甘苦とコンプレックス・ラブ

#3 知らないことばかり

#3 知らないことばかり
○週明け、大学の食堂
 まなと紗友里がお菓子をつまみながらおしゃべりをしている。昼休みが始まる前。
まな「っていうわけで、ビアガはダメなんだって。自分はバーでバイト始めたっていうのに」
紗友里「バーかぁ。水谷くん、似合いそうだね」
まな「それが問題なの。絶対にモテちゃうじゃん」
紗友里「わたしは水谷くんの気持ち、わかるな。まなくらい可愛かったら、絶対目立つもん」
まな「いや、わたしは顔作りまくってるだけだから。すっぴんはかなり……」
 その瞬間、床が割れるような低い轟音が食堂内に響く。まな、思わず立ち上がる。
紗友里「あれ、水谷くんじゃない?」
 紗友里、食堂の隣のホールの方を指差す。アンプなどの機材やマイクスタンドが設置されている。
 凛太郎、白のベースを携えて、バンドメンバーと話している。
 まなたちの近くに座っている男子数名が「そういえば軽音、昼休みにライブやるって言ってたよな」と話している。
紗友里「まな、見に行かなくていいの?」
まな「いい。だって、聞いてないもん。見に来てほしくないんでしょ」
紗友里「恥ずかしかったのかもしれないよ? 見に行ってみようよ」
まな「いい。どうせわけのわかんない曲ばっかりだろうし」
 その瞬間、ハイトーンの柔らかな歌声がまなの耳に突き刺さる。まなが再び立ち上がる。
紗友里「この人、すっごく歌うまいね。やっぱり見に行ってみようよ」
 紗友里が立ち上がったので、まなも仕方なくついていく。ホールには人だかりができている。

〇食堂横のホール
 まなたちは人だかりの後方からステージを見ている。
 ステージ中央には、子犬のように可愛らしい顔立ちの中性的な雰囲気の小柄な男子がいる。服装は白シャツに黒のチノパン。髪型は短めのクラウドマッシュ。スタンドマイクを前に、赤いギターを携えている。向かって右横には、ベースを携えた凛太郎がいる。
悟(さとる)「なんかすいません。まだ練習なのに、人集まっちゃった」
凛太郎 「悟がマジで歌うからだろ」
悟「部室で歌うのより全然気持ちいいんだもん。12時からなんで、よかったら聴いてってくださいね」
 聴衆のざわめき。まもなく、先ほどのバンドがステージに戻ってくる。
悟「じゃ、時間になったんで始めまーす」
 悟のセリフとほぼ同時に演奏が始まる。アップテンポな曲の入り。聴衆の手拍子が始まる。
 まな、ベースを弾く凛太郎のことだけをじっと見つめている。
聴衆(女)「ベースの人、めちゃくちゃイケメンじゃない?」
聴衆(女)「軽音って陰キャだらけかと思ってたけど、あんなイケメンいるんだね」
 ホール全体が盛り上がっている。まなは複雑な表情でヒールのつま先に視線を落としている。
 すべての曲の演奏が終わり、ホール全体が拍手に包まれる。
紗友里「水谷くん、かっこよかったね。それにあのボーカルの人、やっぱりすごく歌うまいし」
まな「盛り上げ上手だったしね」
 まな、ステージに背を向けて食堂に戻ろうとする。その瞬間、激しいギターの音が聴こえて紗友里と一緒に振り返る。
 悟がキーの高い女性ボーカルの曲を、気持ち良さそうに歌っている。まな、その姿に釘付けになる。
留依(るい)「ちょっと!」
 小柄で可愛らしい女性が、怒った様子で悟に近づいていく。演奏が止む。
留依「悟、なにやってるの。これ、わたしたちの曲でしょ」
悟「うわ、留依さんこわーい。そんなに怒んないでくださいよ。ねえ、凛太郎」
凛太郎「俺に振るなよ」
留依「とりあえず、そこどいて。あ、凛太郎はそのまま弾いてて? 他のみんなも」
 留依の容姿は、ダークブラウンのふわっとした肩ラインのボブに、くりっとした黒目がちの大きな瞳に小さくて赤い唇。コットン素材の真っ白なロング丈ワンピースを着ていて、黒っぽいギターを携えている。妖精のようなイメージ。
 演奏が再開し、やがて終了する。留依が凛太郎に駆け寄っていく。
留依「凛太郎、ありがとね。やっぱり完璧。さすが」
バンドメンバー「いや、俺らも頑張ったでしょ。留依さんはほんと、凛太郎びいきなんだから」
 楽しそうに話す留依に作り笑顔を浮かべている凛太郎。まな、凛太郎をじっと睨みつける。
紗友里「まな、3講目の教室でお昼ご飯食べよう?」
 紗友里が小さく笑いながら、まなの服の裾を掴む。
 まな、ステージに背を向ける。泣きそうなのを堪えている。
まな(わたしだって、あんなふうに凛太郎を見上げてみたい。小さくて可愛らしい、あの人みたいな容姿に生まれたかった)
悟「待って。ねえ、凛太郎の彼女でしょ?」
 紗友里の後についていこうとしたとき、背後から呼び止められる。
まな 「え?」
悟「まなちゃん、でしょ? 俺、矢野(やの)悟」
 まなに向かってにっこり微笑む悟。目線はまなとほとんど同じ。
まな「わたしのこと、なんで知って……」
悟「だって目立つもん、凛太郎とまなちゃんカップル。さっきもすぐにわかったよ」
まな「そうなの?」
悟「ステージに立ってると、最前列とかよりもちょい後ろの方が見えやすいんだよね」
 悟、まなの右手を取って両手でぎゅっと握る。まな、手を引っ込めようとするがさらに強く握られる。
悟「よろしくね、まなちゃん」
まな「う、うん……」
悟「近くで見るとやっぱり可愛いなあ。凛太郎だけじゃなくて、俺とも仲良くしてね」
 悟、ステージの方に戻っていく。まなは、握られた右手を眺めながら呆然としている。
< 3 / 14 >

この作品をシェア

pagetop