甘苦とコンプレックス・ラブ

#12 わたしにはあなただけ

○ビルの入口を出たところ
 まな、階段を登りきってため息をついている。溢れてくる涙を拭っている。
悟「まなちゃん、待って」
まな「……悟くん」
悟「ごめん、凛太郎じゃなくて」
まな(どうしてわかっちゃうんだろう、悟くんには。わたしの考えていること、全部読まれてるみたいに)
 悟、まなの腕を引っ張ってぎゅっと抱きしめる。
まな「離して」
悟「俺ならこんな思いさせない。まなちゃんのコンプレックスも努力も、全部わかってあげる」
 悟、まなをさらに強く抱きしめる。
まな(どうして全部気づいちゃうんだろう。凛太郎はいつも、近づいたと思ったら遠くに行ってしまうのに)
悟「俺、まなちゃんが好きだよ」
悟「派手なくせに自分に自信がなくて、一生懸命で。そんなまなちゃんのことを、すごく可愛いと思ってる」
まな(違うよ。可愛いっていうのは、留依さんみたいな人のことをいうの)
まな(自分に絶対的な自信があって、それに見合うだけの容姿を持ち合わせていて)
まな(わたしみたいに、見せかけの自信とは大違い。凛太郎に追いつきたくて追いつけなくて、もがいているだけのわたしとは)
まな「悟くんには、いつも見透かされてるね」
悟「だって見てるから。まなちゃんのこと」
まな(こういう人と付き合えば、わたしの気持ちは満たされるのかな)
まな(なんでもわかってくれて、「好き」も「可愛い」も言ってくれる。頑張らなくたっていい)
まな(悟くんとなら、自然体の自分でいられるのかもしれない)
悟 「凛太郎は、不器用だよね」
悟「不器用なのもいいけど、大事なものを失ってからじゃ遅いよね」
まな(匂いも声も感触も、全然違う)
まな(悟くんを好きになるっていうことは、凛太郎以外の人を好きになるっていうことだ)
まな(そんなこと、今までもこれからも、絶対にできないくせに)
まな「悟くん、離して」
悟「凛太郎もまなちゃんも、わかってる? こんな痕に、なんの意味もないんだよ」
 悟、まなの手首を掴んで顔を寄せてくる。
 まなの唇に、悟の唇が触れる。
 まな、手首を思いきり振り払って悟を突き飛ばす。
まな(今、わたしの唇に、悟くんの……)
 まなの目から、再び涙が溢れてくる。
まな「やだ、信じられない……」
悟「わからなかったなら、もう一回しようか?」
 悟、まなの手首を再び掴んで見つめる。
まな「だめ、やだ、やめて。……凛太郎」
 悟、まなに少しづつ顔を近づける。まな、ぎゅっと目を瞑る。
まな(どうしよう、振りほどけない)
まな(だけど、唇だけは避けなくちゃ)
まな(ここは凛太郎にしか触れてほしくないの。今もこれからも、ずっと)
凛太郎「おまえ、なにしてんだよ」
 凛太郎、まなの手首を掴んでいた悟の手を乱暴に振りほどく。まなの肩を強く抱く。
まな「凛太郎……」
凛太郎「まな、ごめん。俺」
 凛太郎、まなを強く抱きしめる。
悟「凛太郎、遅いよ。もうしちゃった、残念だけど」
凛太郎「……しちゃったって、なんだよ」
悟「凛太郎だって留依さんにされてたから、おあいこでしょ」
 凛太郎、息を呑んで固まる。一瞬、まなの髪を優しく撫でる。
凛太郎「まな、俺の後ろにいて」
凛太郎「悟……ふざけてんのか、おまえは」
 悟、いつもと同じように微笑みを浮かべている。凛太郎、悟の胸ぐらを掴む。
悟「ふざけてるのは凛太郎でしょ。不器用だかなんだか知らないけど」
凛太郎「は? どういう意味だよ」
悟「まなちゃんのこと、なんだと思ってるんだよ。大事なの? いらないの?」
 悟、凛太郎を睨みつける。
まな(どうしよう。答えてくれなかったら──)
凛太郎「そんなの……大事に決まってんだろ」
凛太郎「俺はずっと、こいつだけが好きだったんだよ」
凛太郎「まなは俺の彼女だ。おまえに好かれるのも触られるのも我慢できない。本当なら、殴りたいところだけど」
まな(うそ。信じられない)
悟「いいよ、殴っても。殴られるだけのことはしたしね」
まな(でも、わたし、悟くんに……キス、されたんだよ)
凛太郎「殴るのはやめとく。こんなところで揉めるわけにいかない」
悟「さすが、冷静だね」
凛太郎「それに、俺も悪かったから」
 凛太郎、まなの方を振り向く。
凛太郎「まな、帰ってちゃんと話そう」
まな「凛太郎……あの」
凛太郎「もう泣くなよ。さっきの……傷つけた、よな。本当にごめん」
 凛太郎、まなの頬を親指で乱暴に拭う。
まな「ちょっと、メイク落ちちゃう」
凛太郎「こんなときでも化粧の心配するって、おまえらしいな」
 凛太郎、優しく微笑む。
まな(わたしはいつでも凛太郎でいっぱいで、他の人が入る隙間なんて、ほんの少しだってないの)
まな(わたしばっかりそうなんだって思っていたけど、さっきの言葉、信じてもいいの?)
悟「帰るのはいいけど、荷物忘れないでね。そのまま置いてっちゃうからね」
悟「勝手に二人の世界に入らないでよ、まったく」
 悟、ビルの中に戻る。地下に続く階段を下りていく。
まな(わたし、悟くんに、ちゃんと返事してないな)
 まな、ぼんやりと悟の後ろ姿を見つめる。凛太郎、まなの手を強く握る。
凛太郎「帰るぞ。おまえと話がしたい」
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