問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。
東雲先生に案内された二階にある彼の自室には、壁と床を埋め尽くす大量の蔵書に囲まれ、PCの乗ったデスクが置かれていた。まるで証拠でも示すように、彼はディスプレイに書きかけの原稿を表示させると「このところはずっと、本格ミステリ倶楽部のアンソロジー用の話を書いているんです」と言った。
「た、短編なんですけど、日陰シリーズの登場人物でいいということだったので、引き受けて。二、三本書いて、編集さんのほうで、趣旨に合うものを選んでもらおうかなと。あと、僕は詳しくないんですが、舞台演劇にしたいそうで、それの脚本というのをチェックをしたり、家では主にそういうことをしていて。僕、気を取られると他のこと忘れたりするので、ここには学生のレポートとか論文とか、自分の研究はできる限り持ち込まないようにしているんです。ごちゃごちゃになって、わからなくなると困るから」
「そ、そうでしたか……」
この数年はずっと、大学では准教授としての仕事を、家では作家としての仕事と切り分けてやっているらしい。
知らなった。というか、大学にいる時間だけで授業と研究室指導と自分の研究を回しているというのがすごい。私の後ろを付け回している時間もあったはずだが、実は東雲先生とはとんでもない人なのでは──?
「三池先生が趣味としてホラーとか推理物の小説を読まれるというのは知っていて、で、でもカフェで何か読んでいるのを見かけてもタブレットだったのでタイトルがわからなくて。だから、院生の松坂さんに何を読んでいるのか時々聞いていたんですけど、ぼ、僕の本の名前は出てこなかったから驚きました……あ、ありがとうございます」
「そんな、驚いたのはむしろ私……というか、流しそうになりましたけど、松坂さんから聞いていたって何ですか?」
「えっあっ……ま、松坂さんからは以前から三池先生のことをいろいろ教えてもらっていて……他科の教員が心理に出向く用事って思いつかなくて、先生のことを知ろうにも、面と向かって話すこともなかなかできないので途方に暮れていたんですけど、そうしたら、か、彼女が焼き肉屋の食事券と交換でどうかと」
松坂さんや、面倒見てる先輩を食事券ごときで売らんでくれ。
「……もしかして、卒論探すのに資料室入ったっていうのも?」
「はい。松坂さんが入れてくれて、博論まで全部出してくれました。彼女、扱っている専門が近いそうで、三池先生の論文はまとめかたもうまいし、実験も面白いからって説明してくれて。普段聞かれてる音楽とか、コーヒーはブラック派だとか、紅茶だとストレートでレモンティも好きだとか。先生は猫が大好きで、生き物全般がお好きで、贔屓の猫カフェがあって、大きな猫を飼うのが夢で、時々ひとりで水族館に行かれるのが好きだとか、そ、そういうのも教えていただいて」
「ははっ……」
「で、でも、こうして一緒に暮らしていると知らないことばかりでした。三池先生があんなに料理が得意だとか、いつもぱぱぱっとすごい技でとても美味しいものを作ってくださって、掃除も洗濯も手際がよくて、仕事も大変なのに明るくて。毎日が、驚くくらい鮮やかに変わったんです! 三池先生に笑いかけてもらって、ご飯できましたよ、一緒に食べましょうって言ってもらえるなんて、夢みたいで!」
「東雲先生……」
先生はそこで私に向き直ると、勢いよく頭を下げた。
「も、もうすぐ二週間経ちます。一日の始まりに、先生のおはようございますを聞いて、おやすみなさいで終わることが、僕には、こ、心地よくて。なくなることが、考えられなくて……あ、あの、金銭的なことは一切気にしなくていいですし、ルールを見直すべきところがあるなら、先生の好きなようにしていただいて構いません! だから、だからもし、三池先生さえ嫌でなければ、このままもうしばらく、ここに、いていただくわけにはいきませんでしょうか」
あ、そうか──。
まずはお試しという話だったのだ。
不思議と馴染んでしまっていて忘れるところだった。この家は多少古くて年季が入ったところもあるが、水回りはリフォームしてあるし、交通もさして不便がない閑静な住宅街の一戸建て。家賃水道光熱費無料。今週の買い物は東雲先生が作ってもらう立場だからとお金を出してくれた。待遇に不満はなく、生活に支障もなく、どちらかといえば快適な暮らし。
家主であり同居人が同僚男性であるという点が気になるものの、でもそれが東雲先生となった途端に急に珍獣感がやってくる。
しかも、この珍獣は、私の好きな作家でもあった。
人は何か特に優れている特徴があると、そこに他の評価も引っ張られて認知が歪むことがある。これをハロー効果と言う。
「……お願いします」
「え」
顔を上げた東雲先生に笑いかけると、私は右手を差し出した。
「私のほうからぜひお願いします。もう少しだけここにいさせてください。もちろん家賃お支払いしても構いませんし、そうでなければ今みたいに家事回りとか私にできることで恩返しさせてもらうって形になりますけど」
「ほ……本当?」
恐る恐るという様子で、東雲先生は大きな両手で私の手を包み込んだ。
手汗がすごい。
「はい。ここより条件のいいマンション見つけるのなんて、相当苦労する気がします。もちろん先生のお邪魔になるようなことはしませんし、先生のほうこそ私に直したほうがいいこととか、気になることがあれば言ってください」
「な、ないです。あっ、あっいや、ひとつだけ! た、高いところのものを取るときは、踏み台使って無理に取るんじゃなくて、僕のこと呼んでください。ハラハラします」
「わかりました」
なかなか握られた手が離れない。
「あ、あの、三池先生」
「はい」
「前に僕、この家を親族から預かっているって言ったと思うんですが」
「ああ、はい。おっしゃってました、ね」
形を確かめるように、東雲先生の両手は包んだ私の手に触れていく。顔も手も強張っていることは伝わらないらしい。
「持ち主は僕の祖父になっていまして、それで、そ、その、一緒に住むにあたって、挨拶をお願いしたくて」
「あ、挨拶……?」
「はい。さすがに近所の人に、この家を出入りする三池先生の姿を見られていて、何より先週来た時に少し顔を合わせたと思うんですが、水回りのクリーニングをお願いしている方と祖父の家をお願いしているお手伝いさんがお友達だそうで、祖父の耳に話が届いてしまったみたいで」
「は、はぁ」
東雲先生は、左手で私の手を握り込んだまま右手だけを外し、その手で曇ったメガネを取ると袖口で目元を拭った。途端、掘りの深い切れ長の目元と長いまつ毛が顔を出す。そういえばこの人、メガネが呪物になっているせいで忘れがちだが顔がいいんだった。
「三池先生を前に恐れ多い話ではあるんですけど、ぼ、僕、男で、先生は女性ですから。男女でルームシェアをしているというのも、高齢の祖父にはなかなか理解されにくいところで、その、なんていうか、ともかくも、お、お願いがあって」
「は、はい?」
要領を得ない話にどぎまぎしながら首をひねると、東雲先生は照れた目じりの視線を伏せ、「あ、あの……」と、汗ばんで妙な色っぽさのある表情で私を見据えた。
「同棲している、か、彼女のふりを、していただけたらと」
「──ハァ!?」