冬薔薇の戀
冬の京都駅
冬の京都駅の寒さは、東京の比にならない。
吾涼は白い息を吐きながら、足早に駅前を歩いては立ち止まり、辺りを見回していた。
貯めていた給料で、二年前に購入した黒のとんびコートは、安物ではあるがあたたかい。皮で出来た黒の手袋と合わさり、彼の外見をより締まったものにしていた。端から見れば雇われている庭師には思えない。下に白シャツ、その上に紺の着物、黒のとんびコートを羽織った吾涼は、どこかの敏腕刑事のようだ。それも彼の持つ忠犬としての属性がそう見せているのかもしれない。
道行くうら若き袴姿の女学生や、おぼこい舞妓たちが頬を染めながら、ちらちらと吾涼に視線を送っている。
舞妓たちは頭の上に大きな丸い髷を結い、その中心に鹿《か》の子留《こど》めを挿《さ》し、前と後ろにはしわのある素材の深紅の鹿の子が見える。銀のビラ簪《かんざし》、花簪《はなかんざし》に、冬なので珊瑚の赤玉を挿している。花簪は月によって変わり、師走の現在では餅花や松を象《かたど》った『まねき』のミニチュアが付いている。
愛らしい乙女たちの熱にも気付かぬほど、吾涼は必死にひとりの女の姿だけを探していた。
(薔子……。どこ行ったんや)
くちびるを噛んで詰めていた息をはっとこぼし、顔の周囲が白く染まる。
眉を寄せ、うつむいた吾涼に声をかけた女がいた。
「あら、お兄さん。ええ男やねえ。ここらで見かけへん顔どすなぁ」
高いが嫌味を感じさせない蒲公英《たんぽぽ》の綿毛のような声が耳に届く。それは少女ではなく、大人の女のものであった。
振り返ると、立っていたのはオリーブ色のコートを羽織り、頭をぴったりと覆う白のハットの下にショートボブのやわらかな髪をのぞかせている女だった。
耳にはルビーだろうか、大ぶりの赤い雫型のピアスを付けている。首にはカシミアの白いマフラーを巻いていた。
白い足首が見える足は、ワインレッドのヒールを履いている。
モガだ。それも、金持ちの。
歳の頃は四十代前半であろうか。薬指にプラチナのシンプルな指輪を付けているので、既婚者であることが分かる。
白いレエスの手袋を嵌《は》めた右手を頬に当て、赤いちいさな鞄を肩に下げ、左手を右ひじに添えてにっこりと微笑んでこちらを見ている。コートに付けられた金の燕《つばめ》のブローチが、彼女の可憐《かれん》な印象を際立たせている。
こんな貴婦人が俺なんかに何の用や。吾涼はそう思い、訝し気な顔になる。
「あ、そない顔せんといてぇな。別に変な気ぃあって声かけたんとちゃうんよ。うち、ひとと話すん好きやよってな。何や、切羽詰まった顔して若い男の子が、誰か探しとるみたいやったから、何か力になれたらな思て」
形の良い眉をハの字に曲げ、女は苦笑いを浮かべる。
人当たりの良い笑顔に、悪い人間ではないという印象を受け、吾涼は警戒を解いた。
「うちは吉水《よしみず》すみれどす。駅前の百貨店で買い物した帰りやったんやけど、お兄さん、どないしたん?」
小首を傾げ、たずねる。その態度に嘲《あざけ》りは感じられず、本気で心配してくれているのがわかる。公園で遊ぶ他人の子供を心配する婦人の様だ。
「すんまへん。この辺りで年のころが二十歳周りの若い女見かけへんでしたか」
「あら、お兄さんええ人おったのね。なんや残念やわぁ」
茶化すように笑うすみれに構わず、吾涼は真剣な瞳を返した。
その薄氷《うすらい》のようなおもざしを見て、すみれは笑いを止め、瞳を眇《すが》めて慈《いつく》しむような微笑みに変わる。
「……お兄さんの想い人なんやから、きっと別嬪《べっぴん》さんね」
(……想い人……?)
人から指摘されても、薔子に対する自分の気持ちはよくわからない。百合子には、はっきりとした恋慕と忠誠を心に抱いていた。しかし薔子は? 妹とも同僚とも違う、名前の付けられない複雑な感情を、あの女に対して抱いている。やわらかなものよりも、心臓を細い糸でがんじがらめにされた、鈍い痛みを伴っているこの感情は――。
吾涼は他の女中から聞いた今日の薔子の服装と、いつも自分が目にしている彼女の容姿を脳内で反芻し、すみれにわかるように伝えた。
「臙脂《えんじ》の地に、葡萄色《えびいろ》の薔薇の刺繍がされた着物着て、帯留めは卯ノ花色《うのはないろ》の陶《とう》で出来た薔薇。水紋の練色《ねりいろ》の刺繍が入っとる半襟《はんえり》つけた女どす。あ、今日はその上に藤紫の道行《みちゆ》き着とったらしいから、外からは細かくは見えへんかったかもしれんのやけど……。黒髪は耳隠しで結って、耳にちいさいアメジストのピアスしとります。雪のような白い肌で、くちびるは紅《あか》い」
吾涼は薔子の容姿を一気に言い切った後で、我ながらよくそんな細かいことを覚えていたものだ、と静かに驚いた。
すみれは瞳を閉じて形の良い眉を寄せ、真面目な顔で、ふんふん、と顔を縦に揺らしながら聞いていたが、急に上を向き、「あっ」と思い出したような声を上げた。
「せや、言われたらそういえば一時前に、駅前でそない恰好《かっこう》の色白で髪の濃いぃ別嬪さんが通ったような」
「ほんまどすか!? どっち行ったんかわかりますか!?」
吾涼は切迫した声音で返す。すみれはさらに考え込むように上の空になった。
「うーん、せやねぇ。確か、駅ん中入っていかはって、電車に乗らはったんとちゃうかな」
「したら駅員に薔子の特徴言うて、どこ向かったんか聞いてみますわ! おおきに!」
吾涼はすみれに向かい、体をくの字に曲げ、頭を下げると駅の中に駆け出して行った。
その背を、すみれは唖然として見ていたが、やがて瞳を眇めて、温かなまなざしになった。一度まばたきすると自分も夫と子供が待つ家路に向かって歩き出す。
(うちも昔は京の花街で芸妓《げいこ》として働いとった)
遠い昔の己の姿を思い出す。乙女の頃に舞妓として花街に入り、えずしろくなって襟替えして芸妓となった。髪型も今のモガの様なショートボブではなく、日本髪で、藤の花の簪、ビラ簪、玉簪《たまかんざし》、髪前にはリボンのような赤い布を付けていた。白粉《おしろい》も塗った。その時に客として来ていた男に見初められ、自分も心からの戀《こい》をし、現在に至る。
(今は幸せやけど……、あんときに、もしさっきの色男と出会っとったら……ね。危ない戀しとったかも)
赤い舌先をちょろりと出し、お茶目に笑う。
誰に知られることのない、己の頭の中だけの楽しい妄想をふくらませて。
満面の笑顔で、すみれは颯爽とヒールを鳴らして冬の風を切って、冬の京都駅を去って行った。
吾涼は白い息を吐きながら、足早に駅前を歩いては立ち止まり、辺りを見回していた。
貯めていた給料で、二年前に購入した黒のとんびコートは、安物ではあるがあたたかい。皮で出来た黒の手袋と合わさり、彼の外見をより締まったものにしていた。端から見れば雇われている庭師には思えない。下に白シャツ、その上に紺の着物、黒のとんびコートを羽織った吾涼は、どこかの敏腕刑事のようだ。それも彼の持つ忠犬としての属性がそう見せているのかもしれない。
道行くうら若き袴姿の女学生や、おぼこい舞妓たちが頬を染めながら、ちらちらと吾涼に視線を送っている。
舞妓たちは頭の上に大きな丸い髷を結い、その中心に鹿《か》の子留《こど》めを挿《さ》し、前と後ろにはしわのある素材の深紅の鹿の子が見える。銀のビラ簪《かんざし》、花簪《はなかんざし》に、冬なので珊瑚の赤玉を挿している。花簪は月によって変わり、師走の現在では餅花や松を象《かたど》った『まねき』のミニチュアが付いている。
愛らしい乙女たちの熱にも気付かぬほど、吾涼は必死にひとりの女の姿だけを探していた。
(薔子……。どこ行ったんや)
くちびるを噛んで詰めていた息をはっとこぼし、顔の周囲が白く染まる。
眉を寄せ、うつむいた吾涼に声をかけた女がいた。
「あら、お兄さん。ええ男やねえ。ここらで見かけへん顔どすなぁ」
高いが嫌味を感じさせない蒲公英《たんぽぽ》の綿毛のような声が耳に届く。それは少女ではなく、大人の女のものであった。
振り返ると、立っていたのはオリーブ色のコートを羽織り、頭をぴったりと覆う白のハットの下にショートボブのやわらかな髪をのぞかせている女だった。
耳にはルビーだろうか、大ぶりの赤い雫型のピアスを付けている。首にはカシミアの白いマフラーを巻いていた。
白い足首が見える足は、ワインレッドのヒールを履いている。
モガだ。それも、金持ちの。
歳の頃は四十代前半であろうか。薬指にプラチナのシンプルな指輪を付けているので、既婚者であることが分かる。
白いレエスの手袋を嵌《は》めた右手を頬に当て、赤いちいさな鞄を肩に下げ、左手を右ひじに添えてにっこりと微笑んでこちらを見ている。コートに付けられた金の燕《つばめ》のブローチが、彼女の可憐《かれん》な印象を際立たせている。
こんな貴婦人が俺なんかに何の用や。吾涼はそう思い、訝し気な顔になる。
「あ、そない顔せんといてぇな。別に変な気ぃあって声かけたんとちゃうんよ。うち、ひとと話すん好きやよってな。何や、切羽詰まった顔して若い男の子が、誰か探しとるみたいやったから、何か力になれたらな思て」
形の良い眉をハの字に曲げ、女は苦笑いを浮かべる。
人当たりの良い笑顔に、悪い人間ではないという印象を受け、吾涼は警戒を解いた。
「うちは吉水《よしみず》すみれどす。駅前の百貨店で買い物した帰りやったんやけど、お兄さん、どないしたん?」
小首を傾げ、たずねる。その態度に嘲《あざけ》りは感じられず、本気で心配してくれているのがわかる。公園で遊ぶ他人の子供を心配する婦人の様だ。
「すんまへん。この辺りで年のころが二十歳周りの若い女見かけへんでしたか」
「あら、お兄さんええ人おったのね。なんや残念やわぁ」
茶化すように笑うすみれに構わず、吾涼は真剣な瞳を返した。
その薄氷《うすらい》のようなおもざしを見て、すみれは笑いを止め、瞳を眇《すが》めて慈《いつく》しむような微笑みに変わる。
「……お兄さんの想い人なんやから、きっと別嬪《べっぴん》さんね」
(……想い人……?)
人から指摘されても、薔子に対する自分の気持ちはよくわからない。百合子には、はっきりとした恋慕と忠誠を心に抱いていた。しかし薔子は? 妹とも同僚とも違う、名前の付けられない複雑な感情を、あの女に対して抱いている。やわらかなものよりも、心臓を細い糸でがんじがらめにされた、鈍い痛みを伴っているこの感情は――。
吾涼は他の女中から聞いた今日の薔子の服装と、いつも自分が目にしている彼女の容姿を脳内で反芻し、すみれにわかるように伝えた。
「臙脂《えんじ》の地に、葡萄色《えびいろ》の薔薇の刺繍がされた着物着て、帯留めは卯ノ花色《うのはないろ》の陶《とう》で出来た薔薇。水紋の練色《ねりいろ》の刺繍が入っとる半襟《はんえり》つけた女どす。あ、今日はその上に藤紫の道行《みちゆ》き着とったらしいから、外からは細かくは見えへんかったかもしれんのやけど……。黒髪は耳隠しで結って、耳にちいさいアメジストのピアスしとります。雪のような白い肌で、くちびるは紅《あか》い」
吾涼は薔子の容姿を一気に言い切った後で、我ながらよくそんな細かいことを覚えていたものだ、と静かに驚いた。
すみれは瞳を閉じて形の良い眉を寄せ、真面目な顔で、ふんふん、と顔を縦に揺らしながら聞いていたが、急に上を向き、「あっ」と思い出したような声を上げた。
「せや、言われたらそういえば一時前に、駅前でそない恰好《かっこう》の色白で髪の濃いぃ別嬪さんが通ったような」
「ほんまどすか!? どっち行ったんかわかりますか!?」
吾涼は切迫した声音で返す。すみれはさらに考え込むように上の空になった。
「うーん、せやねぇ。確か、駅ん中入っていかはって、電車に乗らはったんとちゃうかな」
「したら駅員に薔子の特徴言うて、どこ向かったんか聞いてみますわ! おおきに!」
吾涼はすみれに向かい、体をくの字に曲げ、頭を下げると駅の中に駆け出して行った。
その背を、すみれは唖然として見ていたが、やがて瞳を眇めて、温かなまなざしになった。一度まばたきすると自分も夫と子供が待つ家路に向かって歩き出す。
(うちも昔は京の花街で芸妓《げいこ》として働いとった)
遠い昔の己の姿を思い出す。乙女の頃に舞妓として花街に入り、えずしろくなって襟替えして芸妓となった。髪型も今のモガの様なショートボブではなく、日本髪で、藤の花の簪、ビラ簪、玉簪《たまかんざし》、髪前にはリボンのような赤い布を付けていた。白粉《おしろい》も塗った。その時に客として来ていた男に見初められ、自分も心からの戀《こい》をし、現在に至る。
(今は幸せやけど……、あんときに、もしさっきの色男と出会っとったら……ね。危ない戀しとったかも)
赤い舌先をちょろりと出し、お茶目に笑う。
誰に知られることのない、己の頭の中だけの楽しい妄想をふくらませて。
満面の笑顔で、すみれは颯爽とヒールを鳴らして冬の風を切って、冬の京都駅を去って行った。