くうずめると、我を忘れて声を上げながら泣き続けた。母を亡くした時以来の涙が、吾涼の冷えた頬を熱く濡らし続けた。頬も目元も真っ赤に染まっていく。
 百合子はそんな少年の頭に手を置き、さらに強く抱きしめる。
 そして頭上から水滴が落ちるような声で話しかけた。

「いきなりごめんね。習い事のお華済ませて、迎えに来てくれとった車で帰ろうとしとったら、遠目からあんさんのこと見つけてしもたんや。なんやこんな雪ん中で酷い顔して立っとって、がちがちに震えとったから無視できひんかった……。こんなちいさい子を外に放りだすなんて酷い奉公先やな」

 切なげな笑顔で吾涼を撫で続ける。
 車から初老の運転手が降りてきて、百合子に近寄った。いきなり「車停めて」と命じられ、指定の場所に停車してみれば、みすぼらしい子供を抱きしめてしまう。突拍子もない華族の一人娘の行動に、運転手はいつもひやひやさせられている。
 子供を抱きしめて撫でる百合子の姿は、普段のじゃじゃ馬のようなあかるい少女の姿とは打って変わり、上村松園の美人画に描かれる母親像のようで、運転手は一瞬見惚れてしまっていた。だが、はっと我に返って問いかける。

「百合子さま、その子供どうするおつもりですか?」

 百合子は運転手に顔を向けると、あどけないぽかんとした表情をした。その顔は、普段見慣れている年相応の少女のものであった。
 自分でも自分の行動が理解できていないのか。

「あ……、せやなあ……」

 まばたきし、再び吾涼を見下ろす。一瞬何か悩むような素振りを見せたが、新しい発想を思いついた科学者のようにぱっと顔を上げると、満面の笑顔を運転手に向けた。

「なあ、この子、家《うち》に連れて帰りたい」

 その笑顔はこの雪景色に咲く冬桜《ふゆざくら》のようにうつくしく、運転手は二の句を告げなくなった。
 無垢な百合子の笑顔に、逆らえる者はいない。
「わかりました」と答えると、自分の着ていた葡萄色《えびいろ》のコートを脱ぎ、百合子の肩に着せた。

「君もええやろ? 家のがここよりちいさいし、貧乏かもしれんけど、一緒に暮らす子たちのことは、家族みたいに大事にするで」

 百合子は笑顔のまま吾涼に視線をうつし問いかける。だが、彼から反応が無かった。
 不安になり吾涼の頬に手を当て、顔を上向かせる。すると涙の後を、目尻と頬に残したまま、彼は瞳を閉じてすうすうと寝息を立てていた。

「あれ……? あ、この子眠ってもうてるわ」

 ただ百合子の胸のぬくもりに身を預け、泣いていた吾涼はいつしか眠りについてしまっていた。あたたかい女の胸に包まれながら訪れた睡魔は、今まで感じたことのない多幸感を彼にもたらした。
 その寝顔は、長い苦しみから解放された罪人のように安らかであった。
 そして、この日を境に、吾涼は薄汚れた野犬から、百合子の忠犬となったのだ。

 椿の香りに誘われて、過去に想いを馳せていた吾涼は、百合子が己の手首を擦る感触で我に返った。
 時折彼は、現実から眠るように過去へ気配を飛ばしてしまうことがある。それを自分でも自覚していた。

「吾涼……。ごめんな、うち結婚上手くいかんかったから、またこの家でお世話になるわ」

 俯《うつむ》き、涙声になる百合子のつむじを見つめる。

(右回りやな)

 はたから見ればどうでもいいようなことを、なぜか確認する。その事実だけで心が幸せになった。
 彼女に擦られた場所から伝わる感触に、よろこびで手が震えそうになる。だがこそばゆい心の動きを必死で押し隠し、微笑んだ。
 本当はとびきりの笑顔を浮かべたかったが、無理がたたったのか、その笑顔は少し歪み、切ないものとなってしまった。

「百合子様に似合う方がきっとこの先現れます。せやから今回の結婚は、人生経験やと思った方がよろしい」

 努《つと》めてあかるい声音で、言葉を返した。

(……本当は百合子が出戻ってきたとき、嬉しかったと感じていたことなんて、言えん。この先も、どこにも嫁がず、ずっと俺の傍にいてほしい。俺の主であってほしいなどと、死んでも口には出来ん)

 結ばれなくてもいい。主と忠犬という共依存関係であれば、死ぬまで一緒に生きることが出来る。最期までこの人のかたわらにいるのは、どこぞの裕福な家柄でぬくぬくと育てられた他の男などではなく、地獄から天女に蜘蛛《くも》の糸を垂らされ、必死の想いで生き抜いてきたこの俺だと。地獄の番犬が傍《そば》にいれば、この人が地獄に落ちることはない。この俺が、この人の人生で起こる苦しみや痛みを全て引き受けよう。
 そう決意していた。

「うち怖い。あんな、子供の頃から持ってた喘息が最近酷くなってきてるんや。この先ずっとこのままなんやろうか、将来どうなってしまうんやろって毎晩不安でたまらん。うち、怖い……吾涼、どうしたらええのやろ」

 吾涼の手首をさすっていた手が震えている。その手首に、俯いた彼女の瞳から熱いしずくが、ぽつ、ぽつと小雨のはじまりのように落ちていく。
 吾涼は、もう片方の手を百合子の背に回し抱きしめようとした、が、触れるか触れないかのところで手を止め、おろした。
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