白無垢と乙女椿
兄の告白
冬の暖かな光が差し込む、気持ちの良い朝だった。
からり、と小屋の扉を開けると、加賀良は額に手を当て、目を細めた。加賀良の唇に冷たい空気が当たり、表面が乾く。
上着を羽織り、後ろを振り向く。阿木弥は布団から足を出し、ぐうすかと鼾を立てながら寝入っていた。着ている夜着もはだけている。
(冬だというに、こやつは寒くないのか)
加賀良は弟の元へ戻ると、傍らにしゃがみ、夜着を整え、布団をかけ直してやった。
阿木弥は眉を寄せ、一つ呻くと、かけられた布団を両手でかき抱く。ミノムシのように丸まって更に大きな鼾をたてて眠る。
加賀良は呆れ顔でそんな弟の様子を見ていたが、ふっ、と一つ鼻息を漏らすと、泣き笑いのような表情をした。
(……阿木弥、すまぬ。あれから、あの女、乙女椿のことを忘れようと努めていたのだが、忘れよう、忘れようと思う度に、更に強く乙女椿の面影が頭から離れなくなってしまった。多分、お前と同じ女を好きになってしまったのだろうと思っている。すまない、すまない……)
加賀良は俯き、立てた膝に額をつけ、呻いた。そして立ち上がると、小屋から外に出て、一度も後ろを振り返らずに去って行った。
数日ぶりに訪れた「かげら」の様子は相変わらずであった。
(寂れておる……。この村に以前訪れた時に感じた異様さをそのまま残しているかのようだ……)
加賀良は鼻の下を人差し指で擦ると、眉を寄せた。
この村が嫌いだった。なのに、また来てしまった。
(……わしは、一体何をしておるのかのう)
俯き、乾いた笑みをこぼす。自分のしていることが、自分でわからなくなっていた。
何を求めてここまで来てしまったのか、その答えだけが判明している。
加賀良の頭の中には、白に紫を一滴垂らしたような色の着物を着て、薄紅の椿の花束を持ったあの日の乙女椿だけがいた。
自分は、彼女に会った日から、常に彼女の事ばかり考え続けていた。会いたい、という想いは、日に日に強くなっていった。
(哀れじゃ。そして醜い。酷い男じゃ)
弟も乙女椿と出会い、自分と同じように好意を持ったのだろう。わかっている。わかっているのに、己の体は彼女を求めてこの村に辿り着いてしまった。
あの日から、何をしていても胸の中に炎が灯り続けている。痛みを伴う、赤に黒を混ぜたようなどす黒い色の炎が。そしてそれは、いつまでも加賀良の心の奥底を焼き続けていた。
「……乙女椿」
掠れた低い声で呟く。誰に聞こえているかもわからないような小さな声であった。
「はい」玲瓏な甘い声が、前方から聞こえた。
はっと目を見開き、顔を上げる。
そこには、白に紫を一滴垂らしたような色の着物を着た――あの日と同じ姿の乙女椿がいた。
両手には、あの日とは違い、白い椿の花束を持っている。
「そなた……」
加賀良は茫然と目の前の乙女椿を見つめた。
乙女椿も加賀良をじっと見つめている。彼女の眸は、新月の夜のように深い黒で、底が知れない。その眸に吸い込まれるように、加賀良は一歩、二歩と彼女に向かって歩いていった。
「お待ち申しておりました」
あと数歩で互いを隔てる距離が無くなってしまうというところまで加賀良が近付くと、乙女椿は、赤い唇の口角を上げ、艶やかに微笑んだ。
それを目にした加賀良は、理性の糸がぷつん、と切れた。彼女に駆け寄ると、両腕を背後に回して抱きしめた。
白い椿の花束が、弧を描いて地に落ちた。
明くる日、ちゅんちゅん、と小鳥のさえずりがやけにいつもより煩いと感じながら、阿木弥は目を覚ました。
半身を起こし、かけていた布団を剥ぐと、ぼんやりとした瞳で辺りを見回す。
「あれ……。兄者……?」
いつもすぐ近くで静かに眠っている兄の姿が見当たらない。
(先に起きて、もう小屋の外で作業をしているのであろうか)
緩やかに全身を起こして立ち上がると、うなじに片手を当て、首を左右に動かし、こきこきと鳴らす。
がらり、と音がしたかと思い、右に視線を移すと、戸が明けられていた。朝日を受け、そこに立っている者が逆光となって黒く映る。
「兄者……?」
黒い影がゆっくりと小屋の中に入ってくる。
日の光が角度を変え、その者の顔を横から照らした。
阿木弥は瞠目し、息を飲んだ。
確かにそこに立っていたのは兄の加賀良であった。だが、長年生活を共にする中でいつも目にしてた生真面目な顔ではない。そこにあったのは、艶やかに口角を上げ、凄絶な笑みを湛えた男の顔であった。左右から日の光が漏れているので、顔の中央は薄暗く影が出来ており、更に妖しげな雰囲気を纏っている。
「阿木弥」低い声が小屋に響く。
阿木弥が驚いて硬直していると、加賀良が口を開いた。
「阿木弥。おはよう」
「おはよう……」阿木弥は掠れた声で、兄に返事をする。
加賀良は、それを受けると、歩を進め、阿木弥の横を通った。阿木弥は、すれ違う一瞬に、加賀良から椿の花のかぐわしい香りがしたことに驚く。
(椿……?)
加賀良の方を振り返ると、腰を屈め、小屋の端に背負っていた荷を置いていた。
「兄者……」
どこに行っていたんじゃ、と問いかけようとして、何故かそれを聞いたら二度と今までの関係には戻れないような気がして、口を噤む。
しかし、開いたのは加賀良の方であった。
屈めていた腰を伸ばし、ゆらりと立ち上がった兄の姿は幽鬼のようであった。
凄絶な笑みで、首だけを阿木弥の方へ向ける。
「以前おぬしに伝えていた、好いたおなごと遂に結ばれた。椿の娘の肌は、この世のものとは思えぬほど、白く柔らかであったぞ」
その言葉を聞いて、阿木弥は息を止め、身を固めた。
そして、乾いた唇から、か細い声を出す。
「椿の娘……?」
「ああ」
阿木弥は一歩下がり、俯くと再び顔を上げた。その顔の眉間には深い皺が刻まれている。
「……おらの好いたおなごも、椿の花束を持った娘じゃった」
「なるほどのう」
「……おらたちは、わしたちは同じおなごを好きになっておったのじゃ」
阿木弥は、目の前の加賀良が言っていることを理解するために、固く瞳を閉じた。頭の中で、兄の言葉の意味を理解しようと思考を巡らせる。そしてそこには、以前阿木弥が目にした白に紫を一滴垂らしたような色の着物を着た、麗しく若い女の姿が映し出された。
「……乙女椿」
阿木弥は低い声で呟く。そして瞳を大きく開いた。
「乙女椿か」
「そうじゃ。……わしのおなごの名じゃ」
加賀良が嘲笑のような声音でそれを口にした瞬間、阿木弥は勢いをつけて加賀良に迫ると、その胸倉を掴み上げた。
阿木弥の顔は真っ赤に染まり、目元も充血している。歯を食いしばって、その間から息を漏らす。その、しゅー、しゅー、という静かな音が、寂れた小屋に響いた。
そして、兄を鋭い目つきで睨みながら、空いた片手で己の胸を掻きむしった。瞳からは熱い涙が零れ、頬を濡らす。
「兄者、嘘だと言うてくれ」
出来ることならば、聞かなかったことにしたかった。
乙女椿。異性と接点のあまりなかった阿木弥が初めて好きになった女であった。一目ぼれをして、少し話しただけであった。だが、離れて、そのかぐわしい椿の花の香りを思い出す度に、近い将来、彼女を己の嫁として娶りたいという夢を抱いていた。
彼女がその白く柔らかな腕で、己の赤子を抱いている日を毎晩思い浮かべていた。
その夢が、たった今壊された。
一番信頼していた、兄によって。
阿木弥の目の前から鼻で笑う声が聞こえた。
「別に、そなたのおなごではなかったではないか。わしはそなたから好いたおなごの名前も何も聞いておらぬ。何も知らぬ。そして、別にわしのように、乙女椿と閨を共にした訳では無いのであろう?」
いつもの生真面目で働き者の加賀良とはかけ離れた嘲笑であった。邪悪な、妖怪のような笑顔だ。
阿木弥の脳裏に、幼い頃から共に過ごしてきた兄との、かけがえの無い日々が駆け巡っていった。
(この男は誰だ? 今、おらが掴み上げているこの男は誰だ?)
「魔物だ」
阿木弥の目の前から、加賀良の笑顔が消え、白い光が辺りを一瞬で包んだ。
からり、と小屋の扉を開けると、加賀良は額に手を当て、目を細めた。加賀良の唇に冷たい空気が当たり、表面が乾く。
上着を羽織り、後ろを振り向く。阿木弥は布団から足を出し、ぐうすかと鼾を立てながら寝入っていた。着ている夜着もはだけている。
(冬だというに、こやつは寒くないのか)
加賀良は弟の元へ戻ると、傍らにしゃがみ、夜着を整え、布団をかけ直してやった。
阿木弥は眉を寄せ、一つ呻くと、かけられた布団を両手でかき抱く。ミノムシのように丸まって更に大きな鼾をたてて眠る。
加賀良は呆れ顔でそんな弟の様子を見ていたが、ふっ、と一つ鼻息を漏らすと、泣き笑いのような表情をした。
(……阿木弥、すまぬ。あれから、あの女、乙女椿のことを忘れようと努めていたのだが、忘れよう、忘れようと思う度に、更に強く乙女椿の面影が頭から離れなくなってしまった。多分、お前と同じ女を好きになってしまったのだろうと思っている。すまない、すまない……)
加賀良は俯き、立てた膝に額をつけ、呻いた。そして立ち上がると、小屋から外に出て、一度も後ろを振り返らずに去って行った。
数日ぶりに訪れた「かげら」の様子は相変わらずであった。
(寂れておる……。この村に以前訪れた時に感じた異様さをそのまま残しているかのようだ……)
加賀良は鼻の下を人差し指で擦ると、眉を寄せた。
この村が嫌いだった。なのに、また来てしまった。
(……わしは、一体何をしておるのかのう)
俯き、乾いた笑みをこぼす。自分のしていることが、自分でわからなくなっていた。
何を求めてここまで来てしまったのか、その答えだけが判明している。
加賀良の頭の中には、白に紫を一滴垂らしたような色の着物を着て、薄紅の椿の花束を持ったあの日の乙女椿だけがいた。
自分は、彼女に会った日から、常に彼女の事ばかり考え続けていた。会いたい、という想いは、日に日に強くなっていった。
(哀れじゃ。そして醜い。酷い男じゃ)
弟も乙女椿と出会い、自分と同じように好意を持ったのだろう。わかっている。わかっているのに、己の体は彼女を求めてこの村に辿り着いてしまった。
あの日から、何をしていても胸の中に炎が灯り続けている。痛みを伴う、赤に黒を混ぜたようなどす黒い色の炎が。そしてそれは、いつまでも加賀良の心の奥底を焼き続けていた。
「……乙女椿」
掠れた低い声で呟く。誰に聞こえているかもわからないような小さな声であった。
「はい」玲瓏な甘い声が、前方から聞こえた。
はっと目を見開き、顔を上げる。
そこには、白に紫を一滴垂らしたような色の着物を着た――あの日と同じ姿の乙女椿がいた。
両手には、あの日とは違い、白い椿の花束を持っている。
「そなた……」
加賀良は茫然と目の前の乙女椿を見つめた。
乙女椿も加賀良をじっと見つめている。彼女の眸は、新月の夜のように深い黒で、底が知れない。その眸に吸い込まれるように、加賀良は一歩、二歩と彼女に向かって歩いていった。
「お待ち申しておりました」
あと数歩で互いを隔てる距離が無くなってしまうというところまで加賀良が近付くと、乙女椿は、赤い唇の口角を上げ、艶やかに微笑んだ。
それを目にした加賀良は、理性の糸がぷつん、と切れた。彼女に駆け寄ると、両腕を背後に回して抱きしめた。
白い椿の花束が、弧を描いて地に落ちた。
明くる日、ちゅんちゅん、と小鳥のさえずりがやけにいつもより煩いと感じながら、阿木弥は目を覚ました。
半身を起こし、かけていた布団を剥ぐと、ぼんやりとした瞳で辺りを見回す。
「あれ……。兄者……?」
いつもすぐ近くで静かに眠っている兄の姿が見当たらない。
(先に起きて、もう小屋の外で作業をしているのであろうか)
緩やかに全身を起こして立ち上がると、うなじに片手を当て、首を左右に動かし、こきこきと鳴らす。
がらり、と音がしたかと思い、右に視線を移すと、戸が明けられていた。朝日を受け、そこに立っている者が逆光となって黒く映る。
「兄者……?」
黒い影がゆっくりと小屋の中に入ってくる。
日の光が角度を変え、その者の顔を横から照らした。
阿木弥は瞠目し、息を飲んだ。
確かにそこに立っていたのは兄の加賀良であった。だが、長年生活を共にする中でいつも目にしてた生真面目な顔ではない。そこにあったのは、艶やかに口角を上げ、凄絶な笑みを湛えた男の顔であった。左右から日の光が漏れているので、顔の中央は薄暗く影が出来ており、更に妖しげな雰囲気を纏っている。
「阿木弥」低い声が小屋に響く。
阿木弥が驚いて硬直していると、加賀良が口を開いた。
「阿木弥。おはよう」
「おはよう……」阿木弥は掠れた声で、兄に返事をする。
加賀良は、それを受けると、歩を進め、阿木弥の横を通った。阿木弥は、すれ違う一瞬に、加賀良から椿の花のかぐわしい香りがしたことに驚く。
(椿……?)
加賀良の方を振り返ると、腰を屈め、小屋の端に背負っていた荷を置いていた。
「兄者……」
どこに行っていたんじゃ、と問いかけようとして、何故かそれを聞いたら二度と今までの関係には戻れないような気がして、口を噤む。
しかし、開いたのは加賀良の方であった。
屈めていた腰を伸ばし、ゆらりと立ち上がった兄の姿は幽鬼のようであった。
凄絶な笑みで、首だけを阿木弥の方へ向ける。
「以前おぬしに伝えていた、好いたおなごと遂に結ばれた。椿の娘の肌は、この世のものとは思えぬほど、白く柔らかであったぞ」
その言葉を聞いて、阿木弥は息を止め、身を固めた。
そして、乾いた唇から、か細い声を出す。
「椿の娘……?」
「ああ」
阿木弥は一歩下がり、俯くと再び顔を上げた。その顔の眉間には深い皺が刻まれている。
「……おらの好いたおなごも、椿の花束を持った娘じゃった」
「なるほどのう」
「……おらたちは、わしたちは同じおなごを好きになっておったのじゃ」
阿木弥は、目の前の加賀良が言っていることを理解するために、固く瞳を閉じた。頭の中で、兄の言葉の意味を理解しようと思考を巡らせる。そしてそこには、以前阿木弥が目にした白に紫を一滴垂らしたような色の着物を着た、麗しく若い女の姿が映し出された。
「……乙女椿」
阿木弥は低い声で呟く。そして瞳を大きく開いた。
「乙女椿か」
「そうじゃ。……わしのおなごの名じゃ」
加賀良が嘲笑のような声音でそれを口にした瞬間、阿木弥は勢いをつけて加賀良に迫ると、その胸倉を掴み上げた。
阿木弥の顔は真っ赤に染まり、目元も充血している。歯を食いしばって、その間から息を漏らす。その、しゅー、しゅー、という静かな音が、寂れた小屋に響いた。
そして、兄を鋭い目つきで睨みながら、空いた片手で己の胸を掻きむしった。瞳からは熱い涙が零れ、頬を濡らす。
「兄者、嘘だと言うてくれ」
出来ることならば、聞かなかったことにしたかった。
乙女椿。異性と接点のあまりなかった阿木弥が初めて好きになった女であった。一目ぼれをして、少し話しただけであった。だが、離れて、そのかぐわしい椿の花の香りを思い出す度に、近い将来、彼女を己の嫁として娶りたいという夢を抱いていた。
彼女がその白く柔らかな腕で、己の赤子を抱いている日を毎晩思い浮かべていた。
その夢が、たった今壊された。
一番信頼していた、兄によって。
阿木弥の目の前から鼻で笑う声が聞こえた。
「別に、そなたのおなごではなかったではないか。わしはそなたから好いたおなごの名前も何も聞いておらぬ。何も知らぬ。そして、別にわしのように、乙女椿と閨を共にした訳では無いのであろう?」
いつもの生真面目で働き者の加賀良とはかけ離れた嘲笑であった。邪悪な、妖怪のような笑顔だ。
阿木弥の脳裏に、幼い頃から共に過ごしてきた兄との、かけがえの無い日々が駆け巡っていった。
(この男は誰だ? 今、おらが掴み上げているこの男は誰だ?)
「魔物だ」
阿木弥の目の前から、加賀良の笑顔が消え、白い光が辺りを一瞬で包んだ。