冬薔薇の戀

吾涼と薔子

 「——吾涼さん」

 玲瓏《れいろう》な、だが一匙《ひとさじ》のつやが混じっている声が、吾涼の背を撫でた。
 しゅるり、とした衣ずれのような音と共に、尻の付け根から背骨へ、電流のごとく悪寒が走る。
 意識が過去の回想から現実に引き戻される。声のした背後を振り返る。
 黒無地《くろむじ》を着た薔子が、上半身をわずかに落とし、後ろ手に戸を閉めていた。

「薔子」

 漆黒の黒髪に、白桜色《はくおうしょく》の肌。綺麗な弧を描く富士額から、頬の輪郭が、窓からこぼれる陽光に、しろく艶めいている。
 帯も着物も漆黒で、烏の濡れ羽色のようであったが、ぷっくりと熟れたくちびると帯締めだけが紅《あか》く彩《さい》を放っていた。

「……やっぱり吾涼さん、百合子様のこと、好きやったんですね」

 うつむき、薔子は笑った。その声音は、普段の彼女から感じることのなかった、切ないかなしみの色を纏っていた。その理由が何故なのか、吾涼には伝わっていない。
 耳にかけていた薔子の髪が、ひとすじ頬に垂れる。白い肌に、筆で黒を差したようで、陰影が際立った。
 吾涼は押し黙り、形の良い眉をしかめて薔子から視線を逸らすと、抱いていた百合子の着物を床の畳にそっと置く。くちびるを少し噛むと、右上の八重歯の先端が覗いた。
 
 薔子は、四年前の雨の日、あの風呂場での出来事を努めて忘れようとしていた。
 屋敷で吾涼とすれ違っても、軽く挨拶を交わし、業務上で関わることがあっても、事務的な会話しか交わさなかった。だが、時折、庭で椿の手入れをしている吾涼のふしくれだった長い指を見てしまった時、その指が自分の体中を撫でていたことを思い出し、体が熱くなることを止められなかった。思考は忘れよう、忘れよう、と努めていても、濡れた自分の股の花芯が、それを許さない。
 幾夜も吾涼の事を想った。
 女中部屋で、皆で雑魚寝している中、周囲の者に気づかれぬよう、声を押し殺し、自分の指で火照《ほて》った花芯《かしん》や乳房《ちぶさ》をなぐさめては絶頂に辿り着くようになってしまった。未成熟な蕾は、今や胸も尻も実り、赤黒い薔薇の花として開花した。
中央だけが黄色くうずく、いやしい欲望をはらんだ、赤黒い薔薇。
それはいまだに成長を見せる。
 他の使用人の男に、仕事中に尻を触られ、人の気配の無い倉庫に連れ込まれて強引に抱かれた事もあった。

「お前が悪いんや。そない熟《う》れた、薔薇の花みたいなからだしとって」

 そう耳元で荒い息と共にいやらしく言葉攻めされ、激しくくちびるを吸われた。着物の袷《あわせ》から手を差し込まれ、豊かな胸を揉みしだかれても、目を閉じて吾涼の冷めた横顔を思い浮かべていた。
 今、自分を犯しているのは吾涼だ。

(あたしは吾涼さんに抱かれているんや)

 相手の胸板に爪を立て、自分からねっとりと舌をからませた。薔子の瞳が見ているものは、自分を犯している吾涼の影だけであった。まなじりから涙がこぼれ、男に鷲掴みにされて、形を変える己の白い胸の谷間に落ちていった。
 

 薔子は皮肉な笑みを浮かべ、百合子の着物を抱いている吾涼を見ていた。

(ああ、やっぱり。こんひとは嬢様《いとさま》しか見てないんや)

 わかっていたはずなのに、こうも目の前で真実を突きつけられると、彼女のプライドは、ゆびさきで圧力を加えられた干菓子《ひがし》のようにほろり、と崩れてしまった。
 嬢様が亡くなった後も、嬢様の影だけをこの男の体は、追い続ける。あの高潔《こうけつ》な、白百合の花のような。自分にはない純白の花弁を。
 人が水や空気を求めるのが自然なように、自分の体は、心は常に吾涼を求めている。少女の時の一時の夢のように、もう一度彼の長く美しい指で触れてほしかった。心臓から流れる血脈の末端まで、熱を帯びた命の想いに逆らうことは出来なかった。

(——それならば、もういっそのこと、共に、地獄へ堕ちたい) 

 薔子は吾涼に近寄ると、彼の背後で腰を下ろした。膝をかくんと折り曲げ、ゆるく正座をする。彼の背に額をつけると、ゆっくりと抱きしめるように胸に腕を回した。

「薔子、どうしたんや。お前」

 突然の薔子の行動に動揺し、鼓動が早くなる。薔子の体からは、媚薬《びやく》の如き薔薇の香りがした。
 吾涼の右耳に顔を近づけ、うっとりとつぶやく。
 やわらかく、甘いが確かな熱を持った吐息が、彼の耳に触れた。

「……ねえ吾涼さん、うちのこと、百合子お嬢様やと思って抱いてくださいな」

 甘い毒を、そのまま耳へ流し込まれたかのような、悪魔のささやきだった。
 言われたことの意味が分からず、くらりと目眩がした。
 一瞬脳裏で逡巡すると、瞠目し、彼女を見返した。
 顔が至近距離にあるので、ひとみが触れ合いそうだった。薔子の瞳は、遠くから見ると黒曜石《こくようせき》のようにくろいが、近くで見ると、かすかに榛色《はしばみいろ》をしており、琥珀《こはく》のようにきらめいている。瞳の中央へ向かうごとに、段を重ねて色が深くなっており、奥へ、おくへ、と心を誘《いざな》われる。あまりにも、危険な色をしていた。

「何、言《ゆ》うてる……」

「あんさん、百合子様のこと、ほんまはずっと抱きたかったんやろ」

 一段低い声で確信を突かれ、吾涼は一瞬、心の臓が高鳴ったが、それを悟られぬように歯噛みした。

「あほなこと抜かせ」

 理性を取り戻し、横眼《よこめ》で薔子を睨みつける。
 薔子は気にせず、胸に回した手をゆっくりおろし、吾涼の股間《こかん》を撫でた。

「……っ!」

 普段着ている麻の袴よりも、幾分か上質な素材でできた喪服の黒い袴《はかま》は、彼女のなめらかな白いゆびさきに、かすかな衣ずれの音を立てる。
 急にしなやかな女の手で撫でられ、敏感な個所が、電流がほとばしったように反応する。自分でも驚くほどの反応だった。
 頭皮から汗がじわりと吹き出す。

「ほら、百合子様のお着物触っただけで、こないなってるやないの」

 微笑み、触れるかふれないかの距離まで薔子は頬を寄せた。
 吾涼の額には、こまかな脂汗が浮き出ていた。彼の動揺が、目に見えてわかる。
 吾涼は苦し気に眉をしかめ、まぶたを閉じた。

「……やめえやっ!」

 吾涼の長い睫毛が、頬に影を作る。
 その睫毛の先が震えているのを、間近まで迫ったつややかな瞳がとらえた。ひとみの虹彩《こうさい》が夕陽にあたり、琥珀色にきらめくのが見えた。
 片手を吾涼の着物の袷に差し入れ、優しく、だが色をふくんで円を描くように胸板《むないた》を撫でる。
 下着が、汗で湿っているのがわかった。 

「……吾涼さん」

 喘《あえ》ぐような声を耳元でささやかれ、男の本能で全身の毛が逆立った。
 気付けば薔子の手は熱く火照《ほて》っており、頬も赤く染まって吐息も熱がある。
 吾涼は女の甘い誘惑を振り切るように、努めて冷静になり、薔子の手首をそっと掴《つか》む。彼女の手首はなぜだかうっすらと湿り気を帯びていた。

「頭おかしなったんかお前……」

「おかしいのはあんさんやない。ずっとおかしいんやろ、ここが」

 薔子は掴まれていない方の手で、吾涼の胸を着物の上から優しく撫でた。

「ずっと苦しかったんやろ」

 吾涼は応えなかった。

「うちもずっと苦しい、ずっと。あの雨の日に、あんさんに体中撫でまわされてから、おかしなってもうた。なぁうち、どないしたらええのん? ずっと悩んでる。あんさんのこと考える
だけで、体がきゅうっと切《せつ》のうなる。気ぃ付いたら熱くなって濡れとる。……うちの体、壊れてしまった。あんさんのせいや。あんさんと出会わなんだら、こんな女にならずに済んだ。うちとあんさんを出会わせた、百合子様を恨みたい……!」

 語尾は引き絞られるような悲痛さを伴っていた。
 薔子の手首は震えていた。
 吾涼の胸に置いた手に力が籠《こ》められ、ゆるく引っ掻くように、少し伸びた櫻貝色《さくらがいいろ》のつめが立てられた。

「薔子……」

 目を見開き、涙で濡れる薔子の顔を見つめる。
 薔子の熱い吐息が己のくちびるにかかっていた。うすく開いた吾涼の口の中に、その息はまるで春風のように吹き込んでくる。
 吾涼の息も、薔子のくちびるに触れる。互いがたがいを、生あたたかく湿らせる。
 鼻先が触れるかふれないかの距離まで近づいた時、薔子の顔に、百合子のおもかげが浮かび上がった。

「……百合子」

 体をひるがえし、薔子の肩に腕を回すと、押し倒した。
 頭の横に両手を置き、彼女を固定した。無意識のままの行動だった。
 大きな瞳を見開き、薔子はまっすぐに天を、吾涼を見上げた。
 前髪は、反動で横へ流れ、白い富士額があらわになる。

「百合子……っ、百合子……!」

 薔子のしなやかな体の上に、百合子の残像が靄《もや》のようにかさなり、透けて浮かび上がっているのが、吾涼の瞳にだけ見えていた。
 薔子は頬を涙で濡らし、悲し気に眉を歪ませると、ゆっくりと微笑んだ。

「吾涼、抱いて……」

 薔子の艶のある声に、百合子のあかるい声が、ぼんやりと重なって聞こえた。その瞬間、吾涼の瞳は、大きく見開かれた。そしてすべてを終わらせるように閉じられたかと思うと、瞼をゆっくりと開け、獣のような鋭い眼光で、薔子を捕えた。
 素早く薔子の顔に顔を寄せると、くちびるを合わせ、噛みつくようなくちづけを始める。
 薔子はそれを、半分まぶたを伏せてただ受け止めていた。
彼女は男との行為には慣れている。だが、吾涼から与えられる初めてのくちづけは、今まで受けたどの男のものよりも、甘く、かつ力強かった。彼のすべてを与えられるような、彼女のすべてを奪われるような、そんなくちづけ。
 それは薔子が体験したことのないものだった。生まれてはじめて与えられる至福。
 何度も角度を変えて与えられ、離されてはまた塞がれる。漏れる吐息が熱く、間からは銀の唾液が橋を作った。
 薔子のぽってりとふくらんだくちびるは、ほのかに甘い味がした。
 吾涼の乾いたくちびるの皮が、彼女の艶やかなくちびるの皮に触れると、吸い付くように離れない。湿り気を帯び、暖かな交換はおさまらない。触れるたびに、互いに快楽を与える。
 薔子の結った髪がほどけ、畳に黒い扇のように広がる。夕陽を受け、その髪の描くすじは、金色の光沢を放つ。
 薔子の着物の袷を乱暴に両手で掴み、広げた。すると白く大きな乳房があらわになった。あの日と変わらず、乳首は咲きかけの野薔薇のように薄紅色である。
 舌を薔子の唇から顎、首、鎖骨におろし、筆で字を書くようにゆっくりと舐めていく。

「んん……っ!」

 くちびるを噛み、始まった感触に耐える。
 上半身に唾液のひかる川を作ると、胸の谷間に顔を埋める。両手で乳房の両方を強く掴むと、揉みしだく。

「ぁっ……!」

 薔子のくちびるから声が漏れた。
 片手を乳房から薔子の帯におろし、素早くほどくと、花が綻《ほころ》ぶように自然に着物が脱げていった。
 理性を失った目で確認すると、胸の谷間から顔を離し、膝立ちになる。
 吾涼は気付けば全身に汗をかいていた。息も荒い。薔子を上から見下ろす。

「あ、はあっ……、はあっ……」

 薔子は自由になった両腕を額に当て、荒く息を吐きながら肩を上下させ吾涼を見上げている。

「ずっとこうなりたかった……。ずっと、ずっと。早く来てっ……」

 涙か汗かわからないものが、薔子の顔中を濡らしていた。
 花芯はすでに泉のように蜜があふれている。その蜜に蜂を誘うように、股を開き、紅く熟れたそこを、腰を上げて吾涼の顔に近付けた。
 吾涼はその蜜の匂いを嗅ぐと、荒々しく上着を脱ぎ、袴の紐に手の指をかけた。
 そして、ひといきに脱ぎ捨てた。
 やっと欲しいもんが手に入る。恍惚《こうこつ》と顔を真っ赤にしている薔子に己を与えようとしていた吾涼は、動きを止め、息をつきながら薔子を冷たく見下ろした。

「――かせてくださいって言え」

「えっ……?」

 薔子は目を見開き、吾涼を見上げる。
 彼女の姿は、窓から差す西日に逆光となっていたが、瞳だけが鬼のように鋭くこちらを睨んでいた。長い睫毛が、ひときわ盛り上がって見える。

「お前の体が火照ったまま、ほっとくことも俺には出来るで。『活《い》かせてください』って、百合子を真似て言え」

 ひやりとつめたい声音が、低い音程で薔子の耳の中に届く。
 まるで殺人鬼に小刀を首すじに当てられ、耳元で脅されているような感覚だった。少しでも動いたり、逆らったりすればすぐさまその鋭利な刃で切り裂かれる――。

「んっ、何で……」

 戸惑いから無意識に疑問を返してしまう。
 吾涼は右手の長い指を固くすると、薔子の花芯を下から上へ一気に引っ掻いた。

「んんっ……!」

 急に与えられた快感に、敏感になった体を仰け反らせ、軽く痙攣《けいれん》させる。

「もっと欲しいんやろ」

 閉じた瞳に邪悪だが一定の均一な応《こた》えが聞こえると、その台詞《せりふ》と同等の表情を思い浮かべ、薔子は目を開け吾涼を見た。
 だがそこに存《あ》ったのは、切なく自分を見下ろす少年のような男の顔だった。

「……言ってくれ。……けじめつけたい。これは、お前と俺の、百合子の弔《とむら》いや」

 切なく泣きそうな男の声を聴き、薔子はこの人の為やったらなんでもしてあげたい、と思った。
 この人はうちの蕾を花咲かせたんや。もうすぐ、夢が叶い、夢の中へ堕《お》ちる。
 己のうすい唾液で繋がったくちびるをゆっくりと開くと、一層つややかな掠《かす》れ声で切なく、甘くささやいた。

「吾涼、活《い》かせてっ……」

 吾涼の頭は白濁して、ぼんやりとうるんでいた。夢のようなかすみから訪れたのは、黒くつややかな欲望のかたまりだった。
 その声を聴き終わらない内に、薔子の上半身を固く抱きしめ、獣のようにくちづけると、花芯を一気に貫く。

「んンっ……!!」

 くちびるが塞《ふさ》がれているので、快感に耐えられず上げた薔子の嬌声《きょうせい》が、吾涼の中へ流れていく。
 太ももに手を当て、更に股を押し開くと、根元まで挿入し、激しく腰を前後に動かした。
 絡み合ったくちづけを離すと、幾重も口中で繋がった唾液が糸を引く。

「あっ……! あぁっ」

 刀で斬られた者のように泣き叫ぶ。
 だが、その刀は薔子の鞘《さや》にしっかりと収まっており、甘い快感をお互いに与えあっていく。  

「うっ……、くうっ」

 吾涼も食いしばった歯から、耐えきれず声を漏らす。
 深く突き刺したまま、薔子の上半身を抱き、起き上がる。胡坐《あぐら》をかき、薔子を自分の足で挟むと、薔子の体を上下へ動かし、自分も腰を上下させ、激しく貫いた。体勢を変えたことで、吾涼のそれは薔子の中をさらに深く貫いた。
 吾涼の顔は薔子の肩の上に乗せられ、彼女からは見えなかったが、苦し気に吐息を吐いている。薔子が背に回した腕は、吾涼の浮き出た汗で濡れている。
 吾涼も、薔子の濡れて絡まり自分を離さない蜜壺に、耐えがたい快感を感じているのだ。彼女の中は、凹凸がはっきりと感じられる作りをしており、男のそれを、奥へおくへと引きずり込むような動きをする。それが敏感な吾涼のそれに、激しい刺激を与える。
 今まで生きてきて感じたことのない幸福感で、体がさらに熱く火照《ほて》る。それが例え百合子に向けられたものであったとしても、自分の体が、吾涼を悦《よろこ》ばせている。
 薔子はくちびるを噛みしめ、目をきつく閉じながら叫んだ。掠れた高く甘い声が、吾涼の耳朶《じだ》を打つ。
 その声を聴き、より激しく薔子を貫いた。
 屹立《きつりつ》がさらに固くなり、壺の中で蛇のように前後左右に蠢《うごめ》くと、薔子は快感で目の前が白く濁った。

「悪い、薔子、中に出す……っ!」

 自分も果てまで彼女から離れることは不可能だった。
 口を開け、八重歯を出すと、薔子のやわらかい肩に狼の如く噛みつく。
 薔子の壺壁に、吾涼の精がどくどくと滝のように打ち付けられ続ける。
 薔子はびくびくと痙攣《けいれん》しながら長い睫毛に縁《ふち》どられた瞳を伏せ、吾涼の逞《たくま》しい背に腕を回し、強くしがみついている。
 固く抱き合っていた男女は、終わりを迎えると固い蕾が花開くように腕を離した。
 お互いに腕をほどき、上半身を離しても、下半身だけは長い間いやらしく繋がり続けていた。
 薔子はまだ彼を欲しがり、体は力を失っているというのに、腰だけをゆらゆらと揺らし続ける。
 吾涼はそれに応えるように、己もかすかに腰を動かした。
 すると、薔子は再度絶頂を迎え、高い嬌声を上げて落ちていく。
 互いにこれ以上ないほどの、生きている実感を味わっていた。

 汗のにおいが、朝靄のように少し冷えた百合子の部屋にただよっている。吾涼は立ち上がり、薔子に背を向けながら露《あら》わになった肩に着物を着直していた。
 袴の帯を腹の上で結び、すべて着終わる。元の漆黒の喪服姿に何食わぬ顔で戻った。
 振り返ると、乱れ髪のまま、艶のある右肩だけ着物から出した薔子は動きを止めて床を見つめていた。
 憂《うれ》いのある瞳。白い頬に睫毛の影が落ちている横顔。射干玉《ぬばたま》の黒髪がほつれて肩に長い波を打ち、しなだれている。荒く息をつき、恍惚とした表情をしている。
 吾涼はしばらく薔子の肩を見つめていた。夕陽が当たり、その輪郭は首すじから金色に光っていた。
 背を向けたまま戸口から出ていこうとしたが、戸口に手をかけた時に足を止め、小声で低く呟《つぶや》いた。

「……おおきに。お前のおかげで、ずっとしんどかった心が慰められたわ」

 はっと目を見開き、薔子は顔を上げる。
 振り返ると戸を閉める音と共に、吾涼は去っており、誰もいない虚無に、自分の視線だけが漂っていた。

「……うちもどす」

 残された薔子は、両腕で自分の体を抱き、切なく呟いた。
 崩れる砂の城のように上体を落とす。雨上がりの花弁のように、かすかに震えていた。床に流れた長い黒髪が夕陽を受け、紅く光沢を放っている。その色は中庭の椿にも似ていた。
 夕陽が空の彼方に落ち、あたりが青暗い闇に包まれても、百合子の部屋には薔子の影があった。
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